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トルストイ『神の国は爾曹の衷にあり』第九章

『神の国は爾曹の衷にあり』
第九章 キリスト教諸国民の現狀
キリスト教諸国民の現狀は、異教の時代と同じように残酷である。多くの方面において、特に彼らが支持しなければならない奴隷制度に関しては、彼等の狀態はより一層圧迫的なものとさえなっている。
しかもそれらの時代と現代との人々の狀態の間には、植物の生命において、秋の最後の日と春の初めの日との間にあるのと同様の相違がある。秋においては、外部の静けさと死とは、内部の生命の終熄と相一致している、春においては、外的な荒涼さは、生気と、生命の新しい形への推移との内部の狀態と、甚だしい不相違を示している。
現在の生活と過去の異教的生活との間の外見上の類似もまた、それと同じである。その類似はただ外的なものに過ぎない、現代の人々の内部の狀態は、異教の時代にそれがあったものとは全く類を異にしている。その時代にあっては、奴隷と野蛮との外的な狀態は、人々の内的な意識と一致した、そして時が経つにつれてその一致の度合いが増していった、今日では、外的な奴隷と野蛮の狀態は、人々のキリスト教意識と全然相反している、そして時が経つに従いその不一致を増大する許りである。
この事情が、明らかに無用な不必要な無限の苦しみを生み出すのである。それは子供の労働のようなものである。万事が新生活のために整えられている、然るに生活そのものが未だに現れて来ない。
形勢は絶望らしく見える。それはもしも人間、及び従って人類が、回復し難い狀態に彼を束縛するように見えたすべての桎梏(しっこく)から、彼を自由にする今一つのより高い人生観の可能を与えられていないのならば、そうでもあろう。
それは、千九百年以前に、人類に啓示されたキリスト教的人生観である。
人はただその人生観を採用するだけで十分である、然る時彼をして解放の希望なく縛り付けているように見えた鎖は、自然と彼から落ちるであろう。そして彼は絶対的に自由――その翼を広げて、今までそれを取り囲んでいた囲いを飛び去る鳥のように自由である事を感ずるであろう。
人々はキリスト教会を国家から解放することについて、及びキリスト教徒に自由を与えるべきかあるいは禁ずるべきかについて語る。すべてこれらの思想と表現とには、不思議なる間違いがある。自由はキリスト教徒の伝習的な、又割譲し得ない特質である。
人々がキリスト教徒に自由を与えるべきか否かについて語る時、彼らは明らかに、真のキリスト教徒ではなくして、ただ自らをその名で呼ぶ人々を、意味しているのである。
キリスト教徒は自由であらざるを得ない、何故なら彼が自ら志すその目的の獲得は、何人又は何物によっても妨げられ、又沮められる事が出来ないからである。
人々はただキリスト教が教える通りに、彼の生命を解すれば充分である、即ち、彼はただ彼の生命は彼自らにもあるいは彼の家族にも、又は国家にも属しなくて、彼をこの世に送った『彼』に属す事を、従って彼は彼の個人性、家族あるいは国家の掟にではなく――彼がそこより流出してきた『我』の無限の掟に従わねばならぬ事を知りさえすればいい、彼はただ、この事を知りさえすればいいのである、然る時彼はすべての人間的の権威から全く自由になったことを感ずる許りでなく、彼はこれらの権威をさして、皆の者に取っての、ある何かの桎梏あるいは障礙であるとすることさえをも止めるであろう。
人はただ、彼の生活の目的は神の掟の遂行にある事、そしてその掟は、彼を主宰して他のすべての掟を排除する、そしてその最高の主催によって、それは彼のために、すべての人間の掟から、命じたり制限したりする権利を剥奪するであろう事を知れば充分である。
キリスト教徒は、すべての人間の権力から解放されている、何故ならば、彼はイエス・キリストによって、各人の心に植え付けられて又意識に明示された神聖な愛の掟を、彼自身の及び他の人々の生活のただ一つの指導であると信じているから、キリスト教徒は外的な暴力に附せられるかも知れない、肉体の自由を奪われるかも知れない、彼自身の情熱から解放されないかも知れない(罪を犯す人間は、彼の罪の奴隷である)、しかし彼は常に、如何なる危険も又外的な脅威も、彼をして彼の良心に反する行爲を爲さしめ得ないと言う意味においての自由を失いはしない。彼はこの事をすべく強制される事が出来ない、何故なれば、暴力によって加えられる貧窮と苦痛も――それは社会的人生観の人に取っては、非常に有力な武器を構成するものであるが――彼に対しては、強制的な勢力を振るう事が出来ないから。社会的人生感の人々から、彼等の生活の目的であるところの幸福を奪う貧窮と苦痛は、神の意志を遂行しつつあると言う意識にのみあるキリスト教徒の幸福を破壊する事が出来ない。それに反してそれ等はただ、彼等がその意志の服従のために堪え忍ぶ時に彼の幸福を増大するに過ぎない。
故にキリスト教徒は、ただ内部の神聖な掟によって束縛されているだけである。そして外的な掟の要求に、それらが彼の意識が明らかにした愛の法則と一致しない時に(国家の誅求(ちゅうきゅう)の場合のごとく)服従する事も出来なければ、又個人あるいは施設への服従の、もしくは彼に臣民として懸かっている義務の責任をも認める事が、出来ない。如何なるものにてもあれ、その政府に服従すると言う誓約は――それは国家生活の基礎をなす行爲である――キリスト教の全き否定である。何故なれば過去あるいは未来において人々の制定したところの、すべての掟に対する無条件的な復習を約束する事によって、キリスト教徒は、それ自らのうちに意識する神聖な愛の法則への、如何なる事情の事にても全部をあげて無条件的に服従するところに成立つ彼のキリスト教を、全部そして全く放棄してしまうからである。
