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トルストイ「神の國は爾曹の衷にあり」第一章

『神の国は爾曹の衷にあり』
第一章 無抵抗の宣言
私の著書に対する最初の答えのうちにはアメリカのクエーカァ信徒達からの手紙があった。これらの手紙でもってクエーカァ信徒達は、戦争やあらゆる形式の暴行がキリスト教信者に取って不法であると言う私の見解に対する同感を表白した。そして私に、二百年の間キリストの無抵抗の教訓を実行しつつあった、また、自衛のために武器を用いなかった、今も用いないところのいわゆる彼らの派に関する詳細を知らしてくれた。これらの手紙と共に彼等は彼等の小冊子(パンフレット)や書籍や新聞紙などを送ってくれた。すべてこれらからして私は、いかに完全に、そしていかに久しき以前からして彼等は、暴力をもってする悪にまでの無抵抗の戒めを履行する事のキリスト教的義務を断固として指示し、戦争や死刑を認容する曲解されたる教育教理を拒否したかを知った。
 クエーカァ信徒たちは、沢山の論議や書物によって、戦争は――人々の残害や虐殺――人に対する平和と愛との宗教に矛盾する事を証明した後、更らに自らキリスト教信者と称んで居る人々のなすこの戒めの否認やキリスト者の戦争及び死刑執行の是認のごとくし、かく異教徒の前にキリスト教の意義を暗くし、全世界へのキリスト教の拡布を妨げるものはないと言う事を断定し是認した。
イエスの教訓は――彼等は言う人の良心にまで透徹した。しかしそれは剣や暴行によってではない。悪に対する無抵抗によってである。謙遜や柔和や平和の愛好によってである。そしてそれはただその信徒の間の愛や調和や平和の例によってのみ拡布される。
 神自身の教訓に従えば、キリスト者はただ平和の愛好によってのみ人間に対する彼の行為を指導されねばならぬ。そして、如何なる権威もキリスト者をして神の教訓及びキリスト者相互の最も本質的な関係に反対なる行為を強いることが出来ない。
国家的必至の原理はただ、世俗的利益のために不均等なものを調和させようと試みる人々をしてのみ、神の法則に背かしめ得る。しかし誠実にイエスの教訓を履行すれば救われると信じているキリスト者はこの原理を毫も重要視することは出来ない。
クエーカァ派やフォック西班牙、及び特にダイモンド(1827年)を相識るに至って私は、キリスト教と暴行や戦争がいかに相容れないものであると言うことがずっと以前から認められていた、ばかりでなく、どうしてこのキリスト教と暴行の如き、不調和が続き得るか、どうしてそれが教会によって教えられ、今もまた教えられているかと言うことが不思議でならない程にも明白に、そして不可抗的に教えられていたかを知った。
クエーカァの人々から得た報告の外に、私は、それと同時に、今まで知らなかった全く新しい出所から、この問題に関する他の事実を知るに至った。
有名なる奴隷反対者のウヰリアム・ロイド・ガリソンの子息が私に手紙を送って言った。彼は私の本を読んだが、それは1828年に表白した彼の父の意見と適合せる多くの事項を含んでいる、察するにこれを知ることは私にとってきっと興味のあることに相違ない。そこで彼は私に彼の父が50年も以前に書いた無抵抗宣言書を送って来た。
この宣言書は次の如き境遇のもとに書かれた。ウヰリアム・ロイド・ガリソンは1838年に米国に出来た平和建設協会の会員であった。そして戦争廃止の方法を論議している間に彼はこう言う結論に達した。即ち世界的平和の建設はただ、彼が親密にしているクエーカァの人々によって解されているごとく、悪に対する無抵抗の戒めを(マタイ伝5章39節)その完全な意味において明白に認識する事であると言うのである。ガリソンはこの結論をしたので、協会に次の宣言書を提出したが、その時(1838年)協会の多くによって調印された。
世界平和建設協会会員に採用されたる主義の宣言書
ボストン 1838年
