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トルストイ「禁酒論」1-3

トルストイ 『禁酒論』
何故人々は自らを麻酔せしめるか?
――アレキセーエフ博士著『酩酊』の序――

人々が彼等自らを麻酔せしめる品、ウォーツカ、葡萄酒、ビール、ハシシュ、阿片、煙草、それから通俗的でない品、エーテル、モルヒネ、蠅取菌(フライ・アガリップ)等を用いると云う事實をどう説明すべきであるか。左様な習慣はなぜ起ったか?なぜそれがあらゆる種類の人々、野蕃人、文明人の間にそんなに早く擴まり、又今も尚擴まりつつあるのであるか?ウォーツカや葡萄酒やビールのないところには、阿片やハシシュや蠅取菌(フライ・アガリップ)藥があり、又煙草は到る所で常用されて居ると云うのは、どうしてであるか?
なぜ人々は、彼等自らを麻酔せしめる事を欲するのであるか?
なぜ彼が葡萄酒を飲み始めたか、又なぜ今でもそれを飲んで居るのかと誰かに聞いて見るがいい。彼は答えるのであろう、『おう、それは愉快だ、そして誰れでも飲む』と、そして彼はこう云い足すであろう。『それは私に元氣を附けて呉れる』と。或る人々――葡萄酒を飲む事の善し悪しに就いて、一度も考慮を費した事のない人々――は、葡萄酒は健康にもいいし人の力をも増やすと云う事を、云い足すかも知れない。即ちもうずっと前に根據のないものと證明されて居る事を述べ立てるかもしれない。
喫煙者に、なぜ彼が煙草を持ち始めたか、又なぜそれを今でも喫んで居るかと聞くがいい、すると彼も亦答えるであろう、『怠屈凌ぎの為めに、皆んな喫んで居る。』と。
阿片、ハシシュ・モルヒネ又は蠅取菌を使用する人々に依っても、多分これと同様な答えが與えられるであろう。
『退屈を凌ぐ為めに、愉快になる為めに、人々はそれを用いて居る。』然し、『退屈を凌ぐ為めに。』或いは『皆の者がそうするから』とて、指をひねくり、口笛を吹き、歌を口吟み、笛を吹き或いはそうした種類の事をするのならば、言譯が立つかもしれぬ――即ち、自然の富を消費する必要がないような事なし、又はそれを作り出すのに大變な勞力を佛わなければならぬところのものを費やさず、又自身や他人に著しい害を與えないところの事をするならば、言譯も立つであろう。が、煙草、葡萄酒、ハシシュ又は阿片を作るためには、何百萬と云う人間の勞力が費され、何十億エーカーと云う出來のいい土地が(屡々土地に缺乏せる住民の間で)馬鈴薯、大麻、罌子栗、葡萄、煙草を育てる為めに使用せられて居る。その上、此等の明らかに有害な品を用いる事は、各人の知り且つ認めている恐るべき害悪を起し、凡ての戦争や傳染病を合せてよりも以上に多く、人々を亡ぼすものである。そして人々は此の事を知っている。故に『怠屈を消す為めに』『愉快になる為めに』或いは『皆の者がそうする』からとて此等の品々を、彼等が用いる事はあり得ない筈である。
そこには何か他の原因があるに違いない。絶えず又到る處で、人は、彼等の子供を愛し、それらの為めとあらば如何なる種類の犠牲をも厭わないが、彼等の飢えた貧乏に悩まされた、子供を養うには確かに充分な、又少なくとも彼等をみじめさから救い出すには充分な金を矢張りウォーツカや葡萄酒やビール、或いは阿片やハシシュやまた煙草にさえも費やして居るところの人々に出逢う。若しも、人が一方に於て彼の愛する家族の窮乏と苦痛と、他方に於いて麻酔せしめる品を節制する事とのいずれか一つを選ばねばならぬ時、その後者を選ぶとせば、明らかに――彼は『誰でもそうする』又はそれは愉快なものであると云う考慮より以上に有力な何ものかに依って、そうさせられるのに相違ない。明らかにそれは『退屈を凌がない為めに』とか、或いは單に『愉快にならないが為めに』なされるのである。が然し、彼は或それよりももっと有力な原因に依って、 動かされて居るのである。
此の原因は――私が此の論文を讀み、他の人々わけても葡萄酒や煙草を常用していた頃の私の場合を観察して見出した―― 限りに於いては――此の原因は、私が思うに、多分次のように説明されよう。
