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トルストイ『神の国は爾曹の衷にあり』 結論

『神の国は爾曹の衷にあり』
結 論
(一)
丁度この二年に亘る著述を終えようとしていた時であった、私は1892年9月9日に鉄道に乗って、ツーラ県とリアガン県の地方に行かなければならなかった。そこでは昨年の餓死に瀕した百姓たちが、今年は更にひどい悲惨な目に逢っているのであった。ある停車場で私の列車は、知事と、それからこの同じ飢えかかって居る百姓たちをいじめ惨殺するがための小銃や弾薬や笞を携えた軍隊とを乗せた特別列車に出会った。
三十年以前に(ロシアにおいては)法律によって笞刑が廃止されているにも拘わらず、政府の取り決めた事柄に、服従を強いる一手段としての笞の拷問は、最近数年間、益々その数が増加して来ている。
自分はそれについては聞いた事もあるし、又ニジニィ・ノヴゴロドやバラノフ県の知事が自慢した恐ろしき拷問の話や、又はチェルニゴフやタムボフ、サラトフ、アストラハン、並びにオーレルで加えられた拷問の記事を新聞紙上で見た事さえもある、けれども私は未だ一度も今のように、それ等の事柄のなされる光景を目撃した事はなかった。
今私は目のあたり、親切な、キリスト教精神の浸み込んでいるロシアの人達が、小銃や笞を携えて、彼等の飢え死にしかかっている兄弟達を苛めたり殺したりするために赴くのを見た。
彼等の遠征の原因は次のとおりである。
ある金持ちの地主の所有地の一つで、百姓たちが、百姓と地主共有の一枚の土地に、森林を植培した(植培と言うのはその成長する間、世話をすると言う意味である)。百姓たちはいつも森林が必要である、で彼等は、それは自分たちのものあるいは少なくとも共有財産であると考えて居た、ところがとうとう或日地主がその森は自分のものだと公言して、その木を切り始めた。百姓たちは訴訟を持ち出した。裁判官は最初の訴訟で地主に都合のいい不正な判決を下した(自分は事件を知る必要のある知事や検事の職種に関して不正だと言うのである)。その訴訟の判決が不正なのは極めて明らかな事であったけれども、控訴院並びに大審院もすべてがその宣告を是認して、森林は地主のものであるとした。彼は木を伐り始めた、しかし百姓たちは政府の者がこんな見えすいた不正を犯すものとは信じられぬ事として、森林は自分たちのものだ、木を伐らさすよりは皇帝自身に請願した方がましだと言い張りながら、木を挽くために使わされていた職人共を追払ってしまった。
訴訟はぺテルスブルグに移された。そしてそこから県知事は裁判所の判決を強行する命令を受取った、県知事は軍隊の派遣を要求した、そして私の見た兵士たちは、丁度鉄砲や銃剣や、特にその目的に用意された笞を携え、貨物列車の一つの箱に積まれて、最高権威の決議を実行しに出かけて行く途中であった。
最高権威の命令の実行は、犠牲者が抵抗するかしないかによって、拷問殺人の手段によるか、又はその威脅によるかのいづれかで、強要される。
第一に、もしも百姓たちが服従する事を拒む場合には、ロシア並びに国家の制度と所有者との存在するあらゆる国々におけるその結果は次の通りである。――
指令官は一場の演説をして服従を要求する。大抵はその指導者に欺かれ昂奮した群衆は厳めしい役所向きで言う国家の代表者の言葉を一つも解しないで、やはり擾騒を続ける。そこで司令官はもしも服従をして解散しないならば、兵力を用いると公言する。もしも群衆がまだ言う事を聞かない場合には、司令官は小銃に装填して人民の頭越しに発射する事を命ずる。もしもこれすらも何の効能がない場合には、彼は兵士に群衆の只中を目がけて発砲する事を命ずる。彼等は発砲する、死者や傷者は舗道の上に倒れる。そこで群衆は大抵四散する、そして軍隊は上官の命令によって主な煽動者と考えるものを捉まえに掛って、それを捕縛してしまう。
次に血に塗れた死者や死に瀕した者や、傷ついた者や不具にされた者を、又時とするとそうした婦人や子供も拾い上げられる、死者は埋められ負傷者は病院に送られる。指揮者と認められる者は町に送られて、特別軍法会議に附せられる。もしも暴行をした咎で有罪と決定するならば、絞罪を言い渡される。直ちに絞首台が建てられる、そして数人の無抵抗の人々が、ロシアやその他暴力の上に築かれた国家組織のあらゆる国々で、もう何処となく繰り返されたと同じように綱で首を絞め、殺されてしまう、それ以外にどうとも仕様が無いのである。これは抵抗された場合の出来事である。もしも百姓たちが抵抗しない場合においては、一風変わった全くロシア的な事柄が起こる。県知事がやって来て、百姓たちの不従順を責めながら一場の演説を試みる。次に軍隊を村の別な家屋に駐屯せしめる、そしてそこで彼等は時によると一ヶ月も滞在して百姓たちを食い潰してしまう、でなければ県知事は威嚇するだけで満足して、寛大らしくも謀反した者らを釈してから出発する。けれども大抵の場合では、県知事は首謀者を罰する必要があると公言して、審問らしいことは少しもせずに、気の向くままに数人の運動者らしいものを捉えて、彼の面前で笞打つようにと命ずる。
こうした事柄がどうしてなされるか想像の出来るように、オーレルであって、最高権威の嘉納(かのう)するところとなった同種の事件を記述してみよう。
オーレル事件もツーラでの事件と似ている、地主が百姓の財産を奪おうとして、百姓がその企てに抵抗したのである。この場合では地主が百姓たちの同意も得ずに、自分の水車場に使う水を彼等の田地を漲濫せしめるような高さで蓄えようと欲した。百姓たちは反対した。地主は地方警察署長に訴訟を持ち出した。彼は(後になって裁判所が是認したように)地主の肩を持って不法に判決を下して、水嵩を高める事を許した。地主は自分の職人をやって水がひけていた水路の堰をとざした。百姓たちはこの不法な判決に激昂して女達をやって職人が堰をする事を妨害させた。女達はやって来た、そして革をひっくり返して、職人達を追払ってしまった。地主は不法行為の咎で女達を告訴した。地方警察官は命令を出して、村じゅうの各家庭から一人ずつの女を監禁させた。その命令は実行の困難なものであった。各家庭には数名の婦人が居た、そして彼等は誰が一体捕縛されていいか分からなかったので、警察はその命令を励行することが出来なかった。地主は県知事に警察の怠慢を訴えた。県知事はその事件を検べて見ようともせずに警察署長に、即刻地方警察官の命令を実行するようにと命じた。署長は命に従って村へやって来た、そしてロシアのお役人特有の人を軽蔑したような態度で、警察に向って『各家族から一人ずつの婦人』を捕縛する事を命じた。だが各家族には数人の婦人が居て、その誰が一体捕縛されるべきか分からなかったので、争論と抵抗とが起きた。これにも拘わらず署長は部下に命じて、家々で手当たり次第に――手のつけられる女は誰に拘らず――捉えて、捕縛さした。百姓たちが妻や母親を庇って、彼等を手渡しする事を拒んだ、そして署長や警察に手ひどく手向かった。これは新しい又大きな罪……政府の官吏への抵抗……であった。そしてこの新しい罪は直ぐ撑町に報告された。県知事は、ツーラ県の知事と同じように小銃や笞を携えた一大隊の兵士と、笞打ちの衛生を管理する名誉ある医者とを引き伴れて、特別列車で出発した。電話や電報や汽車の便を借りて、彼等は現場に到着した――ヘルチェンの予言した近代の完全な成吉思汗の化身である。村役場の近くに軍隊と、赤い紐に吊るした拳銃を携えた一体の警官と村吏とそれから告発された者とが整列した。その周りには千人以上の群衆が集合した。県知事はその場にやって来て馬車から降りながら、前置きの演説をして、それから犯人と椅子とを持って来る事を命じた。その命令は最初皆に了解されなかった、だがいつも知事のお伴をして、しばしば彼の長官のする拷問の準備を受け持っている警官は、それは笞刑に使う椅子であると説明した。椅子は持ち出された、笞は差し出された。そして刑吏が召喚された。この刑吏は前もって村の馬泥棒の間から選び出されていた。兵士たちはこの様な役目をする事を拒んだのである。
万事に準備が出来た時、県知事は、地主が一番罪のある者だとして報告して置いた十二人のうちの最初の者に前へ出よと命令した。その男は一家族の父で、中年で、何時も男らしく自分の権利を保持するので村人の尊敬を克ち得ている、社会から大変に重んぜられている一員であった。彼は裸にされて長椅子のところへ伴れられた、そしてそこに長くなれと命ぜられた。
その男は許しを乞おうとした、けれどもそれの甲斐無いのを知って、彼は十字を切って身を横たえた。二人の警官は彼をじっとさせて置くために彼を捉まえた、そして学問のある医師は、必要な場合には直ぐさま治療をするためにその側に立った。馬泥棒は手に唾をして笞を振り上げて投げ降ろし始めた。が長椅子が余りに狭すぎて犠牲者の滑り落ちるのを捉まえている事を妨げた。そこで県知事はもう一つ椅子を持って来て、それを側に並べて置くようにと命じた。兵士たちはただ帽子の庇のところへ手を挙げて、『はい、閣下』と答えた丈で、急いで命令に服した、その一方に青白めて半裸体にされたさっきの男は、手足を震わせて伏目になって、立って待っていた。彼の眉は引きつり、顎は震えていた、長椅子が用意された時、彼は再び横になった。そして馬泥棒は又うち続けた。彼の背や足や横腹は破れ傷や腫れ傷で一杯になった、その笞の下ろされる度毎に拷問を受けている男の最早や抑えることの出来ないうめき声が続いて起った。日まわりに立って居る群衆の中には、犠牲者の妻や母親や、子供や親族の者又は同じ刑罰を受ける事になって居るすべての者の鳴き声や啜り泣く声が聞かれた。
権力に眩まされた、自分のするのを正しいと思っている哀れな県知事は、指で笞数を数えてひっきりなしに煙草を喫かした、そしてそれに火を点けるために数人の下役が、その度毎に急がしく彼に燐寸を差上げた。五十の笞の後、その男はうめき止んで身動きもしなくなった。政府の学校で、国家と皇帝日のためにその科学的な知識を用いるように教育された医師は、犠牲者の上に曲み込んで、脈拍を検べたり心臓の鼓動に耳を当てた、それから恭しく国家の代表者に、犯人は意識を失ったので、懲罰を続けて加える事は医学的な見地から見ると危険であろうと報告する。だが憐れな血の色ですっかり酔った県知事は――七十の笞――それは何かの理由で彼が懲罰用に決めている数である――を数えるまで拷問を続けろと命令した。七十度目の笞が下ろされた時、彼は『それで充分だ』と言った。『次の番のもの!』そして膨らみ上がった背をした気の遠くなった傷だらけの身体は運び去られて、第二番の者が引っぱり出された。群衆の啜り泣きやうめき声が段々と大きくなって行った。だが権力の代表者は拷問を続けた。第二の者、第三の者、第四、第五、第六、第七、第八、第九、第十、第十一の者及び第十二のものが笞打たれた――銘々七十の笞を受けながら。彼等は皆慈悲を乞い、叫びうめいた。女達の群れの啜り泣きやうめき声は益々大きく又人をして断腸の思いに断えざらしめるものとなって行った、又男たちの顔は一層厳粛になり暗くなって行った。だが軍隊はその周囲に整列して、拷問は憐れな半ば酔っぱらった心得違いをしている県知事と呼ばれる男が乱暴な気紛れ心で必要だと考え込むに至った仕事が、完了するまで続けられた。
士官や兵士や官吏達はこの行為を目撃した、そしてそこに列席してその行為に関与し、又この政府の必要な行為を、群衆が妨害せぬようにと防衛した。
私が知事に向って、何故この様な拷問を、服従してしまった人々に、しかも軍隊がその村に既に駐屯しているにも拘わらず加えるのであるかと質問した時、彼は――国家の色々な複雑した知識に通暁した者のような勿体ぶった様子をして――経験に徴しても分かるように、もしも百姓等を笞刑に処しない場合には、彼等は再び間も無しに政府の決める事柄に反抗するから、そうするのであると答弁した。少数者の刑罰が、永久に国家の命令を是認したのである。
今又ツーラ県の知事やその部下の官吏や、士官や兵士たちが同じ仕事で駆け回っていた。再び惨殺と拷問とによって、最高権威の命令が実施されねばならなかったのである、そしてその命令と言うのは年々一万ポンドの収入のある若い地主をして、飢え且つ凍えかかっている百姓たちの社会から、詐欺的に掠奪した森林で、もう三百ポンドの、二、三週間と経たぬうちに、ペテルスブルグやパリの料理店で無くしてしまうような金額を得さすと言う事にあるのである。
これが、私が出会ったところの人々の仕事であった。それはあたかも一つの主意、運命が、私に二年間も一つの方向に心を打ち込んで努力を続けた後で、生まれて初めて面と向かってこの様な現象、私が非常に長い間学説的に確信して居たところのものの、即ち我等の生活制度は何等の抽象的な司法上の原則の上にも――現在の組織の下で有利な地位を享受して居る人々が好んでそうらしく見せる様に――築かれていなくては、最も残忍な、原始的な暴力――人間の虐殺と拷問――の上に築かれて居ると言う考えの実際的な説明と真正な証拠とをもたらしたようなものであった。
土地や資本の大額を所有したり、又は生活に第一になくては叶わぬものにも事欠く、餓えかかっている人民から搾り集めた高額の俸給を貰って居るすべての者、それにこれらの富者に仕えて生活して居る例えば商人、医師、芸術家、僧侶、科学者、馬車使い、料理番、書記、下男、弁護士のようなすべての者、これ等すべての者は、好んで彼等の享受している利益は暴力の結果ではなくして、完全に自由な公平な労力の代償であると考えている。彼等は喜んで、この様な特権は、この夏にオーレルで、また他のロシアやアメリカで行われている笞刑や虐殺によって得られたものでも、保護されるものでも無く、又それに少しも関係して居ないと信じている。彼等は、自分等のうけている特権はひとりでに存在しているものであって、人々の上に加えられる暴力もまた、ひとりでに存在しているものであって、ある崇高な一般的な、政治的経済的並びに法則的の法則であると思っている。彼等は自分等の得ている有利の地位はいつも同一の手段で、且つ森林を育ててその必要にさしせまっていた百姓たちをして、それを育てもしなければその必要もない金持ちの地主に譲渡する事を余儀なくさせたと同じ論法――即ちもしも百姓たちが森林を譲り渡さない場合には、彼等は笞打たれたり殺されたりしなければならぬ――で得られるものである事を知ろうとはしない。
だがもしもオーレルの水車場が河を堰いてから、その所有主に収入を増加せしめたり、又は百姓たちの育てた森林が金持ちの地主のものだと判決されて、しかもこれらの事が共に虐殺や拷問の、もしくはそうした事での威嚇の結果である事が否定し得ないとするならば、貧しきものから生存の最も主要な必要物を略奪する他の一切の富者の権利と特権もまた、等しく同じ暴力に基づいている事が確かに否み得ないに相違が無い。
もしも家族を養って行くのに土地を必要とする百姓たちが、彼等の村を取り巻いている田畑を耕す事を許されないならば、そしてもしもこの千人の家族を優に養える広さの土地が、一人の人間――ロシア人、イギリス人、オーストリア人もしくは他のそこで働いた事のない富める地主――の所有になっているならば又もしも商人が百姓たちの穀物をその必要な時に買い取って、無難にその穀物を人々の餓えている只中に倉にしまい込んでおいて、その値打ちの半分以下で買い入れた百姓たちに、その三倍の値打ちで売付けるとするならば、これらの事は明らかに同じ原因から生ずるところのものである。もしも人が国境と呼ばれる因襲的な線を越えて安価な品物を、その製造に少しも従事しない人々に分配したり、その当の納税者を虐待するように仕組まれた兵士共の支持に使用されるところの税金を納めるために、最後の牝牛をも手放してしまうならば、その時は確かに何でも、そのような社会狀態は何かの抽象的な権利の結果ではなくて、オーレルだとか又は現在ツーラでなされているのと類似の、又何か一つの形式で、国家と貧富の懸隔とが存在するところでは何処でも、全世界を通じて一定期間の間、法律として制定されて居るところのものの結果であるのを疑うことは出来ないであろう。
拷問や虐殺が、それでも暴力の上に基礎を置いている人間関係において、常には必要とされて居ないと言う事実で、支配階級の独占的な有利の地位を占めている者等は、自分たちの享受している特権は圧迫や殺戮の結果ではなくて、ある何か他の神秘的な普遍的な原因の、あるいは抽象的な権利やその他の結果であると、自分も信じ、又他の者にもそう信じさせている。しかしもしもその様な社会狀態の不正であることを確認している人々(例えば、労働者)が、矢張り続いてその労働の大部分を資本主や地主に譲与したり、又は悪い目的に使用されるものとは知りながら税金を支払ったりしているならば、それは、彼等が自分等の少しも耳にしたことのないようなある何かの抽象的な権利を信じているからではなくて、もしも服従する事を拒むならば、笞打たれたり屠られたりしなければならぬ事を知って居るからそうするのであることは明らかである。
もしも地主が地代を徴収したり、飢えたる農夫が彼をごまかす商人に価格の二倍も払ったり、又は職工が暮らして行けるか行けぬ位の賃銭で満足したりしなければならなかったり、貧民が税金を義務の為めに最後のルーブルまでも手放すような、あらゆる場合において、実際に投獄や笞刑や殺人が必要なものとならないとするならば――それは人々が要求された事に対する抵抗のために、非常にしばしば拷問にかけられたり惨殺されて居る故に、それに関する記憶が彼等をして服従を余儀なくせしめるからである。丁度訓練された虎が前足の間に置かれた肉に触れずに、命ぜられるままに棒の上を飛び越えるのは、彼がそうしようと欲するからではなしに、服従を拒むたびに飢餓や灼熱の鉄棒の苦しみを思い出すからであるのと同じように、人々の自分等にとって不利でもまた危険でもあり、又その不正な事を充分知って居るところの制度に服従するのも、またそれに反抗しようと企てて遭遇した事柄を、記憶して居るからであることを忘れ、且つ好んで忘れている。だが笞刑や牢獄や囚徒漕艇や殺人が、貧者に対する富者の有利なる地位を得せしめるに至ったただ一つの原因でもあり、又根底でもあることを知らんがためには、人はただ歴史の真相――王朝や暴君の掠奪の歴史ではなく、真の歴史即ち少数者による多数者の圧迫の記録――を考えなかったと言う事を知るためには、人はただ、現代の人々のおもな誘因者でもありまた指導者でもある根強い絶え間ない所有欲の事を考えるだけで充分である。
時とするとその直接の目的が、富者の有利な地位を強固にするためでない笞刑や投獄や死刑執行や圧制があるかも知れない(しかしその様な場合は極く稀にしかない事である)けれども自分たちは何の躊躇する事なしに、今の社会――中位の金持ちの一人に対して十人の疲れた過度の労働についている、妬心に烙えている貪欲な、又しばしばひどく苦しんでいる家族を持っている労働者がいるところの――では、富者の一切の特権と豪奢並びに一般の労働者に比べて彼等のうけている一切の余分な事柄は、ただ拷問と投獄と死とによってのみ得られ、又支持されるものである事を断言する事が出来る。
(二)
9月9日に私の出逢った汽車は、百姓たちから搾取した森林、彼には一つも必要なくて、百姓たちに取っては何より必要なものである森林を所有する金持ちの地主の権利を確証するために、餓えた百姓たちの許へ送られる兵士や小銃や弾丸や笞と一緒に、それを自覚する様子も無しに、人々が良心や確信とは正反対の事柄をする能力をもって到達し得た、完全の程度の驚くべき実証を提供してくれた。
私の出逢った特別列車は、県知事や将校や官吏のための一等車と、兵士たちの一杯になっている貨物車とで成り立っていた。勇猛な若い兵士たちは立ったりあるいは貨物車の開け切った入口に、両足をだらりと垂れながら座って、群れ集まっていた。ある者は煙草を喫かしていた、ある者は互いに臂で推し合ったり、丈夫な歯並びを見せながら戯談を言っては笑っていた、又ある者は非常に満足しているらしく木の実を噛んではその殻を吐き出していた。ある者はプラットホームに跳び降りて、水を呑みに水桶の方へ走って行った、そして自分たちの士官の誰かに出遇って、急に立ち止って、馬鹿げた身振りをして手を額のところに上げた、そして何か非常に賢い重大な事でもしているかのように、真面目な顔をして彼等を見送った、それから彼等は、通り過ぎてから、又プラットホームをばたばた鳴らしながら、健康な親切な、愉快な図体と一緒に旅行している若い男に自然な、笑ったり喋ったりして悦しげに駆け出した。
彼等は餓えている父や祖父を惨殺しに行く途中にあったのである、しかも彼等はその事を非常に愉快な、あるいは少なくとも非常に有り触れた日常の出来事位にしか考えていないように見えた。
プラットホームや一等待合室に散らばっていた綺麗に身支度をした士官や官吏達も、同じような印象を与えた。酒瓶類の並んだ卓子には、県知事――この遠征隊の司令官――が、あたかも彼の使命が彼の平静を乱したりもしくは天気具合についての興味を減じない位に単純な又普通な仕事であるかのようにして、彼の行き遇った知り人と、一緒に食ったり天気ごとを落着き払って喋ったりしていた。
かなり離れたところで警察署長が何も食わず、又煩わしい形式的な事に疲れたようにして、奇妙なしかし憂鬱な様子をして座っていた。あらゆる場所に、恰好のいい金モールの付いた軍服を着た士官たちが声高く話しながらぶらついていた、ある者は卓子に座って、麦酒の瓶を呑み干していた、ある者は食物店の側に立って、パイをしゃぶりながら、軍服の上に落ちた破片を振るい落としていた。そしていかにも自慢らしくに銅貨を投げ出していた。ある者は列車の前を女の顔を覗き込みながら、一歩毎に弾力のある膝の曲げ方をしてぶらついていた。これらすべての者等は、無抵抗の、餓え死にしかかっている百姓たち――自分等を養い又支持している百姓たち――を、虐殺したり拷問に掛けたりしに行く途中にいたのである、しかも彼等はしなければならぬ事柄を正確にしているのだと完全に信じ切っているような風をしていてむしろその仕事を誇りとし又見せびらかしさえもしていた。
これらは一体何を意味するのであるか?
