トルストイ『神の國は爾曹の衷にあり』第十一章
- 2017/06/16
- 22:22
『神の国は爾曹の衷にあり』
第十一章 最終章
牢獄や囚徒漕艇、工場、税金、教会、酒場、淫売宿、絞首台、資本の集蓄並びに絶え間ない軍備の拡張と、いつも主人のはやしかけるものには誰にでも飛びあつまって行く猛犬のような数万の野蛮人とを持っているキリスト教人類の有様――この有様が、もしも暴力の結果であるとするならば、正に恐るべきものであろう、だがそれは与論のうちでの一番大きな結果に他ならない、而して与論によって築かれたものは、又たやすくその与論によって破壊される事が出来る――そしてこの事は今日すでに起こりはじめている。
数十億の金、数千万の訓練した兵士、恐ろしい力を有する破壊的武器、最極度にまで完成した組織、人民を催眠術に掛けたり欺くために使われている全部の軍隊、空間をなくす電気――そしてこれらすべてのものは、かような社会組織を自分達にとって有利なものと考えている許りでなく、又それ無くして必然的に己が死滅せざるを得ない事を知って居て、従って根限りの心力をその維持のために捧げている人々の手中にある――それは、何と不敵な又絶大な力のように見える事であろう!
しかし非常に複雑して又一見強固の観を呈している我等の生活と言う全建物が、何等の争闘も暴力なしに独りでに崩壊するに至る事を知るためには、ただ我等の進路――何人といえども妨げる事の出来ない――が何処に向かっているかと言う事を考え、ただキリスト教的の与論が異教的なものに取って代わり、且つ丁度異教的な与論が前時代においてそうであったように、牢固として又広く普通的に人々の間に根を据えるに至ったと言う事を、即ち人類の大部分は、あたかもすべての人が不正直や窃盗や赤貧あるいは臆病等についてそうであるように、又暴力にたずさわったりそれで利益をむさぼったりする事を恥じていると言う事を知ればそれで充分である。
この事の成就されるが為めには、何かの新しい法則が人間の意識内に入らねばならぬと言う必要はない、ただ人々から或種の暴行の真の意義を隠している霞が消散して、新しく興こりつつあるキリスト教的与論が暴行を許容していたところの衰え行きつつある異教的与論を駆逐すべき事が必要である。あたかも今日罪人となり、あるいは詐欺や、窃盗、臆病者又は乞食の罪人と見られる事を恥じると同じように、人々が暴行を犯したり、その暴行に関係したり、又はそれによって利益を得たりする事を恥じるようにならねばならぬ事だけが必要である。すでにこの事は起こっている。丁度自分自身や周囲のすべてのものと皆一様に動いているにも拘らず、その運行を我等が知らないと同じように、ただ我等がそれに気付かないだけなのである。
我等の生活制度が、そのおもだった個所では、あたかも一千年以前においてそうであったように、又同じく暴力によって支配されている事は真実である、ある事柄、特に軍備、及び戦争そのものにあっては、それは更らに、一層野蛮的なものとさえなっている、しかしとは言うものの芽を吹きかけているキリスト教的与論――或は未来に於て進歩のある段階に達したのち、全異教的組織を変革してしまう可きそのもの――は、すでにその効果を納め始め出した。枯れ木は尚何時までもしっかりと――もしくはそれが枯渇したが故に更らにより以上堅固にさえも――立っているかのように見えるものである、しかしその心髄はすでに腐っていて、何時倒れるか分らぬようになっている暴力、の上に築かれた現在の生活組織に於ても、又それと同様である。人々の外部の狀態もそれと同じような観を呈している、同じように圧迫する者とされる者と、どちらも各自の地位の意味と真相とに関しては同じ考えを持っている。暴力を使うもの――それは国家の楅機である――や、それで利益を得ている者――それは富めるものである――最早や以前のように、圧迫されるものが望んだ社会の花形でもなければ、又人間の持ち物と権勢との理想ででもなくなってしまった。今では圧迫される者が圧迫者の地位を渇仰してそのまねをしようとする代わりに、圧迫者それ自身がしばしば自分から進んで有利な自分の地位を棄てて、その生活の単純な事のために後者に似せようと努めて圧迫されるものの地位を選ぼうとさえしている。
間諜や探偵や高利貸しや料理屋の主人のような――その大部分の地位は権力者によって支持されている――今日一般に又公然と嫌悪されている職務や地位は言うまでも無く、警官や裁判官や判事、政府の役人、牧師、兵士、銀行家あるいは借地人のような職務や地位もまた――以前では名誉なものと考えられていたのであるが、今ではただに一向人気は無くなった許りでは無く、社会の立派な人々によっても念入りに非難されている。ある人々は自分から進んでこれらの職務に就く事を、以前では非常に立派なものとされていたが、拒絶さえもする、そして自分に取って有利ではないが、暴力を行わずとも済む地位を選ぶようになった。
ただに国家の役人許りではなく、役に就かぬ富める人々もまた、その特権を投げ捨てて、前時代の場合のように宗教的感情にではなしに新しく興りつつある与論に対する直覚的な感覚で心動かされて、彼等に譲られる遺産を拒絶している、何故なれば、彼等は、人はただ自分の能力によって儲けたもののみを所有する権利を持っていると信ずるからである。
富めるものや政府の役人の地位は、最早や以前のように、又は非キリスト教諸国民の間で考えられているように――疑いも無く名誉な、尊敬に価する、又神の恵みによって与えられたものであるとはされない。最も賢い、道徳の高い人々は(又最もいい教育を受けた人々も同じく)これらの地位を避けて、もっと謙譲なしかし暴力とは関係のない地位を選んでいる。
職業を求めてはいるが、未だ世間の悪風に染まない最も優れた青年は、政府の金を受けている判事や役人や僧侶あるいは兵士よりも、もしくは自分で儲けない収入で生活する仕事よりも、医師や技師や教師、芸術家、著述家あるいは自身の労働で生活する百姓の仕事をすら学ぼうとしている。
今日の記念碑の大部分は、政治家や将軍の名誉のためでも、況してや百万長者の名誉のためにでもなしに、科学者や芸術家もしくは発明家――即ち政府や権威者とは全く類を異にして、又甚だしばしばそれ等のものと戦った人々の名誉のために建てられている。国家の役人や富める者ではなしに芸術家や科学者は彫像に刻まれ、詩歌に歌われ、又崇厳な祭式で表彰されている。
現代の優れた人々は、これらの最も尊敬すべき地位を得ようとしている、勢い富者や国家の役人の輩出する階級はその量においても質においても急激に減退して行って、富める者や政府の頭らに立つ者は、最早や知的、教育的あるいは道徳的な性質のいずれにおいても、前時代に於けるがように社会の花形とはならなくなった。彼等はその反対に、普通の標準より以下に陥込んでしまった。
ロシアやトルコ、アメリカ、フランスに於ては、その政府の役人が絶えず変わっているにも拘わらず、彼等の大部分は、国家が彼等に要求する単純な正直の極く初歩な条件をすら満足せしめ得ない位に低いレベルに立っている、恕(ど)すべき点のある、守銭奴である。人はしばしば、ある不思議な成り行きで(彼等にはそう見えるのであろうが)、今日では最も優れた人々は常に、自分等の敵側にいると言う、有りのままの嘆きの声を耳にする。