彼自身の生活を観察する時は、人は屡々彼自身身内に二つの異なったもの、一つは盲目で肉體的のもの、他は目の開いた且つ精神的なものを認め得るであろう。その盲目な動物的なものは、施條を掛けた機械のように、食い、飲み、休み、眠り、繁殖し且つ動く、この動物的なものに縛られた目の開いた精神的なものは、單独では何事をもしない、が唯動物的なものの行動を評價する、その行動を是認する時はそのものと一致し、それを非難する時はそれから分離しながら。
此の見張りをする存在物をば、一つの矢で北を、そして今一つの矢で南を指さす羅針盤に比較する事が出來る。それは、それとその矢が共に同一の方向を指している限り認める事は出來ないが、それ等が相異なった方向を指すや否や明らかになるところの或るもので覆われている。
同様にして、その表れを通常我等が良心と名付ける、その目の開いた精神的な存在物も亦、常に、一方の端で正の方を、他の端で邪の方を指し示している。そして我等がそれの示す針路、邪から正への針路に従っている間は、それを認める事がない。然も若し此の精神的な存在を知ろうとするのならば、唯人は良心の命令に反した何かをすればそれで充分である、然る時それは、如何に動物的な活動が良心の指示する方向と相離反したものであるかを示すであろう。そして恰も、間違った航路を取っていると意識している航海者がその進路を羅針盤の示す方向に直すか、或いは此の間違っていると云う意識を塗り消してしまうかしない以上、橈(かじ)、機關乃至帆を續いて取扱う事が出來ないと同様に――動物的活動と良心との二元を感ずる各の人も亦唯その活動を良心の要求に合致せしめるか、或いは良心が彼に與えるところの、彼の動物的生活の間違に關する指示を蔽い隱すかのいずれかをして、初めてその活動を續ける事が出來る。
凡ての人間生活は、單に此等の二つの活動、即ち(一)その活動を良心と調和せしめる事、或いは(二)元の儘の生活を續け得んが為めに、良心の指示から自己を隱す事、から成り立つものと云う事が出來る。
或る者は第一の事をなし、他の者は第二の事をする。第一の事を達し得んがためには、唯一つの方法、即ち道徳の開發――自らの表に光りと、それの示すところのものに對する注意力とを増す事がある丈けである、第二の事をするためには――自己から良心の指示を隱すためには――二つの方法がある、その一つは外的なもので、他は内的なものである。その外的な方法は、人の注意をして良心の與える指示から遠ざからしめる事に従事するにある、内的な方法は良心そのものを暗ますところに在る。
人は、眼前の事物を見る事を避けるに二つの方法を持っている。即ち視線を他の一層人目を惹く物に外らすか、或いは自身の眼を遮るかすると同じ様に――丁度それと同様に人は又、良心の指示を彼から二つの方法で、即ち彼の注意を色々な仕事、懸念、愉樂或いは遊戯に轉ずる外的な方法が、或いは、注意そのものの器官を妨げる内的の方法の孰れかに依って、隱す事が出來る。道徳的感情の鈍い低い人々に取っては、屡々外的な方法丈けで、彼等の生活の間違に就いて良心の與えるその指示を、彼等が認知しないようにするに充分である。然し道徳的に敏感な人々には、それ等の方法は屡々不充分な事が多い。
外的な方法は全然、人間の生活と良心の要求との不調和の意識から注意を、遠ざけはしない。此の意識は人間の生活を妨げる、故に人々は、元の儘の生活を續けて行き得んがためには、更らに信頼するに足る内的な方法に頼らなければならない、その方法とは、かの麻酔的な材料で脳を毒して、以って良心そのものを眩ますところのものである。
人は良心の要求する通りには生活をしていない、のみならずその要求に従って生活を改造する力を缺いでいる。此の不調和の意識から注意を外らしめるべき氣晴らしも不充分であるか、或いは陳腐なものとなった、故に――その生活の間違いに就いて良心の與える指示に無關心に生きるために―― 人々は(一時の間良心を毒する事に依って)丁度人が眼を閉じて見度くないものを自分から隱すと同じように、良心が自らを現すところの器官の働きを停止せしめる。

