トルストイ「菜食論」7-8
- 2017/06/23
- 04:34
トルストイ 菜食論
トルストイ著 石田三治譯 春秋社
七
自分でその諸欲に身を委ね、善だとして慾望のままなる此の生活を認め、しかも尚それで善にして且つ有益な正しい愛ある生涯が送られるものだと考えるその思違いに至っては、洵に驚くべきものであって、後代の人間達は、その先達達が我々の富裕階級の飽食家達――遊惰な色氣たっぷりの不精者等――が善生涯を送ったと云うのを聞いて、『善生涯』という言葉で現代の人々が何をそもそも意味するか、それを正解すること甚だ困難になると私は考えざるを得ない。實にいま、人は我々富裕者階級の生活に關する習慣的見地を姑く離れ、善生涯問題を見んか、敢えて自分は基督教の立場から論じようとするのではなく、正義の欲求としては極低い見地から即ち彼異教的見地から論ずるにしても、先ず斯ういうことが首肯(うなず)かれる。それは何かというに、正義と公平の解り切った法則に違犯するということは、子供等が尚且つその遊戯の間(かん)に於いてそれを犯すことの悪なるをを考えるほどだから、云うまでもなく我々富裕者階級は善生涯に就いては一語も語る権利がないのだという一事なのである。
そうだ。私は善生涯を始めよとは云うまい。然り、それに少しでも近づくことをはじめよとさえ云うまい。何はさて置き悪生涯を送ることを止めなければならぬのが我々社會の人である。で如何なる人も這般の社會にある人は、己を圍繞する悪生涯の此等の状態を先ず打破しはじめなければならぬのである。
幾度人は彼辯解を聞かされたろう。すなわち我々の生活法を改める必要は更にないという言譯、更に進んでは傳習通の生活法に反する行動は如何なるものであっても不自然で且つ道化じみたことだ――見せびらかしのように見える。だから善行為ではないのだ――という議論を幾度人は聞かされたろう。此の議論は人々をしてその悪生涯から轉換することを妨げしめる為め鮮やかにその辯解の骨子をなすように見える。さよう、若しも総ての我々の生活が善であり正であり深切であるならば、その時こそ常習に従ってその行動を取るもよかろう。が若しも我々の生活が半分善く半分悪だったら、常習に従わぬ行動で善になるのが半分あれば、悪になる機會もまた半分ほどあるという譯になる。然し乍ら、若しも全然その生活が悪であるということ恰も我々上流階級に於けるが如き場合に於いては、生活の悪傾向に反する無くして單一なる善行をも之を成し遂げることは出來るものではないのである。此の悪潮流に反せざれば則ち悪行をなし得ても、善行をすることは出來るものではない。
我々富裕者階級の生活に馴致された人は、先ず第一にその浸入せる此等悪の状態から脱却せずに正しい生活を送ることは出來ない。つまり彼はその害悪をなすことを止めるまでは善をはじめることが出來ないのである。贅澤裡に生活する人に正しい生涯を送れということは土臺出來ない相談なのである。彼よく如何に善をしようと努むるとも、その生涯を轉換するまではその努力は何もならないし、善に行くまでにまずしなければならぬ順序として彼が目前に厳然として立つ仕事の數々を完成するまではその努力は無効に終わるのである。そもそも善生涯というものは、異教的見地からするも、更にまた基督教的立場より見るも、自己に對する愛と他人に對する愛との數學的關係によって計量する外他に據り所がなく、また有り得ないのである。即ち自己に關する次から次へという果てしなき注意を伴う己に對する愛、他人の勞働を食物にせんとする利己的欲求、そういうものが少なければ少ないほど、他人に對する絶えざる心づくしや他人に附與する勞力を伴う所の他人に對する愛が増大すればするほど、ますますその生活は向上して來るという譯である。
斯う云ったような鹽梅に生活の善ということは、世の所謂聖人にしかく了解せられ、多くの眞の基督者から同様に考えられたのである。そして今たしかに多くの實直な通常人は之と同じ様式で諸問題を考えているのである。即ち人が他人に施しをすればするほど、自分に對する欲求が少なければ少ないほど、彌々益々彼はいい人になるのである。従って他人に對する與え方が少なくなればなるほど、自分に對する欲求が大きくなればなるほど、彌々益々彼は悪い人になり下がる譯なのである。
そして當に人が他人に對して持つ愛が増大し、彼自身に對する愛が少なくなって、道徳的に益々高上するというばかりでなしに、自らを愛することが少なくなればよくならざらんとしても得なくなるのである。反對にも云えよう。自分を愛することを彌々大に、従って他人から勞力を要求することを益々大きければ、彼が他人に對して之を愛し之が為めに働く可能性がそれに従って少なくなる。そして自分を愛する愛が増す度にというよりも、非常に大きい度合で以て少なくなること、恰も長い端から短いそれに挺の支點を動かすようなもので、之では當に長い腕を益々長めるばかりでなしに、短い方を益々短縮する事になるであろう。そういう風で、もしも人が或る才能、愛を所持し、自身に對するその愛と心づくしとを増大するならば、彼は他人を思う愛及び心づくしの力を減ずるだろうが、その度合に至っては彼自身に移した愛の増大の割合よりは遥かに多く他人に對する愛が失われているのである。他人を養う代りに人は餘りに食い過ぎるのだ。斯くて彼は残物を人にやる可能性を缺いで了うのみならず、食い過ぎてからに土臺他人を助けるというその力を失ってしまうのである。
實際に言葉ばかりでなしに他人を愛する為めには、矢張り言葉の上でなしに實際に自分を愛することを止めなければならない。多くの場合に於いて次のような事が起るものである。それは我々が他人を愛していると考え、そうであるという事を他人にも認めしめ自分もしかとそう考えているが、我々はただ言葉の上で彼等を愛している丈けで、自分だけは實際に愛することを忘れないのである。他人に關しては何うして食わせようか、どうして臥床に入れてやろうかと考えない。が自分らに對してはついぞそれを忘れたことがない。だから、眞に他人を行為の上で愛そうとするならば、我々自らを行為上愛することをしてはならない。恰も今我々が他人に就いては無關心であるように、如何にして我々は食うべきか眠るべきかということを忘れるように努めなければならない。
我々は贅澤生活に馴れた氣随氣儘の人間に就いて、あの人は『いい人だ』とか、『善生涯を送っている』とか云う。然し乍ら、這般の人間は――それは男女を問わず――假令彼はやさしい特性、温和、善質を所持してると云っても決して善くはあり得ないしまた善生涯を送ることも出來ないのである。何のことは無い、最上出來の小刀及び鋼鉄が研かれずに鋭くよく切れるというよりも以上に出來ない事だなのである。善くあること、善生涯を送ることは、他人から取るよりも他人に與うることの大きを意味するのである。然るに贅澤生活に慣れた気随気儘の人は、それを断行することは出來ない。というのはまず第一に、彼自身慾望が常にあまりに多過ぎる(そして此の原因は彼自身の利己心から起るというよりも寧ろ贅澤に馴れてしまってその馴致せられた生活から離されることが彼にはつらい話なのである)からだ。それから第二に、他人から受け取ったものは総て之を消費して了って自らを弱うし、勞働に堪えざるまでに自らを渡し、従って最早や他人の為めに盡くすことが不適當になるからだ。彼柔い臥床に長い間眠り、脂っこい甘い飲食物をしこたま食い飲みしている人、いつも綺麗にして温度の加減で適當な着物を着ている人、勞働即ち骨仕事をやることを少しも務めないという癖をつけた人は、要するに些しも仕事をしていないのである 。