それはあたかもある不思議な成り行きで、死刑執行人の階級が、非常に賢くも、又親切でもない人々の間から選ばれているのを、嘆くようなものである。
現今の大多数の富めるものは、実際のところ以前のように、社会の最も優れた又最も教育を受けた階級をなしてはいない、彼等は自分を富ます事許りを考える、従って通例不正な手段に依る卑しい富の蓄積者であるか、あるいはその者の堕落した後継者であるかのいずれかである、そして社会で重要な役目をする事などは思いもよらぬ事で、通例社会一般の侮蔑の的となっている。
ただ、富める者や政府の役人の出る階級が数に於て減少すると共に、又質においても悪化している許りではなく、その階級の人々自身が、すでに自分等の占めている職務や地位が、以前のような意義あるものとしなくなった、彼等はしばしば自分の為している事を恥じて、その地位に懸かっている義務を脱れることを求める。国王や帝王は少しでも自ら統治する事がなくなって来た、彼等が敢えて与論や政治上の施設に関する問題をそのままにして、国内の変革を仕遂げたり、又は新しい外交狀態に入ったりする事はほとんどないと言っていい位である。今日では彼等の職務はすべて、国家の統一と権力との代表者であると言う事に帰着している。彼等はこの義務をすら層一層志却するようになっている。その多くは、犯すべからざる尊厳を支持する代りに、全力を尽くして自分等を平民化し通俗的なものにしようとしている。彼等は持ち続ける責任のあるものを明瞭に犯害しながら、その最も表面的な威勢を脱ぎ棄ててしまう。
軍人に於てもそれと同様である。高い階級の士官達は、その職業に付きものである残虐や蠻行を奨励する代わりに、自ら教育を上進して、兵士達の間に人間の道を説き、又しばしば多数人民の社会主義的の説を抱いて戦争を非難する。ロシア政府に対する最近の陰謀を企てた徒党の多くは、軍隊内の者であった。かような兵士の陰謀家は、益々その数を増している。しばしば最近の出来事のように、暴動を鎮めるために招致された軍隊が、人民に向かって発砲する事を拒絶するような事が起こって来る。いわゆる軍隊式な空威張りは軍人自身すら非とするところであって、しばしば嘲弄の的となっている。判事や検事の場合もそれと同様である。犯人に罪を宣告したり罰したりする義務のある判事は、彼等に無罪をもたらすような方法で審問する、故にロシア政府が無いものにしたいところの何人かの処刑の必要な場合に、政府は決してかかる人々を普通の裁判所に渡さずに正義の胡魔化したものに過ぎないいわゆる軍法会議に渡す、検事の場合もそれと同じである、即ち彼はしばしば囚人の罪を露く事を拒絶する、そして法律を無視して、求刑する事を命ぜられた相手の事件を弁護する。権力者の暴力を是認する事を仕事とする法律学者は、 益々度々多く刑罰の正当なる事を否定して、それに代えうるに無責任説といわゆる犯人の道徳的矯正だけではなしに、肉体上の治療にも従事するの急務をもってしている。
看守も監獄医も、一般に、苦しめるために任命されているその人々の味方となっている。警官や探偵もしばしば破滅に陥れる事を望まれているその人々を助ける。宣教師は忍耐を教えて、時とすると暴力を非難さえもする、そして充分教育のある者になると、その説教の中で自分等の地位を意義あるものとし、又人々に宣教する事を命ぜられているところの虚偽を避けようと試みる。死刑執行人は自分等の職務を果たす事を拒絶する、そして死刑執行人の欠員のために、死刑執行狀が執行されずにそのままで残る事がしばしばある。何故なれば、有利な条件が与えられるのにも拘らず、志望者の数が――囚人の中から募集される――年々減って行くが故である。
県知事や警察や地方巡察官、収税吏並びに酒亭の主人は、しばしば人々を憐んで税金を強奪しない言訳を与えようとしたりする。富める者はその富をも自分だけの事には使わないで、その幾分を社会の必要のために提供する。地主はその所有地に学校や病院を建てる、そして中には所有地を棄てて自治村を設けたり、又はそれを全部農民に譲与したりする者さえある。製造業者や工場主は、労働者のために病院や学校や、銀行、年金又は宿泊場を設けて、中には自分等も労働者と同等の分け前を受けるような社会を組織するものさえもある。資本主はその金の幾分を教育、社会、芸術並びに慈善的な目的に犠牲にする。一生涯その富から離れるための力を彼等は欠いているとはいえ、多くのものはその死後遺言してその富を公共団体に寄附する事によって放棄している。
すべてこれらの事実は、もしもそれが共通した一つの原因に帰する事がされない時には、あるいは単に偶然なもののように見えるかも知れない、それは丁度春になって、木々が芽を吹き出すという事実が、もしも我等がその原因が広汎の春の時節に因るものであって、従ってもしもある木の芽が膨らみ始める時には、確かにすべての木の芽も一様に膨らみ始めるものである事を知らぬ場合には、恐らく偶然な事実のように見えるに相違ないようなものである。
暴力並びに暴力に基く事柄の意義に関するキリスト教的与論の表出においても、又それと同じである。もしもかような与論が一旦最も敏感な人々に影響して、各その特性に応じて、あるいは暴力によって獲得された有利の地位を放棄したり、あるいは少なくてもそれで利益を得ないようにと人々を誘うようになるならば、その時は確かにその与論は次から次へと人々に影響を与えて、遂には人々の全生活と全活動とを変革して、すでに最も進歩した人々の心の中にあるキリスト教的意識に適(かな)わしめるに至るであろう。
もしも自分の権力の下に何かの事を企てる事を拒み、又は一国の王たるよりもむしろ極く平凡な人間のようになりたいと努めて、自分の特権を喜んで投げ打ち、共和国の最初の市民たらんと公言するような主権者が一旦現れるとするならば、もしもあらゆる戦争の害悪を知って、自他いずれの国民をも殺す事に逡巡する兵士が現れるとするならば、もしも罪人を審問したり処罰したりする事を好まない判事や検事、自分の虚言を放棄する牧師、命ぜられた義務を出来るだけ少しだけ果たそうと努める収税吏、並びに自分の富を棄てる富者などが、現れるとするならば――その時には他のすべての政府や兵士や判事、牧師、収税吏並びに富者もまた必然的に、結局は同じ事をするようになるであろう。最早や何事もかかる地位に就く事を喜ばなくなった時には、その地位そのもの並びに暴力は存在しない事になるであろう。
だがただこのようにして与論は人々をして現在の秩序を廃して他のものをそれに代えしめる許りではない。暴力の生む地位の少なくなればなるだけ、それだけそれに就こうとする望み手も少なくなって、その地位の無用な事が益々明らかになって行くであろう。
キリスト教国においては、前時代に存在していたと同じような主権者や政府があり、それと同じ軍隊と法廷、収税吏と僧侶、並びに製造業者と資本主とがいる、しかし彼等に対し、又彼等の有する地位に対しての人類の態度は変わってしまった。