ハシシュ、阿片、葡萄酒及び煙草の世界的な需要の原因は、趣味のうちにも、又はそれ等の供する何かの快樂、氣晴らし或いは逸樂のうちにも存しない、が單にそれは、良心の要求を自己から隱そうとする人間の必要のうちに存在する。
私は或る日通りを歩いていた。そして四五人の談じ合っている御者の側を通った時、私はその内の一人がこう云うのを聞いた、『勿論、それは素面では恥ずかしくって出來ぬことだ!』
人が素面(しらふ)でいる時は、酔っ佛っている時全く正しく見える事を恥かしく感ずる。此等の言葉のうちに、我等は人々をして麻酔物に赴かせしめる根本的な内因を發見する。人々は彼等の良心に反した何事かをした後恥しく感ずる事を避けるためにか、又は彼等の良心には反するが、然し動物的本性がそうする事を誘うところの行為をなし得る状態に、前以って自らを導くために、麻酔物に頼る。
人は素面でいるときは、醜業婦の後を追う事を恥じ、盗む事を恥じ、殺す事を恥じる。此等の事柄のうちの一つをも、酔っ佛った人間は恥じない、故に人が若し彼の良心の責める何事かをしようと欲するならば――彼は先ず自らを麻酔せしめる。
私は、私の親戚に當るその仕えていた老婦人を殺して審問に附けられた一人の男料理人の申立に驚かされた事を憶えている。彼は彼の情婦である女料理人を遠のけて愈々(いよいよ)實行の時が来た時、彼はナイフを持って寝室に入ろうと欲した。然し素面では彼の企んだ仕事が出來ないのを感じたと申立てた……『人は素面でいる時は恥じる。』彼は引き返した。前以って用意しておいたウォーツカを二杯呑んだ、そしてその時やっと用意が整ったのを感じた、そして罪悪を犯した。
犯罪の10分の9までは、そういう風にして、
『勇氣をつける為めに飲め。』と云うやり方でなされている。
堕落する夫人の半ばは、酒の影響で堕落する如何わしき家への來遊者の殆んど凡ては、酩酊者である。人々は此の良心の聲を止める酒の効能を知っている、そして故意にその目的の為めにそれを使用している。
人々が良心を抑えるために自らを麻酔せしめるのみならず、又彼等は、(酒の効能を知って)他をして良心に反する行為をせしめようと欲する外にも、故意にそれ等の人々を麻酔せしめる――即ち、人々の良心を失わしめるために、彼等を麻酔せしめる手筈を整える。戦争に於いて兵士達は、常に接戦の前に酩酊させられる。凡ての仏蘭西の兵士達は、セバストーポリの攻撃に際して酒を飲まされた。
防禦地帯が占領されたが、兵士達が掠奪せず又無抵抗の老人や子供を虐殺しない時は、屡々彼等をして酩酊せしめよと云う命令が發せられる、そこで初めて彼等は、要求されている事柄をする。
人々は皆、良心を悩ます或る何かの悪事をした結果として、酒を呑む習慣に陥った人々を知っている。何人も、不道徳な生活を送る人々は、他の者よりもまして麻酔の材料に惹きつけられるのに氣付く事が出來る。強盗や泥棒の團體、又は醜業婦は、一日とても陶酔物なくしては生きる事が出來ない。
人々は皆、麻酔物を使用するのは良心の苛責の結果であり、且つ或る不道徳な生活様式に於いては麻酔物が良心を眩ますために使用されていると云う事を知り、又容認する。人々は又同じく麻酔物の使用は良心を眩ますと云う事、即ち酩酊者は、それが素面でいる時は瞬時の間すら考えようともしない行為をする事が出來ると云う事を知り、且つ容認する。人々は皆この事に意見を同じうする、然し不思議な事には、麻酔物の使用が、例えば窃盗、殺人、強姦等の行為に導かない時――麻酔物が或恐るべき犯罪の後にではなくして、我等が罪悪と考えない職業に従っている人々に依って使用される時又麻酔物が、一時に多量ではなくして、絶えず程よい分量で消費される時――その時は、(或何かの理由から)麻酔物は良心を眩ます傾向を有しないと見做されている。
