トルストイ『神の国は爾曹の衷にあり』第十章
- 2017/06/16
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『神の国は爾曹の衷にあり』
第十章 キリスト教と国家
真の意味に於けるキリスト教は国家を破壊する。その事は最初の間から分っていた――イエスの十字架に磔けられたのもそのためである――そしてその事は、キリスト教国家の存在の可否について考える必要に拘束されない人々の常に、そう理解して来たところである。人々がキリスト教と国家とが妥協するような馬鹿げた滑稽な学説を発明し出したのは、実に統治者が外的な形式的なキリスト教を採用し出した時以来である。しかし考え深い真面目な現代の人々は誰しも、真のキリスト教――愛と謙譲と罪の許しとの教え――と国家の、その豪奢と暴力と懲罰と戦争との、相容れない事の自明なのを見ざるわけには行かない。真のキリスト教を信奉する事は、国家を容認する可能性を持っていないのみならず、その基礎を破壊するものである。
もしもそれが事実であるならば、又もしもキリスト教が本当に国家と相容れないとするならば、疑問は自然に起こって来る、即ち人類の幸福の為めにより以上になくてはならないもの、又その幸福を保証するに足るものは一体なんであるか――国家と言う生活様式か、又はそれを破壊してそれに代えうるにキリスト教をもってするのであるか?
ある人は国家は人類に取って必要欠くべからざるものである、即ち国家の破壊は人間の知識と進歩との破壊を醸し出す、即ち国家は人類進化のただ一つの形式であり又常にそうである、故に国家の形式の下に生活している諸国民通有の罪悪は、国家と言う組織に起因するものではなくして、国家そのものの組織を破壊する事なくしても改善し得る欠点と弊害とに因るものであると説く人がある。彼等は国家の組織を破壊する事なくしても、人類はその最高安全の域に達する事が出来ると推論する。これらの諸説の証左として、これらの人々は、弁駁の予地ないと見える哲学上、歴史上、並びに宗教上の議論をも引用する。しかしまた他にはそれと反対の説を抱く人々がある、即ち国家と言う生活様式は一時的のものに過ぎない、何となれば、既でに国家の組織なくして人類が存在していた時代があったから、又人類が新しい生活様式を必要とする時代が到来するであろう、そしてその時代は既でに到来していると説く。かように考える人々もまた、同じく弁駁の予地ないと見える哲学上、歴史上、及び宗教上の議論を、自己見解の助けとして引用する。
おそらく数巻の書籍が、第一の諸説の弁護の為めに書かれるであろう(そして既でにそれは遥か以前に書かれ、又依然として書かれている)、しかしそれより多くの書籍がそれに反対して書かれるであろう――そしてそれは最近になり書かれ又非常に巧みに書かれている。国家の弁護者の推論するところに拠れば――国家の破壊が一般的の混乱、掠奪、殺戮、一切の社会的施設の消滅及び人類の奴隷狀態への復帰を醸し出すであろうと言うがその事は証明するに不可能な事である、又同じく――国家の敵の推論するごとく人々が互いに殺したり盗み合ったりする事を欲しない位に、理性的になり、又善良になった、即ち敵意よりも平和なる交情を欲し、又国家の助けなくして、彼等の欲するすべての事を確立する事が出来ると言う事、又それが故に国家は人類の進歩と幸福とを増進する代わりに、保護と防護との名目の下に、有害にして不道徳な力を振るうものであると言う事も、証明する事が出来ない。そのいずれの提案も、抽象的な論議によっては証明する事が出来ない。それが経験によって証明される事は、尚更不可能な事である、何故なれば、問題それ自身が、実験することが望ましい事か又はそうでないかと言う事であるから。
国家の存在を排除する時代が、到来したか否かと言う疑問は、明らかな解答となるべき今一つの実際上の手段が存在しない以上は、解決する事が出来ない。
若い巣の中の鳥が、自分の殻を破るに充分な位大きくなって、彼等の親鳥なくしてもやって行けるかどうかと言う疑問は、全く何等の鑑定にも及ばず、その鳥自身によって、解決される事柄である。その鳥が殻の割には余りに大きくなって、自分の嘴でそれを破り始めるや否や、その場合の絶対的の処断者となる。
国家と言う生活様式を削除して、それに代えうるに新しい様式を持ってする時代が、人々に到来したか否かと言う問題も、これと同じである。もしも人々の高い意識が発達して、最早や国家の要求を果たす事もなくなり、又その種の生活様式を時代遅れのものとして、最早やその保護を無用とする位にまでになったのならば――人々が充分国家を無用視する位にまで発達したか否かと言う疑問は、全く別な論点から解決されるわけである。それは国家を追い越して了って、如何なる事があろうと再びそれに服従する事を強いられない人々によって、決然と解答される事である――それはあたかもその殻を破って出て、最早や如何なる力をもってしても、再びその中に入る事を強いられない雛によって、解答されるようなものである。
『自分は国家は必要なものであったし、又尚君達がそれに附与する目的の為めに、必要なものであろう。』とキリスト教人生観を抱いている人が言う。『自分はただ、最早やそれの必要のない事だけを知っている。又自分は同じくその維持に必要な行爲をする事が出来ないのは知っている。君達は、君達の最善と思う通りに、君達の生活を組織する事は、自由である、自分は抽象的に、国家の必要あるいは有害を共に説明する事が出来ない、自分はただ自分の必要とするものと必要としないもの、する事の出来るものと出来ないものとを知っている許りである。自分は自分一個人として、他国の人々と相分離し合う必要のないのを知っている、故に自分は一国民又は一国家に従属し、あるいは一政府に隷属するものであるとする事が出来ない。自分は一個人として、政府の組織するすべての施設の必要のないことを知っている、故に自分は、自分の労働から獲る貧しい結果を、自分が必要ともしなければむしろ有害と考えている施設を維持するに、税金の形でもそれを放棄して奪われる事が出来ない。私は暴力によって組織された司法官も裁判所も必要のない事を知っている、故に自分はそのいずれにも加わる事が出来ない。自分は他国民を攻撃したり惨殺したりする事も、又は武力によって彼等の攻撃を防ぐ必要もない事を知っている、故に私は戦争に参加する事も戦備に関わる事も出来ない。』
『多分世の中には、こうしたすべての事柄が必要であり、又なくてはならないものであると考える人もあるかもしれない、だが私は彼等に賛成する事が出来ない、ただ私に関係ある事だけしか自分は知らぬ、しかし私は一点の疑惑もなしに、自分はこれらの事柄を必要ともしなければ又それに参与出来ないと言う事を知っている。』
『これは私の個人我の点においての個人的な願望の結果ではない、それは私をこの世に送り、私に私の一生を通じて導くべき正確な一法則を与えた「彼」の意志であるからである。』
国家を排除する事は、有害で、又多くの災禍を誘引するであろうと言う事を証明せんためには、どんな議論でも引用する事は出来よう、しかし国家と言う生活様式以上に成長した人々は、最早やどうしても、その生活内に止まっている事が出来ない。如何なる議論がその必要を証明するために提出されようとも、国家と言う儀式を追い越してしまった人は、最早やそれに戻る事が出来ない、彼は丁度雛鳥が自分の脱ぎ捨てた殻に戻る事が出来ないと同じ様に、彼の意識の否とする行爲に交わる事が出来ない。
『しかし仮にそれは事実だとしても』、と現制度の弁護者は言う、『国家の排除はただ、すべての人々がキリスト教徒となった時においてのみ、出来得る事であり、又喜ばしき事である。それまでは――そしてキリスト教徒と自稱している人々の間に、多くのキリスト教徒でない人々の居る限りは――悪しき人々、彼等は自分の欲望を充たすために、自らの同胞を害することを求めている――国家の暴力を排除する事は、人類のその残り分の者に取っては恩恵であるであろうが、しかしそれはただ彼らの悲惨を増やす許りに過ぎない。もしも仮に大多数がキリスト教徒である許りでなく、又国民の全部がキリスト教徒であるとしても、それの周囲の国民中に非キリスト教国民のある間は、国家と言う生活様式の排除は望ましい事ではない、何故なれば、その時後者はそのキリスト教の隣国を侵略し惨殺し、又何等の害も受けることなしに、あらゆる種類の暴行を彼等に加え、もって彼等の生活を殉難とするであろうから。邪悪なる者は何等の害も受ける事なしに、正しい者を圧迫し迫害するであろう。故に国家は一切の悪人と人間の犠牲獣とがこの世の中からなくならない限り、排除する事は出来ない、しかしこれはほんの暫くの間ではないであろう――又例え何日かそれが可能であるとしても――故に個人としてのキリスト教徒が、国家の権力から自由になろうと企てているけれども、矢張りその権力は人類の多数のために保存されねばならない。』かように国家の弁護者が言う。『もしも国家がないならば、悪人は正しき者を圧迫する、そして彼等に有らゆる暴力を加えるであろう。国家の権力のみがただ独り正しき者をして悪しき者を制禦し得しめる者である。』