互いに会見し廻っている同様の主権者や、同様の行列や狩猟や舞踏会、宴会、服装があり、同様の外交家や戦争や同盟の協議があり、同様の国会や東方問題やアフリカ問題や、不和や同盟や地方自治や8時間労働に関する討論があり、又同じような国務大臣や内閣の交迭や同じような演説や政変がある。だが新聞紙上の一論文が数十回の皇帝の会見や議会の開会よりも、事態に影響するところの多い事を知っている人々に取っては、国王の会見や同盟も、又は議会の討議や無駄言も、共に人事を導き得ないで、これらすべてのものと関係のない又一処に集っていないあるものがそうせしめるものである事が、益々明瞭になって来ている。
同じような将軍や士官や兵士や、大砲、堡壘、訓練、閲兵式などがある、しかし一年、十年、二十年を経過する、だがまだ依然として戦争が無い、軍隊は段々と暴動や革命の鎮圧には頼み難いものとなって行く、そして将軍や士官や兵卒は、見世物や行列の人形――国王の玩具で、大きな、途方も無く金目のかかる歌舞団のようなものに過ぎない事が、益々明らかになって来ている。
同じような判事や告発や法廷がある、しかし民事裁判所では非常に多くの理由で判決が通過されるが、決して正義のためではないと言う事や、 刑事裁判所は、判事自身が是認するような期定の効果を刑罰がもたらさないと言う事のために、無意義である、従ってこれらの施設のただ一つの意義は、ただ何か有益な仕事を成し得ない人々に生計費を供するにあると言う事などが、益々明かになって来ている。
同じような祭司や監督や、教会や牧師会議がある、しかしかかる人々はその教える事柄をとっくに信じなくなっている事や、又そのために何人に向かっても自身の信じていない事柄を信ずる必要があると言って説きつけ得ない事などが、益々万人に明らかになって来る。
同じような収税吏がいる、しかし彼等に暴力で人民の持ち物を強奪する事が段々と出来難くなって来ている、そしてかような収税吏が無くても、人々は自ら申し出る寄附によって、必要な金をすべて集める事の出来るのが、益々明瞭になって来ている。
同じような金持ちがある、しかし彼等はその時の個人的な管理者である事を止めて、その所有の全部もしくは一部分を社会に提供する時においてのみ、有用な人間になる事が出来ると言う事が、益々明らかになって来ている。
これらの事柄がすべて万人に完全に明らかになって又公然なものとなる暁には、次の疑いは自然に起って来るであろう、何故我等はこれらの国王や皇帝や大統領、並びに無数の代議士や内閣員を、そのすべての相談や会見が何の益するところもないのに、養ったり支給したりしなければならないのであるか? ある諧謔家の言ったように、むしろ国王を護謨で拵えた方がよくはないか。『将軍や騎兵や軍楽や太鼓を持っているすべての我等の軍隊は何の役に立つか? 戦争も無く、何人も他を征服したりするような事も求めず、又たとえ戦争が起こったにしても、他国民がそれで利益を得る事を妨げたり、軍隊が自国の人民に発砲する事を拒絶するような時に当って、彼等に何の必要があるのか?』
『民事裁判所での判決が決して正義の影がささず、又犯罪事件においては、すべての刑罰は有益である事を充分知っている判事や弁護士の必要がどこにあるのか?』
『必要な金はすべて彼等無しでも得られる上に税金を集める事を躊躇する収税吏が何の役に立つのであるか?』
『とっくに教える事を命ぜられた事柄を信じなくなった僧侶が何の役に立つか?』
『共有財産になって始めて有用なものとなる私人の手中にある資本が何の役に立つか?』
かような疑問を一度起こした人々は、これらの今日必要のない施設を支持する事を止そうと決心せざるを得ない。
その時これらの施設を指示していた人々がそれを廃止しようと決心する許りでなく――自身その地位についているもまた同時、あるいはそれよりも前に、その地位を放棄せざるを得ない破目に立ち至るであろう。
与論の暴力を非難する態度は、益々強固になって行っている、そして与論の力に人々が完全に身を任せれば任すだけ、彼等は日毎に暴力の支持する地位を占めることを嫌がって、すでにかような地位を占めた人々も、段々に暴力を用いないようになって行く。暴力を条件とする地位を占めて居ながら暴力を用いる事に躊躇するので、これらの人々は益々不必要なものとなって行く。かかる不要な事は、これらの地位を支持するものにも、又それを占めている者にとっても、遂には何人も、そのいずれをもする事を欲しなくなるまで漸次に明白になって行っている。
かつてバクスカで、聖トーマス週の間、狩猟街(ハンチングストリート)(バクスカの一市街)の一教会の近くで、慣例として開かれる宗教上の討議に臨んだ事があった。約二十人許りの一群れが舗道の上に集まって、真面目に宗教上の論議をしていた。それと丁度同じ時刻に隣の貴族会館では音楽会が開かれていて、教会の近くの小さな人だかりを見た警官は、一人の騎馬巡査を送った。解散の命令を与えた警官はその群衆を解放せしめる理由を持っていなかった、そこに集まった二十名の群衆は何人の邪魔もしなかったが、警官は朝中そこに見張っていて、何かの事をしようと欲したのである。若い巡査は右手を腰に当てて剣をガチャつかせながら厳しい風体でやって来た、そしてそっけなくこう言った、『解散しろ! 貴様達はここで何をしているんだ?』皆はその方を振り向いた、そして話していたうちの一人の百姓のなりをしていた控目勝ちな人が、静かに穏やかにこう言った、『手前共は、真面目な事を話しているのです、解散しなければならぬ理はありません、若いあなたもお降りになって、手前共の話している事をお聞きなさるがよろしい。多分ため(ヽヽ)になるでしょうから。』そして彼は向き直って話を続けた。その巡査は黙って馬を向けて、戻って行った。これと同じ事柄は、すべての暴行に際してもまた起らなければならぬ。警官は退窟している、彼には何もすることがない、
そして憐れにも彼は命令を発しなければならぬ地位に置かれている。彼はあらゆる人間の合理的な生活が出来なくされている、彼は誰も彼の命令も注目も必要としないのに、あたりを見廻しては命令を発し、命令を発しては又あたりを見廻す事だけしか出来ない。すべて我等の不幸な統治者や大臣や代議士、県知事、将軍、士官監督僧、司祭、並びに金持等は、すでにそれによく似た境遇に陥り出している、そして間も無く彼等はすっかりそうなってしまうであろう。彼等は命令を発する事の他に何もする事がない、だからこそ彼等は丁度かの警官が巡査を派遣したように、人々を妨害するために騒ぎ声を立てたり従者を遣わしたりする、そして干渉を受ける人々が彼等にそうしないようにと願うと、自分等は非常に必要なものである事を示すものだとしてしまう。
だが万人にかような者は少しも必要ではなく、又皆の者の妨げである事も充分明かになって、妨害を受ける人達が、百姓の服装をした人のように、彼等に向かって静かに穏やかに、『どうか私達の邪魔をして下さいますな、』と言うような時は来るであろうし、又それは遠い事ではない。身上(みうえ)の者もその下に随いて居るものも共に、この善き忠告に従わねばならぬようになるであろう、彼等は両臂を張って人々を突き飛ばす事を止めねばならなくなるであろう、又美しい馬から降り、又飾り立てた着物を脱ぎ棄てて、人々の言う事に耳を傾け、且つその人々と団結して人間の真の事業の完成を手伝わねばならなくなるであろう。