斯くの如くして、裕福な露西亜人の各食事前のウオーツカ及び食事とともに飲む葡萄酒、或いは仏蘭西人のアブサン、或いは英吉利人のボルト酒とポルタァ麦酒、或いは独逸人の生麦酒、或いは裕福な支那人の程よい分量の阿片、並びに以上のものと共に飲む煙草は――唯快樂の為めに飲まれるのであって、それ等の人々の良心には何等の影響も與えないと、考えられている。
若しも此の常習的な麻酔の後に如何なる罪悪も、窃盗も或いは殺人も行われなくて、唯通例の悪い馬鹿げた行為が行われるならば――然る時は、此等の行為は自然に起こったものであって、麻酔に依って惹き起こされたものではないと考えられている。若しも此等の人々が、刑法に触れるような行為を犯していない以上は、良心の聲を抑える必要がない譯である。故に習慣的に自らを麻酔さす人々の送る生活は善であって、自らを麻酔ささない時と寸分も違った事はないと考えられている。麻酔物の絶え間ない使用は、彼等の良心を少したりとも眩まさないと考えられている。
たとえ各人が経験に依って、人間の心の具合が酒や煙草の使用で變わると云う事、興奮物さえ取らなければ恥じるに決まっている事柄をも恥じなくなると云う事を、如何に小さい良心の苦悶の後でも人は常に或る麻酔物に頼ると云う事、及び麻酔物の影響の下にありては、自分の生活や境遇を反省する事が困難であると云う事、及び麻酔物の間断なき規則的な使用は、時折不規則に使用する時と同様の生理的な結果を生ぜしめると云う事を知っている――而も、凡て此等の事にも拘わらず、程よく飲み又は喫煙する人々に取っては、彼等が麻酔物を用いるのは少しも良心を眩ますためではなくして唯風味のため或いは快樂の為めであるように見えるらしい。
然し人は、真面目に又公平に――自らを責めようとしてではなく――次の事を了解するために考慮を費す必要がある、即ち第一に、若しも時折多量に麻酔物を使用する事が、人の良心を眩ますならば、それを規則的に使用する事も亦、それが多量に使用されようと少量であろうと、(常に先ず脳の働きを強めその後それを鈍らして)それと同じ結果を生ぜしめる筈があると云う。第二に、凡ての麻酔物は、良心を眩ます性質を持っている。そしてそれを常に――その影響の下で、窃盗や殺人や強姦が行われる時に於いても、又はその影響の下で、それ等の麻酔物が使用されなかったならば、發せられないに決まっている言葉が放たれ、又は考えたり感じたりされないに決まっている事柄が考えられたり感じたりされたりする時に於いても持っていると云う事、そして第三に、若しも麻酔物の使用が、窃盗強盗又は醜業婦の良心を鎮め且つめ眩ますために必要とされるならば、又同じく、たとえ他の人々が正當な名誉なものと考えようとも彼等自身の良心が非難するところの職業に従事する人々に依っても要求されると云う事である。
一言にして云えば、大量であろうと少量であろうと、時折であろうと規則的にであろうと、或いは社会の上流に於いてであろうと下流に於いてであろうと、麻酔物の使用は一つの同じ原因、即ち生活の仕方と良心の要求との間に存する不調和に氣付かないために、良心の聲を抑える必要に依って呼び起こされたものであると云う事は、避け難い事實である。

此のうちにのみ、凡ての麻酔物就中煙草――多分最も一般に使用され、且つ最も多く有害な――廣い需要の理由が存在する。
煙草は人を快活にし、頭を明瞭にし、人を單に他の何かの習慣のように――少しも酒のような良心の鈍麻を生ぜしめる事なくして――人を誘引するものであると考えられている。然し唯諸君が注意深く、喫煙しようとする特別な欲望の起る時の心状態を、観察すれば充分である、然る時諸君は、煙草を以ってする麻酔も、酒と同じく良心に作用を與える。故に、人々はその目的の為めに煙草を要求する時は、意識して此の麻酔の方法に頼っているのである事を、確信するであろう。若しも煙草が單に頭を明瞭にし快活にすると云うに止まるならば、斯様なそれに對する熱狂的な渇望、或る一定の場合に決って現れる渇望はないであろう。人々は煙草なしでよりは麺包なしで済ませて行き度いとは云わないであろう、又屡々実際に於いて、何物よりも煙草を好むような事はないであろう。