これらの人々は一人の金持ちに、一寸も必要のない、しかも餓え掛かっている百姓の社会全体から彼が搾取したところの三百ルーブルの金を与えるために赴いている、その目的地に、もう三十分もたたぬうちに着くところであった、彼等は恐らく考える事の出来るうちでの一番恐ろしい行為――罪のない人々即ち彼等の兄弟をオーレルでした時のように、苦しめたり殺したりする事――をしなければならぬだろう。だのに彼等は落着き払って、この恐るべき事柄が始まる時と処とに近づいて行っている。
これらすべての士官や官吏達が、彼等のために何が供えられてあるか、どう言う事をする事を期待されているかを知っていないと考える事は出来ない。彼等は前もってすべての準備をしている。県知事は笞の注文を発した。官吏達は赤楊の枝を買入れて、その代金を支払って、その金額を勘定書に書き入れた。士官や兵士たちは装入弾薬に関する注文を発してそれを受領し且つ配与した。彼等すべては餓え掛かっている無抵抗の兄弟を苦しめに、又恐らく虐殺しに行っている、そして一時間と経たぬうちにそれをし始めるのだと言う事を知っているのである。
又等しく――彼等自身が言い一般にもそう信じられているように――彼等は主義の下に、又国家組織の支持のために必要であるという確信の下に、行動していると考える事も出来ない。第一、かような人々のうちの誰かが、国家組織について、もしくはその必要について考えた事があるとは、とても有り得ない事である、第二に、彼等は将さにしようとしているその行為が、国家を破壊するよりもむしろそれを維持するのに役立つとは、どうしても信ずる筈がない、第三に全部でないとしてもこれらの人々のうちの大部分は、彼等自身の平和や幸福などを、国家の維持のために犠牲にしようなどとは、決して思い付きはしないであろう、それに反して、彼等は決して国家を犠牲にして自分の利益を増進する機会を見脱しはしないであろう。だから彼等は抽象的な主義の信仰から動いているのではない。
では、一体これは何を意味するのであるか?
私はこれらすべての人々を知っている。個人的には知らないとしても、ほぼそれに近い彼等の性格や、彼等の過去の生活や思想の傾向を知っている。彼等には母親がいる、ある者は妻や子供を持っている。彼等はその心が、大体親切で大人しくって、虐殺は言うに及ばず、あらゆる残酷の事柄を嫌う優しい心の人々である、そして多くの人々は、動物を殺したり傷つけたりする事すら出来ない。彼等はすべてキリスト教を信奉している。そして無抵抗な人々に加えられた暴力を、陋劣な憎むべき行為だとしている。このように人々のうち何人といえども、自分自身のささいな利益のために、その個人の生活で、オーレルで県知事のした事柄の百分の一もすることは出来ないであろう。そしてもしも誰かが彼等をその日常の生活内でそれと類似の行為をやり兼ねない男だと疑うならば、きっとひどく立腹するに相違ないだろう。しかも今彼等はかような恥ずべき事柄をどうしても為さねばならない場所に、三十分と経たぬうちに着こうとしているのである。
これは一体どう言う意味であるか?
誰に虐殺や拷問の準備をして列車に乗り込んでいたこれらの人々だけではなしに、この全事件を引き起こした他の人々、地主、財産管理人、判事、並びにペテルスブルグにいてこの事件を指図し且つ今でも命令をもってそれに関与している人々、即ち国務大臣や皇帝など――すべては善良な人々で、又キリスト教の信仰者である――が、どうしてその行いを知っていながら、かような事件を起こしたり指図したりする事が出来るのであるか?
どうしてこの事件に関与しない、又、そしてどんな場合の暴力でも、(よしそれが馬に対する残酷であるとしても)憤慨せざるを得ないところの傍観者たちは、どうして彼等はかような奇怪極まる行為の準備を黙視してゐる事が出来るのであるか? どうして彼等はそれにそむき反抗して、『いや、こう言う事をしてはいけない! よし彼等が詐欺的に掠奪された自分等の最後の財産を譲り渡す事を拒んだからと言って餓えに瀕している人々も虐殺したり笞つ事を、自分たちは許す事が出来ない!』と叫ばないのであるか? だが何人もこういう風に行動しようと考えている者はいない、それに反してこの事件の創始者――地主、財産管理人、判事、並びにそれを指揮し且つ関与した人々――県知事、国務大臣、皇帝――は全く落着き払って、後悔の影すらも感じていない。又この罪悪を犯しに行くすべての者も等しく落着き払っているように見える。
この事件に興味を持つ事が出来ぬらしい見物人は、反ってこの恥ずべき仕事を実行しようとしている者を非難するよりもむしろ同情の念をもって見ている。私と同じ席に、百姓生れの材木商が坐っていた。そして彼は百姓たちの受ける拷問を是認する言葉を声高くきっぱりと言い放った、『人は命令に従わなくちゃならない』と彼は言った、『でないと政府は何の役にも立たなくなるわけだ。今に奴等をひっつかまえてやるから。奴等は二度と騒動を起こすような事はなかろう、いい罰当たりだ。』
これは一体何を意味するのであるか?
これらすべての人々――この事件の扇動者、関係者、協力者――は、その行為の嫌悪すべきものであるのを知りながら――金のためや個人的な動機からや、又は刑罰のおそれから――自分の確信に反した行為をする位の悪人であるとは言う事が出来ない。これらすべての人々は、ある狀態の下ででは、自分の確信を防護するであろう。これらの官吏のうちの誰一人、財布を盗んだり、他人の手紙を読んだり、あるいは無礼者から満足を求める事なしに侮辱を耐え忍んだりするものはなかろう。又これらの士官の何人も歌留多を誤魔化したり、賭博の負債を払う事を怠ったり、又は同僚の士官に裏切ったり、戦場から脱走したり、軍旗を捨てたりしはしないであろう。又これら兵士たちの何人も聖書に唾を吐き掛けたり、復活祭前の金曜日(ホリイ・フライデイ)に肉食したりしないであろう。これらすべての人々は、間違いと考える事柄をすることを承諾するよりも、むしろ進んであらゆる種類の危険や貧困や苦痛にも耐えようとしている。故にこれらの人々は彼等をしてその確信に反するところのものを為す事を妨げる抵抗力を持っている。
又これらすべての人々が、かような行為を犯すのは自然で愉快な事と考える野獣だと断言出来ないのは尚更の事である。これらすべての人々――地主や判事や県知事、皇帝、士官並びに兵士たち――が、その心の奥底では、かような行為を是認するような事はなくて――その行いの意義が指摘された場合には――その行為に関係したという意識に悩むものである事を知るためには、人はただこれらの人々と共に話をすれば充分である。彼等はただその行為について考える事をしないだけである。
彼等がその心の奥底では自分の行為の善くないのを自覚していて、それに関与しない方がいいと知っている、従ってこうした知識に悩むものである事を確認するためには、人はただこれらの暴行の関係者――地主から最後の兵士や巡査に至るまで――と話をすれば充分である。
自分たちと同じ列車で旅をしていた一人の自由な思想を持った貴婦人は、待合室の中の知事や兵士たちを見て、彼等の旅行の使命を知ってから、辛辣に、皆に聞える位大声で、現在の社会狀態を非難したり、この仕事に関与する者等を罵倒したりし始めた。その場に居た皆の者は、不安を感じ始めた、そしてどこを向いていいか分からなかった、だが誰も彼女に応答するものはなかった。彼等はかような愚劣な話に受け答えする価値はないと思っている風を見せた、しかし彼等の顔の表情や外に向けられた目の工合で、恥じているのは明らかであった。私は兵士たちにあってこれと同じであるのを認めた。彼等もまた自分の使命の悪い事を知っていた、しかし彼等を待設けている事柄について考える事を好まなかった。材木商人が――私は信ずるが、不真面目に、又単に自分の優れた教育を示したい許りに――かような手段の必要なのを話し始めた時、すべての兵士たちは彼から顔を背けて、眉をしかめて、彼の言う事が聞こえぬ風をした。
それを維持するのが吾人の義務となっている現在の制度の必要な事と、従ってそれの不変性との信仰は、親切な、又一私人としての生活では道徳の高い人々をして、比較的落ちついた良心をもって、オーレルであったような、又はやがてツーラ鉄道の乗客によってなされようとしていたような事件に、関与せしめる。
かような自信は、一体何に基くのであるか?
現在の組織の必要な事とその不変性とに対する信仰が、地主にとってはうれしい又望ましいものであるのは自然の事である、何故ならば現在の組織は、彼をして日常の懶惰な贅澤な生活を送らしめるところの数百千エェーカーからの収入を、保全するからである。
判事が彼をして最も生産的な労働者よりも五十倍も澤山に儲けしめるところの現在制度の必要を信じて非常に幸福に感じるのは当然である。六百ルーブルあるいはそれ以上の年俸を支給されている一切の高等官たち並びに裁判長においてもまたこれと同じであるのは、容易に了解されよう。
彼――県知事、弁護士、上院議員、あるいは地方議会員――の、それ無くしては彼や彼の家族は、一旦今ついている職を奪われただけで、到底今支給されている金の百分の一も取れないので、彼の能力や生産力や知識では確かに生きていられないところの俸給を安全にするものは、ただ現在の制度だけである。
国務大臣や皇帝やその他一切の最高権威もまた、それと同じ境遇にいる、ただその相違するところは、彼等の地位が高まって行って独占的なものとなればなるだけ、益々彼等に取っては現在の制度が無くて叶わぬただ一つのものとなって行く点である。何故ならばもしひとたびそれが廃止された暁には、ただに同じ地位を占める事が難しくなる許りでなく、残りの人類全部よりも、もっと低い地位に落ちてしまうからである。一ヶ月十ルーブルで自分から進んで警官の職に傭われるものは、その位の金は他の仕事で容易に儲ける事が出来るので、余りに現在の制度の維持に留意しない、又それが為めにそれの不変性を信ずる事も躊躇するに相違なかろう。だが数百万の収入のある境遇にいる国王や皇帝は彼の周囲に、彼を顚覆してその位を奪おうと望んでいる数千の人間がいる事を知っている、また他の境遇ではそれと等しい富と尊敬とを獲得することも出来ぬ事や、又――多少專政的な政府の場合のように――もしも顚覆された暁には、きっと権威の仮面の下でして来た事柄で罰されるに違いないと言う事をも知っているから――国王や皇帝は、現在制度の不変性と神聖とを信ぜざるを得ない。
人間の占める地位がより高く有利に、又従って不安定になればなるだけ、それを喪失する可能性が一層危険になり又回復し難くなって行く、又それを占めている人間は一層深く現在の制度の不変性を信ずるようになって、一層徹底的に冷徹な良心をもって、自分の為めではなく現在の制度の支持のためであると偽って、邪悪な残忍な行為を犯すようになるであろう。
もしも現在の組織が廃された暁に獲得し得るものよりも遥かに有利の地位を占めている、あらゆる最下級の警官より最高の権威者に至るまでの――政府の役人の境遇は実にこれである。これらすべての人々は。それが自分等に取って好都合であるという理由のために、現在の制度の不変性を信じているのである。
だが何が、現在の制度から何ら利益をも搾り取ることも出来ず、又その地位が最も極端な奴隷的な劣等なものであるところの、梯子の一番下に立っている百姓や兵士たちをして――何が彼等をして、その貧しい劣等な地位が負うところの多い現在の制度が、正しい最もいいものであって、又それを、もし必要とならば彼等の良心が非とする悪い行為をも犯して支持することが、彼等の義務であると信じさせるのであるか?
何がこれらの人々をして、現在の制度は不変的のものである、従って、その反対にもしもその制度が不変的なものであるとするならば、ただ彼等がそれを支持しているからであると言う事が明白であるにも拘らず、それを支持しなければならぬと言う間違った考えを受容れしめるのであるか?
何がこれらの人々をして、鋤を捨てて嫌な不似合いな空色をした金釦の洋服を着て、剣や鉄砲をもって彼等の餓え掛かっている父や兄弟を殺しに行かすのであるか? 彼等はその地位で利益を得てもいなければ、又それを失う事をおそれる必要もない、何故なれば、それは彼等が以前に占めていた地位よりも尚一層悪いものであるからである。
高い階級の重なる代表者――地主、商人、判事、上院議員、県知事、国務大臣、士官、並びに君主――はこれらの行為に関わって、もって現在の制度を維持している、何故なれば彼等はその制度で利益を得ているからである。その外に彼等は、しばしばくり返し優しい親切な人であるにも関わらず、暴力にさえ関わる事が出来る、それは彼等のその関与が、ただ判決だとか、扇動、指揮に於てのみ現わされているからである。彼等は自分で手を下して、命じたりおだてたりした事をしない、そして多くの場合、彼等はかような恐ろしい罪悪が行われる有様を目撃さえもしない。
しかし下級の憐れな、現在の制度からは何等の利益にも浴する事がなく、又その制度の結果として最も極端な屈辱をこうむっている人々――かような人々は、自分等に取って最も不利益な組織を維持するために、自分自ら手を下して、家族から人々を引き裂いたり、縛ったり、牢獄や囚徒漕艇の中に幽閉したり彼等を看守したり又は射ち殺したりしている。なぜ彼等は一体こう言う事をするのであるか?
何がこれらの人々をして、現在の制度は不変のものである、だからそれを維持するのが彼等の義務であると信ぜしめるのであるか?
何故であるか、あらゆる暴力は彼等自身によって、自らの手で笞ったり、縛ったり、投獄したり、殺したりするその人々によって成立している。もしも兵士も無く警官も無く、又は死刑執行令狀や、漕艇懲役や終身懲役の宣告に署名する人々のうちの一人も、書斎の中に座りながら、すべてこれらの事を彼によってではなしに彼の部下によって何処か遠く離れたところで爲されるから、彼はその執行を見ることはないだろうと言う単なる理由の下に、落着き払って、あらゆる種類の拷問と死に処するそれ等の人々の千分の一を自分の手で絞殺したり投獄したり、または拷問に掛けたりする事を敢えてしなくなったらどうであろうか。現在の生活制度の一部分となっているあらゆる不正や残忍の行為がそうなったのは、世の中には、不正や残忍行為を何日でも進んで執行したり擁護したりする人々が居ると言う単なる理由によってである。仮にかような人間がいないとすると、数百万の圧迫されている民衆に暴力を加えるものがいないだろうし、又支配階級者等は、今日かような確信をもってして命じているところの事柄を命じもしなければ、それを命じることを夢想だにしないであろう。もしも自分の服従している者の命令の下に、人を苦しめたり殺したりする者がいないとするならば、誰も――労働しないすべての地主が大胆にもそう信じているように――それの欠乏のために死に掛かっている餓えた百姓を取り囲んでいる土地は、そこで働かない一人の人間の財産であると言う事や、又は詐欺的手段で寄せ集めた穀物の蓄えは、死に瀕している飢饉に逢った民衆のいるのにも関わらず商人が彼に利益を得さすに相違ないがというような理由でそのまま手もつけずに保存されねばならぬと断言するものはなかろう。
もしも如何なる人間をも政府の命令で自ら進んで苦しめたり殺したりする者も無く、百姓たちの手から彼等の育て上げた森林を掠奪しようと夢想する地主も無く、又は如何なる官吏も、餓えた百姓たちから彼等を圧迫する代償として搾り取った金を俸給として貰うのは正しいと考える者も無く、又は何人も人々を、彼等が不正なことを否認して真理を提言したからと言って死刑に附したり、獄に投じたり追放したりする者がないとするならば、すべてこれらの事柄はただ支配階級の者等が、常に自分等の命令の下に従順な百姓たちをして、その要求するすべての事を、拷問と虐殺との手段によって実施せしめ得る事を熟知していると言う単なる理由によってなされているのである。
ナポレオンから最後の人民に発砲する司令官に至るまでのあらゆる暴君の一切の行為は権力の――彼等を擁護し且つあらゆる命令を何時でも進んで実行する武装した、従順な奴隷共の武力の――陶酔によってなされている。かくて問題の本髄は手づから暴行を演ずる人々――警官並びに兵士、警官は兵力によって擁護される時にしか行動が出来ないために特に後者――のうちにある事となる。
何が現在の制度から益するところが僅少で、しかも手づからかようなすべての奇怪なる罪悪を犯すことを予儀なくされているところの人々をして――何がこれらの善良な心の親切な、我等の組織が依存しているところの人々をして、かくも破壊的な危険な、又彼等にとって不利益な現在の制度が、維持さるべき必要のある正しいものであるとする甚だしい誤謬を確信せしめるに至ったのであるか?
誰が彼等をして、かような甚だしい迷妄に導いたのであるか?