『我人、下記調印者は、我人の愛好する主義、我人の追求する目的、普通的、平和的、慈善的、革命を遂行せんがために我人の採用せんとする手段を説明する我人のこの信条を公布する事は、我人自身に対する、我人の愛する各分に対する、我人の生存せる国土に対する、而して全世界に対する、我人の義務なりと思惟す。以下は我人の信仰宣言書なり。
 我人は人間の政府を承認せず。我人はただ一つの君主法律の施与者を認む。ただ一つの人類の統治者、審判者を認む。我人の国は世界なり、我人の国人は全人類なり、我人の国を愛するはただ他国を愛すると同じ程度においてなり。我人の国人の利益と権利は人類の利益と権利よりも我人に取って親密ならず、それ故に我人は愛国心が我人の国土に加えられたる侮辱もしくは損害に対する復讐を弁明し得る事を拒否す。
 我人はある国民が外敵を防禦し、又は攻撃する権利を有せざる事を信ず。我人はまた、その私的生活に於てこの権利を有する個人を分ち能わざる事をも信ず。個体は全体よりも重要なる事を得ず。もし国家が我人の国土を蹂躙(じゅうりん)せんとし我人の同胞を殺戮(さつりく)せんとする外敵に抵抗するの権利を有せずとするならば、同様にまた、社会の秩序を害し個人の安寧(あんねい)を威嚇(いかく)するこれらの個人に対して力をもってする抵抗を試むべきにあらず。教会の教える教理、即ち一切の国家は神によって建設せられ是認せられたりとすること、一切の権威者――合衆国においても、ロシアにおいてもトルコに於ても――神の意志に適えるものとなすことは、不條理なると共に謗瀆(ほうとく)なり。この教理は我人の創造者をして、悪を創造し認定する、不公平にして不正なる存在たらしめるものなり。ある国の権威者たちがキリストの模範に従って活動する、と言う事を、何人もあえてこれを断言し得ざるべし。それ故にこれらの権威者たちの行動は神を喜ばす事を得ず。また、権威者それ自身が神によって制定されるを得ず、それ故に彼らは廃止されざるべからず。ただしそれは暴力によらず、ただ人々の霊的更生によって、我人はただに一切の戦争――攻撃、防禦の何れも――のみならず一切の戦備、一切の武庫、城塞、軍艦等も不法にして非キリスト教的なる事を宣言す、我人はまた、一切の常備軍、一切の武官、勝ちたる、又敗れたる敵の記念のために建てられたる一切の記念碑、戦場において獲得されたる一切の戦利品、戦功の一切の祝典、軍隊の力によって遂行されたる一切の掠奪、その臣下より軍隊的奉仕を要求するところの一切の国家的規定等が不法にして非キリスト教的なる事を宣言す。
 すべてこれらの理由のもとに、我人は、ただに軍隊的奉仕に参与するのみならず、人々をして投獄もしくは死の恐怖のもとに正当に行動せざらしむる職務に従事する事をも不法にして非キリスト教的なりと思惟す。それ故に我人は自ら進んで一切の国家的職務より逃れ、一切の政治的職務、及び一切の世俗的名誉と職務とを拒否す。
 我人はまた、如何なる国家的職務を遂行することも我人にとって不法なりと思惟するが故に、他人をして、これらの職業を選定せしむることをも不法なりと信ず。同様にまた我人より取り去りたるものを返さしめんがために、人を裁判官の前に携え来るを得ず。我人は我人が我人の上衣をとり去りたるものには襯衣(はだぎ)をも与えざるを得ざること、如何なる場合にも彼らに暴力を用うべからざることを信ず。(マタイ伝5章40節)
 我人は旧約聖書の刑法――目は目にて償え、歯は歯にて償え――はイエスキリストによって廃止されしこと、而して新約聖書に従えばキリストの弟子は如何なる場合にも例外なく敵に対する復讐の代りに赦罪を教えられたることを信ず。然るに金銭の強請、投獄、追放、死刑執行等はたしかに損傷の赦しにあらずして復讐なり。
 人類の歴史は、肉体的暴力が決して道徳的更生を生むことを得ず、また人間の罪の傾向はただ愛によってのみ抑圧されるものなること、悪はただ善によってのみ排除されるもの、人が悪より自らを守らんがために腕力に頼ることの不法なること、人間の真の安全は親切と忍耐と慈悲との中に存すること、柔和なるもののみ地を嗣(つな)ぐことを得、剣をあげたるものは剣によって滅ぶるものなることを証する例をもって充されたり。