我々は自己の虚偽と他人の虚偽とから馴らされている。そして他人の虚偽を看破しない方が我々自身の為めに都合のいいことになっている。それだけまた彼等も我々の虚偽を看破しないようになるし、いつの間にか我々は不摂生極まる生活を送り居る人々を見て少しも驚かないという風になり、それらの人の眞理及び有徳性、時には聖徳の主張をも之を疑わぬようになるのである。
男であれ女であれ、或る人がはね仕事の毛薄團二つ、柔い滑かな綺麗なシーツ二枚敷かれ、枕覆に皰まった羽毛入の枕二つ置かれた寝臺に眠っているとする。其側には寝床から足を下す時冷くないようにする為めに敷物が敷かれている。その癖其處にはスリッパの備えもある。また其處には必要な器が揃えてあって、何か用たしに外出する要はない。何度汚いものを出しても、それは外へ持ち運ばれて総て綺麗さっぱりになる。窓はというと日光が入って彼を目覺まさないように窓かけで覆い、好きなだけ寝そべるのである。してまた此の外に、冬には暖かく夏には冷たく部屋内の温度の調節ができていて、蠅その他の昆蟲の音がしないような仕掛けになっている。彼が眠っている間に、お湯とか水とか沐浴の為め時には入浴の為め用意が出來ている。また顔剃りの準備も出來ているという具合。お茶とか珈琲とかが用意されていて、此等興奮的飲料はお目覺めの為めに先ず用いられる。するともう長靴とか半靴とか上靴とか――前の日よごれた幾組か――綺麗に掃除され一點の曇りのない硝子のように輝いている。 と同様に前日よごしたいろんな着物がまた綺麗にされているが、その着物というのはただ夏冬で地柄が違うというんでは無くて、やれ春にはこれ秋にはあれ、雨の降る日は斯う、曇りは何う、晴には何とそれぞれ適不適があるという譯合いだ。洗濯され糊で固められアイロンをかけてぴんとなった清浄な下着は、それぞれ専門家に註文して丁寧に氣をつけてこしらえさせた飾釦だとか、シャツの釦止孔花もろともに用意されてある。
若しもその人が活動的なら、早起をする――七時――それでも彼の為めに諸般の用意をする者共よりは二時間も遅い。ところが晝の着物、夜の寝巻きの他に起き抜けの衣物履物というのがある――化粧着とスリッパーだ。それから彼は顔洗その他をやりブラッシをかける。所がそのブラッシたるや種々のものがあって、石鹸もまたその通りだが、水を多量に用うのである。(多くの英国の男女は何や斯やの理由で以て石鹸及び水の多量を身體の上に流し去るのを非常に得意にしている。)それから彼は着物を着る。特殊の姿見の前で(家の中のどんな部屋にでもかけてあるようなのとは別種の)その毛髪を梳く。次にたとえば眼鏡類といったような必要物を取る。それから今度は違ったポケットに鼻を拭く綺麗な手巾だとか、到る所どの部屋にも時計があるのに鍵付きの懐中時計を納めるとか、種々の貨幣小銭、時には要用のお金を見つけ出す手數から免れる特別な遣繰の場合の用意に)それに銀行手形、それから名前の印刷された名刺(それも云ったり書いたりするのが面倒だから、)それへ以て來て手帳鉛筆といったようなものを入れる。婦人の場合では、化粧道具が更にその上複雑したものになり、胸衣、長い毛の始末、装飾、笹縁、ごむ紐、リボン、襟飾、髪どめピン、只のピン、襟留めと云ったようなものが入れられる。
斯くて遂に総てがとどこおりなく済むと、今度は大抵食事でその日が明ける譯である。澤山砂糖を入れたお茶や珈琲を飲む。上等の白い粉で出來た麺皰を食う。しかもそれに牛酪をしこたまつけて。時には小豚の肉をつけてサンドイッチとしゃれる。大抵の人はやや姑くの間葉巻や紙巻煙草を吸う。それから今しがた配達されたという朝の新聞を讀む。それから何うするかというに、散らかした部屋をちゃんと片つけるように他人に云いつけて出かける。その行先は事務所のお勤めか商賣かで、事によると特にこういう人達を見込んでこしらえられた馬車を駆るかする。それからくるのは殺戮された動物鳥魚類で料理した小晝で、よくよく控えめの所で三品に食後の菓子と珈琲とから成る午餐が之に續く。次に歌留多遊びとか音樂演奏と來る――芝居、朗讀、會話、心持ちの良いばね仕掛けの安樂椅子に座り乍ら、蝋燭、瓦斯、電氣のまばゆく陰影のある光に照らされ乍ら。それが済むと再びお茶が入る。再び食う――それが晩餐だ――でまた寝所へ行く。揺り起こされる。綺麗な下着が用意されている。またよごされる為めに洗濯された諸道具が備えてある。
斯うしてたしなみのある生活を送る人の一日一日は過ぎていく。若しも彼が善い性質の人でその周囲の人たちに對して特に數え立てるほどの忌まわしい習慣を持ってなければ、彼は善にして且つ有徳の生涯を送っているのだと云われるのである。
然し乍ら、善生涯とは他人に對して善事をなす人の生活を云うのである。そして這般の生活に馴致された人が、他人に善をなし得るであろうか? 否、彼は人々に善を為し得る前にまずその悪を為すことを止めねばならぬのである。時々無意識でやっているとは云え、此の種の人が他人になす損害の総勘定をしても見よ。諸君は彼がいいことをしている所か、餘程それとは趣の違ったことを看取するであろう。彼はその犯せる罪の罪ほろぼしの為めに多くの素晴らしい事業を完成しようとすることもあるであろう。が併し、彼はその慾望の餘に多き生活に依って非常に弱らせられている為めに、そんな偉業を完成することは困難なのである。が恰もマアカス・アウレウスがやったように、彼はその勇猛心を振い起こし、己が外套を纏うて床の上に寝てみようと思えばまんざら出來んことでもないのである。そして斯うやって彼は、毛蒲團ばね及び枕の製造には附き者の勞力と手數とを取り去り得る、洗濯女――それは子供を生んだり育てたりする重荷を背負った弱い異性だ――が強壮な男の為めに下着を洗うそういう日毎の勞力を削除し得るのである。また夜は早く寝、朝は早く起きて、窓かけ及び夜の洋燈を倹約することも出來よう。晝間着たシャツで夜そのまま眠ることも出來ようし、はだしで床に下り立ったり、庭に出て行ったりすることも亦出來よう。でまた彼は御筒の所で顔や手も洗い得るであろう。一口に云えば、今まで彼の為めに働いていた人々のように生活し得るであろう。そして斯うやってはじめて彼の為めに今までなされた仕事をはぶくことが出來るというものである。つまり彼はその衣類、その精製された喰物、その樂しみ憂さ晴らしに消費させた全勞力を回収することが出來よう。斯くて彼は如何なる状態の許に此等の勞働が完成されるかを知り、それらの完成の為めに如何ほどの人々がその生命を失い、傷つき、時としてそれを強いて爲さしめ貧窮者の血を絞る者共に對し如何に憎悪するかということを學ぶのである。
然らば、這般の人がその自己耽溺と贅澤生活をすること無くして他人に善を為し、正しき生涯を送ることが何うして出來ると云うのであるか?