確かに彼等は、ただに自分たちや全民衆の十分の九を占めているところの自分たちの階級にとって不利益で苦しい破滅的なものであるばかりでなく、その上彼等の良心に戻っているところの事柄をする義務があるとは納得する事が出来ないらしい。『なぜ君は、神が『殺すなかれ』とお命じになっているのに人を殺すのですか?』と言うのは私がしばしば沢山の兵士たちに聞いて見た質問である。そしてそれはいつも彼等の考えたくない事柄を想い起こさして、不愉快な困ったヂレンマに彼等を陥れた。
彼等は人の従わねばならぬ神聖な『汝人を殺すなかれ』と言う掟のあるのを知っていた。又彼等は義務的な兵役のある事をも知っていた。だがそれら二つを相矛盾したものとして考えた事はなかった。私の質問に対して受け取った生半可な答えは、大よそ政府の命令による罪人の死刑や戦争に際しての虐殺は一般の殺人の禁止の中には入っていないというような意味のものであった。私がかような制限は神の接の中には存していないと言う事を論じて、すべての人の従わねばならぬ、又確かに殺人とは両立しないキリスト教の友愛、愛、並びに罪の赦しに関する掟を引用した時、人々は大体に於て私の説に賛成した。だが再び彼等は又私に質問を発した。彼等は、何故政府――彼等の考えによると誤解したり過を犯したりする筈のないもの――が、必要だと考える時に軍隊を戦争に派遣したり、又は罪人の死刑を命ずるのであるかと訊いてかかった。私が政府はこれらの命令を出して不正な行為をしたのであると答えた時私の話し相手はひどく当惑して不安になった。そして話題を変えるか、それとも私に腹を立てるかした。『彼等はそれに当てはまる法則を見出しているに違いない。俺達位しか坊さんたちがそれについて知っていないと言うのは考えられぬ事だ。』と一人のロシア兵が、即座にこう答えた。そう言ったところを見ると彼は明らかに満足しきっていて、又彼の上官たちが国家への奉仕に際して彼の祖先を指導し、又君主や諸侯や数百万の人々や自分自身をも指導するところの一つの法則を、見出しているに相違ないと言う事、並びに私が彼に言ったことは非常に複雑した、索強附会の判じ物のようなものであると言う事を確信しているようであった。我等のキリスト教世界のすべての人々は、疑いも無く伝習に依り啓示に依り、又は良心の争う余地の無い声によって、福音書の中に言われてあるように、殺人は人間のなし得るうちでの一番嫌悪すべき罪悪であることを知っている、又ある人々を殺すのは罪でなくてその他のものを殺すのが罪であるという風に、この殺人の罪悪は、ある一定の人々にのみ限られるもので無い事をも知っている。すべての人々はもしも殺人が罪であるならば、姦通や窃盗やその他一切の罪と同じように、それは犯されるに至った人々の事情のいかんに関せず常に罪であることを知っている。しかも人々は子供の頃から神の任命した彼等の精神上の指導者として教え込まれているすべてのものによって、許容されている許りでなく祝福さえもされている殺人を見慣れている。彼等は自分たちの一時的な指導者が、冷静な確信をもって、殺人を制定したり組織したり、殺人器を部下に帯びさしたり、僭越に立ち振る舞ったり、又は民法並びに神の掟の名をもってさえして、すべての人々に殺人に関わる事を強要するのを見慣れている。人々は矛盾の存在を知っている、しかし彼等はそれを解明する事が出来ない故に、不本意ながらもその矛盾を自己の無智に帰せしめている。その矛盾の公然な事と粗大な点が、彼をしてこの信仰を支持せしめているのである。彼等は自分たちの教師や指導者――科学者並びに教育者――がキリストの掟に従う義務と殺人を犯す義務のような二つの全く矛盾した提案を、深い確信をもって声明する事が出来るとは、想像の出来ないところである。未だ腐敗しない素朴な小児や青年にとっては、高い尊敬心を払って且つ尊厳と学識とを具えた人と考えているところのそれ等の人々が、ある何かの目的で不謹慎にも自分を瞞着しようとは想像の出来ない事柄である。しかもこの事は次のような方法で絶えず行われて来、又行われている。第一、倫理並びに宗教上の問題を個人的に考えて見る余裕の無い労働者の全部が、幼年時代から老年に至るまで、実例により又は言語上の教示によって、殺人や拷問はキリスト教とは一致するものである、だから国家の何かの目的の為めには、それは許されている許りで無く行使されねばならないものであると教え込まれている。第二に、徴収あるいは志願によって軍隊に籍を置いているある種類の人々は、手づからなす殺人や拷問は、彼等の神聖な義務で、又賞賛と賞与とに価する光栄ある行為であると教えられている。すべての人々の関わっている一般的な欺瞞は、児童の強制的な教育の目的の為めに使用されているあらゆる宗教問答編やその他の書籍の教えている知識に、即ち投獄や死刑の執行や、又は国内並びに国外の戦争に際して犯される殺人や、現在の国家組織を維持もしくは防護するために行使されるあらゆる種類の暴力は(それが專政的な又は立憲的な王国であろうと、又は代表会議や執行官や地方自治や協和的な国体であろうと、あるいはナポレオン第一世及第三世のもしくはアウランヅァの帝国であろうとも)完全に合法的のものであって、倫理的及びキリスト教的法則のいづれにも一致するものであるとする事柄に存在している。
この事はあらゆる学校で使用されているすべての宗教問答編やその他の書物の中に説かれてある。そして人々は、その事を一瞬間すら疑う事をせずに、この確信のうちに成長し、生き、且つ死んで行く位、その事を深く信ずるに至った。
これはすべての人々にさせられる一般的な欺瞞である。が、現在の制度の防護と維持との為めに必要な、殺人と拷問とを犯すために、いずれか一つの手続きで入隊するに至った兵士や警官に掛けられている、今一つの特殊な欺瞞が存在している。
あらゆる国々の軍律は、実際のところ、ロシア陸軍軍律(第87條)に規定されているのと同じ規定に基づいている。確実に何等の疑いも挟まずに国家の首脳者の命令を実行することは、文字通りに善意と実行の可不可を論ぜずその命令に服すべき事を意味する。上官のみはただその命令の結果に責任を有するもの也。(第88條)部下たる者は、上官の命令に、ただ、明らかにそれを実行するに際して……(人が彼の上官の命令を実行するに際して神の掟を犯していると知った時には、自然、その継続もそうだと思うだろう。ところが少しもそう言う事は無い!)――彼の君主への忠義と義務と奉仕の誓言を犯すものなること知れる時にのみ、服従すること許さず。
これは兵士になった人間は、何時の例外もなしにすべての上官の命令を実行出来、又出来なければならないことを意味するものである。そして兵士が服従させられるその命令は、主として殺人ということにある、だから彼は、偶然にも暫時の間最高の権力を有するに至った者等に対して、自分のなした誓言や忠順に戻らない限り、あらゆる人間並びに神の掟を犯害しなければならない。
これがロシア陸海軍軍律の本髄であって、又これと同じ事が、相異なった言葉でではあるけれども、他の諸国のあらゆる軍律の中において言われている事柄である、又軍隊と国家の全勢力は、それによって人々が神と自己の良心とへの服従をある一時的の政府への従属と言う事で置き換えながら、その服従から解放されている虚言の上に築かれたものであるが故にそれ以外のものでありようが無いのである。
この事、即ち彼等に取っては非常に有害な現在の制度は正しく必要なものである、又それが故にそれを殺人と拷問とによって維持する事は、彼等の義務であると言うのが、下層階級の異常なる確信である。
この確信は意識的に上流階級によって彼等の上に加えられた欺瞞に起因している。
又そうする外に方法がないのである。下層の又最も多数者の階級をして自分自身を拷問に掛け又は圧迫を加えるためには、又その目的のために彼等の良心に反した行為に出でしめんためには、彼等を欺くことが必要なのである。そして又事実そうされている。
久しからざる以前に、私は再び公然と行われている恥ずべき欺瞞を目撃した。そして再び、私は大っぴらな鉄面皮な不謹慎をもって実行されているのを見て困惑させられた。
11月の初め頃ツーラへの途中、市役所の入り口のところで、私はいつものぎっしりと群れ集まった百姓たちの群れを目撃した、そこからは酔払いの声と母親と妻の可哀そうな啜り泣き声と泣き声とがきこえた。新募兵の検査が行われていたのである。いつもの通り私はその側を通り過ぎる事が出来なかった――その光景は、ある残忍な魅力によって、私を引きつけた。私は群衆の中に混じった、そして立ったまま、この白日の下でしかも大きな街の真ん中で、何の咎めもなしにかような奇怪極まる罪悪の犯されている有様を見守り疑い且つは怪しんだ。
前年通りに、11月1日に、数億の人口を有するロシアの村落や村々を通じて、村長等は、徴兵名簿に登録されている者等を――しばしば自分の息子をも――狩り集めて、それを町へと送り込んだ。
道々で彼等はあおるように又ひっきり無しに酒を飲んだ、そして年長者等は、彼等をして母や妻を残し彼等に取って神聖であったところのすべてのものを放棄せしめて、ある誰かの理の分らぬ殺人道具となる事を強いる愚劣極まる脅迫は、酒に浸かるようでなければ余りに苦痛過ぎて耐え難いものであるのを知っているが故に、そのまま見て見ぬ振りをしていた。
左様にして彼等は――泥酔したり、吠えたり、歌ったり、喧嘩をしたり又は馬鹿な真似をしたりして――進んで行った。夜は道端の宿屋に過して、今朝、更に一層酔っ払って、市役所に群れ集まっていたのである。
新しい羊の皮の上衣を着て、毛糸の首巻をした、濕んだ酔払いの目をした彼等のうちのある者は、騒々しい喧声や身振りをして騒ぎ立てていた、又ある者は自分の順番を待ちながら、泣き腫らしている妻や親に取り巻かれて、黙って不憫そうに、戸口の近くに身を竦(すく)めていた。(私は新募兵に取り掛かっている即ち徴兵検査の日に来たのである。)
ある者は役所の戸口の近くに群れ集っていた。
彼等は今日役所で沢山の事をしなければならない。扉は開かれる、そして番兵はピヨトル・シドロフと呼び立てる。シドロフは立ち上がって、十字を切って、それから障子戸の開いた小さな部屋の中に入る、そこで壮丁等は着物を脱ぐ。先に入って行ったピヨトル・シドロフの同輩は、丁度今合格と決まった、そして丸裸になって役所の外に出て来て、急いで顔の筋肉をゆがめながら、着物を着始めた。ピオトル・シドロフは彼が軍籍に入れられたのを耳にした――又その顔付ででも分かっている。彼は彼に聞いて見たいと思うが、番兵は彼を急ぎ立てて、仕事を急いでするようにと言いつける。彼は上衣と胴衣とを下に置いて、長靴を脱ぎ捨て、襯衣(はだぎ)を頭から引き脱ぐ、そして隆起した肋骨を見せながら、汗や杜松子酒(ジン)や煙草のこんがらがった匂いに身を慄わせて顔を曇らせつつ、裸の筋張った腕の置き場に当惑しながら役所に素足のまま入って行った。
役所の中では、正服に綬章を胸につけた皇帝の肖像が、大きな金の額縁の中で、人目を引いて掛かっている、そして隅っこのところにイエス・キリストの縄と荊蕀の冠とを身に着けた小さな肖像が掛かっている。部屋の中央には、紙類の散乱した緑色の布の着せてある卓子があって、その上に、『正義の鏡』と呼ばれる、小さい三角形の、鷲がその上に乗っかっている物が置かれてある。卓子の周囲には官吏達が、落着き払った満足げな顔つきで座っている。ある者は煙草を吹かし、ある者は書類を繰っている。シドロフが入って行くや否や、一人の係の兵士が出て行って、身長や体重を測る。そして肢を引張ったり顎を突いたりする。それから一人の男が煙草を吹かしながらやって来る。彼は医師である。彼は相手の顔も見ずに嫌々シドロフの身体に触って見る。そして測ったり叩いたり、呼吸をせよとか何か言って見ろとか命ずる、そして係の兵に彼の口を開けているようにと命ずる。卓子に座っている一人の男は、それを何から何まで書き留めている。遂に医師は一度も相手の顔を見もせずに、『よろしい、次!』と言う、そして、さも疲れたようにして卓子に腰を下ろす。再び掛りの兵は壮丁をこつき廻す、そして急いでするように命ずる。彼は急いで襯衣を着て、無暗に袖を手探る、そしてやっとの事でズボンを穿いて、足を靴下代わりに着けていたボロ布で包んで長靴を穿き、カフスや帽子を探し廻って丸めた上衣を引ったくる、そして広間の中につれ出されてベンチの後ろに、他の合格した壮丁の立っているところに立たせられる。ひとりの兵士――かつては彼のように百姓の若者であった、しかし他の遠方の県から出身の――が、鋭い剣の着いた銃を持って護衛する、そしてもしも逃亡を企てようものならば、直ぐ様射ち殺そうとして立っている。
その間に父や母や妻達の群れが警官に押し返されながら、誰が合格して誰が不合格だったか知ろうとして戸口に詰め寄せている。不合格になった者が出て来て、ペテロが取られたと告げる、するとペテロの妻の号泣の声が起こる、彼女にとっては、その言葉は四年乃至五年間の離別と、家事に関しての兵士の妻の放逸な生活とを意味する。
やがて奇妙な風装の男が髪を風になびかせながら馬車を駆って来る、彼は車から降りて市役所の方へ近づいて行く、その関係官は群衆の中に道を作ってやる。『お師匠さんが誓いを立てさせにお出でなさった!』この特権をもったイエス・キリストの特別の僕であると信ずるように教えられた、また多くの場合自分の務めている虚偽に盲目であるところの『お師匠さん』は、新しい壮丁達の集まっている部屋に入って行く、そして錦襴の法衣を着て、乱れた髪を整え、誓う事なかれと言われてある福音書を開ける、それからイエス・キリストが丁度今彼の間違った弟子が命じようとしているような事をする事を拒んだために磔にされた十字架を取り上げて、その二つを経机の上に置く、それからこれらすべての憐れな騙かされた無抵抗の若者等は、彼に従いて彼の大胆な何時もの確信をもって発する声を繰り返す。彼は彼等がこう繰り返す間、読経をする、『余(われ)は全能の神と聖書その他のものに掛けて』、防護したり、人々の命ずる事をすべてなす事を、即ち惨殺を命ぜられる。余の知らない、又彼等がよってもって己の地位を保ち、且つは己の兄弟を打ちひしがすところの罪悪の遂行のための一道具としてのみ役立つすべての人々を惨殺することを約束し且つ誓言する。すべての壮丁がこの乱暴な言葉を愚かにも繰返したので『お師匠さん』は、忠実に又確実に自分の務めを成し遂げたのにひどく満足して駆け去ってしまう、その一方に欺かれた青年達は皆、丁度今自分たちの発した馬鹿げた、彼等に取って不可解の言葉によってその兵役に在る間中、一切の人としての義務から放たれて、新しい、又更らに一層厳重な軍隊の義務に縛られるに至ったものと信じている。
すべてこの事は公然となされて、ただ一人欺かれた者にも、又欺く者に向っても、『正気に返って家へ戻るがいい! 全体こうした事は汝の肉体のみならず、汝の霊をも滅ぼすに至る不審な恥ずべき嘘である。』と叫び出す者がいない。
ただ一人こうする者がいない。それに反してすべての者が軍籍に編入されて将さに家に帰ろうとする時徴兵司令官はあたかも彼等にそそのかしかけるようにして、厳めしさも満足げな様子をして、これらの憐れなだまかされた、酔払いの若者たちの閉じ込められている部屋に入って来る、そして軍隊的な口調で、『皆の者健康を祈る! 陛下のお役に立てるようになってお芽出とう!』これらの憐れな男達は、半ば酔払った風で既に教え込まれていたこの聞き慣れない言葉を、非常に幸福であるかのように口の中で呟く一方父や母や妻達の群は、待設けながら戸口のところで立っている。女達は涙ぐましげに動かない目で戸口を見つめている。とうとう扉が開かれる、そして合格した壮丁等――シモンやヨハンやピヨトル――は、向こう見ずな風をして、近親の者を見ないように又わざと見ない振りをして跟めき出て来る。妻や母親の号泣が新しく始まる、その内のある者は泣きながら彼等を接吻する、又ある者は元気づけたり、気の毒の言葉を呈したりする。女達は四年乃至五年間扶助者もなしに、また自分等のために働く人も無しに、やがて間もなく見捨てられるのを知って絶望的にわめき嘆く。父親たちは無口でいる。ただ残念そうに彼等の教え鍛えた扶助者を永久に失う事を知って嘆息をして舌打ちをする。何故ならば彼等は最早や今までのようには仕事好きの働き手ではなくて、大抵の場合は、単純な生活を嫌う放埓な乱暴な兵士となってしまうからである。やがて全体の群衆は橇に詰め込みながら酒場や飲食店に押し掛ける、そして一層声高く歌ったり号泣したり、くだを巻いたり、罵声や女達の嘆声や手風琴の響きが大きくなって行く。男や女達は、政府の収入の一部分を成している宿屋や酒場に群れ集まって、酔いつぶれてしまう、そしてその酔いは彼等のこうむっている不正に関してぼんやりとある意識を目覚めさしてしまう。
二三週間と言うものは、彼等はほとんど絶え間なしに家で酔い続ける。
指定された日に彼等は招集されて、家畜のようにして、軍隊上の教練や作業の教えられる場所に追いやられる。彼等は彼等と同じようにして田舎から来ている、しかして数年前に既にだまされて野獣化された男に教えられる。そしてその使用される方法は、欺瞞と野暮な打擲(ちょうちゃく)と杜松子酒とである。
一年と経たないうちにこれらの訳の分かった親切な又道徳的に健全な若者たちは、彼等の教師と同じような乱暴極まる人間となってしまう。
『もしもお前のお父さんが捕縛されて逃亡を企てたら』と私はかつて一人の若い兵士に訊ねた事がある『君はどうするかね?』『私は父を突き刺します。』と彼は一種異様な兵士の使う無感覚な言葉をもって答えた。『そしてもしも父が走りますなら射撃をします。』と彼は明らかに、自分の父が走る場合にすべき事を知っているのを自慢しながら、こう付け足して言った。さて善良な若者が、畜生よりも劣ったかような狀態に導き致される場合には、彼は、暴力の道具に使おうと目論んだ者等の思う通りになったのである。彼はなすがままにされる、人間が破滅して一個の新しい暴力の道具が出来たのである、すべてこの事は全ロシアを通じて、日中にしかも大きな町の真ん中で毎年の秋ごとになされている、そしてその欺瞞は非常に狡猾に又よく組織立ったものであるが故に、すべての人が欺瞞であることを知り、又心の奥底で、それの憎むべき事とその結果の恐るべき事とを知っていながらもしかも彼等はそれから離脱する力を持つ事が出来ない有様である。
(三)
我等の目が、人類のこうむっている奇怪なる欺瞞に向って開かれている場合には、我等はキリスト教の教理や倫理の説教者や青年達の教師、併びにあらゆる社会に見いだされるわけの分った良心のある親達が、教会や政府によって殺人と拷問とが人間生活に必須の条件であって、又常に我等の間には、いつも進んで自分等の兄弟を虐殺する人間のある階級が必要であって、従って我等銘々はその一人になる必要があるという考えが、公然と容認されている社会において、何かの道徳上の原則を主張しようと努めるのを疑わざるを得ないことである。
どうして世間一般の子供や青年や大人達が、キリスト教の道徳上の教えのみならず、如何なる道徳上の原則が、殺人は、一般の――従って我等一個人の――幸福の支持のために必要である、従って正しい事であって、同胞を殺したり苦しめたり、又は最高の権威を握っている者の命に応じて、あらゆる種類の罪悪を犯すことは、ある種の人々の――我等各人はこれらの人々の一人となる必要がある――義務であると言う教えと肩を並べて教えられる事が出来よう? もしも権威に在るものの命によって殺したり、苦しめたり、又はあらゆる種類の罪を犯す事が、正しい又許すべき事であるならば、そこには何等の道徳律も存在しなくて、ただ強者の権利がある許りである。そして実際も又そうである。生存競争の仮設によって学説的に是認されている最高強者の権利の原理は、我等の社会では優勢を占めている。如何なる目的であるとしても、如何なる種類の道徳の教えが、殺人を許す事が出来よう?それは二が三に等しい事を許す数学上の学説と同じように不可解のものである。
仮に二と三が等しいとしても、数学に似寄りのものは出来よう、だが決して数学的な学問は成立しない。戦争に際しての虐殺や死刑や自己防衛を容認するとしても、道徳に似通ったものは出来ようが、決して真の道徳ではない。人間生活の神聖に関する認識は、一切の道徳の主要な、又ただ一つの根拠である。
目にて目を、歯にて歯を、生命にて生命を償うの教えは、キリスト教によって破棄された、何故ならばそれはただ不道徳の容認であり、又単なる正義の疑似体であって、無意義のものであったからである。生命は量る事も又他の何物とも比較する事も出来ない実態である。故に生命の弁償のための生命の破壊は、全然の不合理である。加うるに、各社会的法律の目的は、人間生活の改善にある。いかにしてある一生命の破壊が、他の人間生活の狀態を改善する事が出来よう? 生命の破壊は、改良的行為ではなくして自滅的行為である。
正義に叶うために他人の生命を破壊する事は、丁度片腕を失くして、正義のために今一つの腕をも同様に切り落とす事で事情をよくしようと考える人の行為に似ている。
多くの奇怪極まる犯罪が、義務として人々の前に提供されているその欺瞞の罪や、もしくは『これらいと小さき者』の肉体のみならず霊をも滅ぼすに至るところの忠順や憎悪の誓言に際してなされるようなイエス・キリストによって非難されたその他一切の行為を容認するために、キリストの名と権威とを讃用する罪は論外として――これらすべての事は一先ず論外として、単に自分一個の安泰のみを眼中に置いている、又自分等の進歩とその生活の形式とを尊重するところの人々が、どうして武力の支持する各政府によって構成されている恐るべき無意義の残忍な破壊力の存在に苦しむのであるか? 最も残忍な乱暴な盗賊団も、かような国家組織に比べてはその恐ろしさの度合いが尠少である。盗賊団の長の権威はある部分の人間の自由を保有して居り、且つは自己の良心に反する行為に反対する自由を有する団員の意思によって、ある程度まで限定されている。だが組織立った政府の椅子を占めている者等においては、それが今日止む無く受けるに至ったところの教練を経ている軍隊によって支持されていながら、これらの人々は彼等を制肘するの術を持っていない。政府の一部分を形づくっている者等の犯す罪悪、並びにその当時彼等の長であった者、例えばブウランヅェ、ブウガチェフ、ナポレオン等のようなものの指揮の下に軍隊の犯す罪悪程、奇怪極まるものは無い。
人が徴兵や教練や閲兵式や、装填した拳銃を持った警官や、小銃と銃剣を携えた哨兵とを見る時は、朝から晩まで(丁度私の住んでいたカモウインキィであったように)彼等が射的する時の鋭い唸りと鈍い音とを耳にする時、あらゆる暴行と無法との企てが速やかに抑止され、火薬や弾丸の売買、無茶な騎馬や無免許医の医術の禁止されている街の真中で、殺人の訓練を受けた数千の兵士、一人の人間の奴隷たちを見る時には――かような事を見る時には何時でも人は、自分自身の安泰のみを気にしている人々が、一体こうした事柄を黙認し、且つそれに忍従しているのはどうしたわけであるかと自問せざるを得ない。その不道徳にして有害な事は言うまでも無く、何物といえどもかような事態よりも以上に危険なものは有り得ないのである。人々――ただにキリスト教徒やキリスト教の牧師、博愛家、道徳家だけではなく、単なる生活と安全と幸福とを尊重する一般の人類――は何を考えているのであるか? その組織は誰の手によって統御されようとも、いつも同じ風に行為するであろう、今日それは凡庸の統治者の手中に落ちるであろう、だが明日それは又バイロンやエリザベスやカタリナ、ブガチェフ、ナポレオン一世、並びに三世の徒の手に落ちるであろう。加うるに今日普通の相当な統治者であるものが、明日は獣的な野蛮人となるであろう、又バヴリァの王やパウル一世のような、狂気のもしくは暗愚な後継者によって代るであろう。
ただに最高の権威だけではなく――各地方に散在しているすべての下級官吏や、パラノフの警察官や、連隊長や、巡査等は絶えず事情がそうであるように、その命令に接する前に、最も恐るべき罪悪を犯す事が出来る。
必然的に、何故人々がかような狀態に苦しむのであるかと言う疑問が――高い政治上の考慮からでは無しに、自分一個の安泰の懸念のために――起こって来る。
この疑問に対する答えはこうである、即ちすべての人々は服従しないのである、ただ大多数の人々は打ちひしがれ欺かれている、故にすべての事に服従せざるを得ない立場にいる、だがその制度はただそれからして便益と地位とを授かっている者等によってのみ聞こえぬ振りをさせられている、そして彼等はそれに聞こえぬ振りをするのは無理がない、それはもしも現在の制度が廃止される暁に、服従しなければならぬ者等よりも、今日残忍な狂的な統治者や軍隊の指揮者から受ける不利益の度合いが少ないからである。
裁判官や巡査や県知事や士官等は、專政王国であろうと立憲国であろうと、ブウランヅァやブガチェフやカタリナの統治の下に在ろうとも、同様の地位を占めるであろう。しかし彼は、もしも現在の彼の有利な地位を保証する制度が撤廃された暁には、確かにそれを失うに至るであろう。故にこれらの者等は、暴力的な組織の頭の間に行われる変動は少しも恐れない――彼等は如何なる統治者にも適応して行く事が出来る、彼等の恐れるのはただ国家組織の破壊である、故に彼等は常に、時とすると無意識にすら、それを擁護している。
人はなぜ自由な人が――いわゆる社会の花形が――強制されると言うわけでもないのに、ロシアやイギリスや、ドイツやオーストリアやフランスで、兵役に就き、且つ殺人者となる機会を望むのであるかを怪しむ! 何故に両親や道徳的な人々が、自分の子供を殺人の教練を受ける学校にやるのであるか? 何故母親達が、自分の子供達に玩具として、鉄砲や剣やヘルメット帽を与えるのであるか? (百姓の子供達は決して兵隊ごっこをしない。)何故軍事に無関係な善良な男や女が根気よく又熱心に、スコペロフやその他の遠征を喝采するのであるか? 何故ロシアの高貴の式部官達が、全数ヶ月の勤労を捧げて、強制もされなければ、その報酬も受けるわけでもないのに、大儀な道徳的に苦痛な仕事――新募兵の検査行動に賞与を与え、将軍や勝利者に記念碑を立てるのであるか? 何故独立の富裕な人々が、王者に対して下僕の地位に就く事を光栄と考え、又彼等におべっかして平伏し、且つ彼等の特別な優越を信ずる振りをして見せるのであるか? 何故遥かに遠い以前に中世期頃の宗教上の迷信を信じなくなり、又それを信ずる事が出来なくなった人々が、尚心棒強く重々しげにそうしているらしい振りをして見せて、瀆神的な危険な宗教上の慣例を続けているのであるか? 何故ただに政府によってのみならず、上の階級の独立した人々によってもまた、人間の無智をかくも熱心に持続させられているのであるか? 何故彼等は非常な怒りをもって、人々を啓発し、且つはその宗教上の迷信を打破しようとするあらゆる真面目な企てに反抗するのであるか? 何故いかにおべっかしても何の利益も望み得ない歴史家や小説家や詩人などが、とっくに死んでしまっている皇帝や国王や将軍の功績を頌揚するのであるか? 何故に自ら科学者と称する人々が、人民に加えられる権力者の暴力は、暴力では無くして特殊な正当な権利であるという事を証明する学説を立てんがために、その全生涯を捧げるのであるか?