それ故に自由や財産や生命や公安や私福を得んとする目的においても、王の王にして治者の治者たる彼の意志を成就せんとする企画においても、我人は無抵抗の根本的教訓を我人の全心性をもって採用す。……この教訓が一切のあり得べき事故に対して、一つの解決を与うるものにして、神の意志を表白し、それ故に遂には悪の一切の悪の力に打ち勝つものとなることを確信しつつ。
我人は破壊的教理を宣伝せず。革命の精神は復讐即ち、虐殺と暴行との精神なり。それは神に対する畏敬をも人間の人格に対する尊敬をも知らず。しかも我人はそれに反してキリストの霊をもて充たされん事を欲す。もしも我人にして悪をもて悪に対する無抵抗の実質的教訓に従うならば、我人は不和や暴行や陰謀を扇動することを得ず。我人は福音書の戒に反せざる限り、一切の国家的要求および律法に服従す。我人の抵抗はただ、我人の不従順のために破らされたる刑罰に対する従順なる服従によってのみ表白さるべし。然れども我人は一切の毀傷や抑圧を抵抗なしに忍ばんことを欲すると共に、不断に、その場所の如何を問わず、高き地位においても低き地位においても、政治界においても、行政界においても、宗教界においても、悪に反対することを決心せり、また、我々の主イエスキリストの神の王国に一切の地上の国を統一せんがために合法なりと思惟する一切の方法をもって争わんことをも。
我人は、すべて福音の精神に反対なるもの、また、それ故に滅亡すべく運命づけられたるものは、直ちに壊滅さるべきものなる事を疑うべからざる真理なりと信ず。それ故にまた、もし我人にして、剣が鎌に打ちかえられ、鎗が鋤にかえられる時の来るべき予言を信ずるならば、我々の間にそれが存する限り、直ちにこれを実現し、決して他日に譲るべからざるを信ず。それ故にすべて武器を製造し、売却し、もしくは使用するもの、もしくは軍備拡張に加擔するものは、かくして神の子の地上に於ける平和なる支配に於ける自らを装うものなり。かくのごとく我人の主義を説明したれば、今はそれによって我人の目的を達せんと欲する方法について語るべし。
我人は『伝導の愚』をもって打勝たんことを期待する。我人は我人の説を、人々の信条や国民性や社会的地位等を顧慮することなくして、人々の間に拡布せん事を欲す。我人はこの目的のために、公開講演を組織し、小冊子及び印刷物を流布し、協会を組織し、一切の国家的機関に請願を提出すべし。要約すれば、我人は我人の力の能う限りの手段において、外敵もしくは内敵に対する暴力に関する社会的思想、感情、行動の合理的革命を遂行せん事を欲す。この大事業に従事するに当たって我人は我人の戒実が厳格且つ残忍なる批判を受くべきものなることを知る。我人の事業は我人の上に侮辱と憤怒と苦悩と死をすら持ち来すべし。誤解と讒謗と誹謗とは我人を待ちつつあり、暴風は我人に向って吹き起こさるべし。暴慢、偽善、野心、憎悪、治者、権力階級、――すべてこれらは我人を絶滅せしむべく起つべし。かくのごとく彼等は、我人が我人の力に応じて従わんことを務めつつあるメシヤ(註、救主、キリスト)をすら遇したり。されど我人はこれらの迫害を恐れず。我人は人に信頼せず、されど全能なる主に信頼す。我人にして一切の人間的保護を拒否したる時、世界を征服する信仰を除いての外、我人を支撑する何物が残存するや。我人はたとい試問にかけられるともそれに驚愕せざるべし、反ってキリストの悩みを分憺するに足るものと見られたる事を喜ぶべし。
かく我人は我人の神霊を神に任ぬ。而して、その家及び父及び母及び兄弟及び姉妹及び妻子及び畑をキリストのために棄つるものは百倍をうけ永遠の生命をうけ嗣ぐべしと言われたる言葉を信ず。それ故に、我人に対して惹起さるべき一切の力にも拘らず、この宣言書に述べられたる主義は、遂には而して確実に全世界を征服すべきことを確信して、遂に我人は、人々の理性と良心、及び殊に、我人自らを任ずところの神の力に於ける希望によって支撑されたる記名調印を附す。』