かような論議を主張するに際して、現制度の弁護者は、彼等の証明せんとするその提言の真理なる事を容認している。彼等がもしも国家が存在しないならば、悪しき者は正しき者を圧迫するであろうと言う時、彼等は現在権力を握っている者は正しい人で、服従しているのが悪人であると言う事は自明の事としている。しかしそれは正に証明を必要とする提言である。それはもしも我等の世界が支那に似るような事でもあれば正しい事ででもあろう、そこでは――実際においてはそんな事は決して起こらなかったけれど――権力は常に最善の者の手に置かれる、故に、もしも国家の統治者がその臣民よりも徳が低いと言う事が分かったならば、それらを顚覆するのが後者の務めとなって来る。これは支那において事情常にこうでなければならぬと推論された事である。しかしその規定はかつて一度も実現されなかったし又実現されない、何故ならば罪深き政府の暴力を排除するには、人は正義と同時に権力を持たねばならないから。これは支那においてすら一つの推説に過ぎなかった、しかし我等のキリスト教国においては、かかる観念は一瞬間たりとも抱かれた事がなかった。我等は我等の世界においては、権力は権威を横奪して彼等自らのため又子孫のために暴力をもってそれを維持しようとする者等の手の中にあるよりも、最善の又最も有徳な人の手にあるべきものであると言う事を、推論する少しの理由すら持っていない。しかし権力はどうあっても、有徳の人によって専横され又維持される事は出来ない。
権力を獲得してそれを支持するためには、人は権力を愛さなければならない、そして権力の愛は善心とは結合はせずして反対の高慢心、二心(ふたごころ)及び残忍な心と結び合うものである。
自己を高め他をおしのける事なくしては、虚僞と僞善とがなくしては、牢獄や堡壘、死刑や虐殺なくしては、如何なる権力も生ぜず又持続されない。
『もしも国家が排除されねばならぬのならば、より一層の悪人が悪の程度の低い人間への優越権を得るに至るであろう。』と国家組織の弁護者が言う。しかしもしもエジプト人がヘブライ人を征服しペルシャ人がエジプト人をマセドニア人がペルシャ人を、ローマ人がギリシャ人を諸蛮族がローマ人を制服した以上、それは征服者が常に被征服者よりもより善良であった事を意味するものであろうか? 一個人から他の個人への国家の権威の推移においてもまたそうである、権威は常により善き人々の手中に移って行ったであろうか? ルイ16世が死刑に処せられた、そしてロペスピィルが、又後になってナポレオンが彼の後を襲った、その権力を掌握した者は、より善良なものであったろうか、又より凶悪な人間であったであろうか? 誰がより善き人間であったのであるか、共産主義者であったか、あるいはベルサイユ宮殿の貴族主義者であったか、チャールス一世かあるいはクロムエルであるか? ペテロ三世であるか、あるいは彼の弑虐後ブガチョフがロシアの一部分を統べ自分は他の部分を統治したかのカタリイナであるか? 誰がその時権威を掌握していたか、善人であるか、悪人であるか? 権力を握っているすべての人々は、彼等の権威は、悪人が有徳者を圧迫する事を阻止するために必要であると、暗に自分はそれがために他の有徳者を悪人から保護する最も有徳なものであるように仄めかしながら公言する。しかし権力を握る事は暴力を行うことである、暴力を行う事は、その暴力を加えられるものの欲しない、又その加害者が今度は自分にそれが加えられるときっと不服を言うに違いないところのものをする事である。故に権力を所有すると言う事は、我等のされたくない事――即ち悪を、他人に仕向けると言う事を意味する。
服従とは、暴力よりも忍耐を選ぶと言う事である。暴力よりも忍耐を選ぶと言う事は、有徳であると言う事、あるいは少なくとも、自ら欲しない事を他に施す輩よりも悪くはないと言う事を意味する。
故に全ての蓋然性はこうである、即ち現在においては又過去の時代に於けると同じように、権威を所有する者等は、彼等が統治するその人々よりも善良ではなくてより悪くなければならぬと言う事である。確かに権威に服従する者の間には又、悪人はいるであろう、しかしより有徳の者がより悪徳の者を統治すると言うような事は、あり得ない事である。
かような推定は、異教徒の時代――悪について不正確の定義を持っていた異教徒――においてすらも抱かれる事は稀であった、しかしキリスト教によって与えられた善悪に関する明白な又正確な定義をもってしては、左様な事は気付く事すら出来ない。もしも異教の世界において、幾分善であり又悪である者の区別を明らかになし得なかったにしても、キリスト教人生観は徳と悪心との区別を、最早やその混同が出来ない位にまで明らかにした。キリスト教に依ると、善人とは服従し忍耐強く苦しむ人の事である。彼は暴力によって悪に抗しない、恥しめを許し、又自らの敵を愛する。悪人とは自らを高め、権力を求め、戦い、暴力を犯す人の事である。故にキリストの教えに依ると、統禦し服従する人々の間の善人悪人の位地について疑いを挿しはさむ予地がない。権力と権威とを持つものとしてキリスト教徒の事を語るのは、愚かな事でさえもある。
非キリスト教徒は――即ちそれ等に取っては生活とは世間的な事物の獲得である――常に、その生活が世間的な幸福の放棄であるところのキリスト教徒を統禦するに違いない。
それは常にそうであり、又キリスト教の教えの神の注解が増加し又普遍するに応じて、漸次一層明白なものとなって来ている。
真のキリスト教がより広く広まり又より深くそれが人々の心に滲み込むに従って、キリスト教徒の支配者階級に隷属する事が益々不可能となって行く、そして非キリスト教徒が彼らの上に立つ事が益々容易になって行く。
『その各員すべてが真のキリスト教徒でない社会において、国家の暴力を排除する事は、ただ悪人に有徳者の上に立って、楽に彼等を冷遇する可能性を与えるに過ぎない。』と国家と言う生活様式の弁護者が言う。
事情常にその通りであったし、又どうしてもそれ以外のものではあり得ない。それは世界の初からそうであったし、又現在においてもそうである。悪人が常に善人を支配する、そして常に彼らに暴力を加える。カインはアベルに暴力を行った、狡猾なヤコブは信頼すべきエサウに我ままを振舞った、そして彼自身が又彼を僞ったラバンに支配された、カイフフスとピラトはイエスを迫害した、ローマの諸皇帝はセネカ、エピクテタス、及びその他当時の有徳な人々を統治した、ジョン四世はその近衛兵と共に、傲毒で大酒飲のペテロ三世は彼の道化役者と共に、売女カタリナはその情夫等と共に、当時の勤勉な有徳にして神を恐れるロシア人を統禦して、あらゆる種類の暴力を加えた。ウヰリアム二世はドイツ国を統治し、スタンブウロフはブルガリア人を、そしてロシアの官吏等はロシア人を統治している。オーストリア人はイタリア人を統べた、そして今は彼等はハンガリー人とスラブ人とを統べている、トルコ人はギリシャ人及びスラヴ人を、英国人はヒンドウ及び蒙古、支那人を統べている。
故に国家の虐政が排除されようとされまいと、善良な、悪人によって圧迫され蹂躙されている人々の境遇には変わりがないわけである。
悪人が善人を圧迫するであろうと稱して人々を恐れる事は不要な事である、何故なれば事情が常にそうであったし、又今でもそうである、そして又そうであるより以外に方法がないからである。
人類の異教徒の歴史の全部は、程合いの強い悪人が程合いの低い悪人の上に権力を振るい、その得たる権力をあらゆる種類の虚僞と残忍とをもって維持し、且つ自らを正義の擁護者であり、又悪心の者に対して善なるものの味方であると宣明して正しい者の上に立ったその色々な行爲の物語である。歴史上の一切の変更と革命は、悪人によってなされる権力の簒奪と正しき者への横暴とであるに過ぎない。もしも権力を掌握している人々が、彼等の如き権威者がなければ、悪人は善人を圧迫するに決まっていると言うのならば、その彼等の真に意味するところのものは、現在権力を掌握している圧制家か、彼等からその権力を簒奪しようとしている他の圧政家にその権力を譲り渡したくないと言う事である。彼等はただ、彼等の権力即ち暴力は、現在乃至未来の虐政及び他人の圧迫から、人々を擁護するに必要であると口にして、自らその非を示しているに過ぎない。
暴力の行使は危険である、何故なれば自己の圧政を弁護するために暴力家の引用する一切の論説は又もって彼等に対して、それと同様の又それよりもより正当な抗議のためにも使用され得るからである。彼等は現在の、又しばしばより以上に未来の空想上の暴力を口にして、自身では絶えず休みなしに実際上の暴力を演じている。『汝は、人々は前代において殺人強奪を事としていたと言う、そしてもしも汝の権力が排除されるならば、すべての人々は殺され掠奪されるであろうとおそれている。それは起こるかも知れぬし、又起らないかも知れぬ事柄である、しかし汝が汝の牢獄、囚舟、砲台及び追放で数千人の命を落とさせていると言う事実、及び家族の者等を数万人と破滅せしめ、徴兵制度によって何万人と言う人を肉体上並びに道徳上の頽廃に送り込んでいると言う事実――それは空想上の暴力でなくして実際上の暴力である、そしてそれは汝の論法に依ればそれと等しい暴力によって抑止せしむべきものである。故に汝の諸説に依ると、人が暴力によって自らを守る必要のあるその悪人は結局汝自身である。』かように被圧迫者は暴力の専断者に答えるべきである。そして非キリスト教徒が常に考え、語り、且つ行って来たのも、実にかう言う風にであった。もしも被圧制者が圧制者よりも悪人であるならば、彼等は彼等を攻撃して転覆する、都合よき条件の下で彼等は成功する、あるいはもっとしばしば彼らは圧制者の階級に入る、そして暴行にたずさわる。