人はしばしば、何故政治上や軍事上のいずれの問題にも興味を持とうとは思えない芸術家や社交界の婦人達が、労働者間のストライキを非難して置きながら、しかも戦争を弁護し、絶えず熱心に一方の側を攻撃して他の側の肩を持つのかと不思議に思う。
人は支配者階級の者等は常に、現組織――彼等の享受している便益と特権とについて負うところの多い――を擁護したり又は破壊する傾向のある事柄には、本能的な観念を持っていると言う事を知るや否や、この事を少しも不思議としなくなる。
社交界の婦人は、もしも資本家と彼女を防護する軍隊とがないならば、彼女の夫は金が無く、又彼女は客室も高価な衣装も持っていないに相違ないと言うような事を巧みに論じない、しかもこの場合では理性の役目を成す本能が、彼等を誤って導いて行く、そのように、この本能が極く稀な例外を除いては、自分等に取って有利である政治上宗教上並びに経済上の施設を是認する者を導いているのである。
しかし上の階級の人々が、ただ彼等がそれによって利益を得るという理由だけで、かような施設を擁護する事は有り得る事であろうか? 彼等は確かに、現在の組織は不合理である、それは既に現在の人々の意識、並びに与論とすら相容れなくなった、故にそれは危険極まるものであると言う事を、知らないわけには行かない。善良な、正直な、支配階級の間の賢い人々は、かような甚だしい矛盾にもしくは現在の制度が以て彼等を脅威してゐる危険の目撃に、苦しまないわけには行かない。
下級階級の数百万の人々が、冷静な良心をもって、単に刑罰のおそれから、強要されている殺人や拷問や、明らかに愚劣な行為等を犯すような事は可能であろうか?
実際、かような事は有り得ない事である、そしてそのいずれの者も、彼等から彼等の行為の悖(はい)理(り)と危険とを隠蔽してくれる政府がなかったならば、その行為の不合理な事を知らないわけには行かない。
殺人者等はすべての殺人の目撃に、その責任をなるべく多くの人々に分かつために、犠牲者の死骸を笞打つ事を強要する。それと同じ道理が、もっとはっきりと組織だった形式で、それ無くしては、政治制度は一日として維持する事の出来ない、絶え間なしに罪悪の刑の執行を励行する国家組織のうちに見ることが出来る。国家の統治者は常に、彼等の犯す、又彼等にとって必要な罪悪の広い分担に、なるだけ多くの市民を含まそうと試みている。最近になってこの事が、陪審員として市民を法廷に参与せしめる法律の制定によって、一層顕著になってきた。
すべての端を見出すのが困難な位巧みに隠されている編細工の籠に於けると同様に、国家組織に於てもまた、罪悪の責任が非常に巧妙に隠蔽されているが故に、最も奇怪極まる罪を犯して居りながら、人々はそれの責に任せねばならぬ事を知らないでいる。
古代においては、暴君は罪を犯した時は罰を受けた、しかし現代では、最も恐るべき悪行も犯される、それはネロの時代には夢想だにされなかった事であって、しかも今日何人もそれの罪を問い得る者がいない。
ある者が罪を要求し、他の者が判決を下し、第三の者が裁可し、第四の者が提案し、第五の者が通告し、第六の者が命令を発し、第七の者がその刑を執行する。遥か以前にロシアのウソツフ工場であり又今日欧米の至る所で行われているように、婦人や老人は惨殺され、絞殺され、又は笞で致死させられ罪の無い人々は殺戮されている。無政府主義者や既定の組織を乱す者との争いに際し、数百数千の人は射殺され又は絞殺されている、そして絶えず行われているように、孤独な幽閉により又は放逸な軍隊生活によって、人々の霊は台無しにされている――しかも何人もこれの責任を負うものが居ない。
社会と言う梯子の最下段では、小銃や剣や拳銃を携えている兵士たちは、人々を惨殺したり苦しめたりしている、そしてこの拷問と虐殺とをもってして、彼等自身と同じように、それ等の人々をも兵士となることを強要している、ところがこれの行為の責任は、彼はまぬがれていて、その命令を発する上官の上に掛かっているものであると確信している。
上の階級では――王者や大統領や国務大臣や議会などは、拷問や虐殺や徴兵を命令して絶対的に、彼は神によって命ぜられている、もしくは彼の統べている社会が彼に向って、彼の命ずるその事柄を要求しているのであると確信している、そして少しも責に任ずる事をしない。
この二つのものの間には、殺人や拷問を命令して、しかも自分等には責任が無いが、その幾分は命令を発する権威と、その幾分は社会の梯子の最下段のところにいて、これらの命令の執行を可能ならしめる者等の上に掛かっていると確信している中間の階級がある。
命令する力と実行する力――この二つの極端な国家組織は、輪の二つの端のように結び合って、その各は他の者を助け且つその条件を形成しあっている、そしてすべての中間のものが結び合っている。
仮にかような行為の責任を引き受ける一人もしくは数人の人々が居るという確信がないならば、如何なる兵士とても、その手を虐殺と拷問との為めに捧げるものはなかろう、国民がそれを要求しているという確信が無いならば、如何なる皇帝も国王も、又は大統領も国会も、かような虐殺と拷問の命令を敢えて発するものが無いであろう。もしも彼の上に自分の行為の幾分の責任を負う人々が居、又彼の下に、そのものの幸福が自分のなすような行為を要求する人々が居るという信念が無いならば、如何なる支配者と兵士たちとの中間にいる階級のものも、今日為しているような行為に出る者はないであろう。国家組織は丁度人が如何なる社会と言う梯子の階級の上に立っていようとも、その責任の程度は同一であるように出来上がっている、彼が高い階級の上に立つようになればなるだけ、下から彼に向って命令の要求に、より多く左右されるようになって行く、そして上からの命令に左右される程度が少なくなっていく、そして低い階級へ下る場合は又それと反対の事が起こって来る。かようにして私が今話している場合においては、その参与者の各は、その地位が高ければ高いだけ下からの要求に多く左右されて、上からの命令に支配されることが少ないし、又地位が低いものはそれと反対である。
国家の組織に束縛されている人々が、お互いに自分の行為の責任を、兵士として徴収された百姓がその責任を士官となっている商人や貴族に移してしまい、士官は又県知事の地位にいる貴族に、県知事は又国務大臣の地位にいる官吏に、国務大臣は更に又、王者の地位を占めている皇室に、しかして王者は又その代わりにすべての官吏、貴族、商人、百姓にその責めを移すがように、他に塗りつけているだけではない。当に人々がかようにして自分のなした行為の責任感を忘れている許りではなく、彼等は又絶えず務めて、根気良く、『丁度一つの星が他の星と異なっている』ように、すべての人々は平等でない、皆お互いに違っていると言う事を、自分にもまた他人に向っても確信せしめられている結果として、責任に関する道徳的意識を喪失している。人々はかような政治上の制度を組織して置きながら、この原則は絶対のものであると主張するが故に、結局彼等は真面目にそうだと信じてしまうのである。かくて彼等はある人々をさして人類の他のものとは比較のならない、特別の礼儀に価する優れた人と決めてしまいまた他の者をば、どの点から見ても劣った者であって、故に仕方なく無抵抗に、彼等の優越者のすべての命令に従わねばならぬものとしてしまう、そしてこの信念を彼等は全力を尽くして、一般に滲み込まそうと努めている。
この不平等――ある者を持ち上げて他の者を引き下げるというこの事――は、現在の組織の不合理な事、残忍と有罪な事、並びにある者によって実施されて他の者がそれによって苦しむところとなっている欺瞞とを、人々が知り得ないことの主要な原因をなすものである。
特別の超自然的な意義と偉大さとを付与されていると信ずるように至らされる者共は、彼等の仮想的な優越に陶酔して、遂に自分の犯す行為の責任を悟らないようになってしまう。それに反して劣等な取るに足らぬ、又すべての優越者の言に服従しなければならぬものであると信ぜしめられた人々はその絶え間ない卑屈な狀態から起こって来る奇妙な奴隷的な陶酔に陥る、そしてその陶酔の影響からして、彼等の為す行為の意義を知る事を止め、且つそれに対する責任感を失ってしまう、幾分は上の者に従属して、又幾分は自分自らを優越せるものと考えている中間にいる人々は、等しく権力にも酔わされ、雇人根性にも酔わされる。そしてかくして責任の観念を失ってしまう。
まず軍隊を検閲する高級武官を見ればよい。美々しく装った馬に乗り、燦爛たる軍服を着て勲章を掛けた副官共を従え、壮麗な軍楽隊の曲に合わせて、彼は行列の前面へ乗り出す。すると屈従に化石してしまった兵卒等が銃を捧げる。これを見るだけで誰でも合点が行くに違いない。かくの如き瞬間にそしてかくの如き甚だしい酩酊狀態にあっては、士官等も兵卒等も又中間の階級の各員等も、これと違った境遇にあっては夢にも思わなかったような事を遂行するに到るのである。しかし分列式、観兵式、教会の儀式および戴冠式というような狀態に於て経験せられる酩酊は、鋭いが一時的な心狀である。ところが慢性的で永久的な酩酊狀態があって、如何なる種類にもせよ、およそ権力を有する者、即ち皇帝よりして街の隅に立っている巡査に至るまでこれに陥っているのだ。更にまた権力に服従して服従の酩酊に陥り、そして之に服従する者等に最大の価値と尊厳を帰する(すべての奴隷は常にかくして自己の狀態を正常なもののように見做している)者等も、等しくこの慢性的な酩酊狀態に陥っている。
人間に対する不平等のこの虚偽、そしてそれに由来する権力の酩酊と服従の酩酊とが、そもそも人間が国家の組織によって束縛せられて、己が良心に反する行為をなし、しかして何等の煩悶をも感じないことの主要な理由である。
服従または権力のいずれにせよ、この酩酊の勢力の下に、人々は自らも又他人等をも、本来そうであるところの人間としてみることを廃めてしまい、特殊な方便的な存在者のように成る。貴族、商人、官吏、裁判官、将校、君主、大臣、兵卒等。彼等は既早や通常の人間としての義務に束縛されない。却ってすべての人間的義務よりも優って又先んじて、商人、官吏、君主、将校等という如き彼等各自の位置の特殊な義務に束縛されているのである。
そこで地主が森林の事で、農民に対して訴訟を起こしたとする。何故か。それは地主が、自己を他のすべての人々と同様な、又周囲にある農民と同様な権利を有する普通の人間としてみなさず、大地主又貴族の一員とみなしたからである。かくして権力の酩酊の勢力に支配されて、彼は自ら農民の僭越によって、侵害されたのだと考えたのである。ただかくの如き理由で訴訟し、いわゆる自己の権利を回復しようとし、更にかくの如き訴訟よりして、必ず起こるべき結果については少しも考えないのである。
裁判官等が地主に有利なように不当な判決をする、何故か。それは彼等が自己をみなすに、万事ただ真実によって導かれるべき事を義務とする他のすべての人々と同様な一個の人間であるとせず、権力の酩酊により自ら誤る事なき正義の擁護者であると思い込んだからである。同時に又、屈従の酩酊により、一冊の本に書き録されて法律と称せられる条文を履行するように自ら束縛せらると信じているのである。かくの如き事務をなす他のすべての職務は皆同断である。上は報告書に承認の署名をする最高権力の代表者等、徴兵の事を司る貴族の元帥、補充兵を欺く僧侶よりして、下は今や己が同胞を殺さんとて途上にある最下級の兵卒に到るまで、皆権力乃至屈従の酩酊のもとに、自ら及び他の人々を本来あるべき人間として見ず、特殊な特権ある者とみなしている。彼等はすべてこれらの行為をなし、又必要と認むる他の行為を為そうと身構えている。何故か。ただ彼等が他のすべての人々と同様な人間である事を会得しないからである。『良心の責むる邪な行為に預かるべきか預かるべからずか』という問いが万人の前に掲げられてある。然るに彼等はこれに反して、自らを特殊の機能を設けられたる例外的な存在者――神によりて膏油を注がれ、特に一億万人の安寧を委ねられた君主――貴族の代表者――聖別されて特殊な恩寵を授かった僧侶――すべての命令に盲従すべしという制約に束縛された兵卒――と思い込んでいる。
空想上の地位から由来する権力乃至服従の酩酊によればこそ、人間はかくの如き事を実際為し得るのである。
君主、大臣、官吏、裁判官、貴族、地主、元帥、将校乃至兵卒等の地位が現実に存在し、且つ極めて重要なものであるという信念がなかったならば、これらの人々のうちの誰もが、恐怖と義憤とを抱かずに、今その為している行為を為し得べしとは考え得ぬであろう。
数百年前に定められ、幾世紀も経て神聖視せられ、万人に承認せられ、特別な名称と服装とによって区別され、そして感覚に訴えるように仕組まれたあらゆる種類の儀式によって確立せられた特権的な地位に対する信仰は、強く人心に印象を与え、遂に人々はこの特殊な標準よりしても自己及び他人を見、自己及び他人の行為を評価するに至ったのである。
かくてある玩具か又は田舎臭い服でも貰い、あるいは背中に垂らす鍵、御転婆娘に適わしい緑色のリボンでも貰い、そして将軍だ、侍従だ、聖アンドリュウ国の動爵士だなどと愚にもつかぬ事を言われると、年の行った、智力が完全で衰えない人が、自ら満足し、自慢し、得意にさえなる。これと反対に、もし予期していた玩具あるいは綽名を取り損ないでもすれば、悲惨にも意気阻喪して病気になってしまう。それよりも更に驚いたことには、道徳上非難の無い、若い、自由な、そして自活していた人が、税吏に任命されたという只その理由で、不幸な寡婦を差し押さえ、その子供等より引離して牢獄に投じ、子供等を飢餓に迫らせたのを私は見た。一体これは何の為めであったかと言うに、この悪しき女が酒を密売したからだと言うに過ぎなかった。その為めに二十五ルーブルの収入を奪われたのだ。かくの如き事を為しながら、この人は何等の煩悶も感じないのである。ここに尚更に極端な例がある。人並みに親切な物の分った人が、只軍服を着て勲章を掛け、哨兵である、国境守備兵であると言われる故を以て、人間を射撃する事を躊躇せず、そして又自らも他の人も誰も彼を非難しようとは思わない。却ってもし彼が射撃しなかったならば、彼は万人に非難せられたであろう。平凡な通常の人間でなく、法官であり、裁判官であり、将軍であり、そして兵卒であると自ら信じられていると言う単なる理由で、少しの煩悶をも感ぜずに、人間を死刑に処する裁判官や法官、また数千人を虐殺する兵卒の事については自分は何事も言うまい。
国家組織の下に於ける人心の慢性的に奇怪にして異様な狀態は、通常次の言葉をもって言い表される。言わく『自分は人間としては彼に同情するが、しかし監理、裁判官、将軍、官吏、君主、兵卒として自分は彼を殺し苛責せねばならぬ』と。あたかも人間が授けて承認した地位がすべて、人間としての我等の地位が我等の上に課した義務を廃棄して差支え無しという言い分である。
例えば現に今論じているこの例も同様であって、人々は飢餓に瀕している同胞を虐殺し又苛責せんとする途上にある。彼等は農民と地主間の争いに於て農民の方が正当であるのを知っている(すべての上級の官吏等はそう自分に告げた)。農民が悲惨で窮乏し、瀕死せんとしている事、地主が富裕で何等同情を喚起せしめない事を彼等は知っているのだ。しかもこれらの人々は地主に三千ルーブルを得せしめんがために、農民を殺そうとしている。それと言うのは、只その際彼等が自らを人間としてみなさず、官吏、役人、警部、将校、又は兵卒としてみなし、かくて自ら人間の良心の永遠の法則によりて束縛されず、只将校あるいは兵卒としての彼等の地位に偶然的な一時的な要求によりて束縛されると考えたからである。
奇怪に思われるかも知れないが、この異常な現象のただ一つの説明は、催眠狀態にあってある位置に自らありと想像せよと命ぜられ、そして命のままに感じ又行動する人々の狀態と同じ狀態にすべての人々が陥っていると言う事である。例えば催眠的暗示を受ける人が、自ら跛者なりと信ぜしめられる時に、跛を引き締める。盲となったと言われる時に見えなくなる。獣であると言われると噛めるのである。ツウラ列車中のすべての乗車する兵士、また人間の義務に先んじて、政治上社会上の義務を果たして自らの損害をもたらすすべての人々の狀態は即ちかくの如きものである。
かかる狀態のもたらす結果は、思想暗示の勢力の下に、人々が各自の行為を考える事が不可能となり、従って、範例や、勧告や、指示によって伝えられた思想の暗示に強制されて、すべての行動を盲目的に遂行するようになるのである。
人為的に催眠せしめられた人々と、国家的催眠術に掛かっている者等との相違は次のようである。前者の想像上の地位は、ひとりの人によって極めて短時間急に暗示されたものである。従ってこの人為的な暗示は常にその顕著な人を愕かす様式によって我等を驚愕させる。これに反して、国家的催眠術に掛かっている人々にとっては、彼等の想像上の位地は徐々に、感付かれずに、僅かずつ、子供の時代から、只に幾年とは言わず、幾代もの間、そしてひとりの人でなく、周囲のすべての人々によって暗示されたものである。
これに対してこう答えられるかも知れぬ、『しかしすべての社会に於て常に、子を生みてこれを育てる労働に没頭するすべての婦人等、不断の激しい労働の必要に強制せられる労働者のすべての大群衆、生まれながらに薄弱な精神を有する者、またニコチンやアルコールや阿片の如き毒物により、あるいはその他の原因によって智力が異常に薄弱になった者等が居る。すべてこれらの者は、独立の思想を抱き得ないからして、常に合理的意識の高い水準に立てる人々に服従するか、あるいは家の伝統に又は政治上の伝統に服従するか、あるいは一般世間の与論に服従するかせねばならぬ。そしてこの服従のうちに何等不合理な事も矛盾する事もない』と。
なる程この中に何等不合理なことがない。そして考える事のほとんどない人々が、自覚の高い水準に立てる人々の指揮に服従しようとする傾向を有するのは、普遍的な人類の特性である。かくてその結果人々が同一の合理的な原則に服従して社会を形成し得るのである。少数者は自己の理性の要求に一致すると考える合理的な原則に意識的に服従し、多数者は無意識的に、そして只与論が要求するという理由で、同一原則に服従する。余り物事の道理を考えない人々がようやく与論に服従するのは、その与論に分離のない限り、何等不自然ではない。
しかし最初ただ僅かの個人に啓示せられた真理についての優れた意識が、漸次多数の人々に伝えられて遂におびただしい人数となり、低度の意識に根拠する与論がよろめき始め、かくて未だ根を下ろすに至らざるも確定せられんと身構える新しい与論に譲渡せんとする時期がある。古い与論が未だ破壊されず、しかも新しい与論も確立せられぬ、例えば春の季節のような時期がある。自己および他の人々の行為を新しい自覚の立脚地より見ようとし始めながら、しかも実際の生活に於ては、伝説と惰力とに制御されて、かつては合理的意識の最高程度を構成していたが今は直接に現在意識と矛盾するところの原則に服従せんとする時期がある。かくの如き時期に於ては、人々は一方に於て新しき与論に服従する必要を感じながら、他方に於て与論を投げ捨てる決意を欠いて、異常にして不安な狀態に自らある事を見出す。これ即ちツウラ列車の乗車兵士等の狀態であったのみならず、キリスト教の真理に対する人類多数の狀態である。これはまた排他的な地位と利益とを襲断する上流の人々の狀態でもあり、また上に立つ者のすべての命令に盲従する下級の人々の狀態でもある。