この宣言書の後にガリソンは無抵抗協会と言うものを建て、そして「無抵抗」と言う定期雑誌を出した。無抵抗主義の意義及び理由が宣言書において述べられた様に、その雑誌によって十分に表わされた。私は尚、その協会及び雑誌がその後どんな運命に陥ったかと言うことを、ガリソンの息子の優れたガリソン伝によって知った。その協会も雑誌も直ぐ廃されてしまった。奴隷解放事業に於けるガリソンの同志たちは――「無抵抗」に表白された極端な過激論が、人々をして解放の実際事業から離れしめはしないかと恐れて――宣言書に記された原理を排拒した。かくして協会も雑誌もその存在を失ってしまった。人はその宣言がかかる力強いそして雄弁なる言葉をもって、かくも重大なる信仰の告白をなした宣言書は深刻なる印象を与え、世界的に知られ、そして世界的論議の的となったであろうと考えるであろう。しかしそんなことは少しも起らなかったのである。単にヨーロッパにおいて知られなかったばかりでなく、アメリカにおいてすら知られなかった。非常な賞賛をもってガリソンの記念が行われたにも拘わらず。
 同じ堙滅が無抵抗の他の選士の上にも落ちた。彼はアディン・バローと言って50年間この教理を宣伝していたが近頃亡くなった。この教理の協会もしくは追随者が今も尚存するかと言う私の質問に対して、ガリソンが――四巻にわたれる立派な彼の父の伝記を書いたところの――彼の知れる限りにおいては、協会は解散した、そして追随者と称すべきものがないと答えた事から、無抵抗の問題に関して知られたるいかに僅かの事をしか集め得ないか。しかも彼が、これを書いた時において、マサチュセッツのホベデールに小ガリソンの同志にして扶助者たる、50年の生命をこの無抵抗の教えの宣伝のために献げたところの――言葉を以て又印刷物をもって――ある人――アディン・バローが生きていたのである。後、私はバローの弟子にして扶助者なるウヰルソンから手紙を受取った。それからバローその人との交渉に入った。私は彼に手紙を書いた。彼はその返事と彼の諸著書を送って来た。ここにそのうちのあるものを抽出する。
『イエスキリストはわが主にして教師なり』とバローは、防禦や戦争の権利を認容するキリスト者の矛盾を指摘せる彼のある論文で言っている。『予は善にも悪にも死に至るまで一切を捨ててキリストに従うべきを誓えり。然れども予は合衆国の民主的共和国の一市民なれば、その国には忠信を誓い、その制度を保ちもし必要ならば生命をすら献ぐべきことを誓いたり。キリストは予に要求するに他人よりせられんことを欲することを他人に爲すべきをもってせり。合衆国の社会は予に、二百万の奴隷に対して(その頃奴隷がいた、今は奴隷の代りに労働者の語を置き換えたがよかろう)己れのためになされんことを欲するとは正反対のことを――即ち彼らが今受けたる束縛のうちに彼らを保持することを扶けよと言う予に爲せと要求す。そは関するところにあらず、予は選挙し且つ選挙されていく。予は政府を補く。予は常にある行政的地位に選挙さるべく用意し居れり。それは予をしてキリスト者たることを妨げず、予は宣教しつづく。而してキリスト及び同家との約束を履行するに何等の困難を認めず。』
『イエスキリストは予に、悪行者に抵抗することを禁ず、目に対して目を、歯に対して歯を、血に対して血を、生命に対して生命を、要求することを禁ず。予の政府は全くその正反対を予に要求す。而してその自己防衛の根拠は、内敵もしくは外敵に向って用うる絞首台及び鉄砲なり。それ故に国は絞首台や獄舎や武器廟や軍艦や兵卒をもって充ち充ちいれり。』
『これらの高価にして殺人兵器の保持及び使用において、我等は、傷害の赦し、敵に対する愛、悦ぶ者の祝福、憎むものに対する善行等の徳を完全に実現することを得。この目的のために、我々は、我々に代わって祈り、我々の聖なる殺人者に神の祝福を祈請する正式なるキリスト教教師を持つ。予はすべてこれを知る、我々の生活と、我々が信じつつありと告白する者との間の矛盾を見る。而して予は強いて告自し且つ支配し、同時に敬虔なるキリスト信者として国家の忠実なる僕なることを自ら誇る。予はこの無抵抗の強的思想に同意せざるべし。予は予の勢力を捨て、而して政府を主義なき人の手に託すことを得ず。憲法は国家が戦争するの権あることを言う。而して予はこれに同意す――予はこれを保持す、また保持せんことを誓う、それは予をしてキリスト者たることを妨げず。戦争はまたキリスト者の義務なり。幾十万の同胞を殺し、婦人を羞しめ、町々を焼き破壊し、あらゆる形に於ける残忍を行うことはキリスト教と合致せずや。我々をして全てこれらの不條理なる感傷を放棄せしめよ。そは実に傷害者を赦し敵を愛する真の道なり。もし我々にして愛の精神をもってこれをなしさえすれば、この大殺戮よりもキリスト教的なるものはなきなりと。』