現在のすべての暴力の施設が廃止される時は来るであろう。何故なればそれの無益で愚劣で不条理である事が万人に明らかになるからである。
小さい子供が裸体の国王を見て、『何故あの人は何も着ていないのだろう!』と叫んだ時、初めてその事を以前から知っていながら言い出す事が出来なかったすべての廷臣が、最早やその事実を隠す事が出来なくなったと言う、アンデルセン物語の『国王の新調衣』の中の国王のように、今日暴力の地位を占めている人々にもまた、そうした事が起こる日が近づいている。
それは新しい着物を愛好した国王があって、そこへ不思議な着物を拵えると約束する二人の仕立て屋がやって来る話である。王はその二人を雇った、そして彼等は、その着物の特長は、そのついている職務に不適任な者には誰にも見えないところにあると言って仕事にかかった。
廷臣等は来て仕事を検査した、しかし仕立屋達はその梭を空中に運んでいたので何も見る事が出来なかった。けれども前置きの言葉を覚えているのですべての、役人は皆、衣装を見て来たが、大変美しいと思うと言った。国王もまたそう言った。とうとう国王が新調の衣裳で行列に出御すると言う日になった。彼は着物を脱いで新調の衣裳を着た、矢張り裸体のままであった、そして町を練り歩いた。例の条件を覚えているので、誰も進んで国王に何も着ていないと告げるものがなかった。がとうとう最後に一人小さな子供が、こう叫んだ、『御覧、あの人は真裸だよ?』
これと同じ事は随勢で、ずっと前から不必要になっている地位に続いているすべての人々にもまた起こるであろう、即ちロシアの諺にあるように、『一つの手で、も一つの手を洗う』事に厭(あ)いて、従ってこれらの施設の無用な事を隠す理由のない最初の人は、その愚劣な事を指摘して、大胆にこう叫ぶであろう、『なに、これらの人達が有用だったのは数時代前のことだ!』
砲壘や大砲や、ダイナマイトや、小銃、水雷艇、牢獄、絞首台、教会、工場、税関、並びに宮殿を持っているキリスト教人類の狀態は真に恐るべきものである。だが堡壘や大砲や鉄砲は独力で人を損なう事は出来るものではない、牢獄がその犠牲を監禁しもしなければ、絞首台が人の首を絞めもしない、又教会が嘘を吐かなければ、税関が差押さえる事もない、又宮殿や工場は自分で自分を建てたり支持したりするものではない。すべてこれらの仕事は、人々がするのである、そして人々がそれをする必要のないのを知れば直ちに、これらの事物は存在しなくなるであろう。
すでに人々はこの事を了解し始めている。仮にすべての人が了解しないとしても、多くの進歩した人々がそれを了解する、そして他の者はそれをまねるであろう。人類はひとたび最も進歩した人々によって了解された事柄を決して了解せずに済ます事は出来ない、だがかつて小数の者によって理解された事柄に対する人類全体の理解は、疑うべからざる又避け難い必然事である。
すべての人が神に教えられて戦争の術(わざ)を忘れてしまい、剣が犂頭(すきがしら)に代わり槍が鎌となる時が来ると言う予言は、近代の言葉で言い代えると、それはあらゆる教会や牢獄、砲壘、兵営併びに宮殿が空家となって、あらゆる絞首台や小銃大砲は不要となると言う事になるが――この予言は最早や一場の夢ではない、それは人類が日増しに早くなって行く速度で近づいて行っている、新しい生活の定形となって来ている。だがそれは何時実現されるであろうか?
十九世紀以前にこの疑問に答えて、イエスは現在の、即ち異教的な生活組織の終末は、人類の惨狀が最絶頂に達して、神の国の良き知らせ、即ち暴力を離れた新しい生活制度の可能な事が世界全体に知れ渡った時に来るに違いないと言われている。(マタイ伝24章3-28節)
『その日その時を知る者はただわが父のみ』(マタイ伝24章36節)何故かと言うに、自分達の一寸も予期しない何時かの日に、瞬間にそれがやって来るかも知れないからである。イエス・キリストは、我等はその間近に来る時を知る事が出来ない、けれども自分達はこうした理由のために、何時もそれに間に合うように、丁度家を護る主人のように、又は燈を執って新郎を迎えに出る童女(むすめ)のように、いつも予備(そなえ)をして居なければならぬ、又金を預けられた僕(しもべ)のように、自分達は又その時の来るのを早めんがため全力を尽くして働かねばならうと言われている。(マタイ伝26章43節、25章1-30節)その時は何時来るかと言う問いに答えて、イエス・キリストは、声を枯らして人々にその到来を早めんがために全力を尽くさなければならぬと勧めている。
この答え以外に何かの答えの有りようがない。人類は神の国の到来の日も時間も知る事が出来ない、何故かと言うにその時の到来はただその人々自身によってのみ左右される事柄であるから。
それの答えは、丁度町にはまだ遠いかと旅の者に聞かれてある聖者が、『進め!』と言った答えに似ている。
自分達は、人類はどうして目的に向かって進むだろうか、前進をするだろうか、又は立ち止まっているだろうか、速度を早めるだろうか減らすだろうか、又は全然それを無くしてしまうであろうかと言う事柄を知らずにいながら、どうして人類の求めている目標まではまだ遠いかどうかを知る事が出来よう――なぜかと言うに、これらの事柄は、皆人間の力でどうにでも出来るものであるからである。
自分達の知る事の出来るすべての事柄は、人類を形づくっている自分達が、神の国を招来するために為さなければならぬ事と為してはならぬ事である。この事柄を、自分達は充分によく知っている。自分達銘々が義務だと知っている事をし始めて、その反対の事柄を止め、又自分達銘々が皆の心が精進している約束された神の国を招来するために、衷なる光に従って生活すればそれで充分である。
第十一章 最終章
牢獄や囚徒漕艇、工場、税金、教会、酒場、淫売宿、絞首台、資本の集蓄並びに絶え間ない軍備の拡張と、いつも主人のはやしかけるものには誰にでも飛びあつまって行く猛犬のような数万の野蛮人とを持っているキリスト教人類の有様――この有様が、もしも暴力の結果であるとするならば、正に恐るべきものであろう、だがそれは与論のうちでの一番大きな結果に他ならない、而して与論によって築かれたものは、又たやすくその与論によって破壊される事が出来る――そしてこの事は今日すでに起こりはじめている。
数十億の金、数千万の訓練した兵士、恐ろしい力を有する破壊的武器、最極度にまで完成した組織、人民を催眠術に掛けたり欺くために使われている全部の軍隊、空間をなくす電気――そしてこれらすべてのものは、かような社会組織を自分達にとって有利なものと考えている許りでなく、又それ無くして必然的に己が死滅せざるを得ない事を知って居て、従って根限りの心力をその維持のために捧げている人々の手中にある――それは、何と不敵な又絶大な力のように見える事であろう!