かようにして政府の弁護者が示してもって人類を脅す危険、即ちもしも国家の権威が排除するならば、悪人は善人を圧迫するに至るであろうと言う事は、絶えず人類の生活のうちに行われている既存の事実である、故に国家の暴力を抑制する事は、必ずしも正しき者に対する悪人の圧迫を増加する事とはならない。
もしも国家の暴力が排除されたとしても 、多分尚依然として暴行は、以前それを被っていたものによってなされるであろう、しかし暴力の総量は、一集団の手から他の人々の手に暴力が移って行ったとて別に増えると言うわけがない。
『国家の権力は、社会の悪人がすべて抑制された時にのみ、排除する事が出来る。』と現在の制度の弁護者は、それをもって世の中に悪人がいる限り、暴力の終わる時もないと言う事を仄めかして言う。これはもしも今一つの提言、即ち権力の掌握者が常に善人であって、悪より解放されるただ一つの手段は暴力であると言う事が正しいならば正しいことででもあろう。そのようでは、確かに、暴力は決して排除される時はないであろう。しかしこれらの推論は正しいものではない、それと反対に、善人が悪人を司配する代わりに、悪人が善人を司配する、そしてそこには決して暴力を征服し得ない暴力以外に、悪を排除し得る今一つの方法がある、故に暴力は決して終熄しないと言うのは間違いである。暴力は漸次消滅し又疑いもなく消滅しなければならぬ筈である、それはある現存の秩序の弁護者が考えるように、国家の暴力に服従している人々が政府の感化の下に(その感化はただ彼等をして益々悪くするだけである)、漸次に善良になった為めにではなくして、すべての人々が漸次善良になりゆく傾向にある、そしてそれが為めに権力を握っていた最悪の人間すら、漸次悪さの程合いを減じてそして最後には暴力を行使する事が出来ない位にまで善良になるであろうがためである。
人類の進歩は(保守主義者や革命主義者の考えているように)社会の最良の者が権力を手に入れるや、彼等の権威の下に隷属する人々に向かって暴力を使う、そしてそれを手段として彼等を改造したり改良するが故になしとげられるものでない。その進歩は先ず第一、そして何よりも先に、すべての人々が漸次絶え間なく、絶えず増大して行く良き意識をもって、キリスト教の人生観を採用し、第二に人々が彼等の肉体上の意識的の活動とは独立に、ある種の人間によって権力が専奪されて、それが又他の者によって代わられると言う結果として、無意識的に又意志なくして、一層キリスト教的人生観に改宗するが故になされる。社会の最悪の者は権威を掌握するや否や、常に権力の一属性であるところの真面目な影響の下に、漸次悪さと残酷さの程合いを減じる、そして漸次最極端な形の暴力を行使する事が出来なくなって行く。その結果として彼等はその地位を他の者に譲る、そしてその者もまた再びそれと同じ浄化とキリスト教への無意識的な改宗の過程を踏ませられる。
人間の出来事の中には、沸騰の過程と類似の過程がある。非キリスト教的人生観を持つ者はすべて権力を求め又それを求めるために争闘する。その争闘のうちに、社会の最も残忍な粗大な非キリスト教的の要素が、もっと優良な正しいキリスト教的な要素を征服する、そして彼等の暴力のために社会の上流階級に昇る。やがて彼等の上にキリストの予言が果たされる、彼は言った、『富める者は悲しむ可き哉! 満てる者は悲しむ可き哉! 万人に賞讃さるる者は悲しむ可き哉!』と。権力を獲得し権力の結果――名誉と富――を所有する人々は、彼等の抱いて来た多くの目的の意義を悟り、すべての者の空しい事を発見する、そして彼等の足を踏み出したその元の狀態に立ち戻る。チャーレス五世、ジョン四世、及びアレキサンダァ一世は、権力の虚しさとその罪悪なのを悟って、それを放棄した、何故ならば彼等はそれが非常な罪悪であると知ったが故に、暴力を行使し、又は以前彼らが考えたようにそれが正しい又合法的なものであると続いて考える事が出来なくなったからである。
しかしチャーレスやアレキサンダァのように、独り君主だけが、この経験を味わい権力の空しさと罪深さとを認めたのではない、自分が得ようとして努力したその目的を達した者は皆、同じ無意識的な浄化と柔化とを蒙るものである、大臣や將軍や百万長者や富豪だけではない、過去十年間もかかって得ようと努力して来たその地位を得た官吏や、一千あるいは二千ルーブルを貯蓄した百姓もすべてそうである。
単に個人許りでない、全国民、全社会もこの過程を通過する。
権力の魅力及びそれが与える一切の魅力――富、名誉、奢多――は、それらが獲得されない間は、人間の努力に値いする目的のように思われるものである。これらのものを人々が手に入れるや否や、それ等は、丁度遠くから見て美しく又形良く見えた雲が、それに人が包まれるや否やその立派な美しさをすっかり消失するのと同じように、その空虚を現わし出して、その魅力と人を惹く力とを失ってしまう。
富と権力とを得た人々、それ等のものを得ようとして努力した人々、そして尚依然としてしばしば見受けるかような人々の後継者は、権力を得る事に非常にあくせくしたり、その獲得に際して残忍な事をする事を止めてしまう。
経験に依り、又はキリスト教の教えの感化の下に、暴力の招来するものの全然空虚なのを知って、人々は、一時代又は数時代と経過する間に、しばしば富と権力とを渇仰するところから生れる悪徳を放棄してしまう事がある、漸次残忍な事が少なくなって、彼等は自らの地位と権威とを捨てる、そして他のもっとキリスト教徒でない悪い人間が、その後釜に座る。彼等は勢い、社会上の標準から見ると低いが、道徳の上においては高い階級に、かくのごとく人類のキリスト教的意識の一般標準を拡大しながら復帰して行く。しかし彼は直ちに社会の最も悪くて残忍な、そして最も非キリスト教的な人々にその地位を譲る。そして彼等もまた社会の高い地位に上って、一時代数時代と経つに従って、彼等に先立った者と同じ過程を通って、暴力の招来するものの空しさを認めるようになる。かようにキリスト教の精神を心に深く感じながら彼等は被圧制者の地位に戻る、そして再び他の以前の者よりは左程に残酷でない、しかし彼等の圧迫する者よりは残酷である暴力家が、その後を襲う。かようにして権力は、その外形においては依然として同一のものであるけれども、しかも権威を掌握する人々が変わる度毎に、生活の経験上、キリスト教の人生観を採用せざるを得ない人々が増加して行く。統治者の変わる度毎に、権力を掌握するに至った人々は、社会の内では最もキリスト教徒である事が少なく、又最も野蛮的な残酷な人々であるとは言え、しかも彼等に先立った者に比べると、一層キリスト教徒であり、又残酷であり野蛮的である度合も僅少である。
権力は社会の最悪要素を選択且つ誘引する、それは彼等を型に入れ、改造し、柔化し浄化して、 それから再び社会に送り返す。これがキリスト教の――人類の進歩を阻害するところの暴力を政府が行うのにも拘らず――兎に角人々の心を完全に捉える過程である。キリスト教は、政府によって行使される暴力に関しない許りでなく、むしろその働きによって、人々の意識のなかに滲入して行く。
故にもしも権力が廃除されるならば、悪人は善人を自由に支配するに至るであろうとする、現在の国家組織の弁護の断定は、少しもこの悪人の優越権を得る事が危険である証拠とならない、何故なれば、それは既に存在しているところのものに過ぎないから、反対にその断定は、悪人をして善人を圧迫する事を得せしめる国家の暴力は、それだけでも非常に悪いものであって、廃除せらるべきものであり、又絶えず生活そのものによって破壊されつつあるものである。
『例えもしも全ての権威者が自ら進んでその権力を放棄して、遂にその後釜に据るべき人が見出し得ない位にまで、キリスト教に深く感化される時、初めて国家の暴力が廃除されるに至るであろうとしても、又もしもこの過程が今や進行しているとしても、果たしてこれは何時成就するのであるか?』と現在の秩序を擁護する人々が訊ねる。『1900年も既に経過していながら、人の上に立とうとする者が多くて服従しようとする者が少ない以上、確かにそれが成就される事があるとしても、この変化がやがて間もなく起りそうにも見えない。
『例え現在、すべての時代を通じてあったように、権力を掌握する事を欲しなくてそれを放棄する人々があるとしても、尚服従よりも権威を選ぶ多数者の数が非常に多くて、それがなくなる時を想像するのは困難な位である。』
『このキリスト教の家庭がすべての人々を抱擁しえて、すべての者が異教徒からキリスト教的人生観に改宗し、自ら進んで富と権力とを棄ててそれを得ようとする努力を止めるためには、それらすべての残酷な半ば野蛮的な、全然キリスト教の教えを採用し且つそれに従う事の出来ない人々――これらの人々のある数は、常に各社会に見出されるものである――が、キリスト教の精神に改宗する必要がある、そしてこの同じ改宗は又、今尚数多きすべての野蛮人と非キリスト教的な人々の間においてなし遂げられなければならない。故にもしも我等が、そのキリスト教化の過程が全人類を抱擁すると仮定しても、我等は確かにこの1900年間の進歩の割合を考慮に入れて、それはただ1900年を数倍した期間のうちにのみ成し遂げられるものである事を容認しなければならない。故に現在明らかに実現し難い国家の権力の廃除について考える事は、無益な事でもあり、又無用な事でもある、我等のただ一つの義務は、その権力を最も善良なる者の手に置くように心掛けるにあるのみである。』