『悪を善に変換さすのに幾許の人を要する乎』と題する他の小冊子においてバローは言う『一人の人は殺してはならぬ。もしそれを成すものあれば彼は殺人者である。二人、もしくは十人もしくは百人を殺してはならぬ。もしそれをなすものあれば彼は殺人者である。しかし国民もしくは国家は、その欲するままに殺すかも知れない。而してそれは殺人ではない、それは正しく且つ推賞すべき行為である。人が十分なる人類を糾合し得るや否や、数万の他の人民の虐殺は全く無罪となる。しかしその精密な数はどれだけであるか、それは問題である。一人は殺したり掠奪してはならない。しかし全国民はしてもいい。精密に幾許の人が必要か。何故に非常に沢山の人が神の命令に背いてもいいのに、十人百人はそれに不従順であってはならぬのか。(註――原文の表白はこれとは少し違う)
これはバローが彼の会衆のために書いた信仰問答書である。
無抵抗の問答書
問 無抵抗の語の起源や如何。
答 悪に抵抗するなかれ(マタイ5の39)と言う文章よりとれり。
問 その語は何を表わすや。
答 そはキリストによって教えられたる、ある卓越せるキリスト教道徳を表示す。
問 無抵抗の語はその最広義の意味に了解さるべき乎、即ち、悪に対して如何なる種類の抵抗もなすべからざることを意味するや。
答 否、キリストの教の精密なる意味において了解されざるべからず。即ち悪をもって悪に報ゆるなかれと言うことなり。悪は全然義しき手段によって抵抗されざるべからず、されど決して悪によってすべからず。
問 キリストがこの意味に於ける無抵抗を命じたることは何によって知り得るや。
答 彼の用いたる以下の言葉より。彼は言えり。目は目に、歯は歯にと言われたるを汝はきけりされど我汝に言わん、悪に抵抗するなかれ。もし汝の右の頬を打つ者あらば左の頬をも向けよ。またもし汝を訴え、汝の上衣を奪うものあらば汝の外套をもとらせよ。(マタイ2の38-40)
問 『……と言われたるを汝はきけり、』と言える時、キリストは誰について言えるか。
答 教長及び預言者たちについて、また旧約聖書の諸書のうちに含まれたる、一般にユダヤ人が律法と預言者たちと称したる、預言者たちの言葉について。
問 『汝は告げられたり』と言う言葉によってイエスは何の律法を意味したるか。
答 悪の刑罰と排除とを目的として、害悪を行いたる者に個人的害悪をなす権利を認めたるのは、モーゼその他の預言者たちの律法なり。
問 かかる戒めを示せ。
答 人の血を流すものは、人によって自らの血を流さるべし(創世記9の6)
『人を撃ちて死なしめたる者は必ず打ち殺さるべし。もし害ある時に生命にて生命を償い、目にて目を償い、歯にて歯を償い、手にて手を償い、足にて是を償い、烙殺にて烙殺を償い、打傷にて打傷を償うべし。(出エジプト21の12、23-25)
『人を殺すものは必ず殺さるべし、もしその隣人に傷損をつけなばそのなせしごとく己もせらるべし、即ち生命は生命、目は目、歯は歯をもて償うべし。(レビ記24の17、19)
『然る時士師詳細にこれを査べ観るに、その証人もし偽妾の証人にしてその兄弟にむかいて虚妄の証しをなしたる者なる時は、汝兄弟に彼が蒙らさんと謀れる所を彼に蒙らすべし、かくて汝の目は憫み視るべからず、生命は生命、目は目、歯は歯、手は手、足は足をもて償わしむべし。(申命記19の18、19、21)