自己の地位と特権とに対して合理的な説明を全くもたなくなった治者階級の人々は、自己の地位を保持するがために、理性及び愛という自己の優れた能力をすべて抑圧し、自己の排他的な地位の必然である事を自ら信じるよう予儀なくされる。他方に於て、労働によってくじかれ故意に愚鈍にされた下級の人々は、絶えずたわまず治者階級によって加えられる催眠狀態に常に置かれている。
これは我等の人生に著しく存在する法外な現象の説明に過ぎないのである。その驚くべき例を自分は9月9日のツウラの列車の旅客等に於て目撃した。彼等の中の多くの者を自分は知っていたが、皆善良で親切な人々であった。然るに彼等は落ち着いた良心をもって、極めて野蛮な、愚昧な、そして軽蔑すべき犯罪を行おうとしていたのであった。もし彼等の良心がある方法によって窒息され眠らされなかったならば、彼等のうちの一人だに、その為そうとしていた仕事、また恐らく為すように強制させられる仕事の百分の一さえも為し得なかったであろう。
四千三億二十万一百年前に人類は人類を焼き、呵責し、笞って殺したが、そのようにこれらの人々が、これらの犯罪を行うことを彼等に禁止する良心が欠けていたと言うのではない。彼等は良心をもって居た。しかし治者階級によって故意に加えられる催眠術のために窒息させられたのである。治者階級、及び排他的な地位と利益とを襲断する人々に於ては、良心は心理学者のいわゆる自己暗示によって窒息せしめられ、下級の人々に於ては兵卒等と刑吏等によって窒息させられて居る。
良心はこれらの人々のうちに窒息させられる。しかし尚存在している。そして暗示と自己暗示とが彼等を支配するにも関らず、尚彼等にささやき、如何なる瞬間に於ても全生命をもって覚醒し得るのである。
これらの人々は、正義また道理についての自己の観念に全く反対する行為、例えば自己の母または子を殺せよと命ぜられた催眠術にかかった者と全く同じ狀態にある。催眠狀態にある人は自己を支配する暗示に自ら束縛されると感ずる。彼はこれに抵抗出来ないと思う。しかも暗示せられた行為を果たすべき時間と場所とに接近するに従い、窒息させられた良心の声はいよいよ大きくなり、彼はいよいよ戦慄して抵抗し、覚醒しようと試みる。彼が暗示させられた行為を遂行するであろうか、あるいは遂にそれに打ち勝つであろうか、即ち合理的な意識が勝つか、不合理な暗示が勝つか、誰も断言する事が出来ない。それは全く両者の各々の力によるのである。
ツウラの列車の中の人々についても、また国家の暴行に参与しこれによって利する現代の人々についても同様である。
模範を垂れんと志して窮迫と殺戮の遠征に出立した人々が、その使命を果たさずに帰ることなく、果たせばこれらの犯罪を己が良心に抱きながら家に帰り、己が子等を抱き、諸処談笑して家庭生活の静かな快楽にふけり、疑俱の念にも苦悶の思いにも襲われない時期があった。当時にあっては、これらの暴虐行為によって利益を得た人々――地主等と富者等――は、これらの残忍な行為と彼等が襲断していた利益との間に何等直接の関係があろうとは夢にも思わなかった。しかし今は異なっている、人々は彼等の目を閉じて、彼等の良心を強いて沈黙せしめ得る。開かれたる眼と圧迫を解かれた良心とをもっては、これらの行為を為す人々も、又これによって利益を受ける者等も、己が行為の意義を会得せずには居られないのである。あるいは人々が彼等の行為の意味を悟るのは、遂行した後であるかも知れぬ。あるいは遂行するその瞬間に悟るかも知れない。リンジ・ノヴゴロドや、サラトッフや、オレルや、またウソツフの工場に於て人々を窮迫した者等が、彼等の遂行した行為の意義を会得したのは、全事件が終わった後であった。かくて命令した者等も、命令を執行した者等も共に、与論と彼等自身の良心との非難の下に恥じて苦しんだ。これらの事件に参与した兵卒等と自分は話をしたが、彼等は絶えず会話を変えようと試みた、そして彼等がこの問題について語った時は、恐怖と困惑をもってであった。人々が行為を果たす前に本心に帰する場合もある。ある騒乱の際二人の農民に打たれ、その事を報告した一人の軍曹を自分は知っている。翌日他の農民等の苛責せられるのを見た時、彼は彼の報告書を破り、彼を打った農民を開放するよう上官に願ったのである。
死刑に宣告せられた一人の人を射撃するように命ぜられ、それに服従する事を拒んだ兵卒等の例を自分は知っている。また苛責し処刑するよう命ずる事を拒んだ将校の多くの例をも知っている。かく暴虐な法律を定めて遂行する人々が、時としては自ら暗示した行為の執行前に本心に帰る。時としては執行の間際に、また時としては遂行後久しく経てから本心に帰る事がある。
ツウラの列車の人々は彼等の同胞を苛責し虐殺する目的をもって出発した。しかし彼等がその決意を遂行したかあるいはしなかったか、誰も断言し得ない、事件に対する責任分担の感が、事件に参与せる者等の処に蔽されてあっても、また彼等が普通の人間でなしに官吏である、巡査である、将校である、また兵卒である、従ってすべて人間の義務を犯す権利があるという催眠的暗示の勢力が彼等の間にいかに強くとも、指定せられたる地点に接近するに従い、彼等の使命を果たすべきか否かについて疑惑はいよいよ鋭くなり、そして彼等の疑惑は遂行すべき瞬間に於て最も強くあるであろう。
周囲の境遇の与える酩酊に関わらず、官吏は苛責あるいは虐殺の最後の断然たる命令を与える前に一瞬間たじろがざるを得ないのである。彼はオレルの知事の行為が社会の最善な人々及び彼自身を興奮せしめた事を知っている。これは彼の出入りしている社会の与論の勢力によるものである。彼はこの事件に対して抱ける非難を反復して言明した。彼に随伴すべかりし執行吏が該事件にいささかたりとも参与する事を拒み、参与するは恥辱であると称したのを彼は知っている。いつか政府が変わり、その結果昨日まで人に利益を与えたものが、明日は恥辱の原因となるかも知れぬ事を彼は知っている。たとえロシアの新聞でなくとも、少なくとも一外国新聞が、全事件を公表して、彼を恥辱にて覆うかも知れぬ事を彼は知っている。まもなく旧き与論の要求を受けるだろう所の新しい与論の勢力を彼は直覚的に感じている。彼の幕下が最後の瞬間に彼に服従するであるとすらも彼は確信していない。彼は躊躇している、そして彼は何を為そうとしているか、預言することは不可能である。
彼に随伴した将校等と官吏共は、大小の程度こそあれ、皆同じことを経験した。彼等は皆心の底に於て、彼等の従軍せる仕事の恥ずべきものである事、又これに参与するは彼等が尊重し始めた人々の眼前において自らを汚辱し堕落せしめるものである事を知っている。
無防備の人々を虐殺し苛責する事に参与した後、己が妻又は恋人の前に出る事の恥ずべきを彼等は知っている。知事と同様に、彼等も兵卒等が彼等の命令に従ったか如何かを全く確知していないのである。かくの如き感情は、壇上や停車場に於ける彼等の自信ある態度に対して、奇妙なる対象を呈するが、実際これらの権力の代表者等は皆その心情の奥底に於て、当に苦痛を覚えるのみならず、躊躇し又動揺しているのである。彼等がかくのごとく自信ある風を装うのは、内心の疑惑を蔽わんが為めである。彼等の躊躇は執行場に接近するに従って増加する。
いかにも信じ難く思われ、また外面的にはほとんど現わされてないが、実はいかにも服従的に見える若き兵卒らの全体は、これと同じ狀態にあるのである。昔時の兵卒等は労働の事前的生活を放棄して全く身を掠奪と虐殺と放縦とに委ねた。ローマの軍隊あるいは三十年戦争の軍隊、あるいは更に近時に於て二十五年間勤務した兵卒等の如きこれである。しかし現代の若き兵卒等は既早やかくの如きものではない。今や兵卒等は大部分、善き、自然な、正しい生活の記憶に充ちている家庭から引離されて招集せられた人間である。
彼等は大部分農民である、そして今後の仕事の何であるかを知っている。彼等は又地主等が常に農民を圧制していることを知っている。従って又兵役も同じ種類のものだと覚悟している。これゆえ、多数の者は読書力を有して居る。そして彼等の読む書にすべて戦争と兵役とを推奨するとは言えない。読む書の多くは戦争と兵役との不道徳なる事を証明しているのだ。彼等の同僚の多くは自由思想家の志願兵であり、又自由主義の若い将校等である。そして法律の絶対力と彼等の行動の価値についての疑惑の種が、既に彼等の心のうちに蒔かれている。幾世紀も恐るべき人為的な訓練の結果、一切の独立的思想を破壊し、かくて全然人々を機械的服従に馴れしめ、遂に『気を付け、打て』という言葉を聞くや銃が挙げられて熟練した動作が自動的に為されるのである。若き現今の兵卒等が皆かくの如き訓練を経て来たことは真である。しかし今や、『打て』という言葉は標的に向かって発砲して自ら愉快を感じると言う事でなくなった。それは自分等の打ちひしがれて餓死せんとする父達や兄弟たちを虐殺することを意味するのである。これらの憐れむべき人々が女達や子供等と共に街上にざわめき立ち、訳のわからぬ事を叫び罵っているのを彼等は見る。
一人は薄い髭をして、つぎだらけな上衣を纏い、木皮の靴を履いていて、いかにもカザンかあるいはリアザン州の家に残された父のように見える。他の一人は灰色の髭をして、背が曲がり、大きな杖を突いていて、いかにも祖父らしい。三番目に長靴を履き、赤い肌着を着ている青年は、一年前の彼自身のように、彼を射倒さんとしている兵卒である。また毛のスカアトを着て木皮の靴を履いた女は家に残された母のように見える……こういう人々に対して彼は発砲せねばならないのか。
各々の兵卒が最後の瞬間にどういう行動を採るか、誰も断言し得ないのである。かくの如き事を為すべきでないと言う極めてささやかな暗示と、殊にかくの如き事を為さずとも済むという、只の一言あるいは暗示が彼等を止むるに充分であろう。
遂行しようとした瞬間に於けるツウラ列車のすべての人々の心情を例えて見れば、催眠術にかかった人のそれに似ている。即ち丸太を伐れと命ぜられて、丸太であると暗示されたものに近づき、命を遂げはしたが、それが丸太でなくて、眠っている兄弟であるのを見あるいは人に言われたようなものである。彼は暗示された行為をするか、あるいは果たす前に覚醒しないならば、好意はオレルのそれのごとくに嫌悪すべきものとして遂行される。そして彼等にかく行わさせた暗示あるいは自己暗示の勢力を強くするであろう。もし彼等が覚醒すれば、行為は遂行されずに済み、そしてその事を聞く多くの人々は、今までかかっていた催眠術より救い出されるであろう。あるいは少なくとも救い出される見込みが付くであろう。
ツウラ列車の人々がことごとく覚醒して、彼等が出発しようとした行動を果たすことを拒むべきを要しない、只幾人かの者が本心に帰って拒み、かくの如き犯罪の罪悪であることを大胆に宣告すれば善いのだ。幾人かの者の感化が他の者等を覚醒せしめ、彼等を催眠術的暗示の狀態より救い出すに足るであろう。そして企てられた犯罪は行われないであろう。
これのみに止まらない。事件に参与せずしてしかもそれに対しての準備を目撃した人々のうちの幾人かが冷淡な態度を採る代わりに、かくの如き行動に参与する者等に対する彼等の反対を公然大胆に言明し、且つ彼等の行為の野蛮にして、狂愚の沙汰であり罪悪であることを指摘したならば、それだけでも一種の勢力となるであろう。
彼等が今述べつつある事件に於ても同じ結果をもたらしたのであった。遂行しようとする真際に幾人かの人々が――この事件に参与せる者もあり参与せざる者もあった――催眠術の勢力を被らずに、他の場合に加えられた苛責に対して抱いている彼等の義憤と、またそれに参与した人々に対する彼等の非難と侮辱とを大胆に言明した。すると他の幾人かの人々はツウラの事件に一切関わる事を拒絶した。同じ列車に乗っていた一人の貴婦人と他の旅客等は、同乗する彼等の使命に対する義憤を公然表明した。ひとりの少佐はその軍隊の一部分を執行場へ派遣するように命ぜられ、それに答えて、兵卒等は死刑執行人でないと言った。かくてこれらの些細なことが、催眠的暗示の下に感化を与えたので、事態は異なった狀況を呈し、兵卒は指定の地点に到着したが、残忍なる行動をする代わりに、森林を伐り開いて樹木を地主らに送り届けたのであった。
もしこれらの人々のうちの幾人かが彼等の行動の罪悪であることを明らかに自覚し、そしてその同僚に対して同じ感化を及ぼさなかったならば、事件はオレルに於けると同様な結果となったであろう。もし自覚がさらに強く、従って及ぼす感化が一層大きかったならば、恐らく知事も軍隊も森林を伐り倒してこれを地主に送る事さえも為さなかったであろう。自覚と引き続き及ぼす感化とが更に尚強かったならば、知事は刑場へ向けて出発する事すら為さなかったに相違ない。更に一層強かったとすれば大臣は敢えてかかる命令を発せず、皇帝はそれを裁可するような事がなかったかもしれない。
かくのごとく一切の事は、個々別々の個人に所有されるキリスト教的真理の自覚の力によるのである。
是非に人類の幸福を増進せんとする願望を表明するところの、現代の人々の一切の活動は、自己のうちに又他の人々のうちに、キリスト教の真理とその要求とを発展せしめ鮮明ならしめんとする努力に向けられるべきである。
(四)
しかし不思議なことには、口癖のように人生の幸福増進を語り、そして与論の指導者をもって任じられる人々が、すべてこのような事を全く不必要であると言っている。また人間の狀態の改良は他の更に効果ある方法によって達せられるべしと言っている。人生の改良は個々別々の個人が真理を承認し解明し表白せんとする道徳的努力によって達せられず、人生の不変的な外面的狀態を徐々に変化することによって達せられるべしと彼等は主張する。個人の努力は真理を承認し解明し宣伝することに献げられなくて、人類の必要に眼を向けながら、人生の一般的な外面的狀態の進歩的変化に注がれるべきと彼等は信じる。そして現存する組織と両立しないような真理の個人的表白は、善いものであるどころでなく、政府の方面に於て牽制を感じると言うので、有害なものとさせられる。政府は個人が社会に有用なる仕事を継続するのを妨げるのである。
この説によれば、人生のすべての変遷は動物の生活に於けると同じ法則によって支配させられるのである。モーゼと諸々の預言者たち、孔子、老子、仏陀、イエスキリストその他が彼等の真理を宣伝し、かくして彼等の帰依者たちがこれを遵奉したのは、真理を愛してこれを解明し伝導しようと欲したが為めではなくて、これらの宗教が発達した諸国の政治的、社会的、しかして主として経済的事情が、その誕生と伝播とに好都合であったが為めであると言うのである。
この説によれば、社会に奉仕し人類の狀態を改良せんと欲する人の勢力は、真理の解明と表白とに献げられずして、外面的、政治的、社会的、なかんずく経済的狀態の改良に献げられねばならぬのである。以上の狀態の変化は一部分政府に仕え、その中へ寛容な進歩的な主義を入れることにより、一部分商業の発展、社会的観念の宣伝、なかんずく科学的教育の普及を増進することによって果たされるのだと言う。
この話によれば、自己に啓発された真理を表白し実行する事や、またそれを日常生活に実現すべき義務を自ら感ずる事や、あるいは少なくともそれに反する行為を避ける如きことは、何ら重要なことではないのである。もし何れも有害であると信じれば、政府にも仕えずその権威も支持もしないこと。もし非難すべしと思えば、資本家組織によって利用しないこと。もし有害なる迷信であると思えば、宗教的儀式を尊重しないこと。もし不道徳な制度と見れば、法廷の仕事に関らないこと。軍隊に入らず、服従の誓約をせず、偽らず欺かないこと。すべてこれらの事は何ら重要事でなくなってしまう。ただ一つの重要事は、現在の生活様式を変化せず、例え自己の確信に反するともこれに服従し、只現存する制度に寛容な主義を入れる事である。商業、社会的宣伝、教育の普及と、いわゆる科学の進歩を増進する事である。
この説によれば、依然として地主たり、商人たり、工場主たり、裁判官たり、兵卒たり、あるいは政府より俸給を貰う官吏たると同時に、人道主義者たり、社会主義者たり、あるいは革命家たり得るのである。
偽善と言えばあるいは原罪とか贖罪とか又は教育とか称する真理に於て表された宗教的なものを、ただ一つの基礎としていたのであった。しかし現代ではこの新しい説に於て新しい科学的な基礎を獲得し、そして智性が発達して宗教的偽善を承認しないすべての人々を、その網のうちに捕らえてしまった。昔は教会の宗教的教旨を表白せる人々が、国家によって行われたすべての犯罪にあずかり、それによって利益を得、しかも己が宗教の外部的要求を果たしている限りは、自ら罰せらるる事なしと考えていた。これに反して現今は、教会のキリスト教を信じない人々がすべて、自己を正当とするために、同じく堅固に現世的にして科学的な根拠を有して居る。そして国家の犯罪に参与してそれより利益を得ているにも関わらず、自らを道徳高きものであると考えている。
当にロシアにおいてのみならず、フランス、イギリス、ドイツおよび米国に於て我等の見るところであるが、富める地主がその所有地に生活する農民に、己が土地の作物たり彼等の生活の資を探ることを許した報酬として、これらの(一般に)極貧な人々より出来るだけ搾り取ろうとする。地主が自己の物なりと思っている土地より、地主の許可を受けずに、これらの抑圧された労働者らが自ら利益を得ようと企てる時には、常に軍隊が招集されて地主の財産の権利を確立し擁護する。領有せんと企てる毎に軍隊が派遣せられて何時でも農民を虐殺し苦しめんとする。地主というが如き生涯を送る人は、とても自らキリスト教徒と考え、あるいは仁慈なる人と考え得られない邪悪な利己的な人であることが明らかである。この人にしてもし幾分にてもキリスト教あるいは仁慈の精神を抱けりと言わんと欲せば、第一に為すべきは、同胞を掠奪零落せしめることと、政府の力を盾に虐殺と苛責とによって、自己の所有権を擁護するを止めることである。
そこで宗教的立場から言えば土地を所有するか所有せざるかは重要事ではないと称し、又科学上の立場からすれば所有権の放棄は無益な個人的な犠牲である、そして人類の幸福は、かくの如き方法によってではなく、人生の外部的形態を漸次変化せしむることによって増進せしめらるべしと称するのは、偽善の形而上学的な議論に過ぎないのである。
さて、この地主は少しも躊躇することなく、あるいは人民が彼を信ずるか否やについて何等の疑惑を抱くことなく、農業博覧会や矯風的団体を組織する。また妻や子供等を通して三人ばかりの老いた女等に暖かい着物を配布し、そして図々しくも集会や委員会や、家庭に於て又新聞紙上に、一般人類に対し、殊に自ら絶えず苦しめ圧制している労働する農民に対するキリスト教的又人道主義的愛について論ずる。
この地主と同じ狀態に生活する人々は彼を賛美する、そしていかにも勿体ぶって労働人民の狀態改良に対する最善の方法について論ずる。ところが労働人民を掠奪する事が自分等の生活の基礎になっているのである。そして考え得られるあらゆる方策を案出するが、これなくては人民の狀態の如何なる改良も不可能であるところのものを不問に付している。即ち労働階級より労働階級の生活に必要なる土地を掠奪していることを廃すことである。
この偽善の驚愕すべき例は、飢餓と戦った期間に於けるロシアの地主等の狼狽である。ところが元来この飢餓の原因は彼等であったのだ、そして彼等は餓え凍えた農民に穀物を最高の飢饉価格で売り、薪炭用として乾燥した馬鈴薯の葉を1エカー5ルーブルで売って利益を獲た。