が我々は他の人々がどう我目に映るかに就いて饒々するを要しない。まず各人の見なければならず感じなければならぬこともは自分自身に關することでなければならぬ。
もはや私は、冷たい敵意ある沈黙で我言葉を聞かれながら、同じ事を幾度も幾度も繰返すことは出來ない。悦樂の生涯に生きる道徳的な人と云わず、既に中流階級の人さえ(勞働の長時日の結晶をその氣随氣儘を滿足さす為めに日々消費して了う上流階級について私は云うまい、)若しもその使用する所のものがすべて勞働者の勞働とその壓し潰された社會生活から算出されるものと知ったなら、何うしたって安閑と生活しているということは出來るものではない。しかもその勞働者たる、何等希望を有さずして死にかけているもので――無智で飲助で放埓で半分野蠻な者共で、或いは鑛山或いは工場で乃至はまた農業等の勞働で使い立てられそれで以て彼の使用する諸物件を生産するという譯なのである。
今此の刹那、此れを書いている私と、誰であろうと此れを讀むであろう讀者諸君と兩者孰れも健康で裕福で、恐らくは豊富な贅澤な食物と、呼吸すべく純粋な暖かい空氣と、冬と夏との別な着物と種々雑多な氣保養と、それから何より貴重なものとして晝の小閑、夜のさまたぐるものなき休息とを持っている。然るに此處に我々の側には勞働者達が生活している。彼等は未だ嘗て健康に適した喰物を取らず、健康にいい住家を持たず、充分の衣類を所持せず、氣晴らしする手だても有たる者共である。その上に彼等は小閑というものを持ち得ない。それのみか休息さえも得られないと來ているのである。斯くてその激しい勞働と睡不足と病氣とで疲れ切った老若男女、その生涯の全部を己等が所有せざる悦樂と贅澤の諸物件しかもそれは我々に無くてはならぬものではなくて要するに贅物だが、それを我々に提供する為めにその生涯を臺なしにする老若男女が其處に居るのである。だから、嘗て基督者と云わなくても道徳家即ち人情ある意見を披瀝するとか乃至は單に正義を尊重する人でさえあるならば、此の際何うしたってその生活を轉換しようと欲するとか、乃至は斯かる状態の下に産出される贅澤品の使用を止めようと思うとかする外は行道が無いのである。
若しも茲に一人の人あって眞に煙草造りの職人たちを不憫と思うならば、自然彼は喫煙を止めることが第一の仕事になるであろう。というのはその煙草を購ったり吸んだりすることを續けるならば、人の健康を害する煙草を備えるのを奨励するようなものだからである。そして是は他の一切の贅澤品に就いて矢張り同じに云える。若しもまた或る一人が、麺皰を作り出すのに一通りでない苦心を要するにも係らず、その麺皰を食い續けることが出來るならば、必條それは現在の勞働状態が變わればいいがと期待しつつ、今無くてならないものを姑したりとも控え目にすることの出來ぬ人だからに相違ない。然し乍ら、當に不必要のみならず多分だとさえ思わるるものに關しては、次の外に結論はあり得ない。それは若しも或る品々の製造に従事している人々が可哀想なら、先ず我は這般の品々を如何なる理由ありとも要求する習慣を去らなければならぬという一事である。
然し乍ら、今日人は他の事をあげつらう。彼等は種々雑多な入り組んだ議論を捏造するが、各通常人に自然と起る事柄に就いてはついぞ何事をも語らないのである。彼等の意見に従えば何も贅澤を控える必要は無い。で或る人は勞働者の状態に同情を寄せ、彼等の為めに演説をなし本を書くことは出來ても、同時に彼等を亡ぼすように見えるその勞働そのものに依って利益をむさぼることは止めないのである。
或見解によれば、自分が利さなければ他人が利するだろうから勞働者に無害な勞働で己を利する分は差支えないということである。これ恰も既に購ってあるんだから乃至は自分が飲まなければ他人が飲むだろうから、私に有害なものであってもその酒を飲まなければならぬという論法である。
他の説に従えば、我々はその為めに勞働者に金即ち生計の資を備えてやるのだから、贅澤品製造に身を委ねている勞働者には却って利益があるのだという。これ恰も彼等に有害に我等に余計な物品を作らせるより外に彼等に生計の資を與える術がないという論調である。
所が第三の、今日最も行われる説によれば何うかというに、其處にはその従事する仕事が如何なるものであっても分業というものがある以上――政府のお役人でも、僧侶でも、地主でも、製造者でも、商家でも――彼がその利益を受ける勞働階級の勞働に對しては充分賠償するほど有益なことを成し遂げているのである。或者は国家に仕え、他の者は協會に仕え、第三の者は科學に、大四は芸術に、そして第五は、国家や科學や藝術に仕える者に仕えるという具合で、孰れも皆彼等が取る総てに對し、たしかに賠償して餘りあるものを人類に提供しているという信念を確固として抱いている。そして是は實に驚くべきことで、彼等の活動を少しも増さずにその贅澤な要求を絶えず増進しつつ、彼等の活動はその消費した総てを賠償するものという確信を得續けんとしている。
然るに、若しも諸君が他の人々に對する是等の人々の判断に耳を傾くるならば、各自がその消費するものに値するものであるという所からずっとかけ離れたものだということがわかって來る。政府のお役人達は、地主等がその費す所に値しないというかと思えば、地主等は商人達に就いて同様の事を語り、商人達は政府の役人共に就いて矢張り同じ事を云うといったような譯だ。然し乍ら是は彼等の内輪もめを來すという意味ではないのであって、彼等銘々のものは、彼等が他人に盡すその奉公に丁度釣り合うだけの勞働をその他人から利しているのだということを常に人民に納得せしめる點で軌を一にしている。そこで勞銀が仕事に依って定められるのでなく、想像的仕事の價値が給料に依って決定される。斯くの如く彼等は相互を瞞着しているか、彼等の心のどん底に於いては彼等の議論が自分等を辯護(ジャスティファイ)していないということを充分よく知っているのである。即ち彼等の存在は勞働者に對して必要がないということ、分業の故ではなくして單にそうする力を所持しているという丈けの理由で更にまた彼等はそれなしには何をもすることが出來ぬ程役立たずにされたという理由で以て、彼等は此等の人の勞働を利しているということを心のどん底では承認しているのである。
そして総て此の事は、善生涯になくてはならない最初の品性を先ず獲得することなくして善生涯を送り得るということを想像する人々の間に起るのだ。
してこの最初の品性というのは自制である。
八
自制なくして何處にも曾て善生涯のある無く今後ともそれはあり得ない。自制をよそにして、善生涯は想像されないのである。善の達成には須く先ずそれを以てはじめなければならない。
諸徳には階段というものがあって、若しも人が高い階段に上昇しようとするならば、最低階段より始めなければならない。それで人が若し他の諸徳を獲得しようと思うならば、先ず獲得せんければならぬ最初の徳目がある。古人が稱して、 或いは 、と云ったもので、自制或いは節制というものが則ちそれだ。
よしんば彼基督教に於いて自制ということが彼自己放棄の概念に容れられるにしても、尚お道徳的道程は同じものである。それで結局自制抜きにしては基督教の如何なる徳目をも成就し得ないのである。で此の自制抜きの諸徳完成不可能の眞理たるや、誰に以て發明されたというのでもない。理屈はない。ただそれをなすのに無くてはならない性質だからである。
然し乍らいかなる正しき生涯にも第一階段の徳目をなす自制すらも、容易に直ぐ達成することは出來ないのであって、これも段々に順序を踏んで進んで行かなくてはならない。
要するに之、自制は人間を諸慾から解放することであり、節制 に屈従することである。が併し、人の慾望は元來多く且つ雑多なものであって、それらにうまく拮抗し終せる為めには、基礎的な慾望を先ずとっつめなければならない――その基礎的な慾望の數々の上に更に複雑極る慾望が生ずるのである――さすれば別に此の基礎的なものの上に生ずる複雑錯雑した剛慾に一々當る必要はない。其處には、身體の飾り、遊戯、娯樂、無駄話、好事談、と云ったような複雑な慾望がある。してまた其處には、飽食、怠惰、異性愛の如き基礎的な強慾が存在する。須く人はその根本的な慾望を征服して了うことから着手しなければならない。複雑より始むるにあらずして、基礎的なものからはじめ、一定した順序で對抗して行かなければならない。で此の順序というのは、物事の自然と人智の傳統の二つから決定されているのである。
飽食している者は遊惰に對して抵抗が出來ないし、大食家のなまけ者は戀の慾望に打ち勝つことが出來ない。だから、総ての道徳的教義にしたがって、自制にまで進もうとする努力は飽食の慾に對する争闘にはじまる。即ち斷食だ。現在に於いては、然し乍ら、善生涯の達成に當って眞面目な關係は長い間失われ、完全に失われた為め、それなしには他の諸徳の完成も覺束ないという自制なる最初の徳が、餘計なものの如くに見做されるのみならず、此の最初の徳の達成に必要缺くべからざる連鎖的順次も亦之を認められない程になっている。それが為め斷食ということも全く忘れられて了い、時には全く不必要な莫迦な迷信のように見做されるまでに至った。