  これらはキリストの語りし律法のことなり、ノア、モーゼ及び預言者たちは、隣人を殺し、損傷の責苦をなせし者は悪をなせるものにして、この悪に反対し排除せんがために悪行者は死、損傷、もしくは肉体的責苦によって罰せらるべく、侮辱は侮辱によって、死は死によって責苦は責苦によって、死は死によって報いらるべきを教えたり。ノア、モーゼ及び預言者たちはかく教えたり。しかしイエスはすべてこれを排したり。福音書の中にかく言われたり。我汝に言わん、悪に敵するなかれ、侮辱をもって侮辱に抵抗するなかれ、反ってむしろ悪行為の新たなる侮辱を忍べ。かつて許されたる事は今禁ぜられたり。預言者たちによって教えられたる抵抗の種類を見て、我々はキリストの無抵抗が何を教うるかを精密に知ることを得。
問 往古、人は害傷は害傷によって抵抗さるる事を許せしや。
答 然り、されどキリストはそれを禁じたり。キリスト信者はその如何なる理由の下にも悪を行いつつある隣人に損傷を加えもしくは生命を奪うの権利を有せず。
問 彼は自己防衛のために他人を殺しもしくは傷つけ得るや。
答 否。
問 彼は犯罪者を罰する目的をもてる行政者の前に訴えをなし得るや。
答 否、他人によってなしたる事は畢竟、自からのなすことなればなり。
問 彼は軍隊にありて敵国もしくは内乱者と戦い得るや。
答 断じて非。彼は戦争にも軍備拡張にも参与することを得ず。彼は死を致さしむべき如何なる武器をも用ゆるを得ず。たとい一人のみならんも他人と共ならんも、また個人的ならんも他人の代理によらんも、すべて彼は損傷を以て損傷に抵抗するを得ず。
問 彼は自らすすんでその政府のために兵卒をたてもしくは武装せしむるを得るや。
答 もしキリストの教えに忠ならんと欲する者はこれらの何事をもなすべからず。
問 彼は武力や死刑やその他一切の種類の暴行によって支撑(しとう)されおる政府に金銭を献げ得るや。
答 否、その金銭がそれ自身において推奨さるべきある何かの善目的に向って用いられ、その目的も手段も共に是認され得るにあらざるよりは不可なり。
問 彼はかかる政府に租税を払ってよきか。
答 否、彼は自ら進んで租税を払うべきにあらず、ただ彼は徴税を拒む事を得ず。政府の要求する租税はその主君の意志とは全然別に徴せらる。彼等は暴行を惹起さすことなくして抵抗する事を得ず。然るにキリスト者は暴力を用ゆるを得ず、それ故に彼は単純に彼の財産を官憲によって強制的に惹起されたる損害に委ねざるべからず。
問 キリスト信者は選挙に投票をなし、政府もしくは法廷に参与し得るか。
答 否、選挙、行政訴訟への参与は国家的暴力への参与なり。
問 無抵抗の教訓の主要意義は何ぞや。
答 それのみが悪を我々自らの心情より、また隣人の心情より絶滅せしむるの可能をもつ。そはこの世界に悪を増殖せしめ不断にするそれ等の行為を禁ず。他人を攻撃し他人に毀害を加うるものは一切の悪の根抵なる憎しみの感情を彼の心の中に燃やさしむ。悪を抑圧すと称する口実の下に、我々に害を加えたるものに害を加えることはただ、彼及び自らにその悪行を繰り返さしむるに過ぎず――我々が破壊せん事を欲せる悪魔を復興せしめ、少なくとも解放せしめ且つ奨励する事に過ぎず。サタンはサタンによって投げ出さるるを得ず、不真理は不真理によって詰めらるるを得ず、悪は悪によって打ち勝たるるを得ず、真の無抵抗は悪に対するただ一つの有効なる抵抗なり。そは蛇の頭を砕く、そは一切の悪の感情を殺し全然破壊す。
問 されどたといその思想が真なりとするも、その教訓は実行的なりや。
答 そは神の律法によって教えられたる如何なる徳とも同じく実行的なり。善は如何なる場合においても、自己否定、欠乏の苦しみ、時としては生命そのものの破壊なくしてはなされず。されど神の意志の成就よりも生命を尊ぶものは既にただ一つの真生命に死せるものなり。かかる人は自らの生命を救わんと欲してそれを失うのみならず、無抵抗が一つの生命もしくはある重大なる生命の利益を犠牲とせざるべからざる時は常に、抵抗がその千倍の同じ犠牲を要す。
 無犠牲は保存す――抵抗は破壊す。
 不正に働くよりも正しく働くことは、また、力によって損傷に抵抗するよりもそれに忍従することは無比に安全なり。我々の現在の生活においてすら、より安全なり。もし一切人が悪によって悪に抵抗せざる時には、我々の世界は幸福をもって充さるべし。