異教的人生観においては、一時的な権威の意志に神の掟を犯す事なくして服従すると言う約束をする事は出来た、そしてその神の掟は、割礼、安息日、ある特別な時になされる祈祷及びある種の食物の節制等にあると想像されていた。その前者は後者に矛盾しない。しかしそれは丁度キリスト教と異教との相違点である、即ちキリスト教はいかなる外的な、否定的な行爲をも要求しない、それは人間のその同胞との関係の内容を変える、そしてその結果、先見する事も又予め定める事も出来ない行爲を呼び起こすであろう。それ故に如何なるキリスト教徒も、何を彼に要求されているかを知る事なくして他の人間の意志に従う事も、又一時的な人間の掟に服従する事も、又は或一定の時に特別な事柄をし、又はそうする事を見合わす事を約束する事も出来ない、何故ならば、彼は何時又如何なる行爲のうちに、キリスト教の愛の法則によって、彼の生活の目的を形成するところのものへの服従が彼に要求されるかは知り得ないからである。無条件的に、すべての人間の掟に従う事を約束するキリスト教徒は、その制約によって、内的な神の掟が彼の生活のただ一つの掟を形成しないと言う事を、前もって明言するものである。
人々に対し、又は人間の掟に対して服従する事を約束するキリスト教徒は、一人の主人に雇われていながら、同時に他人のすべての命令に従う労働者のようなものである。一人の人間は二人の主に使える事が出来ない。
キリスト教徒は、自らが神の排他的な権威に従属するものである事を認める事によって、人間的な権力から解放される、そのイエス・キリストによって彼に啓示された神の掟を、彼は彼自らのうちに認め他のすべての事に頓着する事なしにそれに従う。
この解放は争闘によってではなく、又は現存せる生活様式を破壊する事によってではなく、人々の人生観の推移によって、到達される。その解放は二つの方法によって成就される、即ち、第一に、キリスト教徒が『主』によって彼に啓示された愛の法則を、人間の諸関係の指導として充分完全なものである事を認め、従ってすべての暴力を不法であり且つ又予計なものであると考える事、第二に、社会的人生観の人々が、それがために服従の必要に差迫られているところの貧窮と苦痛及びそれ等の恐怖とは、それと正反対の人生観を持っているキリスト教徒に取っては、必要な生存の条件としか見えないと言う事、即ちそれらを彼は、暴力をもって抵抗する事なしに、病気、饑餓、およびその他の悲惨事に際してなすと同じように、忍耐強く耐える、そしてそれは少しも、彼の行動を左右し、又はそれを指導しないと言う事である。キリスト教徒のただ一つの指導は、彼のうちに住む何ものによっても制限もしくは影響を加えられない、神聖な原則である。
キリスト教徒は、『主』に適用された預言者の言葉に従って生活する(マタイ伝第12章19-21節)、『彼は競(きそう)ことなく喧(さけぶ)ことなく人街(ちまた)に於て其声を聞ことなし20審判をして勝とげしむるまでは傷る葦を折ことなく煙れる麻を熄(ひす)ことなし』
キリスト教徒は決して争論をしない、他人を攻撃し又はそれに対して暴力を用いない、それに反して、彼は無抵抗に暴力を耐え忍ぶ、そしてこの暴力に対する態度によって、他のすべての外的な権力から、自らを自由にし又世界を開放する。
『かつ真理(まこと)を識らん真理(まこと)は汝(なんじ)に自由を得さすべし。』(ヨハネ伝第8章32節)もしもキリスト教の真理に関して何等かの疑問が起こり得るとしても、その真理は一点の疑問もなしに、人がキリスト教を採用するや否や感知するところの、何等の制限にも妨げられない無条件的な自由によって、証明されるであろう。現在の狀態に於ける人々は、木の枝に群れをなして垂れ下がっている巣立ちする蜂のようなものである、その蜂の境遇は一時的のものである、そしてそれはどうしても変えられなければならない、彼等は飛び立って新しい巣を見出さねばならない。各の蜂はその事を知っている、そしてそれ自他の境遇を変えようと欲している。しかし彼等のうちの一匹すら、全群が動き出すまではそうしようとは思わない、又その群も一つが他に絡み着いてそれの飛ぶことを妨げるが故に動くことが出来ない、それ故に彼等はすべて木に垂れ下がる事を続けている。人は、その蜜蜂は彼等の狀態からの解放を見出すことが出来ないかのように考えるであろう、そして社会的人生観の網に掛かった世界の人々にとってもまた、そうであるように見える。又その各の蜂が一対の羽を持っている独立の生物でないとするならば、如何なる開放もあり得ないであろう。それと同じく、もしも各人が、キリスト教人生観を採用する能力を与えられた独立の生物でないとするならば、そこには何等の開放もないであろう。
もしも飛ぶことの出来る蜂の各がそうする事を拒否するならば、然る時は、そうでない蜂の一匹も動かないであろう、かくして全群蜂はそのままの狀態に残るであろう。もしもキリスト教人生観を採用した各人が、他の人々がそうするまでそれに従って生きる事を拒否するならば、人類は決してその狀態を改めないであろう。しかも一匹の蜂が其の翅を拡げて飛び去りさえすればそれで充分である、然る時第二、第三、第十、第百番目のものもそうするであろう、そして遂に生気なく垂れ下がっていた群れも、飛ぶ事の出来る一群の独立した昆虫となる。それと同じく一人の人が人生をキリスト教が我等に教える通りに解して、それに従って生活しさえすれば充分である。然る時は第二の、第三の第百番目のものもそうするであろう。そして遂にはとても脱せられそうにもなかった魔術的な社会生活の環が、破壊されるに至るであろう。
しかし人々は、この過程による人類の開放は余りに遅い、故に彼等は一度にすべての人々が解放されるような他の何かの方法を発見して、それを用いなければならないと考える。それは丁度立ち上がって飛び去ることを欲する蜜蜂が、各の蜂が飛び得るまで待つには余りに長い時間を要する、しかし全蜂群がその好むがままの方向へ飛び得るまでに、如何なる蜂もその翅を拡げて立ち上がる必要のない方法が案出されねばならぬと決心するのと同じ事である。それは、第一、第二、第三そして第百の蜂がその翅を拡げて自由に飛び得るようにならない限り、不可能な事である。その群蜂はその場所を変える事も、又は新しい生活を見出すことも出来ない。各人がキリスト教人生観を採用して、それに従って生活しない限り、人生の矛盾が解決される事も、又は新しい生活の様式が確立される事も出来ない。
我等の時代の最も驚く可き現象の一つは、それによって益する政府によってのみならず、自由の戦士と自認している社会主義的学説の宣伝者によってすら、民衆の間に行われている、奴隷制度の宣伝である。