しかし非常に複雑して又一見強固の観を呈している我等の生活と言う全建物が、何等の争闘も暴力なしに独りでに崩壊するに至る事を知るためには、ただ我等の進路――何人といえども妨げる事の出来ない――が何処に向かっているかと言う事を考え、ただキリスト教的の与論が異教的なものに取って代わり、且つ丁度異教的な与論が前時代においてそうであったように、牢固として又広く普通的に人々の間に根を据えるに至ったと言う事を、即ち人類の大部分は、あたかもすべての人が不正直や窃盗や赤貧あるいは臆病等についてそうであるように、又暴力にたずさわったりそれで利益をむさぼったりする事を恥じていると言う事を知ればそれで充分である。
この事の成就されるが為めには、何かの新しい法則が人間の意識内に入らねばならぬと言う必要はない、ただ人々から或種の暴行の真の意義を隠している霞が消散して、新しく興こりつつあるキリスト教的与論が暴行を許容していたところの衰え行きつつある異教的与論を駆逐すべき事が必要である。あたかも今日罪人となり、あるいは詐欺や、窃盗、臆病者又は乞食の罪人と見られる事を恥じると同じように、人々が暴行を犯したり、その暴行に関係したり、又はそれによって利益を得たりする事を恥じるようにならねばならぬ事だけが必要である。すでにこの事は起こっている。丁度自分自身や周囲のすべてのものと皆一様に動いているにも拘らず、その運行を我等が知らないと同じように、ただ我等がそれに気付かないだけなのである。
我等の生活制度が、そのおもだった個所では、あたかも一千年以前においてそうであったように、又同じく暴力によって支配されている事は真実である、ある事柄、特に軍備、及び戦争そのものにあっては、それは更らに、一層野蛮的なものとさえなっている、しかしとは言うものの芽を吹きかけているキリスト教的与論――或は未来に於て進歩のある段階に達したのち、全異教的組織を変革してしまう可きそのもの――は、すでにその効果を納め始め出した。枯れ木は尚何時までもしっかりと――もしくはそれが枯渇したが故に更らにより以上堅固にさえも――立っているかのように見えるものである、しかしその心髄はすでに腐っていて、何時倒れるか分らぬようになっている暴力、の上に築かれた現在の生活組織に於ても、又それと同様である。人々の外部の狀態もそれと同じような観を呈している、同じように圧迫する者とされる者と、どちらも各自の地位の意味と真相とに関しては同じ考えを持っている。暴力を使うもの――それは国家の楅機である――や、それで利益を得ている者――それは富めるものである――最早や以前のように、圧迫されるものが望んだ社会の花形でもなければ、又人間の持ち物と権勢との理想ででもなくなってしまった。今では圧迫される者が圧迫者の地位を渇仰してそのまねをしようとする代わりに、圧迫者それ自身がしばしば自分から進んで有利な自分の地位を棄てて、その生活の単純な事のために後者に似せようと努めて圧迫されるものの地位を選ぼうとさえしている。
間諜や探偵や高利貸しや料理屋の主人のような――その大部分の地位は権力者によって支持されている――今日一般に又公然と嫌悪されている職務や地位は言うまでも無く、警官や裁判官や判事、政府の役人、牧師、兵士、銀行家あるいは借地人のような職務や地位もまた――以前では名誉なものと考えられていたのであるが、今ではただに一向人気は無くなった許りでは無く、社会の立派な人々によっても念入りに非難されている。ある人々は自分から進んでこれらの職務に就く事を、以前では非常に立派なものとされていたが、拒絶さえもする、そして自分に取って有利ではないが、暴力を行わずとも済む地位を選ぶようになった。
ただに国家の役人許りではなく、役に就かぬ富める人々もまた、その特権を投げ捨てて、前時代の場合のように宗教的感情にではなしに新しく興りつつある与論に対する直覚的な感覚で心動かされて、彼等に譲られる遺産を拒絶している、何故なれば、彼等は、人はただ自分の能力によって儲けたもののみを所有する権利を持っていると信ずるからである。
富めるものや政府の役人の地位は、最早や以前のように、又は非キリスト教諸国民の間で考えられているように――疑いも無く名誉な、尊敬に価する、又神の恵みによって与えられたものであるとはされない。最も賢い、道徳の高い人々は(又最もいい教育を受けた人々も同じく)これらの地位を避けて、もっと謙譲なしかし暴力とは関係のない地位を選んでいる。
職業を求めてはいるが、未だ世間の悪風に染まない最も優れた青年は、政府の金を受けている判事や役人や僧侶あるいは兵士よりも、もしくは自分で儲けない収入で生活する仕事よりも、医師や技師や教師、芸術家、著述家あるいは自身の労働で生活する百姓の仕事をすら学ぼうとしている。
今日の記念碑の大部分は、政治家や将軍の名誉のためでも、況してや百万長者の名誉のためにでもなしに、科学者や芸術家もしくは発明家――即ち政府や権威者とは全く類を異にして、又甚だしばしばそれ等のものと戦った人々の名誉のために建てられている。国家の役人や富める者ではなしに芸術家や科学者は彫像に刻まれ、詩歌に歌われ、又崇厳な祭式で表彰されている。
現代の優れた人々は、これらの最も尊敬すべき地位を得ようとしている、勢い富者や国家の役人の輩出する階級はその量においても質においても急激に減退して行って、富める者や政府の頭らに立つ者は、最早や知的、教育的あるいは道徳的な性質のいずれにおいても、前時代に於けるがように社会の花形とはならなくなった。彼等はその反対に、普通の標準より以下に陥込んでしまった。
ロシアやトルコ、アメリカ、フランスに於ては、その政府の役人が絶えず変わっているにも拘わらず、彼等の大部分は、国家が彼等に要求する単純な正直の極く初歩な条件をすら満足せしめ得ない位に低いレベルに立っている、恕(ど)すべき点のある、守銭奴である。人はしばしば、ある不思議な成り行きで(彼等にはそう見えるのであろうが)、今日では最も優れた人々は常に、自分等の敵側にいると言う、有りのままの嘆きの声を耳にする。
それはあたかもある不思議な成り行きで、死刑執行人の階級が、非常に賢くも、又親切でもない人々の間から選ばれているのを、嘆くようなものである。
現今の大多数の富めるものは、実際のところ以前のように、社会の最も優れた又最も教育を受けた階級をなしてはいない、彼等は自分を富ます事許りを考える、従って通例不正な手段に依る卑しい富の蓄積者であるか、あるいはその者の堕落した後継者であるかのいずれかである、そして社会で重要な役目をする事などは思いもよらぬ事で、通例社会一般の侮蔑の的となっている。