しかもその斷食たるや、恰も自制生涯の第一條件であるように、自制生活の第一條件が此の斷食なのである。
よしや此の斷食無しに、或者は善良たらんと希うかもしれない。また或者は善行を夢想するかも知れない。然し乍ら斷食なしに善良であろうとすることは、自分の足で立たずに歩き出そうとするのと同じ譯合で所詮不可能な事なのである。
斯く斷食は善生涯に不可缺条件であるから、従って大食は此れとは反對の――つまり悪生涯の最初のしるしで有り、曾ても然うであったというものである。しかも不幸にして、此の悪徳がその最高の度合に於いて現代人大多數の特性を形成している。
現代我々の周圍の人々の顔や姿を見るがいい。ぶら下ったほっぺたに●のついた顔に、それから肥滿し切った四肢五體に、突出た腹に放埓極りなき生活の烙印が押されているではないか。然りその外に考えようはないではないか。先ず我々の生活に就いて反省し、現代社會の大多數者の動機を考えても見よ。そして自ら斯う問うて見よ。『此の多數者の主なる關心事はそもそも何であるか。』と。その時、我々の眞の關心事を隠し、嘘や作為のそれを口にしている我々には不思議に思われるくらい、我等の生涯の主なる關心事は味覺の滿足、食うこと即ち飽食の喜びだということを見出すであろう。貧乏人から富裕者に至るまで食うことが人生最大の目的であり最大の快樂であるかと私には思われる。ただし貧乏な勞働者連中は除外例だが、是はその慾望に身を委ねようとしても如何せんそれが出來ないとの理由で然りという譯である。彼等が其時と其方法とを得んか、忽ち彼の高等階級の眞似をしてからに最も趣のある甘いものを買い求め、彼等が出來る限りの多量を飲み食いするのである。彼等が食えば食うほど、彼等が當に幸福になるばかりでなく、強く且つ健康體になるのだと自らそう思い込むのである。で此の考えからして彼等は、喰物を考えるのにまず斯ういう考方をする彼上流階級の刺激を受けるのである。知識階級の人々は(最も高價な食物や肉は最も健康によろしいという確信を彼等に抱かしめた彼醫學を學ぶ人々に従って)幸福と健康とは、趣のある滋養に富んだ容易に消化する喰物――をしこたま(ヽヽヽヽ)喰うことだと考えている。それでも彼等は最後の一件を隠そうと努めるのである。
富裕者の生活と、彼等が物語るその會話とを見聞してみよ。何という氣高いものが彼等に滿ち滿ちていることだ。哲學、科學、藝術、詩歌、富の分配、人民の幸福増進、若い者の教育、處が此等のものは、大多數者にとっては嘘である見せかけである。此等のすべては、その事務のひまひまに、然り、眞の事務のひまひまに彼等を支配する者だ。そしてその眞の事務とは何かというに、小晝と晝餐の中間に、胃腑が一杯でもう此れ以上は食えないという時に彼等を支配するものなのだ。男女大多數、特にその血氣盛んな時の彼等には、唯一の生々した關心事は食事の外にない――何うして食おうか、何を食おうか、何時何處で食おうか。
そして此の食事には、厳粛なことはなくてもいい。喜びも要らない。聖別もまた用がない。おっぴらにする必要もまたないのである。
眼を轉じて旅行家を見よ。彼等の場合に就いても何を彼等が思うているか甚だ看易い。『博物館、圖書館、議會――何とそれは面白かろう。だが何處で我々は食事しようね?何處が料理の一番いい店かな?』だ。彼等が一緒に午餐の席についた所を見よ。着飾って、匂わして、花で飾られた食卓を取り巻く――そして何とい愉快そうに彼等はその手を擦り、ほほゑんでいることだろう。
若しも我々が多數の人民の内心を洞察するまで見つめ得るなら、彼等が一番願うものとして我々は何を見出すであろうか。それは朝餐と午餐とを望む食慾であろう。子供から大人、大人から老人総ての人々に一番重い罰は何か。麺皰と水だけを食わせることである。してまた最高の給料取は如何なる技藝家であるか。それは料理人だ。主婦の關心事中最も興味あるものは何か。中流階級の主婦達が日常しつけている會話の話題は何に向いているか。若し夫れ上流階級の主婦ともあろうものの會話にしてそれと同じ傾向を持たぬものがあるならば、彼等が中流の人達より教育を受けている為めでもなければ、その興味がもっと高尚だという為めでもなく、ただ單に彼等は自分で手を下さんでもいいように女中頭や執事を置いて、御馳走に就いて少しも心配の要らんような境遇だからであるというだけだ。が一朝その便宜を失ったら最後、彼等がどうなるかということは諸君も察し得るであろう。総ての問題は食物問題を中心にして起ることは云うを要しない。松雞の値段はいかほどかとか、珈琲を出すに最もいい方法は何うかとか、甘いお菓子の焼き方は如何にと來る。それは何處の場合にしても、人々が一緒に寄り集まると――命名式、葬式、結婚式、教会の献堂式、友人の送別會、同じく歓迎會、連隊旗の聖別色、記念日の祭、大科學者哲學者徳望家の死と誕生の諸集會――まるで彼等はその第一要求に依って主に動かされて集まったかのように寄って來る。彼等は斯う斯うの譯で集まったという。が眞っ赤な嘘だ。彼等はみんな其処へ行くと食えると思う――可い趣のある喰物を――其処へ行くと飲めると思う。そして是が彼等を一堂に集める源動力なのだ。數日前から此の日まで、獣類は殺戮され、食料の入った籠が割烹屋から届けられてある。料理人。助手、料理部屋係の下男下女と云ったような連中が綺麗に洗濯されぴんと糊のついた上着と帽子で今日を晴れと着飾って『仕事』をするのであった。料理番長というのは、月に五十留もそれ以上もとっているのだが、命令を與える丈けで手一ぱいである。料理人が刻むことも、捏ねることも、炙ることも整頓することも、装飾することもやる。勿體ぶってその日の司式者は、所作をする、胸勘定をする、考える、果ては一人の藝術家のようにその眼差で整理する。庭師は庭師で花をいぢくる。おさんどんはおさんどんで何かをする。斯ういう手數がかかるのであった。一團の人々が斯くして仕事をするのであったが、百日の勞働の結果もたった一日で呑み込まれるのである。それで参列者は或る大學者とか或る徳望家とか云う人に就いて語り合う為めに、死んだ交友の過ぎ去ったことを想い出す為めに、乃至はまた今し新生涯に一歩を踏み入れようとする新夫婦にお芽出度を云う為めに、一堂に會したのかも知れない。
中流及び下流階級では、如何なる祝祭、如何なる葬式、如何なる結婚式も大食會なることは金輪際間違ない。また實際そう考えられているのである。希臘や仏蘭西に於いては、『結婚式』も『祝宴』も同じ言葉だという所に至るまで、此の集會の動機が大食に存するのだ。然し乍ら、富裕な上流階級では、特に長い間金持でいて品のいい側では、非常に手際よく此の點を隠す。そして食うことはそもそも第二義で、見榮上必要だという風に見せかけることをうまくやってのける。所が此の作為は甚だ與し易いもので、多くの場合、お客様の方が、言葉――彼等は少しもひもじくないという――その文字通りの意味で滿腹して歸るのだから。
彼等はその御馳走を斯うして偽る。食事は彼等は必要なものではなくて、却って重荷だという。で是は虚偽だ。試みに彼等に――彼等が豫期する精製された皿の代わりに、麺皰と水とまでは云わないが――雑炊、粥、そういったようなものをあてがって見よ。何んな騒ぎが起るか見るがいい。そしてその時、なる程集會の主な關心事は表面の看板ではなくて、ただ彼大食いだったわいということが如何に明瞭になるかをみるがいい。
人々の商うものを見よ。町を廻って行って、そして人々の買うものを見よ――装飾の品物と飽食の代物である。そして是はおう無ければならん事で、外に何うともすることが出來んのである。それは人が必要があればこそ食うので、それ以外には食わないという事から、此の慾望を節制力の下に置く為めに食事に就いて考える事が出來ないのだというのにならず、若しも人が只必要のまにまに食うのを止める――即ち腹が一杯だという時――という場合ならば、物事の状態は實際今日目撃される以外には存在し得ないからだ。若しも人々が食事の快を愛するならば、また若しも彼等が自らを此の快樂を愛するその愛慾に身を任すならば、若しも彼等がそれをいいと見るならば(現代大多數者の場合の如く、または假令(およそ)知識階級のものがそうでないように見せかけても、その實は全く無教育者と同等の彼知識階級者の場合のごとく)、此の快樂の増大し行くことには最早や制限がなくなって來る。それ以上起らせないようにするその制限がなくなって來る。要用(ヽヽ)の滿足には限りがあるが、快樂には限りがない。我々の要用の滿足の為めには、麺皰、雑炊、米を食べば足りるのである。がしかし快樂の増大には、此のくらいならという風味調味に實際の境がないのである。