かの自分の女主人を殺した男の料理人は、彼が寝室に入って行ってナイフで彼女の喉を突き、そして彼女が喉鳴りをして倒れ、血が瀧をなして奔り出た時――彼は勇氣を失ったと語った。『私は彼女の止めを刺す事が出來ませんでした。』と彼は云った、『が私は寝室から出て客間へ戻りました、そしてそこで腰を下ろして巻煙草を喫かしました。』煙草で自分を麻酔さした後、初めて彼は寝室に戻る事が出來た、そして老婦人の喉を掻切った後、彼女の持物を漁り始めた。
その瞬間、煙草を喫み度いと云う欲望が、頭を明瞭さするためにでも、或いは快活になるためにでもなく、彼に企んだ事をやり遂げるのを邪魔するところの何ものかを眩ます必要上、彼の内に起った事は明らかでもある。
喫煙者は何人も、或る何かの、特に困難な瞬間に於いて、自らを麻酔せしめようとするそれと同一の劃然たる慾望を、自らのうちに認める事が出来るであろう。私は煙草を常用していた頃を思い浮かべる、私が特に煙草の必要を感じたのは何時であったか?それは常に私が、私の記憶に蘇って來る或る事柄を思い出し度くない時、私が忘れ度い――考え度くないと慾した時の瞬間に於いてであった。 私は何もせずに座り込んでいる。そして仕事をし始めなくてはならない事を知っている。然ししようとする氣持ちがしない。そこで私は煙草を吹かして、その儘座り續ける。私は五時迄に或る人の家に行く約束をした、然し他の人の家で餘り長く居過ぎた。私は約束を外した事を思い出す、然しそれを思い出し度くない――そこで煙草を喫かす、私は腹が立った、そして或る人に不愉快な事を云った。そして悪い事をしていると氣付いて止めなくては可かぬと云う事が分かっている。然し癇癪の排け口を慥え度い――そこで私は煙草を喫んで怒り續ける。私は歌留多をやる、そして自分が賭けてもいいと思って居た以上の金額をなくする――そこで私は煙草を喫む。私は困難な境遇に陥った、悪い行いをして間違いをやった、そして私は私の陥っている困難を認めていて之から脱け出さねばならぬ、然しそれを認め度くない、そこで他人を責める――そして煙草を喫う。私は何か書いた、そして自分の書いたものに充分滿足しない。私はそれを放棄すべき筈であった。然し私はしようと計畫したことをやり遂げ度い――そこで煙草を喫む。私は論争をする、そして論争の相手と私とが互いに理解もせずまた理解し得ない事が分かる、然し私は自分の意見を表白したい、そこで私は話し續ける――そして煙草を喫う。
人が容易く自分を麻酔する事が出來ると云う事と外見上無害に見える事との外に、煙草とその他の多くの麻酔物との異なる點は、その持ち運びに輕便な事と、一寸した困った出來事にたやすく間に合わせる事が出來ると云う事とである。人は何時も煙草と紙とを持って歩く事が出来るが、阿片や葡萄酒やハシシュを使用しようとすると、いつも手元にない道具が必要である事は云う迄もなく――煙草型の麻酔物に勝って便利な事は、阿片やハシシュや葡萄酒の麻酔は凡ての感覺及び或る稍長い期間の間に受け又はし出かす一切の行為に及ぶが――然し煙草から來る麻酔は、何か切り離した出來事に向ける事が出來る事である。諸君はしてはならない事をしようと欲する、そこで諸君は巻煙草を喫ってしてはならない事をするに充分な程度に自分を麻酔さす、それから諸君は再び正氣に戻る、そして明瞭に考えたり話したりする事が出来る、若しくは諸君がしてはならない事をしたと感ずる――再び諸君は煙草を喫む、間違った無作法な行為に關する不愉快な意識が消失する、そして外の仕事に従事して、それを忘れる事が出來る。
然し習慣を滿足さし又は退屈を凌ぐためでなしに、今將さにしようとしている又はしてしまった行為に關する良心の苛責を消すための手段として各喫煙者が煙草に頼ると云う個人的な場合は別として、人々の生活様式と喫煙慾との間には明白なはっきりとした關係があると云う事は、全く明瞭な事柄ではないであろうか?