連続せる詐偽の上に立って商売をしている――すべての商売はそうであるが――ひとりの商人を知っている。彼は人民の無智と需要と必要とに乗じ、商品を貧しき者等より安く買って高く売り、双方に於て利益を獲得する。他の場合に行えば詐欺だと彼自ら言うところのものに全活動の基礎を置く人が、自らの狀態について恥じ、依然として商人たる間は、いかにして自らをキリスト教徒または慈善家と称するのを夢みるべきでないことは明らかである。然るに偽善の形而上学は彼に告げて、彼が有徳な人物であると信じさせることが出来、しかも極悪な仕事を続けられると言う。信心家は只信仰さえ抱いて居れば宜い。慈善家はただ商売の発展を図り、外部的狀態の変化を促進すれば宜いのだと言う。この商人は(この外に悪い物品を善いと称して売り、重量や秤目を偽り、あるいは酒精や阿片の如き人民の生命を破滅させるような商品のみを売買して(しばしば不正な罪悪を犯している)、取引上同業を欺むかぬ限り、正直と堅気との模範であると図々しくも自ら考え、他の人々も考える。もし盗んだ金銭の千分の一も公共事業、病院、学校または博物館等に費やせば、人民の恩人であると考えられる。然るに彼の富は実に人民を利用し堕落させて作ったものではないか。もし盗んだ金銭の一部分を教会または貧民に与えるならば、彼は模範的キリスト教徒であると考えられるのである。
ここに工場主がある。彼の収入は職工等の利益の上前をはねたものである。また彼の仕事は社会全体を破壊するような不自然な極度の労働の強制によって成立している。もしこれらにしていみじくもキリスト教的あるいは慈善的な主義を唱導しようとすれば、先ず何よりも第一に自己の利益のために人々の生命を破壊することを止めるべきである。現存する説では、彼は産業を増進している、故に彼の活動を放棄する必要がない、また実にかく為さんと欲せば、これ人類と社会とに害を為すことである。
そこでこれら――数千人の奴隷の残酷な主人は、彼の仕事のために不具者となった人々の為め、2ヤード四方の庭の付いた小さい家を建て、積立金をし、病院と施与処とを建て、そしてこの仕事を自慢し、かくて彼が肉体的に又精神的に破滅させ、且つ続いて破滅させつつあるところのすべての人命に対して自ら受けるよりも多くの犠牲を払ったと全く自信して、平然として彼の仕事を継続する。国家の統治者、あるいは民生上、軍事上乃至協会の首脳者たちが、自己の野心または権力欲を満足せしめんが為めに地位を占めている、あるいは又(この方が多いのだが)単に収入を得るため、疲弊し蹂躙させられた人民即ち労働者階級より要求する。およそ税金は、納税の順序いかんに関らず、結局は労力より絞られるのである。もし人が例外ともいうべき方法において、国家の金銭を直接盗用しないならば(これは稀な例外である)、その人は社会の極めて有用な有徳な一員だと自らも考え他の人々も考える。
ここに裁判官、執行吏、長官が居て、自己の一言一令が憐れな数百数千の人々を鉱山や淋しい牢獄へ送ることを知っている。彼等はそこで家族より別れて追放の生活をし、狂気し、飢餓または硝子を飲んで自殺するのだ。これらの悲惨なる者等が母や妻や子供を有し、皆侮辱され、離別を悲しみ、空しく父や夫や兄弟や息子等に遇おうと望み、また空しく彼等が赦されること、あるいは少なくとも刑罰の軽減されることを願っているのを彼は知っている。裁判官または刑吏の偽善は極度に頑迷になって、彼自身とすべての同僚およびその妻と子供等には、実にこれに関らず、彼は尚甚だ親切にして慈愛深き人たり得べしと確信している。偽善の形而上学に依れば、彼は極めて有用な社会活動を励みつつあるものである。
この人は彼を呪う数百数千の人間を破滅させた。それでいて彼は、彼の職業故に神と道徳に対する信仰を失いながら、教会に行き、聖書を読み、その肥えた顔に慈悲深そうな微笑をたたえて演説し、子供等を愛撫し、彼等に道徳の説教をし、そして想像上の困難に対して感傷的になる。
すべてこれらの人々は、そして彼等の周囲に生活するすべての者等――彼等の妻、子供等、教師、料理人、給仕、幇間(ほうかん)等は、労働者の血によって生活しているのである。彼等は種々様々な方法によって、吸血虫のごとくに労働者の血を吸う。彼等の各々は毎日、死の脅迫の下に労働すべく強制させられる悲惨な労働者らの数百数千の労銀を、快楽のために吸収してしまう。これらの労働者とその妻子等と老人と病者等の苦難と悲惨を彼は知っている。この掠奪の巧妙な組織を侵かした者等の上に加えられた刑罰の何たるかを彼は知っている。しかも彼は彼の奢侈を慎もうとも隠そうともしない。彼は彼を憎悪する蹂躙せられた労働者等の眼前を、あたかも故意に侮辱するかのごとくに傲然として、彼の講演、宮殿、劇場及び競馬場へ出入りする。そして同時にこれらの人々は絶えず自ら脚下に蹂躙している人民の幸福を熱心に願っているのであると、常に自らも信じ人々にも確信せしめようとしている。日曜日には高慢な着物をまとい贅沢な馬車に乗り、特に人を馬鹿にしたようなキリスト教を説教するために建てた家屋へ駆けつけ、そしてそこで教会の法衣を着た人々の説教を聞く。あるいは法衣を着ずして特にこの虚偽に訓練された人々が自ら日常生活において裏切っているところの同胞を互いに愛せよとの教えを説くのを聞くのである。これらの人々は自ら演じる役割に全く浸み込んでいて、自らの僭越を心から真実であると定め込んでいるのである。
現代のすべての階級の肉と血とに完徹してしまったこの普遍的な偽善は、如何なる偽善でも何等の義憤を惹き起こされない程度にまで達した。偽善とは演技であり偽装とは役割を演ずることであると言うのは道理の無い事ではない。列をなして立ち、同胞を殺すために充填した鉄砲を掲げている殺人者等に対しして、キリストの代表者等が祈祷をし祝福を祈るのを見ても、誰も怪しまないのである。すべてのキリスト教の僧侶と牧師等が、刑吏と等しく必要なる人物として、死刑執行に参与し、この参与によって殺人とキリスト教徒が両立するものであると承認するのを見ても、誰も驚かないのである。(米国にては電力死刑の試験中牧師は臨席していた。)
最近聖ペテルスブルグに開かれた万国監獄博覧会に於て、鎖、手枷枻、独房の模型の如き拷問の道具――笞や笞よりは過酷な拷問道具――が陳列されたが、柔しい心の貴婦人達や紳士達がこれを見物に行って、非常に愉快に感じたらしい。
科学なるものが、平等、自由、博愛を承認すると同時に、軍隊、死刑、税関、検閲、公娼の制定、外国労働者の排斥、移民禁止、および掠奪の上に建設せられた植民の必要と正当なる事、いわゆる野蛮人と称せられる全種族の殲滅と衰退等を承認するのを見て、何人も怪しまないのである。
すべての人々がいわゆるキリスト教(実は種々なる敵意ある教条)を採用する時に、総ての人々が衣食に窮しなくなった時に、そして世界に於けるすべての人々が電信電話及び気球によって結合せしめられた時に、すべての労働者が社会主義的教理に徹底した時に、そして商業組合が数百万の会員を包括し数百万ルーブルの金銭を有する時に、またすべての人々が教育を受けて新聞を読み、すべての科学を知るようになった時に、どういう有様になるだろうかとすべての人々が語っている。
すべてこれらの狀態に達するとも、もし人々がその真理と考えるところに従って言行し続けないならば、すべて以上の改良を為すとも、よく何の利益があるだろうか。
人間の不幸はすべて分離から起こるのである。分離は人間が一つである真理に従わず、無数である虚偽に従うが故に生ずるのである。人間が一致し得られるただ一つの方法は、真理に於ける一致に於てのみである。故に人間が真摯に真理を追い求めるに従って、いよいよ益々真の一致に接近するのである。
人間がその知れる真理を宣伝することを拒むのみならず、かくする事を無用なりと考え、そして真理にあらずと信ずるものを真理であるとあえて称する限り、いかにして真理に於て一致し、もしくはこれに接近することをだに為し得るだろうか。
これ故に、人々が自ら真理を離散せしめ隠蔽する限り、また彼等の一致、従って彼等の幸福が真理に於てのみ獲得せられるということを承認し得ぬ限り、更に彼等に啓示された真理を承認し表白する事が他の何物よりも重要であることを認識し得ぬ限り、人類の狀態に於ける如何なる改良も不可能である。
宗教家または科学者によってかつて夢見られたすべての外部的進歩が成就せられたとせよ。すべての人々がキリスト教を採用し、そしてベルラミやリシエによって暗示されたすべての改良が、およそ考え得られるすべての附加条件補修条件と共に実行されたとせよ。しかももし現在ある偽善が依然としてあるならば、即ち人々がその知っている真理を表白せず、自ら信じないものを信じると続いて見せかけ、自ら尊敬しないものを尊敬すると見せかけるならば、人類の狀態はまさに依然たるもののみならず、必ずや漸次悪るくなるであろう。人間が益々物質的に善く供給され、電話、電信、書籍、新聞及び雑誌等を更に多く有するに従って、いよいよ矛盾する虚偽と偽善とを伝播する方法がおびただしくなり、いよいよ分離し、従って現今に於けるがごとく、人間は悲惨になるであろう。
すべて以上の外部的変化が成就せられたとするも、依然として人類の狀態は少しも改良せられぬであろう。しかしすべての人々をして、自己の力の範囲内にある限り、その知られる真理を表白してこれを今直ちに彼の生活において実行せしめよ。あるいは少なくとも、彼の生活に存する虚偽を擁護する事を止め、これを真実であると断定することをやめさせよ、そうすれば確かにこの年に我々は、人類の救済に対するかくの如き進歩を完成し、また数百年間あえて我々の夢見もしなかったところの、地上に於ける真理の確立を見るであろう。
イエスのただ一つの峻厳な罵倒的な言説が偽善者たちに対して発せられたのは道理なことではない。窃盗も、略奪も、殺人も、姦淫も、欺瞞も虚偽が為すようには、人間も堕落せしめ、憤激せしめ、野獣化せしめ、従って分離せしめない。偽善と称する特殊な虚偽は人間のうちにある善悪の識別の意識を破滅し悪を避けて善を追い求める可能性を奪い、真の人間生活の本質を構成するものを取り除くのである。即ち偽善は完全に向かわんとするすべての人間的進歩に対する最大の障碍である。
悪を行いて真理を知らざる人々は、被害者に対して、他の人々の心に憐みの心を起こさず、そして害を受けるのは被害者のみである。しかし真理を知って悪を為す者は、偽善の上衣の下に自らを隠して、自身をも損ない、また彼の犯す罪悪を虚偽をもって装うと努め、これをもって他の幾千人の人々を欺き迷わすのである。
自らが又他の人々が罪悪と考える行為を遂行する盗賊、強盗、殺人者及び悪漢は、為すべからざる行為の範例として役立ち、かくて人々をして罪悪より遠ざからしめる。しかし自らを宗教的、科学的又博愛的自由の下に隠して、あたかもすべての地主等、商人等、工場主等及び現代の国家の役人等がするように、以上の同じ窃盗、詐偽、苛責および殺人を行う者等は、他の人々に彼等の行為を模倣せしめ、そしてまさに被害者を苦しめるのみでなく、数千万数百万人を堕落せしめ、善悪を識別する力を破滅せしめてしまう。
生活の必需品や商品の取引によって獲得するところの、人を堕落させる傾向のある財産や、あるいは人間の健康と生命とを破滅させる工場の設立により、又は国家の民政上乃至軍事上の職務に就くことにより、更に人間の罪悪を利用する職業によって獲得せる財産は、社会の有力者たちが是認し、事前の仮装で修飾するが、実は制定せられたる法律を犯し法律的制裁を受くる数百万件の窃盗、詐偽及び強奪よりも、比較にならぬほど社会を堕落せしむる力を有して居る。
富裕な教育のある人々によって一時の激怒からでなく行われた死刑は、キリスト教の牧師等により承認され牧師等は臨席し、これは必要な行為であるばかりでなく正義であるとさえ宣言した。かくの如き行為は無教育な労働者らが一時の激情よりして犯した数百数千の虐殺よりも人間を堕落せしめ野獣化せしめる。ロシアの一詩人ユコヴスキが提言したように、人間の心のうちに一種切々たる宗教的興奮を起こさせ得る死刑は、想像し得ない甚だしい社会を堕落させる力を有している。
およそ戦争は、最も簡単なものでも、その恐ろしい戦費、収穫の破壊、窃盗、略奪、虐殺および拘束させられない放縦、これを必要とし正義となす虚偽な是認、負傷者保護の口実等の下にする、軍事的功績や愛国心や、国旗崇拝の尊敬や賛美などは、一時の激情にあおられて個々の人々が数世紀の間に犯した数千の窃盗、放火、殺人よりも、比較にならぬほどに甚だしく人々を、一年間に、堕落させるであろう。
尊敬すべきいわゆる有徳な一家族の贅沢な不足のない生活は、隣接して生活する多くの窮乏せる労働者等の数千日の生活費となるべきものを消費するのである。かくの如き家族は、数千の横暴な商人や将校や、また酒食に溺れコップや陶器物を破砕して楽しむ労働者等の遊興よりも、一層著しく人類を堕落させる。
一つの崇厳な行列乃至教会の礼拝、説教者自らが信じないことを講壇から述べる虚偽の説教が、数千の詐欺や食物掠奪などよりは、比較にならぬほど著しく罪悪の原因である。
人民はパリサイ人等の偽善を口にする。しかし現代の人々の偽善は、パリサイ人等の比較的無邪気な偽善に遥かに優るのである。彼等には少なくとも外部的な宗教上の律法があって、これを実践する事が彼等の同胞に対する彼等の義務を諒解するのを妨げたのである。且つ当時に於ては同胞に対する義務が明白になってさえいなかった。これに反して現時に於ては例外なくすべての同胞に対する義務より人々を開放する如き何等の宗教的律法が存していない。(聖典サクラメントや法皇の謝罪宣言が罪悪を除き得ると信ずる愚昧な人間共は思慮の外に置く)。何等かの形式に於て我々すべてが表白する福音書の律法は、我等の義務を明白に我等に指示する。これらの義務そのものは、只ある預言者等の曖昧な誠のうちにのみ指示されたものであったが、今や明白に決定され、学生や新聞記者等が頼りに用いて、自明な真理となってしまった。故に現代の人々は到底これを知らずとは言い得ないのである。
暴力によって擁護される組織より利益を享受しながら、同時に同胞を愛すと称し、そして己が全生涯が同胞を害しつつあることを諒解しない人々は、あたかも全生涯を掠奪のうちに送る人が、必死に悲鳴を上げている被害者の頭上に、刃を振り上げて居るところを捕えられながら、しかも自ら掠奪し殺そうとする者に対して、何の敵意ある事はしていないと言うに似ている。きっとすべての人々に明白であることをこの殺人者掠奪者が否認し得ないように、圧制させられた階級の困苦によって生活する現代の人々は、絶えず彼等が掠奪しつつあるところの人々の幸福を図り、また如何なる手段によって彼等の富と利益とを獲得したかを知らぬとは、自らも信じ、又他の人々に信じさせることは既早や不可能である。
ロシアだけでも、十万人の者等が我等の財産と繁栄とを安全にするために、鉱山及び牢獄に幽閉されていることを我等は知らずとは既早や言い得ない。我ら自ら参与し、又我等の要求に応じて、我らの財産や安全をおびやかす者等を、禁錮、追放に宣言し、鉱山に送り得ることを我等は知らずと言い得ない。鉱山に於ては、裁判する者等より悪いものでない人間が、零落し堕落させられる。また我等の所有するものがことごとく、全く苛責と殺人とによって獲得し保持せられるものである事を知らないとは言えない。窓の前を弾丸をこめた拳銃をもって巡査が巡らし、我等が豊かな昼食をし、あるいは新しい歌劇を見聞いている間、我等の安全を擁護していることを見ぬ振りは出来ない。我等の財産が侵害されるや否や直ちに、兵卒等が鉄砲と実弾薬筒とを携えて現れるべきを知らぬふりは出来ない。我等がもし妨げられることなく昼食をし、観劇、舞踏、競馬、及び猟を楽しみ得るとするのは、それは全く巡査の拳銃かあるいは兵卒の鉄砲の弾丸のお蔭である。無産階級の人々は隅を取り巻いて我等の快楽を見物し、唇をなめづり、そして拳銃を携えた巡査が去るか、あるいは呼べば直ぐに来る兵卒が営舎に居なくなると、たちまち妨害しようと待っているのだが、時によると彼等の餓えたる腹を弾丸が貫徹するであろう。
公然日中に窃盗中捕らえられた人が、殺すと威嚇して掠奪しようと言う目的をもって、被害者を襲ったのでないとは、誰に向っても言い得ないのと同様に、我等は我等を取り囲む兵卒または武装した巡査が、我等の保護のためでなく、只外の敵より我等を防禦し、秩序を維持し、儀式や典礼の装飾の為めであるとは、既早や自らも信じ、他の人々をも信じさせ得ない。人間がその住むところの土よりして自己の食糧を儲ける権利さえも無く、餓死すべからざることを、我等は既早や知らずとは言い得ないのである。彼等が地下の労働を好まぬ事や、水中や、あるいは一日12時間乃至14時間窒息するような熱度の中や、あるいは夜、工場や水車場に於て働き、我等の快楽用の品物を製造することを好んでいないことを知らないとは言えない。これは明白なことで、否定する事は不可能に見える。しかるに我等はこれを否認するのである。
富者階級の中に、自己の快楽がいかにして購われ又いかに高価なものであるかを反省して、真相を隠そうとはせず、頭を下げて『おお、その事は言ってくれるな。もしそうとすれば、人はとても生きてはいられないのだ』と言う者が確かにある。そして幸いにもだんだん多く殊に婦人達と青年達の間に、かかる人々に自分は出遭うのである。しかし自ら脱却する力はないが己が罪悪を知っている真摯な人民は幾分かありはするが、大多数は偽善に頑なになり、およそ盲目ならざる盲目に明白なることを横着にも否認するのである。
彼等は言う『それは皆偽である。何人も人民を地主たちの為めや工場の中に働くように強制はしない、それは皆自由な相互の合意の上に定められるのである。私有財産や資本は、労働を組織化し、労働階級に仕事をするが故に、無くてはならぬものである。水車場や工場に於ける労働は汝等の言うようにそんなに恐ろしいものではほとんどない。もし横暴なことがあれば、政府と社会とはこれを廃止する手段を採り、労働者階級の働きを一層容易にし、進んでは快適にする。人民は肉体的労苦に馴れている。そしてその他の事を為す力をもっていない。人民の困窮は、土地の私有や資本家の横暴によって生じたのでなく、全く他の原因によるのである。それは人民の無智と無節制と蛮性との結果である。そして我々治者階級はこの増進して行く貧窮に賢明な施政をもって対応している。我々資本家は有益なる発明の普及によってこれを除こうとしている。我々僧侶は宗教的教育により、我々博愛家は商業組合の組織と教育の普及増進とによって、貧窮を絶滅しようとしている。以上の手段によって我々は、我々の生活に何等の変化をも来さずに、人民の幸福を増進する。我々は万人が貧民のように貧しいことを欲しない。万人が富者のように富むことを欲する。富者階級のため強制的に働かす為めに、人々が苛責され虐殺されるというは詭弁である。人民が自己の利益を知らないで、反抗し、一般の安寧に必要なる平和を犯す時にのみ、軍隊が派遣されるのである。悪を行う者等を制することも等しく必要である。そしてその目的のために牢獄、鉱山及び絞殺器が設けられる。我等自身も実はかくの如きものの廃止されることを望んでいるので、その方針で一生懸命努力しているのである』と。一方に於ては偽宗教により、他方に於ては偽科学によって支持される偽善は、現代に於て、驚くべき程度に達し、もし我等がその中に生活していなかったならば、人間がこのような度合いまで自己欺瞞に達る得られるとは到底信じられないであろう。彼等は今やこのような奇怪な狀態に達した。そして彼等の心ははなはだ頑なになって、見れども見ず、聴けども聴かず又悟らないのである。