麺皰は必要にして充分な喰物である。(此れはただもう裸麦の麺皰だけで烈しい勞働に耐えた強壮な活動的な丈夫な幾百萬人の人々に於て實證されている)。しかしそれに何か又味をつけるとただのよりは嬉しい。肉を煮た汁にその麺皰を漬すと更にいい。この肉汁に青菜を入れるとますますよく、菜っ葉も一種でなく幾種も入れるに越したことがない。肉を喰べるのも結構。肉は煮るより炙ったほうがよさそうだと來る。牛酪をそれにつけると尚さらいい。そして生ま焼きがよろしいとなる。それでもまた或る部分だけ選んで喰べるとなる。然もそれのつけ合わせとして野菜と辛子が要る。それへ飲み物がほしくなるから葡萄酒がつく。擇り好みとあって先ず赤いのにしておく。或る人は之でもう澤山だ。が人によってはソースで味がうまくついた魚肉に白葡萄酒を潜らせたのを所望することも出來る。で富者も通人も夏は氷、冬は煮た果物、ジャムなど甘い皿一つ調わないうちは何かしら物足らない様子に見える。しかも斯うして我々の食事、控え目な御馳走が食われるのである。此の種の御馳走の愉快、樂みは段々増長して行き得るのである。して又實際増大される。斯くて此の増大に限りが無いのである。刺激的な點心(おちゃうけ)、午餐前の添物(Hors-b’nures)、脇付(Entromets)、それに食後、それから味が違うものの種々なるまぜ合せ、次に花、装飾、食事中の饗樂と止め度がない。
そしておかしいことには、日頃斯ういう御馳走で食い過ぎている人々は、それと比べる為めには、豫言者の警告を呼び起こしたベルハザル饗宴も物の數ではない――恥とも知らず呑氣に、一かどの 道徳生活をそれで行っているであろうという事を信じきっている。
トルストイ著 石田三治譯 春秋社
七
自分でその諸欲に身を委ね、善だとして慾望のままなる此の生活を認め、しかも尚それで善にして且つ有益な正しい愛ある生涯が送られるものだと考えるその思違いに至っては、洵に驚くべきものであって、後代の人間達は、その先達達が我々の富裕階級の飽食家達――遊惰な色氣たっぷりの不精者等――が善生涯を送ったと云うのを聞いて、『善生涯』という言葉で現代の人々が何をそもそも意味するか、それを正解すること甚だ困難になると私は考えざるを得ない。實にいま、人は我々富裕者階級の生活に關する習慣的見地を姑く離れ、善生涯問題を見んか、敢えて自分は基督教の立場から論じようとするのではなく、正義の欲求としては極低い見地から即ち彼異教的見地から論ずるにしても、先ず斯ういうことが首肯(うなず)かれる。それは何かというに、正義と公平の解り切った法則に違犯するということは、子供等が尚且つその遊戯の間(かん)に於いてそれを犯すことの悪なるをを考えるほどだから、云うまでもなく我々富裕者階級は善生涯に就いては一語も語る権利がないのだという一事なのである。
そうだ。私は善生涯を始めよとは云うまい。然り、それに少しでも近づくことをはじめよとさえ云うまい。何はさて置き悪生涯を送ることを止めなければならぬのが我々社會の人である。で如何なる人も這般の社會にある人は、己を圍繞する悪生涯の此等の状態を先ず打破しはじめなければならぬのである。
幾度人は彼辯解を聞かされたろう。すなわち我々の生活法を改める必要は更にないという言譯、更に進んでは傳習通の生活法に反する行動は如何なるものであっても不自然で且つ道化じみたことだ――見せびらかしのように見える。だから善行為ではないのだ――という議論を幾度人は聞かされたろう。此の議論は人々をしてその悪生涯から轉換することを妨げしめる為め鮮やかにその辯解の骨子をなすように見える。さよう、若しも総ての我々の生活が善であり正であり深切であるならば、その時こそ常習に従ってその行動を取るもよかろう。が若しも我々の生活が半分善く半分悪だったら、常習に従わぬ行動で善になるのが半分あれば、悪になる機會もまた半分ほどあるという譯になる。然し乍ら、若しも全然その生活が悪であるということ恰も我々上流階級に於けるが如き場合に於いては、生活の悪傾向に反する無くして單一なる善行をも之を成し遂げることは出來るものではないのである。此の悪潮流に反せざれば則ち悪行をなし得ても、善行をすることは出來るものではない。
我々富裕者階級の生活に馴致された人は、先ず第一にその浸入せる此等悪の状態から脱却せずに正しい生活を送ることは出來ない。つまり彼はその害悪をなすことを止めるまでは善をはじめることが出來ないのである。贅澤裡に生活する人に正しい生涯を送れということは土臺出來ない相談なのである。彼よく如何に善をしようと努むるとも、その生涯を轉換するまではその努力は何もならないし、善に行くまでにまずしなければならぬ順序として彼が目前に厳然として立つ仕事の數々を完成するまではその努力は無効に終わるのである。そもそも善生涯というものは、異教的見地からするも、更にまた基督教的立場より見るも、自己に對する愛と他人に對する愛との數學的關係によって計量する外他に據り所がなく、また有り得ないのである。即ち自己に關する次から次へという果てしなき注意を伴う己に對する愛、他人の勞働を食物にせんとする利己的欲求、そういうものが少なければ少ないほど、他人に對する絶えざる心づくしや他人に附與する勞力を伴う所の他人に對する愛が増大すればするほど、ますますその生活は向上して來るという譯である。
斯う云ったような鹽梅に生活の善ということは、世の所謂聖人にしかく了解せられ、多くの眞の基督者から同様に考えられたのである。そして今たしかに多くの實直な通常人は之と同じ様式で諸問題を考えているのである。即ち人が他人に施しをすればするほど、自分に對する欲求が少なければ少ないほど、彌々益々彼はいい人になるのである。従って他人に對する與え方が少なくなればなるほど、自分に對する欲求が大きくなればなるほど、彌々益々彼は悪い人になり下がる譯なのである。
そして當に人が他人に對して持つ愛が増大し、彼自身に對する愛が少なくなって、道徳的に益々高上するというばかりでなしに、自らを愛することが少なくなればよくならざらんとしても得なくなるのである。反對にも云えよう。自分を愛することを彌々大に、従って他人から勞力を要求することを益々大きければ、彼が他人に對して之を愛し之が為めに働く可能性がそれに従って少なくなる。そして自分を愛する愛が増す度にというよりも、非常に大きい度合で以て少なくなること、恰も長い端から短いそれに挺の支點を動かすようなもので、之では當に長い腕を益々長めるばかりでなしに、短い方を益々短縮する事になるであろう。そういう風で、もしも人が或る才能、愛を所持し、自身に對するその愛と心づくしとを増大するならば、彼は他人を思う愛及び心づくしの力を減ずるだろうが、その度合に至っては彼自身に移した愛の増大の割合よりは遥かに多く他人に對する愛が失われているのである。他人を養う代りに人は餘りに食い過ぎるのだ。斯くて彼は残物を人にやる可能性を缺いで了うのみならず、食い過ぎてからに土臺他人を助けるというその力を失ってしまうのである。
實際に言葉ばかりでなしに他人を愛する為めには、矢張り言葉の上でなしに實際に自分を愛することを止めなければならない。多くの場合に於いて次のような事が起るものである。それは我々が他人を愛していると考え、そうであるという事を他人にも認めしめ自分もしかとそう考えているが、我々はただ言葉の上で彼等を愛している丈けで、自分だけは實際に愛することを忘れないのである。他人に關しては何うして食わせようか、どうして臥床に入れてやろうかと考えない。が自分らに對してはついぞそれを忘れたことがない。だから、眞に他人を行為の上で愛そうとするならば、我々自らを行為上愛することをしてはならない。恰も今我々が他人に就いては無關心であるように、如何にして我々は食うべきか眠るべきかということを忘れるように努めなければならない。
我々は贅澤生活に馴れた氣随氣儘の人間に就いて、あの人は『いい人だ』とか、『善生涯を送っている』とか云う。然し乍ら、這般の人間は――それは男女を問わず――假令彼はやさしい特性、温和、善質を所持してると云っても決して善くはあり得ないしまた善生涯を送ることも出來ないのである。何のことは無い、最上出來の小刀及び鋼鉄が研かれずに鋭くよく切れるというよりも以上に出來ない事だなのである。善くあること、善生涯を送ることは、他人から取るよりも他人に與うることの大きを意味するのである。然るに贅澤生活に慣れた気随気儘の人は、それを断行することは出來ない。というのはまず第一に、彼自身慾望が常にあまりに多過ぎる(そして此の原因は彼自身の利己心から起るというよりも寧ろ贅澤に馴れてしまってその馴致せられた生活から離されることが彼にはつらい話なのである)からだ。それから第二に、他人から受け取ったものは総て之を消費して了って自らを弱うし、勞働に堪えざるまでに自らを渡し、従って最早や他人の為めに盡くすことが不適當になるからだ。彼柔い臥床に長い間眠り、脂っこい甘い飲食物をしこたま食い飲みしている人、いつも綺麗にして温度の加減で適當な着物を着ている人、勞働即ち骨仕事をやることを少しも務めないという癖をつけた人は、要するに些しも仕事をしていないのである 。