ただ、富める者や政府の役人の出る階級が数に於て減少すると共に、又質においても悪化している許りではなく、その階級の人々自身が、すでに自分等の占めている職務や地位が、以前のような意義あるものとしなくなった、彼等はしばしば自分の為している事を恥じて、その地位に懸かっている義務を脱れることを求める。国王や帝王は少しでも自ら統治する事がなくなって来た、彼等が敢えて与論や政治上の施設に関する問題をそのままにして、国内の変革を仕遂げたり、又は新しい外交狀態に入ったりする事はほとんどないと言っていい位である。今日では彼等の職務はすべて、国家の統一と権力との代表者であると言う事に帰着している。彼等はこの義務をすら層一層志却するようになっている。その多くは、犯すべからざる尊厳を支持する代りに、全力を尽くして自分等を平民化し通俗的なものにしようとしている。彼等は持ち続ける責任のあるものを明瞭に犯害しながら、その最も表面的な威勢を脱ぎ棄ててしまう。
軍人に於てもそれと同様である。高い階級の士官達は、その職業に付きものである残虐や蠻行を奨励する代わりに、自ら教育を上進して、兵士達の間に人間の道を説き、又しばしば多数人民の社会主義的の説を抱いて戦争を非難する。ロシア政府に対する最近の陰謀を企てた徒党の多くは、軍隊内の者であった。かような兵士の陰謀家は、益々その数を増している。しばしば最近の出来事のように、暴動を鎮めるために招致された軍隊が、人民に向かって発砲する事を拒絶するような事が起こって来る。いわゆる軍隊式な空威張りは軍人自身すら非とするところであって、しばしば嘲弄の的となっている。判事や検事の場合もそれと同様である。犯人に罪を宣告したり罰したりする義務のある判事は、彼等に無罪をもたらすような方法で審問する、故にロシア政府が無いものにしたいところの何人かの処刑の必要な場合に、政府は決してかかる人々を普通の裁判所に渡さずに正義の胡魔化したものに過ぎないいわゆる軍法会議に渡す、検事の場合もそれと同じである、即ち彼はしばしば囚人の罪を露く事を拒絶する、そして法律を無視して、求刑する事を命ぜられた相手の事件を弁護する。権力者の暴力を是認する事を仕事とする法律学者は、 益々度々多く刑罰の正当なる事を否定して、それに代えうるに無責任説といわゆる犯人の道徳的矯正だけではなしに、肉体上の治療にも従事するの急務をもってしている。
看守も監獄医も、一般に、苦しめるために任命されているその人々の味方となっている。警官や探偵もしばしば破滅に陥れる事を望まれているその人々を助ける。宣教師は忍耐を教えて、時とすると暴力を非難さえもする、そして充分教育のある者になると、その説教の中で自分等の地位を意義あるものとし、又人々に宣教する事を命ぜられているところの虚偽を避けようと試みる。死刑執行人は自分等の職務を果たす事を拒絶する、そして死刑執行人の欠員のために、死刑執行狀が執行されずにそのままで残る事がしばしばある。何故なれば、有利な条件が与えられるのにも拘らず、志望者の数が――囚人の中から募集される――年々減って行くが故である。
県知事や警察や地方巡察官、収税吏並びに酒亭の主人は、しばしば人々を憐んで税金を強奪しない言訳を与えようとしたりする。富める者はその富をも自分だけの事には使わないで、その幾分を社会の必要のために提供する。地主はその所有地に学校や病院を建てる、そして中には所有地を棄てて自治村を設けたり、又はそれを全部農民に譲与したりする者さえある。製造業者や工場主は、労働者のために病院や学校や、銀行、年金又は宿泊場を設けて、中には自分等も労働者と同等の分け前を受けるような社会を組織するものさえもある。資本主はその金の幾分を教育、社会、芸術並びに慈善的な目的に犠牲にする。一生涯その富から離れるための力を彼等は欠いているとはいえ、多くのものはその死後遺言してその富を公共団体に寄附する事によって放棄している。
すべてこれらの事実は、もしもそれが共通した一つの原因に帰する事がされない時には、あるいは単に偶然なもののように見えるかも知れない、それは丁度春になって、木々が芽を吹き出すという事実が、もしも我等がその原因が広汎の春の時節に因るものであって、従ってもしもある木の芽が膨らみ始める時には、確かにすべての木の芽も一様に膨らみ始めるものである事を知らぬ場合には、恐らく偶然な事実のように見えるに相違ないようなものである。
暴力並びに暴力に基く事柄の意義に関するキリスト教的与論の表出においても、又それと同じである。もしもかような与論が一旦最も敏感な人々に影響して、各その特性に応じて、あるいは暴力によって獲得された有利の地位を放棄したり、あるいは少なくてもそれで利益を得ないようにと人々を誘うようになるならば、その時は確かにその与論は次から次へと人々に影響を与えて、遂には人々の全生活と全活動とを変革して、すでに最も進歩した人々の心の中にあるキリスト教的意識に適(かな)わしめるに至るであろう。
もしも自分の権力の下に何かの事を企てる事を拒み、又は一国の王たるよりもむしろ極く平凡な人間のようになりたいと努めて、自分の特権を喜んで投げ打ち、共和国の最初の市民たらんと公言するような主権者が一旦現れるとするならば、もしもあらゆる戦争の害悪を知って、自他いずれの国民をも殺す事に逡巡する兵士が現れるとするならば、もしも罪人を審問したり処罰したりする事を好まない判事や検事、自分の虚言を放棄する牧師、命ぜられた義務を出来るだけ少しだけ果たそうと努める収税吏、並びに自分の富を棄てる富者などが、現れるとするならば――その時には他のすべての政府や兵士や判事、牧師、収税吏並びに富者もまた必然的に、結局は同じ事をするようになるであろう。最早や何事もかかる地位に就く事を喜ばなくなった時には、その地位そのもの並びに暴力は存在しない事になるであろう。
だがただこのようにして与論は人々をして現在の秩序を廃して他のものをそれに代えしめる許りではない。暴力の生む地位の少なくなればなるだけ、それだけそれに就こうとする望み手も少なくなって、その地位の無用な事が益々明らかになって行くであろう。
キリスト教国においては、前時代に存在していたと同じような主権者や政府があり、それと同じ軍隊と法廷、収税吏と僧侶、並びに製造業者と資本主とがいる、しかし彼等に対し、又彼等の有する地位に対しての人類の態度は変わってしまった。