久しい間人間は自己の意識に反して生活して来た。彼等の偽善の為めでなければ、今為し得るごとくに、生活し続けることが出来なかっただろう。彼等の意識にこのように反する現在組織が継続し得るのは、全く偽善によって隠蔽されているからだ。現実と意識との間の相違が大きくなるに従い、偽善はいよいよ巧妙となる。しかし偽善といえども制限がある。そして現代に於てその絶頂に我等が達したと自分は思う。
不本意ながらキリスト教的意識を採用している現代のすべての人々は、きっと夢においてさえも、為すべきでないと知る事を行うように強制されるところの、夢みる人のようである。彼はこの事を彼の意識の奥底に於て承知して居ながら、自ら己が狀態を変える力なく、また自ら為すべきに非ずと知る事を止むる力なしと信じている。かくて夢の中にあって彼の位置は耐え難きものとなり、遂に緊張の極度に達し、次いで彼の感情の現実性を疑い出し、彼を束縛する魔力を破砕し去ろうと努力する。
キリスト教団の一般の人々はこれと同じ位置にある。自分の為すところ、また自分の周囲に行われるところは、ことごとく荒唐無稽なもので、嫌悪唾棄して、又良心に反するものである事を感じている。一般事物のこのような狀態が、いよいよ耐え難くなり、ほとんど耐忍し切れなくなったことを知っている。
人間の尊厳と平等とを高調する現代のキリスト教的意識は、我等の肉となり血となっている。その我等が、更に国際間の平和な交際と一致とに迫られつつある我等が、今なるように生活することは出来ないのである。即ち我等のすべての慰惰と快楽とが、我等の同胞の苦悩と生命とによってあがなわれねばならぬということ。また我等が皆何時でも野獣のように、互いに食いかかり、残忍にも人間の生命と労力を破滅する身構えをすべしと言うこと。しかもそれが只ある誤った主権者または外交官が、自らのごとくに誤った他の主権者または外交官にある無謀な事を言いあるいは書き送ったが為めであるということ。このようなことは到底我等の堪えられないところである。
このようなことは言語道断の事である。しかも現代のすべての人々は、これが現在の事実であり、また来ようとする将来も同じであると見ている。かくて形勢はいよいよ耐え難くなってゆく。あたかも夢みる人が、己が幻の現実であることを疑い、実際の生活の事実に覚醒しようと努力するように、現代の一般の人は、自ら立脚するところの、しかして日毎にいよいよ耐え難くなりつつあるところの恐るべき定理を真理なりとは、その心の奥底において信じられないのである。彼は他の真の現実即ち彼の意識の中に既に活きている現実に目覚めんことを願っている。ちょうど眠れる人が、自らに対していかにも望みなく見えるところの狀態を破砕して、平安な喜ばしい現実に目覚めんがためには、先ずそれが全く夢であるか否かを自問する努力の必要があるように、現代の人もまず自覚に達せんと努力し、そして自己及び他の人々の偽善によってしかりと見える事物を真実なりと信じる事を止めねばならぬ。眠れる人が恐ろしい奇怪夢より醒めて、平安な喜ばしい真実へ移されるように、自ら移されるを感じる為めには、先ずそれが全く虚妄でないか否かを自問する必要がある。
これが為めに人は何ら特別の偉業を為し、あるいは困難な功績を果たすを要しない。只意識の内的努力をすればよいのである。
(五)
人はかかる努力を為し得るか。偽善が要求する現存する説によれば、人は自由でなく、己が生涯を変化する力をもっていないと言う。『人は自由でないが故に、己が生涯を変え得ない。また人の行為はすべて先行の原因によって決定されるから、人間は自由でない。人が如何なることを為すとも、常に決定力を有する原因が存在していて、人間を種々なることを為さしめる。従って人は自由でもなく、また意のままに己が生涯を変化し得ない』と、偽善哲学の擁護者が言っている。もし人間が無自覚な存在者であり、真理に対して不動であり、一度真理を認識するや永久に同一程度の意識の水準に止まるものとすれば、彼等の言うところは正しい。しかし人は真理に対するより高い自覚へ達し得る意識的存在である。従ってもし人がその行為において自由でないとしても、原因、即ち行為の充足原因として真理を選択認識する事は、全く自己の権力内にある。
故にもし人がある行為を行うか行わざるかという自由を有しないとするも、自己の行為の源泉たるところのものにおいて自由である。即ち機関車の過去または現在の運動を変化する自由はないが、しかし未来の運動を決定する自由を有する機関士のようである。
凡そ思慮ある人が、他にあらず一定の行為をすると言うのは、この際かく行うことが真実に適っていると認めたか、あるいはまさにしかりと承認し、今は惰力または単なる習慣の力により、ここに確信して行うように行動し続けるか何れかである。
いずれの場合においても、彼の行為の原因は、何等の外部的現象によって形成されず、一定の主義の真理の承認、従って一定の現象を行為の充足原因として承認することに於て形成させられるのである。
人が食物を食うかあるいは妨げるか、働くか休むか、危険を求めるか避けるか、いずれにせよ。彼には意識的に行為する限り、特に他を棄ててする行為とは、即ち彼がこの時代をもって合理的でありまた真理に一致すると考えたか、あるいはまさにしかりと信じたことがあったが為めかである。
一定の真理を承認するか承認しないかは、外部的条件によらないで、自己の中に存在するある諸原因による。しばしば人は真理として承認する一見極めて好都合な外部的狀態があるに関わらず、それを拒む、しかるに他の人は真理を極めて都合宜しからざる狀態の下に、何等明らかなる動機なしに承認するのである。福音書に言えるように『我を潰しし父もし引かざれば人よく我に来たるなし』である(ヨハネ伝6の44)。即ち人生のすべての行為の原因であるところの真理の承認は、外面的境遇に拠らないで、観察出来ない内面的性質によるのだ。故に人もし自己の行為において自由でなくても、尚自己の行動の原因を構成するところのもの――真理を承認しあるいは承認しないことに於て、自ら絶対的に自由であると感じる。まさにすべての外部的事件に対してだけでなく、自己の行動に対しても、自ら自由であると感じるのである。
かくして人は激情にあおられて、自ら承認する真理に反する行為を果たしたりとしても、尚これを承認するか承認しないかの自由を依然としてもっているのだ。換言すれば、人は真理を否認して己が行為を当然だと考え、これを行わせ自己をよしとすることも出来る、あるいは真理を承認して自己の行為を悪だと考え、これを為す自己を責めることも出来るのだ。
誘惑に負け、己が情欲に負けてしまった賭博者あるいは酔漢は、賭博乃至飲酒を、悪とも認め、もしくは無害な楽しみだとも認まる自由を有している。第一の場合に於て、たとえ彼は直ちに自らを情欲より自由に出来なくても、漸次真理を承認する誠意に準じて、自由にすることが出来るのだ。第二の場合に於ては、己が情欲を激励し、救済の可能力を失うようになるのだ。
これと同じく、焔に堪えられずに己が友を見棄て、燃える家より逃げる人が、尚人間は例え生命を賭してさえも同胞を助けるべしと言う真理を認め、そして己が行為を悪とみなし、従ってこれに対して自己を責める自由を有している。あるいはこれと異なり、この真理を否認し、自己の行為を自然にしてまた当然とみなし、従ってこれを行わせる自己をよしとする自由をもっている。第一の場合即ち実践することは出来なかったが真理を承認する場合に於ては、このような承認より連続して必然に出で来るべき自己犠牲に対する準備を自らしているのである。第二の場合に於ては、これに反して、連続する利己的行為の準備を自らしているのだ。
人間が常にすべての真理を承認しあるいは否認する自由をもっているとは自分は言わない。久しき以前に個人によって採用したある真理、あるいは教育と伝説とによって伝えられ、個人がこれを信じて受け容れ、これを承認する事が第二の天性となれるようなある真理がある。また個人が只漠然遠くより識別する真理がある。この第一種の真理を否認することに於て人間は自由をもっていない。また等しくこの第二種の真理を承認することに於て自由をもっていない。しかし更に第三種の真理がある。それは未だ個人の行為の無意識的動機となっていないが、極めて明白に啓示されているので、湖人はこれを瞞着することが出来ず、不可避的にこれを考慮し、これを承認するかあるいは否定するかするのである。この種の真理に関しては、人間の自由は明白である。真理に対しては、生活するすべての人々は、眼前に進む燈の光によって暗黒の中を歩む旅人のようなものである。彼は未だ燈によって照らされないものを見ることは出来ない。また暗黒のうちに残し去ったものを見ることが出来ない。そしてこの両者に対する自己の関係を変更する力をもっていない。しかし彼の道程のすべての地点に於て、彼は燈によって明らかにされたものを見ることが出来る。また道のこの側あるいは他の側を選択することは、常に彼の権限内にある。
すべての人々に対して、各々に隠蔽され且つ各々の慧眼に啓示されない真理が常にある。また既に体得し終わり、同化し、忘却された真理もある。しかし尚他の真理があって、理性の光により個人の眼前に立ち上がり、即時の考慮を要求するのである。我等の自由が明らかになるのは、この種の真理の承認あるいは否認においてである。
人間の自由と言う問題についてのすべての困難と、その一見不可解と見えるのは、解決せんと努める人々が、人間を真理に対して静止的なものとみなしているという事実から起こるのである。
もし人間を真理に対して静止的なものとみなすならば、そして又個人の生活およびすべての人類の生活が、暗黒より巧妙への低度の真理より高度の真理への、誤謬によって汚された真理より誤謬の少ない真理への、不断の進化であることを忘れるならば、疑いもなく人間は自由ではない。
人間は、もしすべての真理を知らないとすれば、自由でないであろう。一生を指導するべき全体の真理がその絶対に純粋なままに誤謬を交えることなく、突如として人間に啓示されたとすれば、等しく人間は自由でなく、又自由の観念をさえもたないであろう。
しかし人間は真理に対して静止的ではない。各個人および人類は、歳月を経るに従い、漸次高度の真理の知恵を獲得し、いよいよ誤謬より自由になる。真理に対する人類の関係は三重である。ある真理は全く同化されて、行為の無意識的原因となっている。他のある真理は漸く啓示され始めている。第三に、ある真理は、今だ同化されないが明白に啓示されて、人間を一定の行為に強制し、彼をして該真理を考慮させ、これを承認するかあるいは拒絶するかさせる。人が自由であると言うのは、この種の真理の承認もしくは否認において存するのである。
人間の自由は、人間が人生の行路及び存在する諸原因の影響を受けずに、本能的行為を遂行し得るという事を意味しない。それは人間が自己に啓示された真理を承認し表白することによって、神によりある世界の生命によって成就せられた永遠無限の業の、自由にして歓喜に充ちる参与者たり得る事を意味するのである。あるいは該真理を承認しないで、人間が該真理の奴隷となり、自ら行くことを欲しないところへ、自己の意志に反して、もしくは強制的に行かせられることを意味するのである。
真理はまさに人生の道を指示する許りでなく、また人生の辿り得べきただ一つの途を啓示するのである。故にすべての人々は、本位にもせよ不本意にもせよ、必ず真理の途を辿らねばならない。ある者は己が意志により、定められた己が人生の業を為し、ある者は不本意ながら人生の法則に服従する人間の自由はこの選択の可能にあるのである。
かく狭き範囲に於けるかくの如き自由は、いかにも瑣々(ささ)たるもののように見えて、人間はこれを注意しない。決定論者はこのようなことは考慮すべく余りに瑣々たるものであると考える。自由意志の擁護者は、自己の想像上の自由を眼中に置いて、しかるに瑣々たるものに見える程度の自由を無視する。一方に於ては、真理を全然知られずという範囲内に局限される自由、他方に於ては、真理のある一部分を認識するという事は、人々に取って自由とは見えない。人間が自己に啓示された真理を承諾することを欲するにもせよ欲さないにもせよ、必ず生涯においてこれを履行せしめられる故をもって尚更自由とは見えないのである。
他の馬共とともに馬車につけられた馬は、意のままに前進しあるいは佇立(ちょりつ)する自由を有していない。もし馬が車を引くことを欲しないならば、車が馬の脚を打って、馬車の行く方向へ馬を向けさせる、そして馬は己が意思に反して車を引かねばならないだろう。しかし馬は、己が自由に制限するにも関らず車を引くかあるいは車に押されるか、いずれかを選択する自由がある。人間に於ても同断である。この自由は、我等がもつことを欲する想像上の自由に比べて、大であるにもせよ小なるにもせよ、疑いもなく存在するただ一つの自由である、そしてこの自由に於てのみ、人間の達し得る幸福を獲得することが出来るのである。
この自由は只に幸福を人間に与える許りでない。またこの世の生涯に於てなされる業を完成させ得るただ一つの手段である。イエスキリストの教訓によれば、生活の意義を、自由なき世界――結果即ち行為の世界に体現する人は、真の生命を所有していないのである。キリスト教の教訓によれば、自由なる世界、原因の世界、即ち認識と典型的真理とを容れる世界、そして又馬に車が続くように、承認すれば必ず実行的実現が継ぎ来たる世界に、生活を移した人のみが、真の生活を有するのである。生活の意義を肉体の行為に置く人は、時間と区間とに制限され、又自己の制御し得る範囲以外にある外的原因に常に左右せられる業を為す。かかる人は自ら何事をも為さないのである。自らの意志によって行動していると想像しているが、実は自ら為しつつありと想像した事はすべて、他の優越する力によって為されるのである。そして彼は生活の創造者でなしに、奴隷である。生活の意義を、自己に啓示された真理を認識し表白することに置く人は、宇宙的生活と結合する。そして時間や空間の条件に左右せらるる個人的行為の遂行者でなく、原因を自ら要せずして却って自ら他のすべてのものの原因であり、しかして永遠にして無限なる意義を有する行為の遂行者となるのである。
真の生活の本質が真理の認識と表白とに存することを無視し、外面的行為によって己が生活を改良せんが為めに没頭する、異教的人生観を抱く人々は、きっと、目的地に達するために、櫂の妨げとなると言うので蒸気機関を破壊しようとし、また蒸気と推進機を使用する代わりに、水に達しない櫂をもって暴風雨の中を漕ごうと試みたある汽船に乗る人々のようである。
神の国は努力によって到達される。そして努力する人々のみがこれに達し得る。真理の認識と表白とのために、外界的条件を拒否する努力は、神の国に到達する努力である、そしてこの努力は現代に於て為すことが出来、また為さねばならぬのである。
人々は只次の事を実現すべきである。彼等に自由を得させない外界的および物質的事物に対して顧慮する事を止め、そして今外界的事物の上に費やしている精力の百分の一を、彼等に自由を得させるもの、即ち彼等の前にある真理の表白と認識とに、また真理を隠蔽する虚偽と偽善とより自己及び同胞を救い出すことに、注げばよいのである。しかするならば、尚も大なる禍をもって人々を呵責し威嚇しているところの、人生の虚妄な組織が直ちに、苦闘や努力なしに破壊されるであろう。そして神の国が、あるいは少なくとも既に人々がその意識の狀態によって準備の成っている神の国の第一歩が、確立せられるであろう。
塩を含ました液体を結晶させるには、只一つの振盪で十分であるが、そのように現代に於て、既に人類に啓示された真理が数千数百万の人々を抱擁し、また現代の人間の意識と一致する世論が確立し、かくて現存せる人生の全組織が与論によって変更させられるようにするには、極めて些かなる努力だけで十分であるであろう。この努力を為すは我等によっているのである。
もし我等各々がただ、至る所に我等を取り囲み、様々な形を為して我らの魂に入らんとしているキリスト教の真理を諒解し認識しようと試みさえするならば。もし我等がただ、偽ることを止め、また真理を見ないかのごとくに装うことを止めるならば。もし我等がただ、我等を呼んでいる真理を承認して、恐れることなくこれを表白するならば。数百数千数百万の人々が、我等と同じ狀態にあって、我等と同じく真理を会得し、我等のごとくに、ひたすら他の人々のこれを認識せんことを待っているのを、我等は直ちに発見するであろう。
もし人々がただ偽善者たることを止めるならば、彼等を束縛し又彼等にとって、不易で、当然で、神聖で、神の定めたものと見える人生の残忍な組織が、基礎までも震憾され、ただ偽善の虚偽によって擁護させられ、我等と我等の同胞とが偽善によってこれを支持していることを直ちに悟るであろう。
しかし、もしそうであるとすれば、もし現存する組織を破壊することが全く我等自身によるとすれば、これに代わるべきものを明白に知ることなしに破壊する権利が我等にあるであろうか。『我等の残し去りし世界の城壁の彼方に何があるであろうか。恐怖が我等を捉える。虚無か、空か、自由か。……どこに行くかを知らずして、いかにして我等は前進し得よう。何を獲得すべきかを知らずして、いかにして我等は損失を敢えてし得よう。もしコロンブスの所論がかくのごとく空漠なものであったとすれば、彼は遂に抜錨するが如きことはなかったであろう。路を知らずして、存在の疑問である国を探求せんとて、大洋――かつて何人も通過せしことなき太陽へ、出帆せんとするは狂気の沙汰であった。しかしこの狂気の沙汰によって彼は新しき世界を発見したのである。勿論もし国民が設備の整った室から、他の更に善い室へ移ることが出来たとすれば、それは容易なことであったであろう。しかし不幸にも今や何人も新しき住処を備えてくれないのである。未来は大洋よりもおそろしい。それは空である。それは人間と境遇とが作り出すものである。汝もし旧世界を宜しとせば、それを保持せんがために汝の最善を尽くせよ。旧き世界は甚だ病んでいる、長くは続かぬであろう。しかし考がうるところと行うところを異にし、生活と信仰との永遠の抗争のうちに活くることに汝等が既早や堪え得ずとせば、自ら責任を負うて中世時代の白色の僧院を去れ。これが難事であることを自分は知っている。誕生以来生涯を通じて親しみしすべてのものより離別することは容易でない。人間はおそろしい犠牲を払う事を惜しまない。しかし新生活が彼等に要求するところのものに対して払うことをしない。彼等は彼等の現代の文明、彼等の生活様式、彼等の宗教、彼等の常套的な差し障りのない道徳を犠牲にするを惜しまないか。三世紀間も誇り来たりし努力によって獲得したすべての結果を失うことを意としないであろうか。文明の老年よりも粗暴の青年の方を選ろうとするであろうか。疑いもなく我等の死後久しき後にあらざれば完成せざる新しき家屋の建設に与るという単なる楽しみのために、己が因習的な宮殿を破壊せんとするであろうか。』(Herzen,volV.,p.15)一人のロシアの作家が、約半世紀前に、かく書いている。彼はその鋭い智力をもって、現代の凡そ考えることのない人々によってさえも今や悟られていること、即ち前代の基礎の上に生活を継続することの不可能なること、及び生活の新様式を建設することの必要を、既に明白に弁べていた。最も低い、最も単純な、そして最も通俗的な見地からしてさえも、今にも倒れんとする建物の屋根の下に止まるのは、明白に狂気の沙汰である。その家を去るべきことが明らかである。実際、諸国が交互に武装し、当然増加して止まぬ軍備を維持するため、増加して止まぬ課税に苦しみ、富者階級に対する労働者階級の憎悪は強くなり、戦争がダモクレスの剣のごとくに万人の上に一様に懸かり、いつか早かれ遅かれ、必ず落下しようとしている現代のキリスト教諸国ほど、悲惨極まる位置にあるものを発見するは困難である。