我々は自己の虚偽と他人の虚偽とから馴らされている。そして他人の虚偽を看破しない方が我々自身の為めに都合のいいことになっている。それだけまた彼等も我々の虚偽を看破しないようになるし、いつの間にか我々は不摂生極まる生活を送り居る人々を見て少しも驚かないという風になり、それらの人の眞理及び有徳性、時には聖徳の主張をも之を疑わぬようになるのである。
男であれ女であれ、或る人がはね仕事の毛薄團二つ、柔い滑かな綺麗なシーツ二枚敷かれ、枕覆に皰まった羽毛入の枕二つ置かれた寝臺に眠っているとする。其側には寝床から足を下す時冷くないようにする為めに敷物が敷かれている。その癖其處にはスリッパの備えもある。また其處には必要な器が揃えてあって、何か用たしに外出する要はない。何度汚いものを出しても、それは外へ持ち運ばれて総て綺麗さっぱりになる。窓はというと日光が入って彼を目覺まさないように窓かけで覆い、好きなだけ寝そべるのである。してまた此の外に、冬には暖かく夏には冷たく部屋内の温度の調節ができていて、蠅その他の昆蟲の音がしないような仕掛けになっている。彼が眠っている間に、お湯とか水とか沐浴の為め時には入浴の為め用意が出來ている。また顔剃りの準備も出來ているという具合。お茶とか珈琲とかが用意されていて、此等興奮的飲料はお目覺めの為めに先ず用いられる。するともう長靴とか半靴とか上靴とか――前の日よごれた幾組か――綺麗に掃除され一點の曇りのない硝子のように輝いている。 と同様に前日よごしたいろんな着物がまた綺麗にされているが、その着物というのはただ夏冬で地柄が違うというんでは無くて、やれ春にはこれ秋にはあれ、雨の降る日は斯う、曇りは何う、晴には何とそれぞれ適不適があるという譯合いだ。洗濯され糊で固められアイロンをかけてぴんとなった清浄な下着は、それぞれ専門家に註文して丁寧に氣をつけてこしらえさせた飾釦だとか、シャツの釦止孔花もろともに用意されてある。
若しもその人が活動的なら、早起をする――七時――それでも彼の為めに諸般の用意をする者共よりは二時間も遅い。ところが晝の着物、夜の寝巻きの他に起き抜けの衣物履物というのがある――化粧着とスリッパーだ。それから彼は顔洗その他をやりブラッシをかける。所がそのブラッシたるや種々のものがあって、石鹸もまたその通りだが、水を多量に用うのである。(多くの英国の男女は何や斯やの理由で以て石鹸及び水の多量を身體の上に流し去るのを非常に得意にしている。)それから彼は着物を着る。特殊の姿見の前で(家の中のどんな部屋にでもかけてあるようなのとは別種の)その毛髪を梳く。次にたとえば眼鏡類といったような必要物を取る。それから今度は違ったポケットに鼻を拭く綺麗な手巾だとか、到る所どの部屋にも時計があるのに鍵付きの懐中時計を納めるとか、種々の貨幣小銭、時には要用のお金を見つけ出す手數から免れる特別な遣繰の場合の用意に)それに銀行手形、それから名前の印刷された名刺(それも云ったり書いたりするのが面倒だから、)それへ以て來て手帳鉛筆といったようなものを入れる。婦人の場合では、化粧道具が更にその上複雑したものになり、胸衣、長い毛の始末、装飾、笹縁、ごむ紐、リボン、襟飾、髪どめピン、只のピン、襟留めと云ったようなものが入れられる。
斯くて遂に総てがとどこおりなく済むと、今度は大抵食事でその日が明ける譯である。澤山砂糖を入れたお茶や珈琲を飲む。上等の白い粉で出來た麺皰を食う。しかもそれに牛酪をしこたまつけて。時には小豚の肉をつけてサンドイッチとしゃれる。大抵の人はやや姑くの間葉巻や紙巻煙草を吸う。それから今しがた配達されたという朝の新聞を讀む。それから何うするかというに、散らかした部屋をちゃんと片つけるように他人に云いつけて出かける。その行先は事務所のお勤めか商賣かで、事によると特にこういう人達を見込んでこしらえられた馬車を駆るかする。それからくるのは殺戮された動物鳥魚類で料理した小晝で、よくよく控えめの所で三品に食後の菓子と珈琲とから成る午餐が之に續く。次に歌留多遊びとか音樂演奏と來る――芝居、朗讀、會話、心持ちの良いばね仕掛けの安樂椅子に座り乍ら、蝋燭、瓦斯、電氣のまばゆく陰影のある光に照らされ乍ら。それが済むと再びお茶が入る。再び食う――それが晩餐だ――でまた寝所へ行く。揺り起こされる。綺麗な下着が用意されている。またよごされる為めに洗濯された諸道具が備えてある。
斯うしてたしなみのある生活を送る人の一日一日は過ぎていく。若しも彼が善い性質の人でその周囲の人たちに對して特に數え立てるほどの忌まわしい習慣を持ってなければ、彼は善にして且つ有徳の生涯を送っているのだと云われるのである。
然し乍ら、善生涯とは他人に對して善事をなす人の生活を云うのである。そして這般の生活に馴致された人が、他人に善をなし得るであろうか? 否、彼は人々に善を為し得る前にまずその悪を為すことを止めねばならぬのである。時々無意識でやっているとは云え、此の種の人が他人になす損害の総勘定をしても見よ。諸君は彼がいいことをしている所か、餘程それとは趣の違ったことを看取するであろう。彼はその犯せる罪の罪ほろぼしの為めに多くの素晴らしい事業を完成しようとすることもあるであろう。が併し、彼はその慾望の餘に多き生活に依って非常に弱らせられている為めに、そんな偉業を完成することは困難なのである。が恰もマアカス・アウレウスがやったように、彼はその勇猛心を振い起こし、己が外套を纏うて床の上に寝てみようと思えばまんざら出來んことでもないのである。そして斯うやって彼は、毛蒲團ばね及び枕の製造には附き者の勞力と手數とを取り去り得る、洗濯女――それは子供を生んだり育てたりする重荷を背負った弱い異性だ――が強壮な男の為めに下着を洗うそういう日毎の勞力を削除し得るのである。また夜は早く寝、朝は早く起きて、窓かけ及び夜の洋燈を倹約することも出來よう。晝間着たシャツで夜そのまま眠ることも出來ようし、はだしで床に下り立ったり、庭に出て行ったりすることも亦出來よう。でまた彼は御筒の所で顔や手も洗い得るであろう。一口に云えば、今まで彼の為めに働いていた人々のように生活し得るであろう。そして斯うやってはじめて彼の為めに今までなされた仕事をはぶくことが出來るというものである。つまり彼はその衣類、その精製された喰物、その樂しみ憂さ晴らしに消費させた全勞力を回収することが出來よう。斯くて彼は如何なる状態の許に此等の勞働が完成されるかを知り、それらの完成の為めに如何ほどの人々がその生命を失い、傷つき、時としてそれを強いて爲さしめ貧窮者の血を絞る者共に對し如何に憎悪するかということを學ぶのである。
然らば、這般の人がその自己耽溺と贅澤生活をすること無くして他人に善を為し、正しき生涯を送ることが何うして出來ると云うのであるか?
が我々は他の人々がどう我目に映るかに就いて饒々するを要しない。まず各人の見なければならず感じなければならぬこともは自分自身に關することでなければならぬ。
もはや私は、冷たい敵意ある沈黙で我言葉を聞かれながら、同じ事を幾度も幾度も繰返すことは出來ない。悦樂の生涯に生きる道徳的な人と云わず、既に中流階級の人さえ(勞働の長時日の結晶をその氣随氣儘を滿足さす為めに日々消費して了う上流階級について私は云うまい、)若しもその使用する所のものがすべて勞働者の勞働とその壓し潰された社會生活から算出されるものと知ったなら、何うしたって安閑と生活しているということは出來るものではない。しかもその勞働者たる、何等希望を有さずして死にかけているもので――無智で飲助で放埓で半分野蠻な者共で、或いは鑛山或いは工場で乃至はまた農業等の勞働で使い立てられそれで以て彼の使用する諸物件を生産するという譯なのである。
今此の刹那、此れを書いている私と、誰であろうと此れを讀むであろう讀者諸君と兩者孰れも健康で裕福で、恐らくは豊富な贅澤な食物と、呼吸すべく純粋な暖かい空氣と、冬と夏との別な着物と種々雑多な氣保養と、それから何より貴重なものとして晝の小閑、夜のさまたぐるものなき休息とを持っている。然るに此處に我々の側には勞働者達が生活している。彼等は未だ嘗て健康に適した喰物を取らず、健康にいい住家を持たず、充分の衣類を所持せず、氣晴らしする手だても有たる者共である。その上に彼等は小閑というものを持ち得ない。それのみか休息さえも得られないと來ているのである。斯くてその激しい勞働と睡不足と病氣とで疲れ切った老若男女、その生涯の全部を己等が所有せざる悦樂と贅澤の諸物件しかもそれは我々に無くてはならぬものではなくて要するに贅物だが、それを我々に提供する為めにその生涯を臺なしにする老若男女が其處に居るのである。だから、嘗て基督者と云わなくても道徳家即ち人情ある意見を披瀝するとか乃至は單に正義を尊重する人でさえあるならば、此の際何うしたってその生活を轉換しようと欲するとか、乃至は斯かる状態の下に産出される贅澤品の使用を止めようと思うとかする外は行道が無いのである。
