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トルストイ 「菜食論」4-6

トルストイ 菜食論
トルストイ著 石田三治譯 春秋社

その昔、基督者の教えの無かった時代、ソクラテスをはじめとして人生の師は総て、人生の第一徳として自制を認めた。そしてまた総ての徳は此のものを以てはじまり此の徳を経過しなければならぬものだと解せられていた。で此の事は確實であった。即ち自制を持たなかった人が諸欲の數々を限りなく起し、それに全く身を任ねてしまった人は善生涯を送り得なかったという一事である。でまた斯ういうことも明らかであった。人が廉潔正義の如きをさえ――寛大乃至愛に就いては云わずもあれ――語る其前に、彼は自身をまず制することを學ばねばならぬということである。所が今我々の考えでは、そんなことはまるで要のないものなのである。で我々は斯う思い込んでいる。即ち諸欲を頂點まで發展させた者は我々の社會で幅を利かし、人を囚える無益な多くの習慣を滿足させずには生活の出來ない人間は、それで以てまた道徳的な善生涯をも送り得るとこう思っている。ところが低きは功利主義者高きは正義を要求する異教主義更に高くしては愛を要求する基督教の立場からという具合に孰れの見地からする場合でも、人が彼自身の快樂の為めに他の人々の勞力時にそれは痛わしき勞働なのだ、それを用いるのは悪い行為だということは解り切った事だ。(その快樂たるや止す氣になれば止せるのだ。)だから若しも善生涯を送ろうとするなら此れそもそもの第一の悪を犯さんようにそれを先ず止めることが肝腎である。
功利主義の立場から見れば斯かる行為は悪である。というのは彼が他の人々を彼の為めに働かせるように強要する限り、彼は常に不安定の地位にいる。若し夫れ彼がその諸々の欲求を滿足さすことに慣れてしまい、それら諸欲に全く囚えられる段になると、一方彼の為めにせっせと働く人々が憎悪と嫉視とを以てその仕事をするようになり、ただもうそんな仕事をしないでもいいように自由になるその機會を待つということになるのである。従って這般の人は常に、その足るを知らしめぬ欲求を創造し出す根強く種付けられた習慣と共に人々より捨てられるという危険裡にある譯である。
また彼正義派の見地よりするも、斯かる行為は悪いのである。というのは自分の快樂の為めに、己に快樂を施して呉れる當の勞働者にその百分の一の快樂も與えずに之を使役することはよくないからである。
更にまた基督教の愛の立場から見て云うならば、他の人々を愛する人は、彼等からその勞力の果實を己が快樂の為めに取るよりも、寧ろ彼等に彼自身の勞力を與えようとすることは最早や議論の餘地のないことだからである。
然るにも係らず、此の功利、此の正義、此の愛の要求は我々の近代の社會に於て殆んど無視されてるのである。我々には我々の諸欲を限定する努力は第一の徳ともまたは最後の徳とさえも考えられずに、善生涯を送るには殆んど不必要な條件としてのみ考えられているのである。
そればかりか之とは反對に、今日人生に關する流行的な最も廣汎に廣がっている教えに基き、人の慾望の増大は好ましい状態で、たとえば發達進歩、開化文明、及び完成ということの徴のように考えられる。所謂教育ある知識階級の人々は、安樂の習慣つまりはぐうたら(ヽヽヽヽ)の習慣を目するのに、當に無害と考えぬのみか、或る道徳的な上品それは殆んど一つの徳目を構成するような高尚さを示すものとして善であるとさえ考えているのである。
彼等推えらく、慾望益々多く、それら慾望が彌々精錬されればされるほど可いと。
之を證明するのに最近二世紀間に於ける叙事詩特に小説に勝ってこれを明示するものはない。
描き出された徳の理想を示顕する主人公及び女主人公は如何?