これらの人々は、生活の改善と、現実と意識との間の調和とは、各個人の個人的努力によってではなく、外的な強制の作り出す自発的な、暴力をもってする社会の再構築によって、成就することを主張する。彼等は、人々がその行こうと欲する場所に歩む労を採る必要のない、彼等が一歩も足を動かすことなくしてその欲する場所に運んでくれる床を、その足の下に作るべきであると言う。従ってすべての人々の努力は、彼等の力の許す限りの行爲にでもなく、又その達しようと欲する場所にでもなく、彼等の立つ場所から動く事のないこの空想的な床の築造に向って、向けられなければならない。
経済学に関しては、これらの人々は、下の事をその重な原理とする学説を教える、即ち社会狀態が悪くなればなるだけ、それだけ有望である、資本の集蓄とそれに結果する労働酷烈の圧迫とが大きくなれば、それだけ彼等の開放が近づいて来る。故に資本の圧迫から脱しようとする個人のする個人的な努力は無益である。政治上では、彼等は国家の権威が――これはその学説によると、これまでの私的生活の独立的な方面をも掠奪すべきものである――大きくなればなるだけ、有望である、故に人は政府の私的生活への干渉を弁護すべきであると主張する。外交上に関しては、これらの人々は、軍隊と殺人器との増加は、会議、仲裁及びそれに類する手段に依る軍備撤廃の必要に導くであろうと断言する。人類の惰勢は非常に大きい、故に人生の全進路とその進歩の各段階とはその矛盾を立証しているに拘わらず、人々はこれらの学説を信ずる。
人々は廃政に苦しむ、そしてこの虚政から脱れる為めにとて、彼等はその狀態の改善のための普通の方法を勧められる、その方法は、国家の権威によって適用されるべきものであって、それに対しては、彼等は矢張り服従しなければならない。勿論この制度のもたらすものは権力の増大と、それに結果する圧政の加重とである。
これは、あらゆる人間の誤りのうちでも、人々が達しようと努めるその目的獲得を最も多く妨げるところのものである。人々は各人に明示されている簡単な又明白な行動を取る事なしに、彼等の目的を達するための、しかし困難な何事かをするであろう。彼等は彼等を圧迫する狀態を変更する最も巧妙な方法を発明した、しかし未だ一度も、各人が、それ等の狀態を醸し出す事柄をする事を差し控えるに至る簡単な救治策を思いつかなかった。
私がかつて勇敢な一警官に関する一事件を聞いた、彼は農民達が暴動を起こしていて、ために軍隊が招致されている村に到達した、そして彼はそこに個人的な力で、ニロライ一世のように、その暴動の鎮圧に取り掛かった。彼はありとあらゆる鞭を持って来るようにと命じた、そして百姓をすっかり納屋の中に集めて、自分もその中に一緒に入った、戸に錠を下ろした、それから叫び声と罵り声で彼等を威嚇したので、直ちに彼等は彼の言う通りになった、そして彼の命のままに互いに笞(むちう)ち始めた。かくして彼等は代わる代わる互いに笞って行った、がとうとう最後にその村に住んでいた気の違った白痴が、笞たれる事を拒んだ、そして彼の仲間に笞つのを止めろと叫んだ。やっとその時になって初めて笞つ事が止んだ、そしてやがて間もなく警官は紙屋の外に逃げ出した。社会の組織を信頼する人々が従うことを決し得ないでいるところのものは、正にこの白痴のなした勧告である。彼等は絶え間なく自らを笞ち又互いに笞ち合っている、そしてこの自己懲罰を最高の人知の完成であるとして教えている。
人々が自らを罰する方法のうちで、現代の人々が、それをもって彼等に要求される義務特に兵役を果たし且つ彼等をして奴隷とならしめるその服従より以上に、著しい実例を想像する事が出来るであろうか? 人々が自らを奴隷にしてその束縛に苦しんでいながら、しかもそれは必要欠く可からざるものであって、且つ人々の間に絶える事なく増大して行く奴隷制度にも拘らず、何処かで成る神秘的な方法の下で準備されている人類の開放に取っては、少しの妨げにもならないと信じている事は明らかである。
それが教育ある者であろうと又は無教育者であろうと(自分は真のキリスト教徒を指して言っているのではない、しかし一般の人を指している)信仰を有する者であろうと、無信仰者であろうと、又は金持ち、貧乏人、既婚者または独身者であろうとも、現代の一人を取って見るがいい。彼は彼の仕事をするか、さもなくば快楽を貪る、彼は自ら及び家族の必要のために自分の労働の結果を消費するが、さもなくば他人の労働の結果を消費する、そして万人と同様に、束縛と貧窮と反目と苦痛とを嫌う。左様にして彼は平和に暮らしていく、が遂にある日人がやって来て、彼にこう言う『先ず第一、汝は我等が汝に命令するすべてに奴隷の様に服従する事を、及び我等が如何なる事を制定してそれを法律と名付けようとも、それに服従し且つそれを絶対の真理として信ずると言う事を誓い且つ約束しなければならない、第二に、汝は我等に汝の労働の一部分を、任意に使用されんがために与えなければならない、そして我等はそれを、汝をして奴隷たらしめ且つ我等の決定するところのものに反抗する事を防止するために使用するであろう、第三に汝は、政府が、汝及び汝と同じ他の者がなす演説には全く、無頓着に単に我等の意志、即ち軍隊を自由に使用し得る者の意志に応じて行動するであろう事を、充分知っていながら、政府の事に参与する者と仮想されている人々を選挙し、又それらの者と共に選挙されねばならない。第四に、汝はある時、ある法廷に出なければならない、そして誤られた人々に対して我等のなす無意義な残忍な行いに参加しなければならない、その者の悪徳に関しては、我等が責任を有している、然るに我等はそれを投獄し、追放し、孤独に幽閉し、且つ死刑に処する。第五に、そして最も重要な事柄は、例え汝が他国の人々と最も親密な間柄であろうとも、我等が汝に命令する時は何時も直ちに、我等が汝に指示する国の人々を敵視し、個人的にあるいは金力によって、それらの男女、老幼を破滅し、惨殺し且つ掠奪する事を助け、且つ我等にその必要が起こる際は、汝の同胞あるいは汝自身の両親に対してすら、同様のことをする覚悟を常に持っていなければならない。』
これに対する如何なる答を、人はその正気を失わない現代の誰かから期待するであろうか?