何時青年達は煙草を喫み始めるのであるか?普通は、彼等が子供らしい無邪氣さを失う時に於いてである。喫煙者達が、更に道徳的な生活状態の中に入る時に喫煙を止める事が出來て、堕落した状態に陥るや否や再び飲み始めると云うのは一體どうしてであるか?何故賭博者達の殆んど凡てが煙草を喫むのであるか?何故婦人のうちでも規則的な生活を送っている者が喫煙する事が一番少ないのであるか?何故淫売婦や狂者が凡て喫煙するのであるか?習慣は習慣である。然し明らかに喫煙は、良心を麻痺せしめようとする要求と或る確かな關係を有していて、又その要求される目的を滿たしている。
人は殆んど凡ての喫煙者の場合に就いて、如何なる程度に迄、喫煙が良心の聲を眩ますかと云う事を観察する事が出来る。喫煙者は凡て自分の慾望に身を任せる時は、社会生活の緊要な要求――彼が他人に認める事を慾し、又自らもその良心が煙草に來たって麻痺されない内は、あらゆる場合に於いて認めて居るところの要求――を忘却し又は怱がせにするようになるものである。通常の教育を受けた人は誰しも、自分の快樂のために他人の平和、慰安、御呼びそれ以上更に健康さえも侵害する事は許す可からざる事であり、無作法にして又不人情な事であると考える。何人も人々の座っている部屋を濡らしたり、喚(わめ)いたり、冷い、暑い或いは嫌な臭いの空氣を入れたり又は他人に迷惑を與えたり害を加えたりするものではない。然し數千人の喫煙者の内誰一人として、煙草を喫まない婦人や子供が空氣を呼吸している部屋の中で、有害な煙を作り出すのを躊躇しない。
通例若しも喫煙者が其場に居合わす人に向かって、『拘いませぬか?』と云うならば、皆はその時の極まりの返事の言葉は『いいえ、一寸も。』である事を知っている。(喫煙しない人に取って、汚れた空氣を呼吸したり、臭い煙草の吸い端を、洋皿や皿や蝋燭立て、若しくは灰皿の中に於いてすら見出す事が不愉快でない譯がないが。)然し假りに喫煙をしない大人が喫煙に對して異議を申し立てないとしても、誰一人その承諾を聴く事をしないところの子供に取って、それが愉快な事でも、又いい事でもあり得る譯がない。而も他の凡ての方面に於いて廉直な又寛大な人ですら、小さな部屋で食事中子供達の前で喫煙して少しの良心の苛責も感ぜずに煙草の煙で空氣を汚している。
煙草を喫むと心を使う方面の仕事が容易に捗取ると云う事は、一般に云われている事である(又私もいつもそう言って居た)。そしてそれは疑いなく、單に人がその心を使う量丈けを考えるならば、本當の事である。喫煙をし、又その結果として厳密に自分の考えを評價し且つ考量する事を止めた人に取っては、それは恰も突然澤山な考えを得たかのように思われるであろう。然しそれは、彼が本當に多くの考えを得たからではなくして、單に彼が思考の統制力を失ったからである。
人が働く時は、何時も二つの存在物を彼自身の中に意識する、一つは働くものであり、他はその働きを評價する。その評價が厳密であればある丈け、その働きがより緩慢になり一層よいものとなる、そしてそうでない場合はその反對である。即ちその評價者が彼を麻酔せしめる何者かの努力の下にある時は、それ以上に多くの仕事がなされるが、然しその質に於いては遥かに下等である 。
『喫煙をしないと私は物を書く事が出來ない。私は進んでやる事が出來ない、私は始めはしましたが續いてやる事が出來ない。』と云うのが一般に云われる事であり、又私が何時も云っていたところのものである。その意味するところのものは実際何であるか、それは汝が書くべき何物をも持っていないか又は汝の書こうと欲するものがまだ意識のうちで熟し切っていないで、單にぼんやりと現れ始めているに過ぎない、そして中なる評價をする批評者がそう汝に告げているかのいずれかを意味するものである。若しも汝が喫煙しないならば、汝の始めたものを捨てるか、或いは考えが心の中ではっきりする迄待つかの孰れかをするであろう、汝は汝に漠然と現れているものの眞髄に徹しようと試みるであろう、現れて來る異論を考慮して、一切の注意を思考の説明に向けるであろう。しかし汝は喫煙をする、汝の中なる批評家は麻酔せられる、そして汝の仕事に取っての邪魔が取除かれてしまう。煙草で酔わない時に無意義な事に思えたものが、再び重大な事に思われて來る、漠然としていたものが最早やそうでなくなって來る、姿を現していた異論が消失する、そこで諸君は書き續ける、そして一層多く急速に書く。
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