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トルストイ「菜食論」1-3

トルストイ 菜食論
第一階級

人が若し仕事の眞似事をするのではなく、實際そのやっている事を完成する為めに働くというのなら須(すべから)くその行動は該事業の性質に依って規定されている筈の一定の順序というものを順々に踐(ふ)んで行かなければならないだろう。その人にして若しも仕事の性質上先にしなければならぬものを後回しにしたり、乃至は或る肝心な事を全然無視したりするようでは、確かにそれは眞剣に仕事をしているのではなくて、仕事の見せかけをやっているだけのことである。で此の法則は、その仕事の肉體的なると否との別を問わず通用するものである。恰(あたか)も人が、ほんとうに麺皰を焼こうと思うなら、先ず第一に粉を捏ね廻し蒸焼篭を暖め灰拂いをするというような事を抜きにしては出來ないと同様に、ほんとうに善き世渡りをしようと思うなら、それに必要な品性徳能の到達に一定の順序を通って行かなければ出來ないのである。
正しい生涯ということに就いては、特に此の法則は重要なものである。というのは麺皰をこしらえるというような肉體的な仕事の場合に於いては、その人が眞剣にそのことに従事したか乃至はただ眞似事に過ぎないかということは結果で直ぐ知れることであるが、善良な世渡りということに就いては這般の立証は不可能なことだからである。若しも茲に人あって捏粉を捏ねず篭を暖めずに、恰も芝居でやるようにして麺皰を作る眞似をしたら、麺皰が無いというその結果からして、それはもうほんの見せかけに過ぎなかったんだという証拠になる。が併し或人が茲で善生涯を送るように見せかける時、彼が眞剣にやっているのではない、ただもう眞似事ばかりやっているのだと云うそう云ったような目に見える徴(しるし)を我々は持つわけには行かない。何故となれば、善生涯の結果というものはその周囲の人達にいつもはっきりと明らかに現れないのみか、時には彼等に有害のようにすら見えるからである。一個人の行動に關する敬意とか、乃至はその同時代人に依っての該行動の利益及び悦樂承認というようなことは、畢竟するにその生涯の眞に善なる所以を證明して呉れるものでは無いのである。
それ故善生涯の單なる見かけ倒しからほんとの所を判然とさせる為めには、必須的な品性徳能を獲得するに要するその正しい順序に依って示された徴が特に重視せらるべきものであって、この徴こそ我々をして他人が善の為めに努力しているその眞剣さを発見させ得る為めにというよりも寧ろ、我々己自(みずから)の衷に此の眞摯性を検査する為めに重要なものである。というのは此點で我々は、他人を欺くよりも更に我々自身を欺瞞し易いからである。
で諸徳を成就するに正確な系統的順序ということは、善生涯の方へ進み行くのに不可缺的條件なので、必然に古來人道の師は、常にその成就に一定不變の順序を説き教えたものである。
総ての徳教は、支那賢哲の教えがそれを持つが如き地上から天に達する梯子を組み立てる。がその梯子たるや、最下段から出発してのみ上昇し得る者である。婆羅門教、仏教、儒教に於けるが如く、希臘聖哲の教えに於いても亦同様にその段階が固定され、しかもその最上階段が先ず第一に下方のものを抜きにしては到達されないのである。宗教非宗教を問わず人類の道徳の師は、正しい生活になくてはならぬものを仕遂げるのは一定の順序の必要を経ることを認容する。で此順序に就いての必要なることは諸般の事物そのものの精髄にあることとて、それは當り前から云えば誰にでも認められなければならんように思われる。
然るに茲に奇異なのは、「教會基督教」の傳繙した時以來、此必須的順序の意識が段々と消え去って來て、今や單に禁欲家及び修道増の間にのみ保留されていることである。彼世俗的基督者間には、高級の諸徳は單にその據て來るべき下級のそれが無くても達せられるというのみならず、非情な罪禍を侶伴としてさえ達せられるということは勿論の事柄になっている。従って善生涯を形成するということの観念は、今日世俗一般多數者の心に甚しき混亂の状態を齎し來たったのである。