互いに会見し廻っている同様の主権者や、同様の行列や狩猟や舞踏会、宴会、服装があり、同様の外交家や戦争や同盟の協議があり、同様の国会や東方問題やアフリカ問題や、不和や同盟や地方自治や8時間労働に関する討論があり、又同じような国務大臣や内閣の交迭や同じような演説や政変がある。だが新聞紙上の一論文が数十回の皇帝の会見や議会の開会よりも、事態に影響するところの多い事を知っている人々に取っては、国王の会見や同盟も、又は議会の討議や無駄言も、共に人事を導き得ないで、これらすべてのものと関係のない又一処に集っていないあるものがそうせしめるものである事が、益々明瞭になって来ている。
同じような将軍や士官や兵士や、大砲、堡壘、訓練、閲兵式などがある、しかし一年、十年、二十年を経過する、だがまだ依然として戦争が無い、軍隊は段々と暴動や革命の鎮圧には頼み難いものとなって行く、そして将軍や士官や兵卒は、見世物や行列の人形――国王の玩具で、大きな、途方も無く金目のかかる歌舞団のようなものに過ぎない事が、益々明らかになって来ている。
同じような判事や告発や法廷がある、しかし民事裁判所では非常に多くの理由で判決が通過されるが、決して正義のためではないと言う事や、 刑事裁判所は、判事自身が是認するような期定の効果を刑罰がもたらさないと言う事のために、無意義である、従ってこれらの施設のただ一つの意義は、ただ何か有益な仕事を成し得ない人々に生計費を供するにあると言う事などが、益々明かになって来ている。
同じような祭司や監督や、教会や牧師会議がある、しかしかかる人々はその教える事柄をとっくに信じなくなっている事や、又そのために何人に向かっても自身の信じていない事柄を信ずる必要があると言って説きつけ得ない事などが、益々万人に明らかになって来る。
同じような収税吏がいる、しかし彼等に暴力で人民の持ち物を強奪する事が段々と出来難くなって来ている、そしてかような収税吏が無くても、人々は自ら申し出る寄附によって、必要な金をすべて集める事の出来るのが、益々明瞭になって来ている。
同じような金持ちがある、しかし彼等はその時の個人的な管理者である事を止めて、その所有の全部もしくは一部分を社会に提供する時においてのみ、有用な人間になる事が出来ると言う事が、益々明らかになって来ている。
これらの事柄がすべて万人に完全に明らかになって又公然なものとなる暁には、次の疑いは自然に起って来るであろう、何故我等はこれらの国王や皇帝や大統領、並びに無数の代議士や内閣員を、そのすべての相談や会見が何の益するところもないのに、養ったり支給したりしなければならないのであるか? ある諧謔家の言ったように、むしろ国王を護謨で拵えた方がよくはないか。『将軍や騎兵や軍楽や太鼓を持っているすべての我等の軍隊は何の役に立つか? 戦争も無く、何人も他を征服したりするような事も求めず、又たとえ戦争が起こったにしても、他国民がそれで利益を得る事を妨げたり、軍隊が自国の人民に発砲する事を拒絶するような時に当って、彼等に何の必要があるのか?』
『民事裁判所での判決が決して正義の影がささず、又犯罪事件においては、すべての刑罰は有益である事を充分知っている判事や弁護士の必要がどこにあるのか?』
『必要な金はすべて彼等無しでも得られる上に税金を集める事を躊躇する収税吏が何の役に立つのであるか?』
『とっくに教える事を命ぜられた事柄を信じなくなった僧侶が何の役に立つか?』
『共有財産になって始めて有用なものとなる私人の手中にある資本が何の役に立つか?』
かような疑問を一度起こした人々は、これらの今日必要のない施設を支持する事を止そうと決心せざるを得ない。
その時これらの施設を指示していた人々がそれを廃止しようと決心する許りでなく――自身その地位についているもまた同時、あるいはそれよりも前に、その地位を放棄せざるを得ない破目に立ち至るであろう。
与論の暴力を非難する態度は、益々強固になって行っている、そして与論の力に人々が完全に身を任せれば任すだけ、彼等は日毎に暴力の支持する地位を占めることを嫌がって、すでにかような地位を占めた人々も、段々に暴力を用いないようになって行く。暴力を条件とする地位を占めて居ながら暴力を用いる事に躊躇するので、これらの人々は益々不必要なものとなって行く。かかる不要な事は、これらの地位を支持するものにも、又それを占めている者にとっても、遂には何人も、そのいずれをもする事を欲しなくなるまで漸次に明白になって行っている。
かつてバクスカで、聖トーマス週の間、狩猟街(ハンチングストリート)(バクスカの一市街)の一教会の近くで、慣例として開かれる宗教上の討議に臨んだ事があった。約二十人許りの一群れが舗道の上に集まって、真面目に宗教上の論議をしていた。それと丁度同じ時刻に隣の貴族会館では音楽会が開かれていて、教会の近くの小さな人だかりを見た警官は、一人の騎馬巡査を送った。解散の命令を与えた警官はその群衆を解放せしめる理由を持っていなかった、そこに集まった二十名の群衆は何人の邪魔もしなかったが、警官は朝中そこに見張っていて、何かの事をしようと欲したのである。若い巡査は右手を腰に当てて剣をガチャつかせながら厳しい風体でやって来た、そしてそっけなくこう言った、『解散しろ! 貴様達はここで何をしているんだ?』皆はその方を振り向いた、そして話していたうちの一人の百姓のなりをしていた控目勝ちな人が、静かに穏やかにこう言った、『手前共は、真面目な事を話しているのです、解散しなければならぬ理はありません、若いあなたもお降りになって、手前共の話している事をお聞きなさるがよろしい。多分ため(ヽヽ)になるでしょうから。』そして彼は向き直って話を続けた。その巡査は黙って馬を向けて、戻って行った。これと同じ事柄は、すべての暴行に際してもまた起らなければならぬ。警官は退窟している、彼には何もすることがない、
そして憐れにも彼は命令を発しなければならぬ地位に置かれている。彼はあらゆる人間の合理的な生活が出来なくされている、彼は誰も彼の命令も注目も必要としないのに、あたりを見廻しては命令を発し、命令を発しては又あたりを見廻す事だけしか出来ない。すべて我等の不幸な統治者や大臣や代議士、県知事、将軍、士官監督僧、司祭、並びに金持等は、すでにそれによく似た境遇に陥り出している、そして間も無く彼等はすっかりそうなってしまうであろう。彼等は命令を発する事の他に何もする事がない、だからこそ彼等は丁度かの警官が巡査を派遣したように、人々を妨害するために騒ぎ声を立てたり従者を遣わしたりする、そして干渉を受ける人々が彼等にそうしないようにと願うと、自分等は非常に必要なものである事を示すものだとしてしまう。