現在の秩序を弁護する者等は、こう論ずる。彼等の議論は、もしも人々の一つの人生観から他への推移が、ただ一つの過程によってのみ成し遂げられるものであるならば、即ち、各個人は交る々々個人的経験によって権力の空しい事を悟り、霊的な直覚によってキリスト教を採用すべきものであるならば、正しいものでもあろう。この過程は絶えず行われている、そしてそれによって人々は一人々々、キリスト教に改宗せしめられつつある。
しかしこの内的な過程の外に、人々が改宗させられ、且つその推移の速度を促進せしめる今一つの外的な過程がある。
人々の一つの生活様式から他のものへの改宗は、砂時計の中を砂粒が一粒宛徐々に最初のものから最後のものまで落ちるようにして、成し遂げられる許りでなく、むしろ水の中に沈む器の中に入る水のようにしても成し遂げられるものである。最初まず水は徐々に一方の側から入り込む、それから器は中に入った水の重みで突然沈下する、そして瞬く間に水が全くその中に一杯になってしまう。
これと同じ事は、人間社会においても一つの人生観から他へ、又それから結果する一つの組織から他へ推移するに際しても起こる。まず最初人々が徐々に又漸次に一人宛、内部の霊的な過程によって新しい真理を採用する、そしてそれを生活に実行する、しかし伝播の或時期に際しては、その真理は全ての人々に、直覚によってでもなく又順序立ってでもなく一度に、又ほとんど我知らず承認される。
故に現在の秩序の弁護者の論議、即ち1900年間に極く少数の人のみしかキリスト教を採用しなかった故に、残りのすべての人類は、略数千年以内には改宗しないであろうとするのは間違いである。それは違っている、何故ならばその論議は、内部の直覚的な過程以外に、人々が新しい真理を同化して、一つの生活様式から他に推移すべき今一つの過程を考慮の外に逸しているからである。この今一つの過程とは次の通りである。――
人々が真理を容認するのは、預言者的の直覚即ち個人的経験によって人々がそれを明らかにするため許りではなく、又その真理の伝播の或時期において、進歩の低いレベルの上に立つ人々が、既でにそれを直覚的に容認して実行に移した人々を信頼して一度にそれを容認するが故である。
人間生活の様式を変え、且つ人類の進歩に資するところある新しい真理は、いずれも先ず最初は極く少数の人々によって採用される許りであって、彼等はそれを内的意識によって是認する。其の他の残りの人類は、現在の秩序の基礎をなしている以前の真理を信頼して、常に新しい真理の伝播を沮害する。
けれども先ず第一、人類は固定的なものではない、それは常に進歩している、常により明瞭な真理の知識を得て、実生活のうちに漸次その近くに近づきつつある、第二に、すべての人々は、その年齢、境遇及び教育に応じて、先ず新しく示された真理を一番よく直覚によって分り易い人によって、一番分り難い人に至るまで、色んな階級に排列される。内部の霊的な過程によって新しい真理を採用した人々に一番近い人々は、初めの間は徐々に一人々々、それからだんだんと短い時間のうちに、その新しい真理の方に移り変わって行く、そして遂には、漸次それを是認する人々の数が増加して行く、そしてその結果真理それ自身が、益々明瞭にその姿を現して行く。
真理を採用する人々の数が増えるに従い、又それは益々明瞭に解釈されるに従って、低い意識のレベルに立つ人々の依頼の念も固くなり、又それを理解し易くなって、一層速やかに彼等はそれを採用するようになる。かくのごとくして進歩は一層速やかになり又一層包括的になって行って、次に新しい真理と一致した新しい与論が形成される、そして人類の全集団は、その与論の圧力の下で、別々に一人々々ではなくして皆な一緒にその新しい真理に改宗させられる、そして新しい生活様式が、その真理に相応して確立される。
新しい真理を採用した人々は、それがある程度まで論破されるや否や常に、集団としてそれを採用するものである、そして彼等は平均と正しい方向とを失わぬようにと積まれた船の底荷のようなものである。その底荷がないならば、船は充分水に沈む事が出来ないし、又周囲の模様の変わる度毎に、その進路が乱されるであろう。初めの間は不要な、船の運動の妨げとなるものと思われていたこの底荷は、しかもその正しい運行の一狀件をなしている。
これは人類の多数においても同様である、それは単独にではなくして集合して、一つの新しい与論の影響の下に、生活の一組織から他の組織に移り変わる。この集団は彼等の惰性によって、一つの生活様式から他の様式への一切の急激な頻繁な推移を――人智によって証明し得られない所の――妨げる、そして生活争闘の経験によって証明され、人間意識によって同化された一切の真理を、根強く固持する。
故にこの十九世紀間に人類の極小部分のみがキリスト教の真理を採用した以上は、全人類はそれを容認するまでには多くの、多くの世紀を経過しなければならぬ、即ち時の来るのは非常に遠い事であるから、今日生きている我等はそれについて考える必要がないと論ずる事は間違いである。それは間違いである。何故ならば現在の制度の弁護者が考えてもってキリスト教的生活様式の実現の障害となるものとしているところの、彼の進歩の低いレベルに立っている諸国民や諸処の個人――これらの人々は、常に一団となって一斉に、ひとたび与論の採用するところとなった真理に移り変わるものであるからである。
故に人間生活内の変化、その変化によって権力者が権力を放棄し、それに服従していた者も最早やそれを望まなくなる――この変化は、ただすべての人々が、最後の一人に到るまで、一人々々、意識的にキリスト教人生観を消化した時に成し遂げられるだけのものではない、それは又主として、すべての人々に分かり易い、直覚によって真理を消化する事の出来ず従って又、常に与論に動かされ勝ちの自動力ない人類の全部を打ち従える、一個の明白な確固としたキリスト教的与論を形成する事によって、成遂げられるであろう。
この様な与論は、伝染性を持って作用し、又一時に非常な速度をもって群衆を把握するものであるが故に、それが形成され且つ成長するためには、数百年、数千年と言う年月を必要としない。『もしも仮に』と現在の制度の弁護者が言う、『或程度の力を得、鮮明になった与論が、キリスト教社会の間に見受け野獣的な腐敗した人々と同様人類の自動力のない集団及び非キリスト教国民を、打ち従える力を有するものとしても――我等がこのキリスト教的与論が生まれ、且つ国家の暴力を置き換えるべき力を有する事を知るべき、その兆候とも言うべきものは何であるか?』
『我等は現在制度の維持である暴力を廃除して、空漠たる得体の知れぬ与論の力に頼るような危険を冒す事、即ちかようにして社会の内外のすべての野蛮人をして、何の障害もなしにすべてのキリスト教徒を殺害したり掠奪したり、または凌辱する余地を与える事が出来ない。』
『たとえ権力の助けをもってしても、我等は常に我等を転覆せしめ、又キリスト教的開化の一切の成果を破壊しようと待ち設けている非キリスト教的な要素を抑圧する事に、成功しないでいる。然る時に果たして与論がひとたび権力の代りとなって、我等を充分保護する少しの見込みでもあるであろうか、もしあるとするならば、どうして自分達は与論が国家の権威に変わるに充分な位有力になる時を知るべきであるか? 権力を廃除して我等の保護を与論に委ねるような事は、あたかも武器を投げ棄てて、檻の中に入れ赤熱の鉄で脅かされる時温和らしく見えるところに信頼して、動物園の獅子や虎を解放するのと同じく狂気じみたことであろう。』
『権力を掌握する人々は神により、又は運命によって、その権威者の位地に置かされるのである。そして彼らは単にこの実験――与論が権威者の保護の代わりとなる事が出来るかどうか――を試みる快楽のために、文明の成果を破壊してしまう危険を冒す権利を有しない。従って彼等は暴力を廃除する事が出来ない。』
今は忘れられているフランスの作家、アルフォンソ・カアルは、重大なる刑罰を廃止する事の責任を明らかにしようと欲して、『まず諸殺人者たちより実例を作らしめよ!』と言った。私はこの言いぶんが、しばしば重大な刑罰の廃止に反対してなされた賢明な信念の深い議論であると考える人々によって引用されるのを聞いた。
第十章 キリスト教と国家
真の意味に於けるキリスト教は国家を破壊する。その事は最初の間から分っていた――イエスの十字架に磔けられたのもそのためである――そしてその事は、キリスト教国家の存在の可否について考える必要に拘束されない人々の常に、そう理解して来たところである。人々がキリスト教と国家とが妥協するような馬鹿げた滑稽な学説を発明し出したのは、実に統治者が外的な形式的なキリスト教を採用し出した時以来である。しかし考え深い真面目な現代の人々は誰しも、真のキリスト教――愛と謙譲と罪の許しとの教え――と国家の、その豪奢と暴力と懲罰と戦争との、相容れない事の自明なのを見ざるわけには行かない。真のキリスト教を信奉する事は、国家を容認する可能性を持っていないのみならず、その基礎を破壊するものである。
もしもそれが事実であるならば、又もしもキリスト教が本当に国家と相容れないとするならば、疑問は自然に起こって来る、即ち人類の幸福の為めにより以上になくてはならないもの、又その幸福を保証するに足るものは一体なんであるか――国家と言う生活様式か、又はそれを破壊してそれに代えうるにキリスト教をもってするのであるか?