『一体何故に自分はすべてこれらの事をしなければならないのであるか?』と人は、誰か正気の人間が当惑してこう訊ねる事を期待するであろう。
『何故自分は、今日はサリスベリーの、明日はグラグドストーンの、今日はブウランツァの、明日はブウランツァの議会の、今日はペトロ三世の、明日はカタリナの、そして翌々日はブガチョフの、又は今日はババリアの気違いの国王の、明日はウイルヘルム大帝のすべての命令に服従する事を、約束しなければならないのであるか。何故自分は彼等を少しも知らず、又は彼等が悪人であるか馬鹿者であるか知らないのにも拘わらず、彼等に服従する事を約束しなければならないのであるか? 何故自分は、その金が官吏に賄賂するため、監獄、教会、軍隊、その他すべての悪しき目的の手段のために、又は私自身を奴隷とするために使用されるであろうことを知りながら、税金という形式の下に私の労働の結果を彼等に与えなければならないのであるか? 何故私は私自らを罰しなければならないか? 何故私は私の時間を空費し、自らを偽き、国家の意向は軍隊を命令する者の手中にある事を良く知りながら、選挙に参加し又は政治に参与する風を見せて、暴力に一種合法の外観を与えなければならないのであるか? 何故私は法廷に出て、もしも私がキリスト教徒であるならば、復讐の法則は愛の法則に取換えられた事を、又もし教育ある人間ならば、刑罰はそれに附せられる者を改善せずして、ただ単にそれを破滅せしめる事を良く知っていながら、私の同胞に、それらが弱くまた道を踏み迷ったが故をもって拷問や死刑を加えることに参加しなければならないか? なかんずく何故に私は、常に平和に仲良く暮らして来た且つそう暮らすことを欲する隣国の人々を、エルサレムの寺院の鍵がある一国の僧侶の手にないという理由の為めに、あるいは捕鯨業者は英国に属してアメリカに属さないという理由で、あるいはブルガリアがドイツの他の王侯でなしに一王侯によって統治されていると言う理由で、敵視しなければならないのであるか? 何故私が自身で行き、あるいは兵を傭ってそれ等の国民を破滅し又惨殺し、且つ自らを彼等の復讐に供せなければならないのであるか? とりわけ何故に私は、個人的に又は武装する兵力傭聘のために金を払って、私の兄弟及び父を惨殺し又は奴隷とする事を助けなければならないのであるか? 何故私等は自らを罰しなければならないのであるか? すべてこれらの事柄は私には無用の事であって、私に害を与え、またあらゆる方面から見て蔑視すべき、悪しき、不道徳な事である。然るに何故に私はこれをしなければならないのであるか? もしも汝が私に、すべてこの事をしないときは、私は困窮するであろうと言うならば、私は先ず第一、何人も私をして、汝の命令に従うならば陥るであろうところのかかる困窮の狀態に立到らしめる事は出来ないと言う事を、第二に、もしも我等が我等自らを罰しないならば、その他の者もまた我等を罰しないであろうことを確信すると言う事を答えたい。政府とはただ、警官が百姓に強いることが出来たと同じ事より外に何ものをも、私に強いる事の出来ない君主、国務大臣及び書記に過ぎない、もしも私が強制的に法廷の前につれられ、獄に投じられあるいは死刑に処せられるとするならば、これは国王や政治家によってなさるのではなく、全く私自身と同一の境遇にある人々によってである、そして刑罰は私にとってそうであるように、彼等に取っても不快な痛ましい又苦しいものであるが故に、もしも私が彼等の目を開く事に成功するならば、彼等は私を迫害する事を差し控える許りでなく、又私の例に倣うであろう。第三に、もしも例え私がすべてこの事の為めに苦しめられようとも、私は尚究極は、もし今日でなければ明日勝利を得るであろうところの真理と常識のために追放され又は投獄させられる事は、等しく短時日の間に絶滅するに相違ない悪と愚かさとに苦しむよりも、一層有利であると考えるであろう。故にこの場合に於てすら、終生私自身の過失によって悪人の奴隷となり、又は敵の侵入に破滅させられ、何人に取っても必要のない大砲や土地の一小部分や、あるいは軍旗と称する滑稽な布を護りながら、馬鹿者ように不具にされたり殺されたりするよりも、追放され獄に入れられ、もしくは死刑に処せられる危険を冒す方が、私に取って遥かに有益である。私は自らを罰する事を欲しない、そして私はそうしないであろう。私は何等のそうする理由を認めない。貴下は貴下の好きのままになさるがいい、しかし私は嫌やだ。』
人は宗教的並びに道徳的感情のみならず、普通の常識や私欲すら、あらゆる現代の人々をしてかように答えしめ、且つその通りに行動せしめるであろうと考えるかも知れない。しかしそうではない、社会的人生観の人々は、かかる行動は人類を奴隷制度から解放する目的に不必要であると共に、又有害でさえもあると考えている。我等は百姓達のように互いに笞(むちう)ち、国会や初会議に於けるすべての我等の譫(せん)語(ご)、すべての我等の同盟罷業や職業組合、五月一日の示威運動、及び我等を笞つ政府に対する隠謀と隠密なる威嚇が――即ちすべてこれらの事が、我等が我等の束縛を固めるためにあらゆる手段を尽してゐるにも拘らず、我等の開放に甚だ速やかに善き結果をもたらすであろうと言う事で、自らを慰めて行かなければならない。
この異常な妄想位、人類の開放を妨げるものはない。各人が、新人生観の完成によって、彼自らの個人的自由を守るため全力を捧げる代わりに、人々は、外的な一般的な開放の手段を求める、そしてその結果自らの足枷を益々固く締めている、それはあたかも火を起こすには、石炭の塊に火を点ずる必要がない、ただそれをある場所に置けば充分であると主張する人に等しい。
しかしながら、すべての人々の開放は、ただ各個人の開放によってのみ達せられると言う事実は、最近益々明白になって来ている。以前極く稀な又無意義な出来事であったところの、キリスト教人生観の名の下に個人を国家の束縛から解放する事は、今や国家の権力を脅かす重要なものとなった。