人民の大多数によって、我等の生活の目下の秩序、あるいはむしろ不秩序ほどに、悲惨な如何なる革命もなかったと自分は考える。現代の生活は、不自然な労働、悲惨、不節制、放縦の絶えざる犠牲者に充ち、また一年間に一世紀に亘るすべての革命よりも多くの犠牲者を奪い去るべき切迫する戦争の恐怖に脅かされているのである。我らに与えられた良心によって神の要求し給うことを、もし我々各々が実行し始めるならば、我等とすべての人類とは如何なるものとなるだろうか。彼自らが神の力のうちに絶対的になることを知り、神によって建設され監督せられる家のうちにあって、もし自分が、神の終極の目的を知らぬ自分に奇怪に見えるとも、神の我に為せと命じ給う業を成就するならば、宜しいのである。
しかし問題は未来についてではないのである。神の趣旨を為す事を躊躇する時に人々は多く未来を気にする。即ち科学、芸術、文明、また文化と称する人生の通常の条件なしに、いかにして生活すべきという問題に遅疑せしめられる。我等は我等の現代生活の一切の不幸を親しく感じている。我等はもし現存する組織が継続するならば、必ず我等を破滅させることを知っている。しかしそれと同時に我等は、この組織より成長した一切の条件――我等の芸術と科学、文明と文化――が例え我等の生活を変えるとも、依然として変わらないよう願っている。それはきっと、朽ちた家に住んで寒さに苦しみ居心地悪しく、また何時壁が自分の上に倒れるかも知れないことを承知している人が、終始家の中に居て去らないという条件のもとにのみ、家の修繕を承認するようなものである。かかる条件は家の再建を拒絶するに等しい。『もし自分が家を去りすべての慰楽を奪われ、そして新しい家が遂に建てられなかったならば、自分はどうなるであろうか。あるいは新しい様式に建てられて、自分の長く慣れてきた便利を欠くかも知れぬではないか。』
しかしもし材料と大工等の都合が宜しかったならば、恐らく新しい家は旧い家よりも宜しく建てられるであろう。そして古き家がその中に残っている者等を押し潰すことは、恐らくと言うよりも確かであろう。旧い慣れた生活の諸条件が廃止されるにもせよ維持されるにもせよ、頽廃して耐ぶべからざるものとなった生活の古い諸条件は必ず後方に遺棄されねばならぬ。そして未来に対応せんがために前進せねばならぬ
『しかし科学、芸術、文明、および文化は消え失せるであろう。』
すべてこれらのものは真理の異なれる表現に過ぎないのである。しかして切迫する変化は又、真理の実現の名と、これに向う未来の前進とによって成就せられるであろう。然りとすれば、この真理の実現の結果真理の諸々の表現が消失するとはどうして言えようか。なる程前よりは異なった、より(ヽヽ)善き、より(ヽヽ)高き表現であろうが、決して亡びることはない。その中にある虚偽は消失するであろう、しかしその中にある真理は成長し、一層生気を増し加えて繫栄するであろう。
(六)
人々よ、覚醒せよ、そして福音――幸福の教訓を信ぜよ。汝等もし覚醒しなくば、ピラトに殺された人々のように、人を殺して殺され、人を死刑にしては死刑にされ、苛責して苛責せられた幾百万の人々のように、また倉を充たして長生を楽しまんとし、生き始めようとしたその晩死んだ愚かなる人のように、汝等は滅び去るであろう。『人々よ眼を醒まして、福音を信ぜよ』とイエスキリストは1900年前に言った。そして彼の予言が成就し、彼が予言する人生の愚妄と悲惨とが今やその極度に達したので、彼は一層大いなる力をもって今この言葉を反復して居る。
既に幾世紀も費やして、暴力と言う異教的組織の下に、人生に安全を与えんと空しく企てて来たので、すべてこのような努力が何等安全を与るどころでなく、個人的にも社会的にも、人生に新たなる危険を加えたに過ぎなかったことが、万人に確かに明らかになったに相違ない。
我等が自らを何と呼び、如何なる衣装を装い、如何なる装飾をし、また如何なる僧侶の前で我ら自ら塗油し、幾百万を所有し、幾多の護衛を街上に置き、幾多の巡査が我等の富を保護し、幾多のいわゆる犯罪的革命者と無政府主義者とを死刑に処し、如何なる功績を我等が樹て、如何なる国家を我等が建設し、如何なる堡砦と塔とを築造するとも(バベルの塔よりアイフエルの塔に至るまで)、我等すべてのものの前に、人生の不可避的な二つの条件が残存していて、人生の一切の意義を奪ってしまう。即ち第一は不意に我等各々を圧倒し去るところの死である。第二は、我等の成就することが一切無効で、迅速に消え去って何物をも後に残さぬことである。およそ我等の為す事は、国家を建設しようが、宮殿と記念碑を築造しようが、歌と詩とを書こうが、すべて暫くの間存して、直ちに過ぎ去り、何等の痕跡を後に残さない。故に我等は自らに蔽そうとして努力を尽くしているにも関わらず、我等の生涯の意義が、避け難き苦難と不可避的な死とに従属する肉体の一時的にして個人的なる生命に存せず、あるいは又何等現在的制度乃至組織に存しないことを、我等は悟らざるを得ないのである。
誰にもあれ、これらの言葉を読む者等よ、汝等の地位と義務とを考えよ――地主、商人、裁判官、皇帝、大統領、大臣、僧侶、あるいは兵卒としての地位でない。そんなものは人間が一時的に汝等に付与したのである。また以上の地位が汝等に附加する想像上の義務でない――無存在の永遠の後、ある者の意志によって無意識より呼び出されたもの、そして何時か同じ意思によって、その出で来たりし所へ帰るべき存在者として汝等の真の永遠的な地位である。汝等の義務を反省せよ。汝等の領地の地主、汝等の資本に対する商人、国家の皇帝、大臣、あるいは当局者としての地位でない。人生に召しだされ愛と理性とを付与された存在者としての真の地位より結果し来るところの、汝等の真の義務である。汝等をこの世に遣わしまた、いと速やかに汝等の帰り行くべき神の要求し給うものを、汝等は為しつつあるか。地主あるいは製造業者として汝等が、貧民よりその努力の結果を奪取して、この掠奪の上に汝等の生活を建造する時、あるいは治者もしくは裁判官として、汝等が人々を暴力にて蹂躙し、死刑を宣告する時、あるいは兵卒として、汝自ら戦争、略奪、殺人の準備をする時、果たして汝等は神が汝等の為すことを欲し給うことを為しつつあるか。
世界はすべてこれらの事が避け難いように出来ている、そして汝等がかく為すのは自分の意志でするのでなく、かく為すように強制せられるのであると汝等は言う。しかしかく汝等の同胞を愛する必要があり、更にこれにも勝って汝等が彼等に愛せられるべき必要が汝等の心のうちに植え付けられてあり、また人間の苦痛と苦悶と殺人とに対する極めて強い憎悪があり、人間の選し得る最大の幸福が、ただ万人の平等と相互奉仕とに依ることを承認するにあることが明らかであり、この事を心情と理性と又汝等の表白する信仰とに教えられ、科学さえも然りと教えている時、それにも関わらず、ある極めて漠然たる複雑な議論の力によって、汝等が汝等の知り感ずるところに全く正反対な行動をするように強制せられるとは、そもそも有り得べきことであるが。資本家または地主として汝等が、汝等の生活を労働階級の抑圧の上に建造すべしとは、有り得べきことであるが。あるいは皇帝または大統領として、汝等が軍隊の指揮者、即ち殺人者等の支配者及び指導者たること、あるいは国家の当局者として、汝等が汝等自身の利益のためにあるいは富者への分配せんがために、窮迫する家族よりその血によって設けた金銭を要求すること、あるいは裁判官または司法官として、汝等が迷わされた人々を、その真理を教えられざりし故をもって処刑すべきこと、なかんずく、汝等もしくは他の青年等が、世界の一切の罪悪の基礎たることを為すこと――軍隊に入り、そして汝等自身の意志とすべての人間的感情とを拒否し、他人である上官等の意志に服従して、その汝等に殺せと命ずるものを殺すことを誓約すること、かくの如き事は果たして有り得べきことか
有り得べからざることである。
すべてこれらの事が現存する組織を維持するに必要であるとか、あるいはこの悲惨な、餓死、牢獄、死刑、軍隊及び戦争の存する組織が社会に必要であるとか、あるいはもしこれらのものを廃止すれば悲惨な結果をもたらすとか、汝等に言う者があれば、それはこの組織によって利益を得ているものだけに相違ない。この組織によって困窮せられている者はすべて十倍からある――その反対なことを考え又言うのである。そして汝等自らも、心の奥底に於て、この組織が虚偽であると知っている。汝等は現在の組織が既にその役目を果たしたこと、そして新しき基礎の上に再建されるべきこと、従ってこれを擁護せんがために、人間の感情をいささかも犠牲にする必要なきことを知っているのである。
なかんずく、現在組織が不可避的なものであるとしても、何故に汝等自らこれを擁護し、かくてすべて汝等の最善の人間感情を虐げる必要があるか。誰が汝等をこの滅亡しゆく組織の看護人たらしめたのか。社会も人類も国家も決して汝等に、汝等の職業たる地主、商人、皇帝、僧侶、あるいは兵卒として、この旧き組織を擁護せよとは願ったことがない。汝等が汝等の職業を受容して継続するのは、汝等の同胞の幸福のために欠くべからざる組織を擁護せんとする非利己的な考えを抱いてではなく、汝等自身の為め、汝等の貪婪のため、汝等の野心、汝等の虚栄、汝等の安逸、汝等の怯懦のためであることを、汝等は甚だ良く承知している。汝等もしこの地位を意としないならば、これを擁護するために為さねばならぬことを為そうとはしないであろう。汝等の地位を維持せんがために絶えず汝等の為しつつある複雑な、残忍な、欺瞞的な、そして侮蔑すべきことを行うことを一切止めよ。そうすれば汝等は直ちに地位を失うであろう。もし汝等が治者でありあるいは当局者であれば、虚偽を言い、偽善者たり、暴力乃至殺人に参与する事を止めよ。もし汝等が僧侶であるならば、欺くことを止めよ。もし汝等が兵卒であるならば殺すことを止めよ。もし汝等が地主あるいは製造業者であれば、暴力及び法廷によって汝等の財産を擁護することを止めよ。そうすれば強制させられたものであると汝等が主張し、また圧制的に課せられたものだと弁護していた職務地位を、汝等は直ちに失うであろう。人が良心に反する地位に、意志に反して置かれるべしと言うことは有り得ない。汝等がもしこのような地位にあるとすれば、それは他人の幸福がこれを要求するのではなくて、汝等自身がこれを願望しているに過ぎないのである。故に、汝等の地位が汝等の心情、汝等の理性、汝等の信仰、そして汝等の信ずる科学にさえも反すると知れば、汝等はその位地に止まることによって、なかんずく、これを正当なりと擁護することによって、果たして汝等の為すべきことを為しつつありや否やを、反省せざるを得ないのである。
汝等の誤謬を認めて矯正する時のあることを汝等もし確信しおるとすれば、そして汝等が危険を冒すは抑々何人の名に於てであるかが大切でありとすれば、汝等は敢えて誤謬を為す危険に馳せてもよいであろう。しかし汝等の誤謬を、汝等自身もしくは汝等がこの誤謬に引き寄せた人々に対して、矯正する少しの見込みもなしに、何時でも汝等が過ぎ去るべきを疑いもなく汝等は知っている。更に、汝等がこの世の外部的組織に於て成就することがすべて、迅速に消え失せ、そして汝等も等しく必ず消え失せて、後に何等の痕跡をも残さないのである。確かにこの一事は汝等をして危険を冒して、かくの如き怖ろしい誤謬を為さしめないようにするのである。
もし我等に啓示された真理を偽善によって燻(くゆ)らさなかったならば、すべてこれらの事は明白であるのである。
『すべてのものを他人と共にせよ。富を集積するなかれ。汝等自ら高ぶるなかれ。掠むるなかれ。殺すなかれ、何人をも苛責するなかれ。己れ人にせられんと願わざることを汝等人に為すなかれ。』これは1900年に非ず、5000年前の言葉である。そしてもし偽善のためでなかったならば、これらの真理に関しては何等の疑惑もあり得なかったであろう。また例えこれを実践しなかったとするも、我等はその実践すべきものであることを認めないようなことは無かったであろう。そして実践せざるものが悪を為すということも無かったであろう。
しかし公衆の安寧なるものがあって、その名のためにはこれらより離れて差し支えなく、また離れざるを得ないのである――即ち公衆の安寧のために殺し、苛責し、掠(かす)めるもよしと、汝等は言う。カヤバのように、汝等は、すべての民の亡ぶるよりは一人の亡ぶるは宜しいと言う、そして一人二人三人の死刑宣告書に署名し、一般の安寧のために死すべき同胞を殺すために汝等の銃に弾丸を込め、牢獄に投じ、財産を没収する。汝等がすべてこれらの残忍なることを為すのは、汝等が社会国家の一員であって、社会国家に奉仕する義務と感じ、地主、裁判官、皇帝あるいは兵卒として法律を履行すべき為めであると、汝等は言う。しかし国家と国家の義務という観念の外に、汝等はまた、世界と神との無限の生命に対する汝等の関係、およびそれより由来する義務を考えねばならぬのである。
家族及び社会に対する汝等の関係よりする義務が、国家に対する汝等の公民関係よりする高き義務に従属すべきものであるように、この後者の義務は、当然、神と世界の生命とに対する汝等の関係よりする義務に従属すべきである。
家族又は社会に薪を供給せんがために電柱を伐り倒し、かくてその幸福を増すことは、国家の幸福を擁護する法律を侵犯することであるが故に不合理である。そのように、国家を擁護しその幸福を増進さすために、掠(かす)め、殺し、人々を苛責することは、世界の幸福を擁護する至高の律法を侵犯することであるが故に、不合理である。国家に対する汝等の関係よりする義務は当然、神及び世界の無限の生命に対する汝等の関係よりする至高永遠の義務に従属すべきである、そして両者は決して矛盾するものでない。1900年前にキリストの弟子たちの言った通りである。『神に聴くよりも優りて汝等に聴かば神の前にあって義たらんか、汝等自らこれを定めよ』(使徒行伝4の19)。『人に従うより神に従うは為すべきことなり』(使徒行伝5の29)。
地球の片隅に於て僅かの人々によって近く昨日建設された、一時的で変化窮まりない組織を維持せんがために、汝等は神と理性とによって定められた、世界の永久不変の秩序を侵犯する行為を行えと命ぜられる。かくの如きは有り得べきことか。
汝等は止まりて、地主、商人、裁判官、皇帝、大統領、大臣、僧侶、あるいは兵卒として、圧制、暴虐、欺瞞、苛責および殺人と関係する汝等の位地を考えざるを得ないのである。かくの如き位地の不法なることを汝等は認めざるを得ないのである。
しかし、汝等がもし地主であるならば、直ちに汝等の土地を貧民に与えよと言うのではない。もし資本家であるならば、汝等の金銭または汝等の工場を労働者に与えるべしと言うのでもない。あるいは君主、政治家、当局者、裁判官、将軍であるならば、汝等の有利な位地を放棄すべしと言うのでもない。あるいは兵卒であるならば(即ち一切の暴虐の基礎である位地を占めるならば)、服従拒絶より来たるあらゆる危険を意とせずして、勤務を拒むべしと言うのでない。
もしかく断行すれば、これ実に最善を為したのである。しかし恐らく大抵は、かく断行することは不可能であろう。汝等には家族がある。社会的関係がある。従属者がある、上官がある。汝等は強い誘惑の勢力に圧倒されて、これに抵抗することが不可能であろう。しかし真理を真理として承認して偽らざることは、常に汝等にできることである。しかし汝等の活動が人類に有益であるが故に、依然として汝等は地主、製造業者、商人、芸術家あるいは作者たろうとか、汝等に愉快であり又習慣であるからと言うではなく、人類の利益のために、汝等が治者であり、執行吏または君主であるとか、刑罰を恐れるのでなく、軍隊が人生の安康のために必要であるからして、汝等が兵士として勤務し続けるのであるとか主張することを、汝等は常に避けることが出来よう。汝等は常に汝等自身及び他の人々を偽ることを避けることが出来る。まさに出来るのみならず、汝等はこのようにすべきである。何故なればこれのみが――汝等自身の悪よりの救済と真理の表白――汝等の生活のただ一つの幸福を構成するから。
汝等はただこれを為すべきである、そうすれば汝等の位置は当然おのずから変わるであろう。
汝等が自由であり全権を揮い得る一つの事、ただ一つの事が人生に於て汝等に与えられてある。その他の事はすべて汝等の権限外にある。一つの事はこれである――真理を認識してこれを信奉することである。
しかしながら汝等自身の如き惨しくも誤れる人々が、汝等が兵卒、皇帝、地主、資本家、僧侶、あるいは将軍であることを納得させたが故に、汝等は明らかに疑うべくもなく汝等の心情と理性とに反する行為を為す。汝等は掠め、苦しめ、また人々を殺し始める。汝等の生活を人々の苦難の上に建設する、なかんずく、汝等の生活のただ一つの仕事を果たす代わりに――汝等の知れる真理を承認し信奉する代わりに、汝等は執拗にもこれを知らざる風に装い、念入りにこれを汝等自身及び他の人々より隠蔽し、かくして為せと命ぜられたただ一つの仕事の正反対を為しているのである。如何なる条件の下に汝等はこれを為しているか。いつ死ぬべきか図られざる汝等が、死刑宣告書に署名し、宣戦し、戦争し、裁決し、労働者を呵責し、掠め、飢餓に瀕せるものの中にありて奢侈な生活をなし、かくの如きがこの世の常であると弱い信頼する人々に教え、またそのようにするのが人々の義務であると教える。しかるに汝等はかく為し居る時常に、弾丸または黴菌によりて亡ぼされる危険に馳せているので、遂に苦悶して死ぬかも知れぬのである。そして永遠に亘ってただ一度しか汝等に与えられない生活を浪費して、疑いもなく為すべかりし一つのことを為すことなく、かくして他の人々殊に汝等自身に対して為せる罪悪を変改することも償う見込みも愈々失うであろう。
いかに良く知られて平凡に見えようが、いかに甚だしく偽善とそれより出づる自己催眠とによって我等自身を鈍感にするとも、避け難き苦難と必然に結ばり、更に避け難き死をもって終わるべき我等の生活を、如何なる外部的な努力も安全にし得ないという明白な真理の確実性を破壊し得ないのである。死は何時われら各々を圧制するか図られないのである。故に我等の生活の意義は、我等をこの世に遺し、しかして我等の生活の確乎たる指導者を我等自身の合理的意識のうちに与えた力が我等に要求するところのものを、不断に実行することに外ならぬのである。
故にこの力は不道理なこと有るべからざることを我等に要求することは決してない。即ち我等の一時的な物質的な生活、乃至社会または国家の生活を要求しない。この力は疑いもなく合理的であるべき事柄をのみ我等に要求する。即ち神の国に奉仕すること、換言すれば、すべての生けるものの最大の一致――只真理に於てのみ可能な一致――を建設するように援助すること、更に常に我等の権限内にあるただ一つのこと、即ち我等に啓示せられた真理を承認して表白することである。
『汝等先ず神の国とその義とを求めよ、然ればこれらのものはすべて汝等に加えらるべし。』
人生のただ一つの意義は、神の国の建設促進に参与して世界に奉仕するに存するのである。この奉仕は離れ離れの各個人が真理を承認し表白することによってのみ成就せられ得るのである。
『神の国は顕れて来るものに非ず、此処に見よ、彼処に見よと人の言うべきものに非ず、それ神の国は汝等の衷にあり。』(ルカ伝第17章20-21節)                  ――完――
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