ある人は国家は人類に取って必要欠くべからざるものである、即ち国家の破壊は人間の知識と進歩との破壊を醸し出す、即ち国家は人類進化のただ一つの形式であり又常にそうである、故に国家の形式の下に生活している諸国民通有の罪悪は、国家と言う組織に起因するものではなくして、国家そのものの組織を破壊する事なくしても改善し得る欠点と弊害とに因るものであると説く人がある。彼等は国家の組織を破壊する事なくしても、人類はその最高安全の域に達する事が出来ると推論する。これらの諸説の証左として、これらの人々は、弁駁の予地ないと見える哲学上、歴史上、並びに宗教上の議論をも引用する。しかしまた他にはそれと反対の説を抱く人々がある、即ち国家と言う生活様式は一時的のものに過ぎない、何となれば、既でに国家の組織なくして人類が存在していた時代があったから、又人類が新しい生活様式を必要とする時代が到来するであろう、そしてその時代は既でに到来していると説く。かように考える人々もまた、同じく弁駁の予地ないと見える哲学上、歴史上、及び宗教上の議論を、自己見解の助けとして引用する。
おそらく数巻の書籍が、第一の諸説の弁護の為めに書かれるであろう(そして既でにそれは遥か以前に書かれ、又依然として書かれている)、しかしそれより多くの書籍がそれに反対して書かれるであろう――そしてそれは最近になり書かれ又非常に巧みに書かれている。国家の弁護者の推論するところに拠れば――国家の破壊が一般的の混乱、掠奪、殺戮、一切の社会的施設の消滅及び人類の奴隷狀態への復帰を醸し出すであろうと言うがその事は証明するに不可能な事である、又同じく――国家の敵の推論するごとく人々が互いに殺したり盗み合ったりする事を欲しない位に、理性的になり、又善良になった、即ち敵意よりも平和なる交情を欲し、又国家の助けなくして、彼等の欲するすべての事を確立する事が出来ると言う事、又それが故に国家は人類の進歩と幸福とを増進する代わりに、保護と防護との名目の下に、有害にして不道徳な力を振るうものであると言う事も、証明する事が出来ない。そのいずれの提案も、抽象的な論議によっては証明する事が出来ない。それが経験によって証明される事は、尚更不可能な事である、何故なれば、問題それ自身が、実験することが望ましい事か又はそうでないかと言う事であるから。
国家の存在を排除する時代が、到来したか否かと言う疑問は、明らかな解答となるべき今一つの実際上の手段が存在しない以上は、解決する事が出来ない。
若い巣の中の鳥が、自分の殻を破るに充分な位大きくなって、彼等の親鳥なくしてもやって行けるかどうかと言う疑問は、全く何等の鑑定にも及ばず、その鳥自身によって、解決される事柄である。その鳥が殻の割には余りに大きくなって、自分の嘴でそれを破り始めるや否や、その場合の絶対的の処断者となる。
国家と言う生活様式を削除して、それに代えうるに新しい様式を持ってする時代が、人々に到来したか否かと言う問題も、これと同じである。もしも人々の高い意識が発達して、最早や国家の要求を果たす事もなくなり、又その種の生活様式を時代遅れのものとして、最早やその保護を無用とする位にまでになったのならば――人々が充分国家を無用視する位にまで発達したか否かと言う疑問は、全く別な論点から解決されるわけである。それは国家を追い越して了って、如何なる事があろうと再びそれに服従する事を強いられない人々によって、決然と解答される事である――それはあたかもその殻を破って出て、最早や如何なる力をもってしても、再びその中に入る事を強いられない雛によって、解答されるようなものである。
『自分は国家は必要なものであったし、又尚君達がそれに附与する目的の為めに、必要なものであろう。』とキリスト教人生観を抱いている人が言う。『自分はただ、最早やそれの必要のない事だけを知っている。又自分は同じくその維持に必要な行爲をする事が出来ないのは知っている。君達は、君達の最善と思う通りに、君達の生活を組織する事は、自由である、自分は抽象的に、国家の必要あるいは有害を共に説明する事が出来ない、自分はただ自分の必要とするものと必要としないもの、する事の出来るものと出来ないものとを知っている許りである。自分は自分一個人として、他国の人々と相分離し合う必要のないのを知っている、故に自分は一国民又は一国家に従属し、あるいは一政府に隷属するものであるとする事が出来ない。自分は一個人として、政府の組織するすべての施設の必要のないことを知っている、故に自分は、自分の労働から獲る貧しい結果を、自分が必要ともしなければむしろ有害と考えている施設を維持するに、税金の形でもそれを放棄して奪われる事が出来ない。私は暴力によって組織された司法官も裁判所も必要のない事を知っている、故に自分はそのいずれにも加わる事が出来ない。自分は他国民を攻撃したり惨殺したりする事も、又は武力によって彼等の攻撃を防ぐ必要もない事を知っている、故に私は戦争に参加する事も戦備に関わる事も出来ない。』
『多分世の中には、こうしたすべての事柄が必要であり、又なくてはならないものであると考える人もあるかもしれない、だが私は彼等に賛成する事が出来ない、ただ私に関係ある事だけしか自分は知らぬ、しかし私は一点の疑惑もなしに、自分はこれらの事柄を必要ともしなければ又それに参与出来ないと言う事を知っている。』
『これは私の個人我の点においての個人的な願望の結果ではない、それは私をこの世に送り、私に私の一生を通じて導くべき正確な一法則を与えた「彼」の意志であるからである。』
国家を排除する事は、有害で、又多くの災禍を誘引するであろうと言う事を証明せんためには、どんな議論でも引用する事は出来よう、しかし国家と言う生活様式以上に成長した人々は、最早やどうしても、その生活内に止まっている事が出来ない。如何なる議論がその必要を証明するために提出されようとも、国家と言う儀式を追い越してしまった人は、最早やそれに戻る事が出来ない、彼は丁度雛鳥が自分の脱ぎ捨てた殻に戻る事が出来ないと同じ様に、彼の意識の否とする行爲に交わる事が出来ない。
『しかし仮にそれは事実だとしても』、と現制度の弁護者は言う、『国家の排除はただ、すべての人々がキリスト教徒となった時においてのみ、出来得る事であり、又喜ばしき事である。それまでは――そしてキリスト教徒と自稱している人々の間に、多くのキリスト教徒でない人々の居る限りは――悪しき人々、彼等は自分の欲望を充たすために、自らの同胞を害することを求めている――国家の暴力を排除する事は、人類のその残り分の者に取っては恩恵であるであろうが、しかしそれはただ彼らの悲惨を増やす許りに過ぎない。もしも仮に大多数がキリスト教徒である許りでなく、又国民の全部がキリスト教徒であるとしても、それの周囲の国民中に非キリスト教国民のある間は、国家と言う生活様式の排除は望ましい事ではない、何故なれば、その時後者はそのキリスト教の隣国を侵略し惨殺し、又何等の害も受けることなしに、あらゆる種類の暴行を彼等に加え、もって彼等の生活を殉難とするであろうから。邪悪なる者は何等の害も受ける事なしに、正しい者を圧迫し迫害するであろう。故に国家は一切の悪人と人間の犠牲獣とがこの世の中からなくならない限り、排除する事は出来ない、しかしこれはほんの暫くの間ではないであろう――又例え何日かそれが可能であるとしても――故に個人としてのキリスト教徒が、国家の権力から自由になろうと企てているけれども、矢張りその権力は人類の多数のために保存されねばならない。』かように国家の弁護者が言う。『もしも国家がないならば、悪人は正しき者を圧迫する、そして彼等に有らゆる暴力を加えるであろう。国家の権力のみがただ独り正しき者をして悪しき者を制禦し得しめる者である。』
かような論議を主張するに際して、現制度の弁護者は、彼等の証明せんとするその提言の真理なる事を容認している。彼等がもしも国家が存在しないならば、悪しき者は正しき者を圧迫するであろうと言う時、彼等は現在権力を握っている者は正しい人で、服従しているのが悪人であると言う事は自明の事としている。しかしそれは正に証明を必要とする提言である。それはもしも我等の世界が支那に似るような事でもあれば正しい事ででもあろう、そこでは――実際においてはそんな事は決して起こらなかったけれど――権力は常に最善の者の手に置かれる、故に、もしも国家の統治者がその臣民よりも徳が低いと言う事が分かったならば、それらを顚覆するのが後者の務めとなって来る。これは支那において事情常にこうでなければならぬと推論された事である。しかしその規定はかつて一度も実現されなかったし又実現されない、何故ならば罪深き政府の暴力を排除するには、人は正義と同時に権力を持たねばならないから。これは支那においてすら一つの推説に過ぎなかった、しかし我等のキリスト教国においては、かかる観念は一瞬間たりとも抱かれた事がなかった。我等は我等の世界においては、権力は権威を横奪して彼等自らのため又子孫のために暴力をもってそれを維持しようとする者等の手の中にあるよりも、最善の又最も有徳な人の手にあるべきものであると言う事を、推論する少しの理由すら持っていない。しかし権力はどうあっても、有徳の人によって専横され又維持される事は出来ない。