現在に於いて人々は、善生涯を導く為めに人の要する品性徳能上の順序に關する自覺を失っている。その結果善生涯をば何が組み立てるのかという肝腎要の観念を失しなっている。つまり此のようなやり方で以てそうなったのだと私は思う。
基督教が異教と入れ代った時、異教の教えに數等優る道徳的要求を高調した。そして是と同時に(異教の道徳の場合もそうだが)諸徳完成に缺くべからざる順序を必然的に定めたのである。つまりそれは正しい生涯に到達すること必條という保證付きの階級なのである。
プラトーの諸徳は、自制に始まり、勇氣と智慧を経て正義に至り、基督教は己を棄つるに始まり、献身を経て神の意思即ち愛にまで上がる。
基督教を眞剣に受け入れ、正しい基督者の生活をしようと勤しんだ者は、斯うして基督教を會得したもので、彼等は常にその諸欲を抛棄する事に於て正しく生活することを始めたのである。して此の諸欲抛棄の中には異端の自制も含まれている。
と云って此の事に關して基督教が異端教(ペイガニズム)の教えと譯もなく共鳴していたのだというように想わしめてはならぬ。私をして基督教をその高き所より、異教(ヒーイズニズム)の水平面に堕(だ)せしむるのかという詰責より免れしめよ。這般(しゃはん)の詰責は惟(おも)うによくない。と云うのは不省基督教は世界最高の教えとして知られているとはもとより認むる所、異教から全く種類を異にしたものとしても認めているのである。基督者の教えが異端教の教えに入れ代ったのは、ただ單に前者が後者よりも、種類を異にしており、且つ數等優っていたからである。が然し兩教え共に人々を眞理と善とに向って指導する點に於いて一致する。そして常にそれが等しい丈けに、それらに達する道もまた等しい。でその道の第一歩が基督者の教えにも異端者のそれにも避くべからざる所以が其處にある。
兩者の善に關する教えの相違は、實に次の一點に存するのである。即ち異教の教えにあっては結局人間が完成されるものとしての教えであり、基督教のそれは何處まで行っても未完成なものだとしての教えなのである。如何なる異教、之を云い換えれば基督教にあらざる如何なる教派での教えでも、人々の前に全き完成の手本を置く。けれども基督者の教えに至っては彼等の前に置くものは、未完成の手本なのである。例えば、プラトーの完全の手本として正義を置くが、基督の手本は愛の未完成なのである。『天にいます汝等の父の全きが如く全かれ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)。」此處に違いがある。で此の違った異教と基督教の關係から各そこへ到達する一段々々は総てその比較の出來る功徳を持ち來たし、一段高ければ功徳もそれ丈け大きいというようになった。だから異教徒の観方からすれば、人々は道徳的と不道徳的とに分けられる、乃至はまたその不道徳の程度も論ぜられる。然るに基督教によるならば、それが未完成の理想を立ててる故に、此の種の分類は不可能になる。其處には道徳的標準に高低のありえよう道理はない。で人間の完全を無限の彼方に示す基督教に於いては、各歩各段無限の理想に對する關係は等しいものである。
異教徒間にあっては、人に依って達成された徳(ファチュー)そのものの平面が、その人の功徳(メリット)を構成する。基督教に於いては、功徳の構成は誰だ彼最高理想に到達することの経過中に存し、その到達に關する遅速に於いてのみある。異教徒的見方を以てすれば、理性の徳を把持する人は、その徳に於いて缺如している人よりは道徳的に高いのであって、之に加うるに勇氣を持てる人は更に高くなり、更に此の上に正義を加うるの士は道徳的に更に一段と高いものとして立った。けれども基督者たるものは彼より此れが道徳的に高いとか低いとか見做される譯にはいかないのである。基督者間で若しも這般(しゃはん)の比較級が用いらるるならば、それはただ何時何日に達せそうなものだというような所を考えずに、只管に彼無限の完全に向いて躍進するその速力に應じて云われるのである。其處でパリサイ宗徒のいつも同じ調子の正しいということは、十字架上悔い改めた盗人の進み方よりは悪いのである。