ローマ帝国の時代あるいは中世の時代において、キリスト教徒が、彼の信仰の名の下に、犠牲を供し、神々や皇帝を崇拝し、あるいは法王の権威を認め且つ肖像画や遺物を崇拝する事を拒絶したかも知れない、しかしそれ等の拒絶は稀なものであった、人は多分その信仰を信奉する事を強いられただろうし、然らざればその必要に面接する事なしに、全生涯を過ごしたであろう。今やすべての人々は例外なしに、これらの信仰の試験に附せられている。我等の時代の各人は、異教的生活の残忍に組みすべきか、あるいはそうする事を拒絶すべきかという必要に面接しなければならない。更らに、以前の時代にあっては、神々、肖像画、あるいは法王を崇拝しようと、又そうする事を拒絶しようと、政府の権力には変わりがなかった。現代に於ては、政府の非キリスト教的要求を満たす事の拒絶は、国家の権力の基礎を次第に覆していく、何故なればその権威は、これらの非キリスト教的な要求の履行という事に基礎を置いているのであるから。
一時的な権力は、それ自らを支持するために、生活の発達に応じてその人民に、真のキリスト教を信奉する人々の履行し得ない行爲をも強いる事を予儀なくされるに至った。
故に現代に於ける誰か一個人のなす、真のキリスト教の信奉は、国家の権力をその本質において薄弱にし、且つ必然的に人類の開放を誘導する。
人は如何なる意義を、忠義の誓を立て、税金を払い、あるいは裁判や兵役に服さないところの数十人のいわゆる狂人の拒絶が持つかと考えるであろう。これらの人々は罰せられ且つ移される、そして人生は以前のままを続けて行く。人はこれらの出来事は無意義であると考えるであろう、しかし彼等は、他の何物よりも増して、政府の権力を薄弱にし、人類の開放を準備する原動力である。彼等は先ず巣から離れてその上を飛び回り、次に必然的に起こるべきこと――全群蜂も彼に次いで立つであろうと言う事を待ち設けている蜂である。政府はこの事を知っている、故に陰謀や爆弾を持てるすべての社会主義者、共産主義者及び無政府主義者なりもまた、かかる出来事を一層恐怖するのである。
新しい治世が始まる。すべての人民は、一般の法則と習慣とによって、新政府に対する忠義を立てる事を要求される。命令書が発せられる。そしてすべての者は、忠義の誓を立てるために寺院に集まる事を命じられる。突然一人の者がベルムにおいて、他の者がツーラにおいて、第三の者がモスクワで第四の者はカルガにおいて、忠義を誓う事を拒絶する、そしてすべての者は、予ての合意なしに、彼等の拒絶を、すべての誓が禁ぜられてあるところのキリスト教を根拠として説明する、しかし例え誓いを立てることが明瞭に禁ぜられていないとしても、彼等はキリスト教の教えの精神と一致して、誓が彼に要求する悪しき行いをすること、例えば政府の利益に反抗する被圧政者を告発したり武力をもってその政府を守護し、あるいはその敵を攻撃したりする事を、約束する事が出来ない。彼等は警官及び警察署員及び知事の前に召喚される、彼等は訓戒され、甘言をもってなだめられ、脅迫され、又罰せられる、しかし彼等は彼等の決心を固持して、誓いを立てる事を拒む。誓いを立てた人民の数百万人のうちには、誓いを立てなかった数十人がいる。汝は彼等に質問する。――
『貴下が誓いを立てなかった訳は、どうしてですか?』
『ええ、私は立てませんでした。』
『では、どうなりました? 何にも?』
『何にも。』
すべての政府の人民は、税金を払う事を要求される。そして税金は払われる。しかしカルコフに一人、ツヴエルに一人、サマラに第三の者が拒絶する、そして皆はあたかも前もって相談し合ったかのように同一の理由を述べる。彼等のうちの一人は、要求された金が、如何なる用途に使われるか知る時にのみ払うと言う。もしもそれが良き事業のために使われるのならば、彼は自ら進んで与え、又要求されている以上のものを与えようと言う。もしもこれが悪い目的に使用されるならば、彼は自分の自由意志からは、何ものをも与えないであろう、何故ならば彼の順奉しているキリストの掟に従えば、悪しき行いを助ける事が出来ないからである。
他の者もまた同じ事柄を違った言葉で答える、そして自分の意志から税金を払う事を拒絶する。財産を有する者等は、強制的に掠奪される、強奪される何ものをも有しない者は、平和のうちに残される。
『貴下は税金を払いませんでしたか?』
『ええ』
『では、どうなりました?』
『何にも。』
旅行免狀の制度が設けられる。すべての家を留守にする人々は、旅行免狀を持つ事を予儀なくされる。そしてその免狀に対して税を払わなければならない。突然、旅行免狀は不必要であると言う事、及び暴力によって存在する政府に信頼する事は間違いであると言う事を公言する人々が、いろいろな土地に現れる、そしてこれらの人々は旅行免狀を貰い、又はそのための税金を払う事を拒絶する。再びそこには、これらの人々をしてその要求されているところのものを履行せしめるべき、何等の手段もない。彼等は投獄される、そして再び自由にされる、そして旅行免狀なしに生活を続けていく。
すべての百姓はソツキイ、デザツキイ(田舎の下級警官)としての警察の職務をする事を強要されている。しかしカアルコフにおいて一人の百姓が、彼の信奉しているキリスト教の掟に依れば、人を縛り、投獄し、又は一から他の場所へと護送する事が出来ないと言う理由で、この職務を履行する事を拒絶する。他のツヴェル及びタムポフの百姓も、同じ事を公言する。彼等は脅迫され、笞たれ、投獄される、しかし彼は確固として動かない、そして彼等の信奉する信仰に反対する行爲をしない。彼等は最早や警官として選び出されなくなる、そして平和のうちに残される。
すべての人民は陪審員として、法廷に出なくてはならない。突然、非常に雑多な職業の人々――馬車製造人、大学教授、商人、百姓、及び貴族――が一致して、政府の容認する理由ではなしに、彼等は法廷そのものを、不法な、存在すべからざる非キリスト教的な施設であると考えるが故に、これらの義務を履行する事を拒絶する。これらの人々は科料に処せられる、そして彼等の拒絶の理由を公表する事を妨げられる、そしてその拒絶は虚妄であるとされてしまう。類似の根拠の下に、法廷に証人として出る事を拒絶する人々もまた、同様に取り扱われる、そして結局は平和のうちに残される。