権力を獲得してそれを支持するためには、人は権力を愛さなければならない、そして権力の愛は善心とは結合はせずして反対の高慢心、二心(ふたごころ)及び残忍な心と結び合うものである。
自己を高め他をおしのける事なくしては、虚僞と僞善とがなくしては、牢獄や堡壘、死刑や虐殺なくしては、如何なる権力も生ぜず又持続されない。
『もしも国家が排除されねばならぬのならば、より一層の悪人が悪の程度の低い人間への優越権を得るに至るであろう。』と国家組織の弁護者が言う。しかしもしもエジプト人がヘブライ人を征服しペルシャ人がエジプト人をマセドニア人がペルシャ人を、ローマ人がギリシャ人を諸蛮族がローマ人を制服した以上、それは征服者が常に被征服者よりもより善良であった事を意味するものであろうか? 一個人から他の個人への国家の権威の推移においてもまたそうである、権威は常により善き人々の手中に移って行ったであろうか? ルイ16世が死刑に処せられた、そしてロペスピィルが、又後になってナポレオンが彼の後を襲った、その権力を掌握した者は、より善良なものであったろうか、又より凶悪な人間であったであろうか? 誰がより善き人間であったのであるか、共産主義者であったか、あるいはベルサイユ宮殿の貴族主義者であったか、チャールス一世かあるいはクロムエルであるか? ペテロ三世であるか、あるいは彼の弑虐後ブガチョフがロシアの一部分を統べ自分は他の部分を統治したかのカタリイナであるか? 誰がその時権威を掌握していたか、善人であるか、悪人であるか? 権力を握っているすべての人々は、彼等の権威は、悪人が有徳者を圧迫する事を阻止するために必要であると、暗に自分はそれがために他の有徳者を悪人から保護する最も有徳なものであるように仄めかしながら公言する。しかし権力を握る事は暴力を行うことである、暴力を行う事は、その暴力を加えられるものの欲しない、又その加害者が今度は自分にそれが加えられるときっと不服を言うに違いないところのものをする事である。故に権力を所有すると言う事は、我等のされたくない事――即ち悪を、他人に仕向けると言う事を意味する。
服従とは、暴力よりも忍耐を選ぶと言う事である。暴力よりも忍耐を選ぶと言う事は、有徳であると言う事、あるいは少なくとも、自ら欲しない事を他に施す輩よりも悪くはないと言う事を意味する。
故に全ての蓋然性はこうである、即ち現在においては又過去の時代に於けると同じように、権威を所有する者等は、彼等が統治するその人々よりも善良ではなくてより悪くなければならぬと言う事である。確かに権威に服従する者の間には又、悪人はいるであろう、しかしより有徳の者がより悪徳の者を統治すると言うような事は、あり得ない事である。
かような推定は、異教徒の時代――悪について不正確の定義を持っていた異教徒――においてすらも抱かれる事は稀であった、しかしキリスト教によって与えられた善悪に関する明白な又正確な定義をもってしては、左様な事は気付く事すら出来ない。もしも異教の世界において、幾分善であり又悪である者の区別を明らかになし得なかったにしても、キリスト教人生観は徳と悪心との区別を、最早やその混同が出来ない位にまで明らかにした。キリスト教に依ると、善人とは服従し忍耐強く苦しむ人の事である。彼は暴力によって悪に抗しない、恥しめを許し、又自らの敵を愛する。悪人とは自らを高め、権力を求め、戦い、暴力を犯す人の事である。故にキリストの教えに依ると、統禦し服従する人々の間の善人悪人の位地について疑いを挿しはさむ予地がない。権力と権威とを持つものとしてキリスト教徒の事を語るのは、愚かな事でさえもある。
非キリスト教徒は――即ちそれ等に取っては生活とは世間的な事物の獲得である――常に、その生活が世間的な幸福の放棄であるところのキリスト教徒を統禦するに違いない。
それは常にそうであり、又キリスト教の教えの神の注解が増加し又普遍するに応じて、漸次一層明白なものとなって来ている。
真のキリスト教がより広く広まり又より深くそれが人々の心に滲み込むに従って、キリスト教徒の支配者階級に隷属する事が益々不可能となって行く、そして非キリスト教徒が彼らの上に立つ事が益々容易になって行く。
『その各員すべてが真のキリスト教徒でない社会において、国家の暴力を排除する事は、ただ悪人に有徳者の上に立って、楽に彼等を冷遇する可能性を与えるに過ぎない。』と国家と言う生活様式の弁護者が言う。
事情常にその通りであったし、又どうしてもそれ以外のものではあり得ない。それは世界の初からそうであったし、又現在においてもそうである。悪人が常に善人を支配する、そして常に彼らに暴力を加える。カインはアベルに暴力を行った、狡猾なヤコブは信頼すべきエサウに我ままを振舞った、そして彼自身が又彼を僞ったラバンに支配された、カイフフスとピラトはイエスを迫害した、ローマの諸皇帝はセネカ、エピクテタス、及びその他当時の有徳な人々を統治した、ジョン四世はその近衛兵と共に、傲毒で大酒飲のペテロ三世は彼の道化役者と共に、売女カタリナはその情夫等と共に、当時の勤勉な有徳にして神を恐れるロシア人を統禦して、あらゆる種類の暴力を加えた。ウヰリアム二世はドイツ国を統治し、スタンブウロフはブルガリア人を、そしてロシアの官吏等はロシア人を統治している。オーストリア人はイタリア人を統べた、そして今は彼等はハンガリー人とスラブ人とを統べている、トルコ人はギリシャ人及びスラヴ人を、英国人はヒンドウ及び蒙古、支那人を統べている。
故に国家の虐政が排除されようとされまいと、善良な、悪人によって圧迫され蹂躙されている人々の境遇には変わりがないわけである。
悪人が善人を圧迫するであろうと稱して人々を恐れる事は不要な事である、何故なれば事情が常にそうであったし、又今でもそうである、そして又そうであるより以外に方法がないからである。
人類の異教徒の歴史の全部は、程合いの強い悪人が程合いの低い悪人の上に権力を振るい、その得たる権力をあらゆる種類の虚僞と残忍とをもって維持し、且つ自らを正義の擁護者であり、又悪心の者に対して善なるものの味方であると宣明して正しい者の上に立ったその色々な行爲の物語である。歴史上の一切の変更と革命は、悪人によってなされる権力の簒奪と正しき者への横暴とであるに過ぎない。もしも権力を掌握している人々が、彼等の如き権威者がなければ、悪人は善人を圧迫するに決まっていると言うのならば、その彼等の真に意味するところのものは、現在権力を掌握している圧制家か、彼等からその権力を簒奪しようとしている他の圧政家にその権力を譲り渡したくないと言う事である。彼等はただ、彼等の権力即ち暴力は、現在乃至未来の虐政及び他人の圧迫から、人々を擁護するに必要であると口にして、自らその非を示しているに過ぎない。
暴力の行使は危険である、何故なれば自己の圧政を弁護するために暴力家の引用する一切の論説は又もって彼等に対して、それと同様の又それよりもより正当な抗議のためにも使用され得るからである。彼等は現在の、又しばしばより以上に未来の空想上の暴力を口にして、自身では絶えず休みなしに実際上の暴力を演じている。『汝は、人々は前代において殺人強奪を事としていたと言う、そしてもしも汝の権力が排除されるならば、すべての人々は殺され掠奪されるであろうとおそれている。それは起こるかも知れぬし、又起らないかも知れぬ事柄である、しかし汝が汝の牢獄、囚舟、砲台及び追放で数千人の命を落とさせていると言う事実、及び家族の者等を数万人と破滅せしめ、徴兵制度によって何万人と言う人を肉体上並びに道徳上の頽廃に送り込んでいると言う事実――それは空想上の暴力でなくして実際上の暴力である、そしてそれは汝の論法に依ればそれと等しい暴力によって抑止せしむべきものである。故に汝の諸説に依ると、人が暴力によって自らを守る必要のあるその悪人は結局汝自身である。』かように被圧迫者は暴力の専断者に答えるべきである。そして非キリスト教徒が常に考え、語り、且つ行って来たのも、実にかう言う風にであった。もしも被圧制者が圧制者よりも悪人であるならば、彼等は彼等を攻撃して転覆する、都合よき条件の下で彼等は成功する、あるいはもっとしばしば彼らは圧制者の階級に入る、そして暴行にたずさわる。
かようにして政府の弁護者が示してもって人類を脅す危険、即ちもしも国家の権威が排除するならば、悪人は善人を圧迫するに至るであろうと言う事は、絶えず人類の生活のうちに行われている既存の事実である、故に国家の暴力を抑制する事は、必ずしも正しき者に対する悪人の圧迫を増加する事とはならない。