先ずまあ兩者の教えの相違は斯ういう次第である。従って徳の諸目、の例えば自制及び勇氣というようなものは、異端教に於いては功徳を構成するが、基督教に於いては何れもそれを造り上げないのである。この点に兩者の教えが異なるのである。が併し、どの道低い段階から上がること無くして、品性徳目の成就は難く、彼完全への躍進は難しいという、その事實に關しては、異端教も基督教も變わりはない。此處には兩者に差別があり得るものではない。
異教徒同様、基督者は始めからその身を完全にする仕事を以て始めなければならない。例えば異教徒が彼自制といったようなものでそれを始めるように、丁度これは階段の高飛を希う者が、最初の段階を踏み出すのを避ける譯にはいかないようなものだ。唯一の相違は異端者には自制そのものが品性も構成するが、基督者にはそれはただ單に彼の完全に向かっての大願望の缺くべからざる條件に過ぎない所 の克己というものの一部なのである。だから、眞の基督教の表示は、異端教で示され遂行された道程と同じものを辿る外はないということにある。
然し乍ら、必ずしも萬人孰れも基督教を解して天なる父の全きが如き域に到達する大願望としては考えてはならないのである。多くの人々は救いの教えとして之を認めた。例えばカトリックと希臘正教(グリークオーソドックス)とに従えば、教會を通じて傳えられた恩寵に依って罪の赦しが得られるとか、又は新教徒(プロテスタント)、革新協會(リフォームドチャーチ) (譯者曰、普通この語によって呼ばれている派はカルウインの教儀に従い其教會政治は長老主義を執るものだ)、カルヴィニスト等に従えば、基督の贖罪に於て人は救われるとか、乃至は他の派に於て云わるるように、兩方を混ぜ合わせたようなもので救いを説くとかするのである。
そして此の教儀こそ、基督教の徳教に關する人々の眞摯と眞面目とを破壊したものなのである。假令此種の信仰の代表者等が此等の救いの意味は決して彼正しくも生涯に對する渇仰と相容れるものでは無い、否それのは反對に却ってその渇仰そのものに役立つものだと、如何ほど説きたてようとも、尚且つ次の事は如何ともし難いのである。即ち、一定の諸論からは必然に一定の演繹が従うもので、如何なる議論と雖も若し一度其處らのその演繹が流れ出るのだというその所論を認容せんか、その人々は最早や是等の演繹をなす事から免るる譯にはいかないのである。其處で假に一人の人が教會に依って傳えられた恩寵のおかげで救われることが出來るとか、乃至は基督の贖罪のおかげで救われることが出來るとかいうことを信ずるならば、勢い、彼にはこうなるのが自然な話しである。即ち正しき生涯を送る為めには、彼自らの努力は不要なことになる況んや彼が自力で彼を更に善き者にしようとする希望さえ罪だと告げられたら尚お更の事である。従って彼が罪とその報いから逃れることの出來る方法として、己の力を頼まない他の方法があると信ずるならば、最早やその人は、自力の他の方法を知らぬ人の如き精力と、努力とを同じ程度に出して努力することは到底出來るものではないのである。若し夫れ、完全なる眞面目を以て奮闘をしないとか、個人的努力以外の他の方法を知って之に頼むとかするならば、必ずやその人は善生涯に必要な善品性の到達に要する、他物を以て代うべからざる順序を無視するに至るであろう。そして實に此の事が、基督教を口にする多數者に見られる現象なのである。

自力というものが、人の精神的完全に到達する事には不必要なものだと云い、その獲得に他の方法があると説く教儀は、善生涯に生きんとする努力の弛緩を生じ、這般の生活に不可缺の連鎖事項に關する無視怠慢を産む。
基督教を奉ずる大多數の者は、ただそれを皮相的に受納れ、異教的徳目の要求から免れる為めに、異端教に入れ換わって現れた基督教の冥加を有り難がった。然り、最早や基督教には彼徳目は要らないのである。斯くして彼等はその動物性との闘争から免れる為めに、這般の境地を喜んだ。