21の年齢のすべての男子は、兵役のクジをひく事を強要されている。突然モスクワに一人、ツヴェルに今一人、カァルコフに第三の者、キエフに第四の者が、あたかも予め相談し合ったかのように官庁に出頭する、そして彼等はキリスト教徒であるが故に、誓いを立てる事も、兵役に就くことも出来ないと公言する。次に記す事は、拒絶の最初の場合の詳細である、何故ならば、それ以来それは益々数多くなって来ているから――それについては、私はよく知っている。他のすべての場合もこれとほとんど同一である。ある低い教育の青年が、モスクワの市役所で兵役を拒否する。如何なる注意も彼の異議の申し立てに払われない、そして彼は他の者と同じように、誓いの言葉を述べる事を命ぜられる。彼は拒絶する。そして人々に誓う事なかれと書かれてある福音書の文句を引用する。彼の弁論には耳を傾けられない、そして服従する事を命ぜられる、しかし彼は拒絶を固持する。そこで彼はセクダリアン――即ち、キリスト教を正しく解しないもの、言い換えれば、政府御用の僧侶が解釈するようにはそれを解しないもの――として記名される。青年に僧侶等の下に彼等が彼を正気に返らすために護送される。僧侶等はそうする事に努める、しかし勿論、彼等のキリストの名でキリストを否定する勧告は、青年に何の感銘をも与えない、そして彼は軍隊に返されて、見込みのないものと断定される。青年は尚誓いを立てる事を拒む、そして公然と彼の軍務を履行する事を拒絶する。
この場合は、法律によって予想されていなかった。政府の命令に従う事の拒絶は許さるべきものではない、又その事件は、単なる違法と同様に考えらるべきものでもない。熟考の後陸軍の権威は、この不都合な青年から脱れんために、彼を革命党員であると申告して、秘密警察署に護送する。警官及び憲兵は、その青年を細かに尋問する、しかし彼の申し立てる何事も、彼等の権限内の如何なる罪悪にも相当しない。彼は革命的行爲あるいは陰謀のいずれからも告発され得そうもない、なぜなら彼は何ものをも破壊する事を欲しない、その反対にすべての暴力を信じない、そして何事をも隠すことを欲しない、がただ最も公明な態度で、すべての事を言い且つなす機会を欲すると公言するからである。憲兵等は、その束縛からの自由にも拘らず、僧侶と同じく、青年を告発すべき何等の口実をも発見しない、そして再び彼を軍隊に送還する。権威は再び商議して、彼が誓いを立てないけれども、その青年を採用し、兵士として入隊せしめることに決議する。彼は軍服を着せられる、名前は記入される、そして彼の兵営に護送される。そこで再び彼の入る連隊の将校達は、彼に軍務を履行する事を命令する、彼は再び拒絶する、そして他の兵士達の前で彼は、キリスト教徒としてモーゼの掟においてすら禁ぜられてある殺人の準備を、自ら進んですることは出来ないと言って、彼の拒絶の理由を説明する。
この事件は、地方の一都会で行われる。それは門外漢のみならず将校にすら感動と興味と同情とを呼び起こす。故に権威は、従順を拒絶した為めの、普通の訓練上の罪を適用するのに躊躇する。尚体裁に、青年は獄に投ぜられる、そして最高の陸軍の幹部に、その次に取るべき方針について質問する。公の立場からは、皇帝自らがそれに属し且つ教会によって祝福される兵役に参加することの拒絶は、気違い沙汰と考えられる、そしてそれが故にペテルスブルグから、その青年は精神が錯乱しているに違いないから、彼に対して暴力的な手段を取ってはならない、が気違い病院に入院せしめて彼の心的狀態を検べて貰う必要があるという回答が来る。彼は、十年以前ツエルで同じく兵役を拒絶して、瘋癩病院で彼が屈服するまで悩まされた他の青年の場合と同じように、そこで滞留するであろうという望みで送られる。しかし今やこの方法すら、政府をしてこの不安な青年から脱れしめる事が出来ない。彼を診察した医者は非常に興味を感じる。そして勿論何等の精神錯乱の兆候も見出せないから、彼を軍隊に送り返す。彼は受け取られる、そして彼の上官達は、彼の拒絶とその動機とを忘れた振りをして、再び彼に教練に加わる事を要求する、そして彼は再び他の兵士達の前で拒絶し、その拒絶の理由を説明する。その事件は益々兵士たち及び町の人々の注意を惹く。再び事件はペテルスブルグに照会される、そして青年を国境の軍隊に移すべき命令が受け取られる、そこでは陸軍刑法が施行されている、そしてそれ等の遠い地方では、キリスト教徒やロシア人は極く少数であって、おもに回教徒や未開の種族であるが故に、服従を拒絶する者は、何等の注意も惹く事なしに銃殺され得る。それはなされる。青年はトランス・キャスピアン地方の軍隊に移される、そして他の罪人と共に、その武断的な事と峻厳的なるとで有名な長官の許に送られる。すべてその間中及び一つの場所から他へと護送される間を通じて、青年は残酷に取り扱われ、寒気と饑餓と不潔とに曝された。そして彼の生命は、そのあらゆる狀態に耐え難いものとされた。しかしかかる迫害も彼をしてその強固なる決心を翻さすような事は無い。トランス・キャスピアン地方で、彼は再び武装して哨兵に立つ事を命ぜられる――彼は再び拒絶する。彼は自分の送られた枯草置き場の近くに行って、そこで立つ事には服従する、しかし決してどんな事情の下にでも他人に対して暴力を用うる事は出来ないと言って、武器を手にする事を拒絶する。これはすべて他の兵士の見ている前でなされる、この様な不従順を罰せずに済ますわけには行かない、青年は軍律違犯のかどで審問に附せられる、そして二箇年の禁錮の刑を言渡される。彼は再び他の囚人と一緒に、兵士達に護衛されてカウカサスに送られる、そこで彼は獄に投ぜられる、そして毫も検束を受けない獄吏の手に渡る。そこで彼は一か年半の間苦しめられる、しかし如何なる事があろうとも、武器を手にしないと言う決心を確持して、逢う人毎に向って、彼の拒絶する理由を説明して聞かせる。第二年目の終りになって、彼は満期になる前に釈放される、そして権威者は彼からどうにかして逃れたい許りに、彼の入獄は兵役に服した事に相当するものとしてしまう。