多くの場合何か高尚な卓越したものを現していると思われる人々は、チャイルド・ハロルド以來フィレー・トロロープ乃至はモーパッサンの最近の主人公に至るまで、單にこれ堕した怠惰者のみで、彼等はみな幾多の人間の勞働を贅澤三昧に消費し盡し、その代りに他人に對し何等の有益な仕事をもしない者のみと來ているのである。してその女主人公は如何にというに此等の人々には多少の喜悦をあれやこれやで與える情婦だが、怠惰に至っては彼等同様で、且つ又彼等の贅澤に以て他人の勞働を消費しようとしていることも亦同様である。
私はいま眞に節制ある實業家等に就いて文學中に適々出逢わすそれらの描寫に就いて論及しようとするのではない。私は今群集に對する理想として役立つ所の一般普通に見られる典型に關して語っているのである。でつまり大多數の男女が似たり寄ったりになっているという其特性を語っているのである。思い出すと私が小説を書いている時経験した困難がある。(当時私には書き表せなかった。)私はその困難と闘った。そして私は今でも彼の眞の道徳的美を構成する観念がおぼろげでもある小説家は総て之と闘っている困難だということを知っている。それは何かというに、理想的に善良で深切で同時に人生に忠實な描写として結構な典型的人物を上流階級から取って來て描写するという困難なのである。人生に忠實である為めには、上流有識階級の男女の描写は、その日常の境遇に於ける這般の人をさながらに寫したものでなければならぬ。してその有様は如何にというに贅澤で肉體的に怠惰でその上あれも欲しいこれも欲しいという生活である。道徳的見地からして這個の人は反對すべき人である事は論を俟たないのである。けれどそれが如實に誘引的に現わされる為めにそういうさながらの描寫を必要とするので、小説家達はそれを試みる。實は私もそれをやったのだ。で奇妙な申分かも知れんが、頗る付きの無益な怠惰な傾向を持った流行る幇間と云ったような格の不道徳な私通者を殺人者決闘家乃至は軍人を造り出してからに、それ自身が誘引的だからもうその後は藝術も努力もあったものではないのである。というのが先ずまあ這般の描写であろう。所で、小説の讀者は如何にと云うに、大體に於いてその種の人間だという事は確かなもので、従ってまた讀めば直ぐ此等のチャイルド・ハロルド・オネーギン・ムシュー・カモール連中が、またなく優れた人達になって了うのである。(註オネーギンはプーシキンの詩中の主人公、その次はフィレーの小説中の主人公。)

現代人が異教の自制及び基督教の克己を善にして且つ望ましき品性だと望むことを實際にせず、反對に慾望の増大を目して善且つ高尚なものと考えるそもそもの證據は、現代社會に於いて大多數の児童が受ける教育中に見出される。彼等は當に異教徒等の間に於いて行わるるが如き自制に訓致されず、基督者に特有なる克己にも訓練なきのみならず、例のぐうたら(ヽヽヽヽ)や肉體的の怠惰や贅澤の習慣を徐々に植え付けられるのである。
私はかねがね此の種の問題を取扱ったお伽噺を作成しようと思っていた。それは或一人の處女があって、彼女に危害を加えたものに復讐をしようと思い立ち、その敵の子を奪い去り、魔法使いの許に何うしたら此の盗み出した子供に對し最も残忍な報復が出來るだろうかという相談を持ちかける。その子は敵の獨り子なのである。するとその魔法使いは、指定するその位置にその子を持ち去ることを命じて、それが最も恐ろしい復讐をすることになるということを納得させる譯である。所でその夜叉の女が彼のいう事を聞いてその通りにする。然るにその子に目をつけていると、此はそも如何に、その子は富豪で子供のない人に拾い上げられているではないか。女はびっくりして魔法使いの許に行って、之を責め立てる。と彼は待てと女に告げるのである。子供は贅澤とぐうたら(ヽヽヽヽ)裡に育つ。女は氣が氣でない。するとまた魔法使いが待て々々という。遂には何うなるかというに、その夜叉女が滿足する所かその子が不倫でたまらなくなって來るという段取りになる。その子は富のぐうたら(ヽヽヽヽ)と放埓中に人となり、折角持って生まれたいい性質を臺無しにする。斯くして遂に肉體の病氣、貧乏、慚愧という連鎖を引起こすのであるが、此等に對して彼はいやに感傷的なのだが、さて何うして之を拮抗していいかさっぱり御存知ないのである。道徳生活に對する憧憬が起る。がその贅澤と怠惰と訓致されたぐうたら(ヽヽヽヽ)の身體の弱味が云うことをきかぬ。無益な苦闘が續く。段々落ちぶれる。酒に呑まれる。それから犯罪、發狂乃至は自殺と來るのである。