問 然れどもし僅少のものがかくのごとく行う時、彼等はいかになり行くや。
答 たといただ一人がかくのごとくに行い、一切人が彼に襲いかかりて彼を十字架につけるとも、そは、虐殺の血をもって汚されたるカイゼルの王冠を以て飾られて住むよりは、無抵抗の愛の勝利と、敵のための祈祷とのうちに死する事は、彼にとりて更らに光栄あることに非らずや。されど悪をもって悪に抵抗せざらんことを確く決心せる一人もしくば千人は、たとい彼等が文明国人の間に住まんとも野蛮人間に住まんとも暴力に依頼する人々よりも暴力に対して遥かに安全なり。盗人も悪漢も殺人者も武器をもって自らを防禦する者に対してよりは、より速やかに彼等を去るべし。剣を擦る者は剣によって滅ぼさるべし、されど怒らず、友人のごとくに行動し、損傷を忘れ且つ赦すところの、平和の探求者は、常に平和を亨楽す、もしくはたとい死するとも、そは祝福の死なり。かくてもし一切の人が無抵抗の戒を履行するならば、明らかに最早何等の損傷も悪行も存せざるに至るべし。もしほとんどすべての人々がそれを履行するならば、その悪をもって悪に酬いず、また善力をも用いざる事によって犯罪者に向ってすら愛と好意の王国を建設すべし。無数の人々がこれを履行するときには、非常に厳酷なる処罰が行われる。社会にかかる更生的道徳感化を及ぼし、愛と平和が暴力と憎悪に代るべし。もし又ただ僅かのものがこれを履行したりとするとも、世の嘲笑以上のものを忍ばざるべからざること稀なるべし。しかも世は不断に、自らはそれを知らずまたそれを喜ばざるも、その秘れたる感化のもとに、より賢明になりより善良になりつつあり。よし又形勢最も非にして幾許かの者が死の迫害を被るとするとも、これらの真理の殉教者たちは彼等の後ろに自己犠牲の血によって潔められたる彼等の教訓を残すべし。
  平和を求むる者に平和あれ、すべてに打ち勝つ愛が「暴力をもって悪に抵抗するなかれ」と言うキリストの教訓に進んで臣従するあらゆる心霊の不壊の嗣産たらん事を。』
 50年の間バローは実に主としてこの悪に対する暴力的無抵抗の問題について書き又書物を刊行した。これらの書物はその形式の美と、思想の明晰とをもって優れたるところからして、質問はその及ぶ限りのあらゆる方面から起された。この戒めの義務は聖書をもって神の啓示なりと信じているあらゆるキリスト信者に負わされていることを証した。彼は無抵抗の戒めに反対するおきまりの議論を旧約及び新約の何れの聖書から――宮からの追放のごとき――も引き出し且つ弁駁した。この主義の実行的合理性を聖書には依らないで説明した。そしてそれに対する常例の議論をなし、又それに答えた。たとえば、その書のうちのある一章において彼は、悪に対する無抵抗の例外の場合の事を説いた。そしてもし無抵抗の法則が適用されない場合があるとするならば、それはこの法が本質的に矛盾していることを証する事になると言った。そして又彼は彼等の例外の場合を記述して、これらの場合、この法則の適用が最も合理的で不可避であるということを指示した。彼は又これらの書物において、反対者の根底の上からも、この同情者のそれからも、この問題のあらゆる方面から研究して予すところがなかった。私が今これを語るのはかかる書物がキリスト教を信奉している人々に対して疑うべからざる興味を惹起しなければならぬ筈であるのを示し、またバローの熱心がよく知れ渡って、彼の著書のうち表白された思想が受納れられるなり拒否されるなりしなければならぬ筈であるのを示さんがためである。しかしそんな事は少しも起らなかった。