と同様な事が、教會の教えを信じなくなった人達にも起った。彼等は前述の信者と同じであって、ただ違うのは、教會に據て乃至は贖罪に由て賜わる所の恩寵の代りに、多數者に依って認容された想像上の善行、たとえば科學だとか藝術だとか乃至は人道だとかいうものに勤務するということである。そして彼等は此の想像上の善行の名の許に、善生涯に必要な品性に對する連續的な成就から免れ、恰も舞臺上の人々の如く善生涯を送る見せかけのみを以て滿足するに到ったのである。
斯くの如き眞の意味での基督教を抱懐せずに異端教から更に堕落した者共は、克己から別物としての神及び人に對する愛を説き、自制抜きの正義というものを教えはじめたのである。云わば、彼等の説いたものは、下段にある諸徳を抜きにし、高い諸徳を説いたのである。つまり是は諸徳そのものを説いたんではなくて、そのまがいを説いたんである。
ある者はこれを棄つるという事や又は他の徳性を抜きにして神や人に對する愛を説き、克己なしで人道の奉仕ということを教える。で此の教えの如き、人を高い道徳の域にまで導く振りをして、その實、道徳の最根本的要求からして彼を放免する事に依ってその獣性を励ますに於いて、信者からも非信者からも共にその教えが容易に受容れられるに至った譯である。(そう、道徳の最根本的要求と茲で云ったが、それは、ずっと前に異教徒に依って承認せられ、眞の基督教に依って拒まれないのみか、却って強められたものなのである。)
社會主義に關する方法の教書(モードの註に曰く、法王レオナ三世の發したる回状をいう)が公表されたのを見ると、私有財産の悪に關する該主義者の見解に對し、見せかけの辯駁をやった後に、それが露骨に言われていた。曰く『何人と雖も、その人並びにその一家の必要とする所のものに應ずる諸物を、他人に分け與うべしと命せらるべきものにあらず。然り、生活上その舊來の状態を適當に維持すべく當然要すべき物をだに之を分與すべしと命ずるを得ず。何となれば、何人も不適當には生活するの要なければなり。(此の一節は聖トーマス・アクィナスNullus enim inconvenientervivere debetのから取っている)(されど、若しその必要にして快く滿されんか、)乃至は人その所を快く得んか、それより超過する物は是を貧者に施すを義務とすべし。残餘こそ施物なれ。』
斯くの如く今かの廣汎なる領域を有する教會の長が宣言するのである。して又既往に於いても自力に依っての救いを不滿に思う総ての教會牧師がかく説いたのである。それから此の汝の欲せざるもののみを隣人に施せと命ずる利己の教えと相俟って、彼等は又愛を説き感激を以て彼愛に關する哥林多(コリント)前書第十三章の保羅(パウロ)の有名な言葉を呼出すのである。
福音書には克己の要求は滿ちているにも係らず、またその克己が基督者の完成に到達する第一の條件だという示顕で溢れているにも係らず、露骨に言えば『彼十字架を負わざるものは云々』とか『父母を捨てざる者は云々』とか『その生命を失わざる者は云々』とかいうはっきりした言明のあるにも、人々はその慣れたものを棄せず乃至は自分に適うと思いたいものすらをも抛棄さずに人を愛することが出來ると自らも思い人にもそう思わせている。
教會の人々はそう語る。がさて茲に當に教會のみならず基督者の教えに關してそれに反對を稱える人達(自由思索家等)がまた是と同じような事を考えたり話したり書いたり行ったりしているのである。で是等の人々はその欲求を少しも減殺する事なしに、またはその快樂を抑壓することなしに、彼等は人類を救うことが出來る即ち善生涯を送り得ると自らも考え人にもそう思わせている。
人々は徳を完成するのに異教の道行きを捨てて顧みなかった。かその眞の意味での基督者の教えをも消化することをせずに、彼等は基督者の執るべき道行をも取らなかった。そして全く指導者なしに置かれたのである。
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