もしも国家の暴力が排除されたとしても 、多分尚依然として暴行は、以前それを被っていたものによってなされるであろう、しかし暴力の総量は、一集団の手から他の人々の手に暴力が移って行ったとて別に増えると言うわけがない。
『国家の権力は、社会の悪人がすべて抑制された時にのみ、排除する事が出来る。』と現在の制度の弁護者は、それをもって世の中に悪人がいる限り、暴力の終わる時もないと言う事を仄めかして言う。これはもしも今一つの提言、即ち権力の掌握者が常に善人であって、悪より解放されるただ一つの手段は暴力であると言う事が正しいならば正しいことででもあろう。そのようでは、確かに、暴力は決して排除される時はないであろう。しかしこれらの推論は正しいものではない、それと反対に、善人が悪人を司配する代わりに、悪人が善人を司配する、そしてそこには決して暴力を征服し得ない暴力以外に、悪を排除し得る今一つの方法がある、故に暴力は決して終熄しないと言うのは間違いである。暴力は漸次消滅し又疑いもなく消滅しなければならぬ筈である、それはある現存の秩序の弁護者が考えるように、国家の暴力に服従している人々が政府の感化の下に(その感化はただ彼等をして益々悪くするだけである)、漸次に善良になった為めにではなくして、すべての人々が漸次善良になりゆく傾向にある、そしてそれが為めに権力を握っていた最悪の人間すら、漸次悪さの程合いを減じてそして最後には暴力を行使する事が出来ない位にまで善良になるであろうがためである。
人類の進歩は(保守主義者や革命主義者の考えているように)社会の最良の者が権力を手に入れるや、彼等の権威の下に隷属する人々に向かって暴力を使う、そしてそれを手段として彼等を改造したり改良するが故になしとげられるものでない。その進歩は先ず第一、そして何よりも先に、すべての人々が漸次絶え間なく、絶えず増大して行く良き意識をもって、キリスト教の人生観を採用し、第二に人々が彼等の肉体上の意識的の活動とは独立に、ある種の人間によって権力が専奪されて、それが又他の者によって代わられると言う結果として、無意識的に又意志なくして、一層キリスト教的人生観に改宗するが故になされる。社会の最悪の者は権威を掌握するや否や、常に権力の一属性であるところの真面目な影響の下に、漸次悪さと残酷さの程合いを減じる、そして漸次最極端な形の暴力を行使する事が出来なくなって行く。その結果として彼等はその地位を他の者に譲る、そしてその者もまた再びそれと同じ浄化とキリスト教への無意識的な改宗の過程を踏ませられる。
人間の出来事の中には、沸騰の過程と類似の過程がある。非キリスト教的人生観を持つ者はすべて権力を求め又それを求めるために争闘する。その争闘のうちに、社会の最も残忍な粗大な非キリスト教的の要素が、もっと優良な正しいキリスト教的な要素を征服する、そして彼等の暴力のために社会の上流階級に昇る。やがて彼等の上にキリストの予言が果たされる、彼は言った、『富める者は悲しむ可き哉! 満てる者は悲しむ可き哉! 万人に賞讃さるる者は悲しむ可き哉!』と。権力を獲得し権力の結果――名誉と富――を所有する人々は、彼等の抱いて来た多くの目的の意義を悟り、すべての者の空しい事を発見する、そして彼等の足を踏み出したその元の狀態に立ち戻る。チャーレス五世、ジョン四世、及びアレキサンダァ一世は、権力の虚しさとその罪悪なのを悟って、それを放棄した、何故ならば彼等はそれが非常な罪悪であると知ったが故に、暴力を行使し、又は以前彼らが考えたようにそれが正しい又合法的なものであると続いて考える事が出来なくなったからである。
しかしチャーレスやアレキサンダァのように、独り君主だけが、この経験を味わい権力の空しさと罪深さとを認めたのではない、自分が得ようとして努力したその目的を達した者は皆、同じ無意識的な浄化と柔化とを蒙るものである、大臣や將軍や百万長者や富豪だけではない、過去十年間もかかって得ようと努力して来たその地位を得た官吏や、一千あるいは二千ルーブルを貯蓄した百姓もすべてそうである。
単に個人許りでない、全国民、全社会もこの過程を通過する。
権力の魅力及びそれが与える一切の魅力――富、名誉、奢多――は、それらが獲得されない間は、人間の努力に値いする目的のように思われるものである。これらのものを人々が手に入れるや否や、それ等は、丁度遠くから見て美しく又形良く見えた雲が、それに人が包まれるや否やその立派な美しさをすっかり消失するのと同じように、その空虚を現わし出して、その魅力と人を惹く力とを失ってしまう。
富と権力とを得た人々、それ等のものを得ようとして努力した人々、そして尚依然としてしばしば見受けるかような人々の後継者は、権力を得る事に非常にあくせくしたり、その獲得に際して残忍な事をする事を止めてしまう。
経験に依り、又はキリスト教の教えの感化の下に、暴力の招来するものの全然空虚なのを知って、人々は、一時代又は数時代と経過する間に、しばしば富と権力とを渇仰するところから生れる悪徳を放棄してしまう事がある、漸次残忍な事が少なくなって、彼等は自らの地位と権威とを捨てる、そして他のもっとキリスト教徒でない悪い人間が、その後釜に座る。彼等は勢い、社会上の標準から見ると低いが、道徳の上においては高い階級に、かくのごとく人類のキリスト教的意識の一般標準を拡大しながら復帰して行く。しかし彼は直ちに社会の最も悪くて残忍な、そして最も非キリスト教的な人々にその地位を譲る。そして彼等もまた社会の高い地位に上って、一時代数時代と経つに従って、彼等に先立った者と同じ過程を通って、暴力の招来するものの空しさを認めるようになる。かようにキリスト教の精神を心に深く感じながら彼等は被圧制者の地位に戻る、そして再び他の以前の者よりは左程に残酷でない、しかし彼等の圧迫する者よりは残酷である暴力家が、その後を襲う。かようにして権力は、その外形においては依然として同一のものであるけれども、しかも権威を掌握する人々が変わる度毎に、生活の経験上、キリスト教の人生観を採用せざるを得ない人々が増加して行く。統治者の変わる度毎に、権力を掌握するに至った人々は、社会の内では最もキリスト教徒である事が少なく、又最も野蛮的な残酷な人々であるとは言え、しかも彼等に先立った者に比べると、一層キリスト教徒であり、又残酷であり野蛮的である度合も僅少である。
権力は社会の最悪要素を選択且つ誘引する、それは彼等を型に入れ、改造し、柔化し浄化して、 それから再び社会に送り返す。これがキリスト教の――人類の進歩を阻害するところの暴力を政府が行うのにも拘らず――兎に角人々の心を完全に捉える過程である。キリスト教は、政府によって行使される暴力に関しない許りでなく、むしろその働きによって、人々の意識のなかに滲入して行く。
故にもしも権力が廃除されるならば、悪人は善人を自由に支配するに至るであろうとする、現在の国家組織の弁護の断定は、少しもこの悪人の優越権を得る事が危険である証拠とならない、何故なれば、それは既に存在しているところのものに過ぎないから、反対にその断定は、悪人をして善人を圧迫する事を得せしめる国家の暴力は、それだけでも非常に悪いものであって、廃除せらるべきものであり、又絶えず生活そのものによって破壊されつつあるものである。
『例えもしも全ての権威者が自ら進んでその権力を放棄して、遂にその後釜に据るべき人が見出し得ない位にまで、キリスト教に深く感化される時、初めて国家の暴力が廃除されるに至るであろうとしても、又もしもこの過程が今や進行しているとしても、果たしてこれは何時成就するのであるか?』と現在の秩序を擁護する人々が訊ねる。『1900年も既に経過していながら、人の上に立とうとする者が多くて服従しようとする者が少ない以上、確かにそれが成就される事があるとしても、この変化がやがて間もなく起りそうにも見えない。
『例え現在、すべての時代を通じてあったように、権力を掌握する事を欲しなくてそれを放棄する人々があるとしても、尚服従よりも権威を選ぶ多数者の数が非常に多くて、それがなくなる時を想像するのは困難な位である。』
『このキリスト教の家庭がすべての人々を抱擁しえて、すべての者が異教徒からキリスト教的人生観に改宗し、自ら進んで富と権力とを棄ててそれを得ようとする努力を止めるためには、それらすべての残酷な半ば野蛮的な、全然キリスト教の教えを採用し且つそれに従う事の出来ない人々――これらの人々のある数は、常に各社会に見出されるものである――が、キリスト教の精神に改宗する必要がある、そしてこの同じ改宗は又、今尚数多きすべての野蛮人と非キリスト教的な人々の間においてなし遂げられなければならない。故にもしも我等が、そのキリスト教化の過程が全人類を抱擁すると仮定しても、我等は確かにこの1900年間の進歩の割合を考慮に入れて、それはただ1900年を数倍した期間のうちにのみ成し遂げられるものである事を容認しなければならない。故に現在明らかに実現し難い国家の権力の廃除について考える事は、無益な事でもあり、又無用な事でもある、我等のただ一つの義務は、その権力を最も善良なる者の手に置くように心掛けるにあるのみである。』