之は實に驚くべきことで、誰しも今日富有者階級の児童の教育を見て恐怖せざる者はあるまい。で誰でも考えることは、最も残酷な敵のみが此等の缺陥及び害毒を子供に注入することが出來るのだということであるが、這般の病弊害毒をば兩親等特に母親等が今その子にじりじりと注入しているのである。若しも人あってその兩親によって叮嚀に深切に臺無しにされた児童等の最上最善の心霊どもに何を置き換えたものかそれを何う定めていいか知る者あれば、目の当たり見る状況で驚かされ、更にまたその結果如何にと思ふことに依って打驚かされるのだ。そもそも此のぐうたら(ヽヽヽヽ)の習慣たるや彼等子供等が道徳的意義をまだ了解しないうちに染込まされるのである。當に此の節制及び自制の習慣が忘られているというばかりでなしに、スパルタの教育的實践及び一般に古代に於けるそれに相反して此の品性と來ては全然去勢されて少しも無いのである。當に人が仕事に馴らされないとか、結實多き勞働に必要な諸徳たとえば心の集中、不撓不屈の精神、忍耐力、仕事に對する熱中、毀されたものの修復能力、疲勞に對する通暁、成功の喜悦と云ったようなものに不馴れであるというのみならず、彼は怠惰で習慣づけられ、すべての勞働の製作品に對して侮蔑するよう訓育されている。つまり毀すこと、打っちゃること何うしてそのものが作られたかと云う事には少しも考え及ばずして、思った通りのものが金で再び購えると教えられるのである。斯くて人は、総ての他人の進達に不可缺なる理性のそもそものはじめの徳を獲得する力を剥奪され、人々がやれ正義の氣高い諸徳とかやれ人に對する奉仕とか愛とか云って説教をし讃美をする世の中へ野放しにされたのである。
青年が道徳的に薄弱な鈍感な性質、それは教え込まれた善と眞の善との間に差別を發見せず、何處でも當たりまえになっている相互的瞞着で滿足しているような性質だが、それを附與されたらお芽出度いことである。そう行けば見た所萬事結構で、その種の人は往々死ぬる時まで覺めないその道徳意識を以て結構に平穏無事に過ごすであろう。
併年、若し一度這般の生活の不道徳なる所以の意識が大氣に滿ち、天賦の心臓を貫く時、常に結構では済まされぬ。特にそれは晩年近く起る。屡々、いや却々繁く眞の赤裸々な道徳に對する要求が目覺めることがある。すると實に痛ましい内部的争闘と苦痛とが始まるのであるが、それが併し極く稀に道徳的情操の勝利に於いて終結する。
そこで茲に一人の人があってその生涯がよくないと感じ、根底からそれを改革せんければならんと考え、そうしようと試みる。がその時彼は四周からして、同様の争闘を切り抜けようとして遂にそれに負けて了った人々に依って襲われる。で彼等はいろんな方法で此の改革の不必要を悟らせるように努め善徳は決して自制及び克己に據るものではないということを教え込もうとしたり、乃至は飽食したり身のまわりを飾ったり、肉體的怠惰を貪ったりして、おまけに一人前の善い有益な人間になる為めには密通さえするというようなひどい事をし乍ら善事業が出來ると教え込もうとするのである。で多くの場合、この内部的争闘は悲しむべき終結を見るのである。斯うして矢張り折角志を立てた人もあたらその弱點に依って征服せられ、一般の輿論に巻き込まれ、良心の聲を抑えて聞えなくし、自らを賞め讃えてその理性を歪め、斯くてそのものとの道樂生涯を送り續け、自分だけは贖罪だとか、聖奠(せいてん)だとかを信じることに依って救われると思ったり、乃至は科學研究に没頭したり、國事に盡●したり、藝術に没頭したりすることで贖われると思い込んでいる。さもなくば争闘、苦痛の経験から遂に氣狂いになり自殺する。
がそうばかりでもなく、彼を取りまく所在誘惑裡にあって 、たまに現社會に生息する人にして太古にあり今もある所のもの、即ち所謂理性ある人々に第一番になくてはならぬ眞理を了解する者がある。眞理とは他でもない。善生涯の完成には無くてならぬもので何の事はない眞っ先に悪生涯を止めることだ。更にまたよりよき諸徳の完成には必要缺くべからざるもので、何の事はない是も眞っ先に禁欲の徳を獲得することだ。禁欲を換言すれば異教の所謂自制となり、基督教の己を棄てるという事になる。だからたまには徐々の努力で以て此の主要な徳をうまく成就する者も従ってある譯である。
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