若しも茲に一人の人あって眞に煙草造りの職人たちを不憫と思うならば、自然彼は喫煙を止めることが第一の仕事になるであろう。というのはその煙草を購ったり吸んだりすることを續けるならば、人の健康を害する煙草を備えるのを奨励するようなものだからである。そして是は他の一切の贅澤品に就いて矢張り同じに云える。若しもまた或る一人が、麺皰を作り出すのに一通りでない苦心を要するにも係らず、その麺皰を食い續けることが出來るならば、必條それは現在の勞働状態が變わればいいがと期待しつつ、今無くてならないものを姑したりとも控え目にすることの出來ぬ人だからに相違ない。然し乍ら、當に不必要のみならず多分だとさえ思わるるものに關しては、次の外に結論はあり得ない。それは若しも或る品々の製造に従事している人々が可哀想なら、先ず我は這般の品々を如何なる理由ありとも要求する習慣を去らなければならぬという一事である。
然し乍ら、今日人は他の事をあげつらう。彼等は種々雑多な入り組んだ議論を捏造するが、各通常人に自然と起る事柄に就いてはついぞ何事をも語らないのである。彼等の意見に従えば何も贅澤を控える必要は無い。で或る人は勞働者の状態に同情を寄せ、彼等の為めに演説をなし本を書くことは出來ても、同時に彼等を亡ぼすように見えるその勞働そのものに依って利益をむさぼることは止めないのである。
或見解によれば、自分が利さなければ他人が利するだろうから勞働者に無害な勞働で己を利する分は差支えないということである。これ恰も既に購ってあるんだから乃至は自分が飲まなければ他人が飲むだろうから、私に有害なものであってもその酒を飲まなければならぬという論法である。
他の説に従えば、我々はその為めに勞働者に金即ち生計の資を備えてやるのだから、贅澤品製造に身を委ねている勞働者には却って利益があるのだという。これ恰も彼等に有害に我等に余計な物品を作らせるより外に彼等に生計の資を與える術がないという論調である。
所が第三の、今日最も行われる説によれば何うかというに、其處にはその従事する仕事が如何なるものであっても分業というものがある以上――政府のお役人でも、僧侶でも、地主でも、製造者でも、商家でも――彼がその利益を受ける勞働階級の勞働に對しては充分賠償するほど有益なことを成し遂げているのである。或者は国家に仕え、他の者は協會に仕え、第三の者は科學に、大四は芸術に、そして第五は、国家や科學や藝術に仕える者に仕えるという具合で、孰れも皆彼等が取る総てに對し、たしかに賠償して餘りあるものを人類に提供しているという信念を確固として抱いている。そして是は實に驚くべきことで、彼等の活動を少しも増さずにその贅澤な要求を絶えず増進しつつ、彼等の活動はその消費した総てを賠償するものという確信を得續けんとしている。
然るに、若しも諸君が他の人々に對する是等の人々の判断に耳を傾くるならば、各自がその消費するものに値するものであるという所からずっとかけ離れたものだということがわかって來る。政府のお役人達は、地主等がその費す所に値しないというかと思えば、地主等は商人達に就いて同様の事を語り、商人達は政府の役人共に就いて矢張り同じ事を云うといったような譯だ。然し乍ら是は彼等の内輪もめを來すという意味ではないのであって、彼等銘々のものは、彼等が他人に盡すその奉公に丁度釣り合うだけの勞働をその他人から利しているのだということを常に人民に納得せしめる點で軌を一にしている。そこで勞銀が仕事に依って定められるのでなく、想像的仕事の價値が給料に依って決定される。斯くの如く彼等は相互を瞞着しているか、彼等の心のどん底に於いては彼等の議論が自分等を辯護(ジャスティファイ)していないということを充分よく知っているのである。即ち彼等の存在は勞働者に對して必要がないということ、分業の故ではなくして單にそうする力を所持しているという丈けの理由で更にまた彼等はそれなしには何をもすることが出來ぬ程役立たずにされたという理由で以て、彼等は此等の人の勞働を利しているということを心のどん底では承認しているのである。
そして総て此の事は、善生涯になくてはならない最初の品性を先ず獲得することなくして善生涯を送り得るということを想像する人々の間に起るのだ。
してこの最初の品性というのは自制である。
八
自制なくして何處にも曾て善生涯のある無く今後ともそれはあり得ない。自制をよそにして、善生涯は想像されないのである。善の達成には須く先ずそれを以てはじめなければならない。
諸徳には階段というものがあって、若しも人が高い階段に上昇しようとするならば、最低階段より始めなければならない。それで人が若し他の諸徳を獲得しようと思うならば、先ず獲得せんければならぬ最初の徳目がある。古人が稱して、 或いは 、と云ったもので、自制或いは節制というものが則ちそれだ。
よしんば彼基督教に於いて自制ということが彼自己放棄の概念に容れられるにしても、尚お道徳的道程は同じものである。それで結局自制抜きにしては基督教の如何なる徳目をも成就し得ないのである。で此の自制抜きの諸徳完成不可能の眞理たるや、誰に以て發明されたというのでもない。理屈はない。ただそれをなすのに無くてはならない性質だからである。
然し乍らいかなる正しき生涯にも第一階段の徳目をなす自制すらも、容易に直ぐ達成することは出來ないのであって、これも段々に順序を踏んで進んで行かなくてはならない。
要するに之、自制は人間を諸慾から解放することであり、節制 に屈従することである。が併し、人の慾望は元來多く且つ雑多なものであって、それらにうまく拮抗し終せる為めには、基礎的な慾望を先ずとっつめなければならない――その基礎的な慾望の數々の上に更に複雑極る慾望が生ずるのである――さすれば別に此の基礎的なものの上に生ずる複雑錯雑した剛慾に一々當る必要はない。其處には、身體の飾り、遊戯、娯樂、無駄話、好事談、と云ったような複雑な慾望がある。してまた其處には、飽食、怠惰、異性愛の如き基礎的な強慾が存在する。須く人はその根本的な慾望を征服して了うことから着手しなければならない。複雑より始むるにあらずして、基礎的なものからはじめ、一定した順序で對抗して行かなければならない。で此の順序というのは、物事の自然と人智の傳統の二つから決定されているのである。
飽食している者は遊惰に對して抵抗が出來ないし、大食家のなまけ者は戀の慾望に打ち勝つことが出來ない。だから、総ての道徳的教義にしたがって、自制にまで進もうとする努力は飽食の慾に對する争闘にはじまる。即ち斷食だ。現在に於いては、然し乍ら、善生涯の達成に當って眞面目な關係は長い間失われ、完全に失われた為め、それなしには他の諸徳の完成も覺束ないという自制なる最初の徳が、餘計なものの如くに見做されるのみならず、此の最初の徳の達成に必要缺くべからざる連鎖的順次も亦之を認められない程になっている。それが為め斷食ということも全く忘れられて了い、時には全く不必要な莫迦な迷信のように見做されるまでに至った。
しかもその斷食たるや、恰も自制生涯の第一條件であるように、自制生活の第一條件が此の斷食なのである。
よしや此の斷食無しに、或者は善良たらんと希うかもしれない。また或者は善行を夢想するかも知れない。然し乍ら斷食なしに善良であろうとすることは、自分の足で立たずに歩き出そうとするのと同じ譯合で所詮不可能な事なのである。
斯く斷食は善生涯に不可缺条件であるから、従って大食は此れとは反對の――つまり悪生涯の最初のしるしで有り、曾ても然うであったというものである。しかも不幸にして、此の悪徳がその最高の度合に於いて現代人大多數の特性を形成している。
現代我々の周圍の人々の顔や姿を見るがいい。ぶら下ったほっぺたに●のついた顔に、それから肥滿し切った四肢五體に、突出た腹に放埓極りなき生活の烙印が押されているではないか。然りその外に考えようはないではないか。先ず我々の生活に就いて反省し、現代社會の大多數者の動機を考えても見よ。そして自ら斯う問うて見よ。『此の多數者の主なる關心事はそもそも何であるか。』と。その時、我々の眞の關心事を隠し、嘘や作為のそれを口にしている我々には不思議に思われるくらい、我等の生涯の主なる關心事は味覺の滿足、食うこと即ち飽食の喜びだということを見出すであろう。貧乏人から富裕者に至るまで食うことが人生最大の目的であり最大の快樂であるかと私には思われる。ただし貧乏な勞働者連中は除外例だが、是はその慾望に身を委ねようとしても如何せんそれが出來ないとの理由で然りという譯である。彼等が其時と其方法とを得んか、忽ち彼の高等階級の眞似をしてからに最も趣のある甘いものを買い求め、彼等が出來る限りの多量を飲み食いするのである。彼等が食えば食うほど、彼等が當に幸福になるばかりでなく、強く且つ健康體になるのだと自らそう思い込むのである。で此の考えからして彼等は、喰物を考えるのにまず斯ういう考方をする彼上流階級の刺激を受けるのである。知識階級の人々は(最も高價な食物や肉は最も健康によろしいという確信を彼等に抱かしめた彼醫學を學ぶ人々に従って)幸福と健康とは、趣のある滋養に富んだ容易に消化する喰物――をしこたま(ヽヽヽヽ)喰うことだと考えている。それでも彼等は最後の一件を隠そうと努めるのである。