現在の秩序を弁護する者等は、こう論ずる。彼等の議論は、もしも人々の一つの人生観から他への推移が、ただ一つの過程によってのみ成し遂げられるものであるならば、即ち、各個人は交る々々個人的経験によって権力の空しい事を悟り、霊的な直覚によってキリスト教を採用すべきものであるならば、正しいものでもあろう。この過程は絶えず行われている、そしてそれによって人々は一人々々、キリスト教に改宗せしめられつつある。
しかしこの内的な過程の外に、人々が改宗させられ、且つその推移の速度を促進せしめる今一つの外的な過程がある。
人々の一つの生活様式から他のものへの改宗は、砂時計の中を砂粒が一粒宛徐々に最初のものから最後のものまで落ちるようにして、成し遂げられる許りでなく、むしろ水の中に沈む器の中に入る水のようにしても成し遂げられるものである。最初まず水は徐々に一方の側から入り込む、それから器は中に入った水の重みで突然沈下する、そして瞬く間に水が全くその中に一杯になってしまう。
これと同じ事は、人間社会においても一つの人生観から他へ、又それから結果する一つの組織から他へ推移するに際しても起こる。まず最初人々が徐々に又漸次に一人宛、内部の霊的な過程によって新しい真理を採用する、そしてそれを生活に実行する、しかし伝播の或時期に際しては、その真理は全ての人々に、直覚によってでもなく又順序立ってでもなく一度に、又ほとんど我知らず承認される。
故に現在の秩序の弁護者の論議、即ち1900年間に極く少数の人のみしかキリスト教を採用しなかった故に、残りのすべての人類は、略数千年以内には改宗しないであろうとするのは間違いである。それは違っている、何故ならばその論議は、内部の直覚的な過程以外に、人々が新しい真理を同化して、一つの生活様式から他に推移すべき今一つの過程を考慮の外に逸しているからである。この今一つの過程とは次の通りである。――
人々が真理を容認するのは、預言者的の直覚即ち個人的経験によって人々がそれを明らかにするため許りではなく、又その真理の伝播の或時期において、進歩の低いレベルの上に立つ人々が、既でにそれを直覚的に容認して実行に移した人々を信頼して一度にそれを容認するが故である。
人間生活の様式を変え、且つ人類の進歩に資するところある新しい真理は、いずれも先ず最初は極く少数の人々によって採用される許りであって、彼等はそれを内的意識によって是認する。其の他の残りの人類は、現在の秩序の基礎をなしている以前の真理を信頼して、常に新しい真理の伝播を沮害する。
けれども先ず第一、人類は固定的なものではない、それは常に進歩している、常により明瞭な真理の知識を得て、実生活のうちに漸次その近くに近づきつつある、第二に、すべての人々は、その年齢、境遇及び教育に応じて、先ず新しく示された真理を一番よく直覚によって分り易い人によって、一番分り難い人に至るまで、色んな階級に排列される。内部の霊的な過程によって新しい真理を採用した人々に一番近い人々は、初めの間は徐々に一人々々、それからだんだんと短い時間のうちに、その新しい真理の方に移り変わって行く、そして遂には、漸次それを是認する人々の数が増加して行く、そしてその結果真理それ自身が、益々明瞭にその姿を現して行く。
真理を採用する人々の数が増えるに従い、又それは益々明瞭に解釈されるに従って、低い意識のレベルに立つ人々の依頼の念も固くなり、又それを理解し易くなって、一層速やかに彼等はそれを採用するようになる。かくのごとくして進歩は一層速やかになり又一層包括的になって行って、次に新しい真理と一致した新しい与論が形成される、そして人類の全集団は、その与論の圧力の下で、別々に一人々々ではなくして皆な一緒にその新しい真理に改宗させられる、そして新しい生活様式が、その真理に相応して確立される。
新しい真理を採用した人々は、それがある程度まで論破されるや否や常に、集団としてそれを採用するものである、そして彼等は平均と正しい方向とを失わぬようにと積まれた船の底荷のようなものである。その底荷がないならば、船は充分水に沈む事が出来ないし、又周囲の模様の変わる度毎に、その進路が乱されるであろう。初めの間は不要な、船の運動の妨げとなるものと思われていたこの底荷は、しかもその正しい運行の一狀件をなしている。
これは人類の多数においても同様である、それは単独にではなくして集合して、一つの新しい与論の影響の下に、生活の一組織から他の組織に移り変わる。この集団は彼等の惰性によって、一つの生活様式から他の様式への一切の急激な頻繁な推移を――人智によって証明し得られない所の――妨げる、そして生活争闘の経験によって証明され、人間意識によって同化された一切の真理を、根強く固持する。
故にこの十九世紀間に人類の極小部分のみがキリスト教の真理を採用した以上は、全人類はそれを容認するまでには多くの、多くの世紀を経過しなければならぬ、即ち時の来るのは非常に遠い事であるから、今日生きている我等はそれについて考える必要がないと論ずる事は間違いである。それは間違いである。何故ならば現在の制度の弁護者が考えてもってキリスト教的生活様式の実現の障害となるものとしているところの、彼の進歩の低いレベルに立っている諸国民や諸処の個人――これらの人々は、常に一団となって一斉に、ひとたび与論の採用するところとなった真理に移り変わるものであるからである。
故に人間生活内の変化、その変化によって権力者が権力を放棄し、それに服従していた者も最早やそれを望まなくなる――この変化は、ただすべての人々が、最後の一人に到るまで、一人々々、意識的にキリスト教人生観を消化した時に成し遂げられるだけのものではない、それは又主として、すべての人々に分かり易い、直覚によって真理を消化する事の出来ず従って又、常に与論に動かされ勝ちの自動力ない人類の全部を打ち従える、一個の明白な確固としたキリスト教的与論を形成する事によって、成遂げられるであろう。
この様な与論は、伝染性を持って作用し、又一時に非常な速度をもって群衆を把握するものであるが故に、それが形成され且つ成長するためには、数百年、数千年と言う年月を必要としない。『もしも仮に』と現在の制度の弁護者が言う、『或程度の力を得、鮮明になった与論が、キリスト教社会の間に見受け野獣的な腐敗した人々と同様人類の自動力のない集団及び非キリスト教国民を、打ち従える力を有するものとしても――我等がこのキリスト教的与論が生まれ、且つ国家の暴力を置き換えるべき力を有する事を知るべき、その兆候とも言うべきものは何であるか?』
『我等は現在制度の維持である暴力を廃除して、空漠たる得体の知れぬ与論の力に頼るような危険を冒す事、即ちかようにして社会の内外のすべての野蛮人をして、何の障害もなしにすべてのキリスト教徒を殺害したり掠奪したり、または凌辱する余地を与える事が出来ない。』
『たとえ権力の助けをもってしても、我等は常に我等を転覆せしめ、又キリスト教的開化の一切の成果を破壊しようと待ち設けている非キリスト教的な要素を抑圧する事に、成功しないでいる。然る時に果たして与論がひとたび権力の代りとなって、我等を充分保護する少しの見込みでもあるであろうか、もしあるとするならば、どうして自分達は与論が国家の権威に変わるに充分な位有力になる時を知るべきであるか? 権力を廃除して我等の保護を与論に委ねるような事は、あたかも武器を投げ棄てて、檻の中に入れ赤熱の鉄で脅かされる時温和らしく見えるところに信頼して、動物園の獅子や虎を解放するのと同じく狂気じみたことであろう。』
『権力を掌握する人々は神により、又は運命によって、その権威者の位地に置かされるのである。そして彼らは単にこの実験――与論が権威者の保護の代わりとなる事が出来るかどうか――を試みる快楽のために、文明の成果を破壊してしまう危険を冒す権利を有しない。従って彼等は暴力を廃除する事が出来ない。』
今は忘れられているフランスの作家、アルフォンソ・カアルは、重大なる刑罰を廃止する事の責任を明らかにしようと欲して、『まず諸殺人者たちより実例を作らしめよ!』と言った。私はこの言いぶんが、しばしば重大な刑罰の廃止に反対してなされた賢明な信念の深い議論であると考える人々によって引用されるのを聞いた。
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