だが万人にかような者は少しも必要ではなく、又皆の者の妨げである事も充分明かになって、妨害を受ける人達が、百姓の服装をした人のように、彼等に向かって静かに穏やかに、『どうか私達の邪魔をして下さいますな、』と言うような時は来るであろうし、又それは遠い事ではない。身上(みうえ)の者もその下に随いて居るものも共に、この善き忠告に従わねばならぬようになるであろう、彼等は両臂を張って人々を突き飛ばす事を止めねばならなくなるであろう、又美しい馬から降り、又飾り立てた着物を脱ぎ棄てて、人々の言う事に耳を傾け、且つその人々と団結して人間の真の事業の完成を手伝わねばならなくなるであろう。
現在のすべての暴力の施設が廃止される時は来るであろう。何故なればそれの無益で愚劣で不条理である事が万人に明らかになるからである。
小さい子供が裸体の国王を見て、『何故あの人は何も着ていないのだろう!』と叫んだ時、初めてその事を以前から知っていながら言い出す事が出来なかったすべての廷臣が、最早やその事実を隠す事が出来なくなったと言う、アンデルセン物語の『国王の新調衣』の中の国王のように、今日暴力の地位を占めている人々にもまた、そうした事が起こる日が近づいている。
それは新しい着物を愛好した国王があって、そこへ不思議な着物を拵えると約束する二人の仕立て屋がやって来る話である。王はその二人を雇った、そして彼等は、その着物の特長は、そのついている職務に不適任な者には誰にも見えないところにあると言って仕事にかかった。
廷臣等は来て仕事を検査した、しかし仕立屋達はその梭を空中に運んでいたので何も見る事が出来なかった。けれども前置きの言葉を覚えているのですべての、役人は皆、衣装を見て来たが、大変美しいと思うと言った。国王もまたそう言った。とうとう国王が新調の衣裳で行列に出御すると言う日になった。彼は着物を脱いで新調の衣裳を着た、矢張り裸体のままであった、そして町を練り歩いた。例の条件を覚えているので、誰も進んで国王に何も着ていないと告げるものがなかった。がとうとう最後に一人小さな子供が、こう叫んだ、『御覧、あの人は真裸だよ?』
これと同じ事は随勢で、ずっと前から不必要になっている地位に続いているすべての人々にもまた起こるであろう、即ちロシアの諺にあるように、『一つの手で、も一つの手を洗う』事に厭(あ)いて、従ってこれらの施設の無用な事を隠す理由のない最初の人は、その愚劣な事を指摘して、大胆にこう叫ぶであろう、『なに、これらの人達が有用だったのは数時代前のことだ!』
砲壘や大砲や、ダイナマイトや、小銃、水雷艇、牢獄、絞首台、教会、工場、税関、並びに宮殿を持っているキリスト教人類の狀態は真に恐るべきものである。だが堡壘や大砲や鉄砲は独力で人を損なう事は出来るものではない、牢獄がその犠牲を監禁しもしなければ、絞首台が人の首を絞めもしない、又教会が嘘を吐かなければ、税関が差押さえる事もない、又宮殿や工場は自分で自分を建てたり支持したりするものではない。すべてこれらの仕事は、人々がするのである、そして人々がそれをする必要のないのを知れば直ちに、これらの事物は存在しなくなるであろう。
すでに人々はこの事を了解し始めている。仮にすべての人が了解しないとしても、多くの進歩した人々がそれを了解する、そして他の者はそれをまねるであろう。人類はひとたび最も進歩した人々によって了解された事柄を決して了解せずに済ます事は出来ない、だがかつて小数の者によって理解された事柄に対する人類全体の理解は、疑うべからざる又避け難い必然事である。
すべての人が神に教えられて戦争の術(わざ)を忘れてしまい、剣が犂頭(すきがしら)に代わり槍が鎌となる時が来ると言う予言は、近代の言葉で言い代えると、それはあらゆる教会や牢獄、砲壘、兵営併びに宮殿が空家となって、あらゆる絞首台や小銃大砲は不要となると言う事になるが――この予言は最早や一場の夢ではない、それは人類が日増しに早くなって行く速度で近づいて行っている、新しい生活の定形となって来ている。だがそれは何時実現されるであろうか?
十九世紀以前にこの疑問に答えて、イエスは現在の、即ち異教的な生活組織の終末は、人類の惨狀が最絶頂に達して、神の国の良き知らせ、即ち暴力を離れた新しい生活制度の可能な事が世界全体に知れ渡った時に来るに違いないと言われている。(マタイ伝24章3-28節)
『その日その時を知る者はただわが父のみ』(マタイ伝24章36節)何故かと言うに、自分達の一寸も予期しない何時かの日に、瞬間にそれがやって来るかも知れないからである。イエス・キリストは、我等はその間近に来る時を知る事が出来ない、けれども自分達はこうした理由のために、何時もそれに間に合うように、丁度家を護る主人のように、又は燈を執って新郎を迎えに出る童女(むすめ)のように、いつも予備(そなえ)をして居なければならぬ、又金を預けられた僕(しもべ)のように、自分達は又その時の来るのを早めんがため全力を尽くして働かねばならうと言われている。(マタイ伝26章43節、25章1-30節)その時は何時来るかと言う問いに答えて、イエス・キリストは、声を枯らして人々にその到来を早めんがために全力を尽くさなければならぬと勧めている。
この答え以外に何かの答えの有りようがない。人類は神の国の到来の日も時間も知る事が出来ない、何故かと言うにその時の到来はただその人々自身によってのみ左右される事柄であるから。
それの答えは、丁度町にはまだ遠いかと旅の者に聞かれてある聖者が、『進め!』と言った答えに似ている。
自分達は、人類はどうして目的に向かって進むだろうか、前進をするだろうか、又は立ち止まっているだろうか、速度を早めるだろうか減らすだろうか、又は全然それを無くしてしまうであろうかと言う事柄を知らずにいながら、どうして人類の求めている目標まではまだ遠いかどうかを知る事が出来よう――なぜかと言うに、これらの事柄は、皆人間の力でどうにでも出来るものであるからである。
自分達の知る事の出来るすべての事柄は、人類を形づくっている自分達が、神の国を招来するために為さなければならぬ事と為してはならぬ事である。この事柄を、自分達は充分によく知っている。自分達銘々が義務だと知っている事をし始めて、その反対の事柄を止め、又自分達銘々が皆の心が精進している約束された神の国を招来するために、衷なる光に従って生活すればそれで充分である。
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