富裕者の生活と、彼等が物語るその會話とを見聞してみよ。何という氣高いものが彼等に滿ち滿ちていることだ。哲學、科學、藝術、詩歌、富の分配、人民の幸福増進、若い者の教育、處が此等のものは、大多數者にとっては嘘である見せかけである。此等のすべては、その事務のひまひまに、然り、眞の事務のひまひまに彼等を支配する者だ。そしてその眞の事務とは何かというに、小晝と晝餐の中間に、胃腑が一杯でもう此れ以上は食えないという時に彼等を支配するものなのだ。男女大多數、特にその血氣盛んな時の彼等には、唯一の生々した關心事は食事の外にない――何うして食おうか、何を食おうか、何時何處で食おうか。
そして此の食事には、厳粛なことはなくてもいい。喜びも要らない。聖別もまた用がない。おっぴらにする必要もまたないのである。
眼を轉じて旅行家を見よ。彼等の場合に就いても何を彼等が思うているか甚だ看易い。『博物館、圖書館、議會――何とそれは面白かろう。だが何處で我々は食事しようね?何處が料理の一番いい店かな?』だ。彼等が一緒に午餐の席についた所を見よ。着飾って、匂わして、花で飾られた食卓を取り巻く――そして何とい愉快そうに彼等はその手を擦り、ほほゑんでいることだろう。
若しも我々が多數の人民の内心を洞察するまで見つめ得るなら、彼等が一番願うものとして我々は何を見出すであろうか。それは朝餐と午餐とを望む食慾であろう。子供から大人、大人から老人総ての人々に一番重い罰は何か。麺皰と水だけを食わせることである。してまた最高の給料取は如何なる技藝家であるか。それは料理人だ。主婦の關心事中最も興味あるものは何か。中流階級の主婦達が日常しつけている會話の話題は何に向いているか。若し夫れ上流階級の主婦ともあろうものの會話にしてそれと同じ傾向を持たぬものがあるならば、彼等が中流の人達より教育を受けている為めでもなければ、その興味がもっと高尚だという為めでもなく、ただ單に彼等は自分で手を下さんでもいいように女中頭や執事を置いて、御馳走に就いて少しも心配の要らんような境遇だからであるというだけだ。が一朝その便宜を失ったら最後、彼等がどうなるかということは諸君も察し得るであろう。総ての問題は食物問題を中心にして起ることは云うを要しない。松雞の値段はいかほどかとか、珈琲を出すに最もいい方法は何うかとか、甘いお菓子の焼き方は如何にと來る。それは何處の場合にしても、人々が一緒に寄り集まると――命名式、葬式、結婚式、教会の献堂式、友人の送別會、同じく歓迎會、連隊旗の聖別色、記念日の祭、大科學者哲學者徳望家の死と誕生の諸集會――まるで彼等はその第一要求に依って主に動かされて集まったかのように寄って來る。彼等は斯う斯うの譯で集まったという。が眞っ赤な嘘だ。彼等はみんな其処へ行くと食えると思う――可い趣のある喰物を――其処へ行くと飲めると思う。そして是が彼等を一堂に集める源動力なのだ。數日前から此の日まで、獣類は殺戮され、食料の入った籠が割烹屋から届けられてある。料理人。助手、料理部屋係の下男下女と云ったような連中が綺麗に洗濯されぴんと糊のついた上着と帽子で今日を晴れと着飾って『仕事』をするのであった。料理番長というのは、月に五十留もそれ以上もとっているのだが、命令を與える丈けで手一ぱいである。料理人が刻むことも、捏ねることも、炙ることも整頓することも、装飾することもやる。勿體ぶってその日の司式者は、所作をする、胸勘定をする、考える、果ては一人の藝術家のようにその眼差で整理する。庭師は庭師で花をいぢくる。おさんどんはおさんどんで何かをする。斯ういう手數がかかるのであった。一團の人々が斯くして仕事をするのであったが、百日の勞働の結果もたった一日で呑み込まれるのである。それで参列者は或る大學者とか或る徳望家とか云う人に就いて語り合う為めに、死んだ交友の過ぎ去ったことを想い出す為めに、乃至はまた今し新生涯に一歩を踏み入れようとする新夫婦にお芽出度を云う為めに、一堂に會したのかも知れない。
中流及び下流階級では、如何なる祝祭、如何なる葬式、如何なる結婚式も大食會なることは金輪際間違ない。また實際そう考えられているのである。希臘や仏蘭西に於いては、『結婚式』も『祝宴』も同じ言葉だという所に至るまで、此の集會の動機が大食に存するのだ。然し乍ら、富裕な上流階級では、特に長い間金持でいて品のいい側では、非常に手際よく此の點を隠す。そして食うことはそもそも第二義で、見榮上必要だという風に見せかけることをうまくやってのける。所が此の作為は甚だ與し易いもので、多くの場合、お客様の方が、言葉――彼等は少しもひもじくないという――その文字通りの意味で滿腹して歸るのだから。
彼等はその御馳走を斯うして偽る。食事は彼等は必要なものではなくて、却って重荷だという。で是は虚偽だ。試みに彼等に――彼等が豫期する精製された皿の代わりに、麺皰と水とまでは云わないが――雑炊、粥、そういったようなものをあてがって見よ。何んな騒ぎが起るか見るがいい。そしてその時、なる程集會の主な關心事は表面の看板ではなくて、ただ彼大食いだったわいということが如何に明瞭になるかをみるがいい。
人々の商うものを見よ。町を廻って行って、そして人々の買うものを見よ――装飾の品物と飽食の代物である。そして是はおう無ければならん事で、外に何うともすることが出來んのである。それは人が必要があればこそ食うので、それ以外には食わないという事から、此の慾望を節制力の下に置く為めに食事に就いて考える事が出來ないのだというのにならず、若しも人が只必要のまにまに食うのを止める――即ち腹が一杯だという時――という場合ならば、物事の状態は實際今日目撃される以外には存在し得ないからだ。若しも人々が食事の快を愛するならば、また若しも彼等が自らを此の快樂を愛するその愛慾に身を任すならば、若しも彼等がそれをいいと見るならば(現代大多數者の場合の如く、または假令(およそ)知識階級のものがそうでないように見せかけても、その實は全く無教育者と同等の彼知識階級者の場合のごとく)、此の快樂の増大し行くことには最早や制限がなくなって來る。それ以上起らせないようにするその制限がなくなって來る。要用(ヽヽ)の滿足には限りがあるが、快樂には限りがない。我々の要用の滿足の為めには、麺皰、雑炊、米を食べば足りるのである。がしかし快樂の増大には、此のくらいならという風味調味に實際の境がないのである。
麺皰は必要にして充分な喰物である。(此れはただもう裸麦の麺皰だけで烈しい勞働に耐えた強壮な活動的な丈夫な幾百萬人の人々に於て實證されている)。しかしそれに何か又味をつけるとただのよりは嬉しい。肉を煮た汁にその麺皰を漬すと更にいい。この肉汁に青菜を入れるとますますよく、菜っ葉も一種でなく幾種も入れるに越したことがない。肉を喰べるのも結構。肉は煮るより炙ったほうがよさそうだと來る。牛酪をそれにつけると尚さらいい。そして生ま焼きがよろしいとなる。それでもまた或る部分だけ選んで喰べるとなる。然もそれのつけ合わせとして野菜と辛子が要る。それへ飲み物がほしくなるから葡萄酒がつく。擇り好みとあって先ず赤いのにしておく。或る人は之でもう澤山だ。が人によってはソースで味がうまくついた魚肉に白葡萄酒を潜らせたのを所望することも出來る。で富者も通人も夏は氷、冬は煮た果物、ジャムなど甘い皿一つ調わないうちは何かしら物足らない様子に見える。しかも斯うして我々の食事、控え目な御馳走が食われるのである。此の種の御馳走の愉快、樂みは段々増長して行き得るのである。して又實際増大される。斯くて此の増大に限りが無いのである。刺激的な點心(おちゃうけ)、午餐前の添物(Hors-b’nures)、脇付(Entromets)、それに食後、それから味が違うものの種々なるまぜ合せ、次に花、装飾、食事中の饗樂と止め度がない。
そしておかしいことには、日頃斯ういう御馳走で食い過ぎている人々は、それと比べる為めには、豫言者の警告を呼び起こしたベルハザル饗宴も物の數ではない――恥とも知らず呑氣に、一かどの 道徳生活をそれで行っているであろうという事を信じきっている。
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