あたかも前もって互いに約束し合って置いたかのようにして、他の者等もロシアの到る処で、それと同じ行爲に出る、そしてそのすべての場合に際して政府のやり方は、それと丁度同じように、卑怯で不決断で、又隠密の裡に事を処する。それ等のうちのある者は瘋癩狂院に送られ、ある者は牧師に任命されてシベリアに勤務に赴かさせられる、又他の者は林務官にされたり、投獄されたり又は科料に附せられる。目下多くの人達が行爲の実質の方面――政府の合法的行爲と見做すものの拒否――からではなくただその権威者の些々たる命令を遂行しなかったという理由のために投獄されている。かくして久しからざる以前、一予備将校が、最早兵役に就く事が出来ない事を公言して、居住地に関する届けを怠って、権威者の命令に服従しないというだけで三十ルーブルの科料を言渡された、そして彼は又それをも、自ら進んで支払う事を拒絶した。訓練を受けたり武器を取る事を拒絶した多くの百姓や兵士達は『不服従と争論』の名目の下に拘禁された。
キリスト教の教えとは全然反対な政府の要求に従う事の拒絶、特に兵役に服する事の拒絶の実例は、最近になって、単にロシア許りでなく到る処に増大して来た。私はセルビアにおいて、いわゆるナザレネ宗の信者たちが、絶えず兵役に就く事を拒否した、そしてオーストリアの政府が数年の間投獄をもって、その服従を予儀なくせしめようとしたがその甲斐が無かったのを知っている。1885年には、130人の拒絶者があった。私はスイスで1890年に、人々が『兵役に就く事を拒否した理由で』チロンの城塞に投ぜられたが、彼等はその刑罰にも拘らずその決意を翻すことをしなかったのを知っている。同じ種類の拒絶はスエーデンでも起こった。拒絶者は投獄された、そして政府はこの事実を注意深く人民から隠蔽した。同じ事はプロイセンで起こった。私はベルリンで1901年に、近衛の一伍長が、自分はキリスト教徒である故に、続いて兵役に就く事は出来ないと公言した、そして有らゆる訓練や威嚇や刑罰を受けたのにも拘らず、その決意を固持した事を覚えている。最近にはフランスの南部において、ヒンシストと呼ぶ結社が発見された。(この報告は1891年7月の『ピース・ヘラルド』誌から集められた)そしてそれはキリスト教の教えを根拠として兵役に就く事を拒絶するものであった。初めの間は彼等は病院で勤務する事を命ぜられた。しかし彼等の数が増加するので、不従順のかどで刑罰に附せられるようになった、しかし尚、彼等は武器を手にする事を拒絶している。
爆弾や暴動、革命を手段とする社会主義者、無政府主義者、共産主義者も尚、政府に取っては、この同じ一般的に通俗的な教えの上に立って、色々な国々においてその拒否を公言する個々の人々よりは、危険の度合いが尠少である。すべての政府はいかにして、革命家より自らを、防護すべきかを知っている。彼等はそれに当たるに必要な手段を持っている、故に彼等のこの様な外部の敵を恐れない。しかしすべての権威の必要な事と、無駄な事と、その有害な事とを非難する人々、及び政府に反対しないが単にその必要を認めないし、又それなりで済ましていく、従ってそれに与みする事を拒否する人々に対しては、どういう処置を取っていいのであるか?
革命主義者は『国家の組織はこの処や彼の処の点が良くない、故にそれを破壊して、かくかくの制度をその代わりに設けなくてはならない。』と言う。キリスト教徒は言う『自分は国家の組織については何も知らない、又それの良い悪いも知らない、自分はそれの善悪を知らないが故にそれを破壊する事を欲しない、しかしそれが又同じく、自分が政府を援助しようと欲しない理由ではない。自分は欲しもしなければ又そうする事すらも出来ない、何故ならば私は要求される事柄は、すべてその良心に反したものであるから。』
国家の施設はすべてキリスト教徒の良心に反している、忠順の誓約、納税、裁判、軍隊すべてがそうである。然も国の全権力はこれらの施設の上に成り立つものである。
革命主義者は外的な手段で、政府に戦う、キリスト教徒は少しも戦わない、しかし内部から国家の基礎を根こそぎ破壊してしまう。ロシア人民の間には――その間には、特にペテロ一世の時代から国家に対するキリスト教の反抗が絶えなかった――その生活の制度があたかも支那トルコ又は人類未踏の地に移住した一社会のような感があって、国家の必要を超越している、そして常にそれを無益な重荷と見做して、それがトルコ、ロシア又は支那の政府であろうと仕方ない災難としてそれを授けているロシアの人民の間には――意識的にキリスト教の根拠の上に別々で、政府に対する服従を拒否する事件が、最近になって益々頻繁になってきた。これらの出現は、政府によって近頃特に恐れられている、何故なればこれらの拒絶者はしばしばいわゆる下級の無教育な階級に属するものでなくして、中庸を事とすると高等の教育を受けた者である、そして彼等は最早それの拒絶の理由を昔のように、ある特殊な神秘的な信仰の上に置きもしなければ、又はセルフ・バーナーやランナー(ベグーニ)のように迷信や幻想をそれには附会しないで、その拒絶の理由として、最も明白なる単純な、一般に知られ且つすべての人々に判り易い真理を上げるからである。
かくて彼等は、金銭が暴力の行爲のために使用されるをもって兵士や暴力に与みする人々の賃銭を支払い、牢獄砲台を築くために使用されるをもって、税金を払う事を拒絶する、彼等はそうした事柄に携わる事を、キリスト教徒として罪であり又不道徳であると考えるからである。
人々は権威者に――即ちあらゆる暴力を実行する者に――向っての服従の誓約は、キリスト教の教えの意義に戻るが故をもって、忠順の誓を立てる事を拒絶する。彼等は法廷において誓う事を拒絶する、何故なれば誓う事は福音書のなかで明白に禁ぜられてあるから。彼等は警察上の義務を履行する事を拒絶する、何故なればこれらの義務は彼等にキリスト教徒としてする事の出来ない事柄、即ち彼等の同胞に暴力を加え、又は迫害する事を要求するが為めである。彼等は裁判に参与する事を拒絶する、何故なればあらゆる裁判所は、キリスト教の宥恕と愛の掟と一致しない復讐の掟の現れであると考えるからである。彼等は兵役と軍備とに干さわる事を拒絶する、何故なれば彼等は殺戮者になったり、殺戮の準備をしたりする事が出来ないし、又それになりたくもないからである。
これらの拒絶の一切の動機はこうである、即ちどんなに政府が横暴であろうとも、これらの動機を主張する者等を公然と罰する事が出来ないからである。そうするためには、政府自身が断然理性と正義の原理を放棄してしまわなければならない、しかも彼等は人々に、彼等の権威はただこれらの原理の上にその基礎を置いていると言う事を確信せしめている!
かかる人々に対して政府は、何をすることが出来るか?
政府は、彼等を暴力をもって転覆を企てるすべての敵を虐殺したり、終身禁固や懲役に処したりする事が出来る、彼等は必要なる人間の半ばに金の着物を着せ又賄賂を使う、彼等は一切の国家の敵を進んで破壊する数百万の武装せる人々の主人となる事が出来る。しかし破壊したり何かを設立したりする事を欲しなくて、ただそのただ一つの決意は、その私的行爲において自らキリスト教の教えに戻反しないと言う事であって、従って政府及びその政府の最も頼りとする者等の最も広く要求する義務を果たす事を拒絶する人を、政府はどう処置する事が出来るか?
もしもこれらの人々が暴力と殺人とを教え且つそれを実行する革命家であるならば、彼等を抑止するのはたやすい事ででもあろう。ある者は賄賂で誘われるし、ある者は偽かれ、又或者は脅迫されるであろう、そして賄賂を受けたり偽かれたり、又は恐喝せしめられたりする事のない人間は、罪人としてまた社会の敵として世の中に見せびらかせることが出来る、従って投獄され死刑に処せられても、矢張り人々は政府のやり方を正しいとするであろう。もしも彼等がある風変りの教義を教える幻想家であるならば、彼等の教えに不正の迷信を混ぜてそれを利用する事が出来るし又同じく、彼等の信奉する真理をも惑乱する事が出来るであろう。しかし革命を説かず又何か特殊の宗教上の教義をも教えなくて、ただ何人に対しても悪を爲すことを抑制し、忠順を誓い税金を支払い裁判官及び兵役に関与する事等――国家の全組織の依存する一切の義務を拒絶する人々を、どう処理すればいいのであるか。かかる人々を一体どうすればいいのであるか? 彼等は買収されるようなことは無い、彼等が自ら進んで犯す危険が既に彼等の志操の堅固なのを証明している。彼等はそれ等の事柄が神の要求するところであると言う確信に欺かれない、何故なれば彼等の拒絶の根拠は、他の違った法則に人々を強制しようと努めている人達すらも信奉しているかの明白にして一点の疑惑もない神の教えの上にあるからである。尚それにもまして彼等に威嚇をもって脅かす事は、不可能な事である。何故なれば彼等の信仰のために受ける貧窮と苦痛は、ただ単に、人よりも神に仕え、肉体を殺すものよりも肉体と精神とを共に殺す者を恐れよと明白に教える信仰を信じようとする願望を深める許りである。彼等は死刑に処せられる事も、又終身の禁錮に附せられる事も出来ない。これらの人々は友人を持っている、彼等の過去の生活やその思想や行爲の様式はよく知られている、各人は彼等に優しく親切で、又平和を愛する人たちである事を知っている。故に彼等を社会の安全のために抑留すべき罪人として世の中に示す事は不可能である。その功績が一般に知られている人々の懲罰は弁護者を喚起するであろうし、又彼等の拒絶の説明を呼び起こすであろう。彼等の動機が明らかにされるや否や、すべての人々は、彼等の同じ仲間のキリスト教徒が、国家の要求に服従する事を拒絶するに至った理由に、又等しく他の人にもそうする事を強いている、故にすべての人々は既に遥か以前において同じ反報を為し、また同じ事をしていなければならなかった筈であると知るに至るであろう。
かようなキリスト教徒の拒絶の前にあっては、政府は全く絶望の地位にある。彼等はキリスト教の預言が実現された――キリスト教の教えが囚人の鎖を引き裂いて、奴隷の境涯にある人々を開放した――と言う事に気付く、彼等はこの解放は必然的に人類を束縛している者等を破壊するに違いない事を気付く。政府はこの事に気付く、彼等は自らの命数は尽きた、そして最早彼等自身を如何ともする事が出来ないのを知る。彼等が自己の安全のためになし得るすべてはただ、彼等の破滅の時を延ばすと言う事である。彼等はこの事をしている、しかし尚依然として、彼等の地位は絶望である。
それはあたかも市民によって火を付けられた街を保存しようと欲する征服者のような地位である。彼が一と処の火を消すと直ぐ他の処で新しく燃え出す、彼が燃えている個所を建物の他の部分と引離しても、やがて直ぐ様焔が両端から燃え始める。けれどもこれらの出火は尚そう頻繁ではない、彼等は火花から燃え始めた火に燃えている、そしてそれはすべてのものが燃え尽きるまでは消滅しないであろう。
けれどもこの瞬間に於て、政府がキリスト教を信奉する人々の面前では、数世紀もかかって築き上げた権力を破壊するのに、ただ一寸とした努力だけで十分である位にまで無防備であり、また同時に甚だ攻め落とされ難い外見を呈している時――この時において社会の労働者や改革者たちは、各個人が自らを奴隷から自由にする事は、不必要な事である許りでなく、不道徳な事でもあり、又有害な事ででもあると公言している。
それは河の水をはけさそうとして働いている人のようなものである、彼等は水路を掘った、そしてもう今はただその水の口を開いて流し込み、残りの水をもそうさせればいいだけになっている。しかし今になっても一人の人がやって来る。そして彼等に水を流し込む代わりに柄杓の付いた機械を河の上に築くがいい、そうすればそれは一方の堤から他の堤へと再び同じ河に注ぎ入れるであろうと告げる。
しかし事情は余りに極端にまで立ち到った。政府は自らの薄弱と頼りなさとを感じている、そしてキリスト教の信仰を持つ人々は彼等の眠りより目覚めて、自らの力を自覚し始めている。
『我は火を地にもたらすために来れり』とイエス・キリストは言った。而してその火は既に燃え始めているのである。
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