 老ガリソンの宣誓書及び彼の無抵抗協会の建設は、私とクエーカァ宗との交渉においてよりも以上に、国家的キリスト教がキリストの無抵抗の法則がずっと以前から見られており且つ指摘されておって、人々がそれを排除せんがために働き、今も尚働いているのだと言うことを私に確信させた。バローの活動は私にこの新しい証拠をもたらしてくれた。しかしガリソンの運命は、特にこの一つの方面に向って五十年の間も不断にそして執拗に働いたにも拘らず、有名にもならず、知られもしなかった。バローの運命はまた私に、他の事――すべてこれと同じ企画を黙殺しようと言うある一つの動かすべからざる黙契の存する事を確信せしめた。バローは1890年の8月に死んだ。そして彼の略伝がアメリカのあるキリスト教的傾向の週刊雑誌(Religion philosophical Journal. Aug. 23)にのった。その頌徳的略伝は言っている。バローは社会の霊的指導者であった。彼は八千もしくは九千回の説教をした。千組の結婚をさせた。そして五百の論文を書いた、と。しかしその道徳的な一語も、彼がその全生涯を傾倒したところの目的については言っていなかった。『無抵抗』と言う言葉すら記されていない。
 クエーカァ宗が二百年の間告白し説教してきた一切の事も、老ガリソンの活動、彼の一宗派及び定期刊行物の創設も、バローの宣言及び生涯の事業も、すべて皆これらが存せざるかのごとく、また未だかつて存せざりしかのごとくである。
 暴力による無抵抗主義の教理を説明し、この戒めを認めない人を非難せんとする目的をもって書かれたあらゆる書籍に伴う黙殺の著しい例はついこの頃発見された、しかも未刊行書であるチェック人、――ヘルチィッスキィの書いた本の運命である。
 私の本がドイツに表われるや否や、私はプラーグ大学の一教授から、『信仰の網』という書名でチェック人のヘルチィッスキィと言う人が十五世紀に書いた、しかし遂に印刷されなかった一つの本が在ると言うことを知らせた手紙を受取った。教授の告げるところによるとこの本は四世紀の以前において、私が私の「我が宗教」で語った真キリスト教及び偽キリスト教におけると同じ意見を語っている。教授は私に、『ヘルチィッスキィの本が始めてペテルブルグ科学協会の定期物において、チェック語で刊行される』と言うことを告げた、私はその本を遂に手に入れる事が出来なかった。そこで私はヘルチィッスキィについて知られていた一切のものと近づきになろうとした。この報告はプラーグ大学の教授が私に送ってくれたドイツ書と、ピピンの『チェック』文学史から得たのである。ピピンはこう言っている。
『「信仰の網」は人を生活の海の陰暗なる深淵より、又、その罪より、救済すべきキリストの教えである、真の信仰は神の言葉を信ずることである。しかし人々が真の信仰を異端だと称える時が来た。それ故に真の信仰は何によって構成されるかを理性が指示しなければならぬ。――もし何人もそれを知らない限りは、暗はそれを人々から隠した。そして彼等はキリストの真の教えを認めない。』
『この教えを説明して、ヘルチィッスキィは、今日ローマカトリック教が異端の中に加えて居る(と彼は言う)キリスト教社会の原始的構成を提出する。』
『この原始的教会は、平等自由同胞主義の上に建てられたるヘルチィッスキィの理想的社会組織である。彼の説によればキリスト教は実際にこれらの原理を含有して居る。ただ社会がこの純粋なるキリストの教えに復帰しさえすればいいのである。然る時はじめて、王や法王をもてる一切の他の組織が予計であるのを証明するであろう。愛の法則でもって一切は十分であろう。』
『ヘルチィッスキィは歴史的にキリスト教の腐敗を法王シルヴェスタァがその異教的生活や道徳には触れないでキリスト教に改宗させたコンスタンティンの時に帰する。コンスタンティンはこの報酬として法王に富と世俗的権力とを授けた。その時から以来この二つの権力は常に互に扶け合って、ただ世俗的光栄をのみ求めた。博士「先生」と僧侶とは全世界を彼等の権威のもとに征服しようとのみ考えた。彼等は人々をして互に相反して起たしむる様に刺衡した、彼等は盗賊や虐殺を奨励した。彼等はキリスト教を信仰においても実行においても破壊した。ヘルチィッスキィは戦争及び死刑の合法を絶対に否認した。すべての兵卒は、よしそれが「騎士(ナイト)」であろうが暴力の人である、虐殺者である、犯罪者である。』
 私に送ってくれたドイツ書にも同じことが言われてあった、ただそれに少しばかりの伝記的細目とヘルチィッスキィの手紙の抜書が加えられて居た。
 かくのごとくにしてヘルチィッスキィの教えの実質を知ったところで、私は学士会院報に『信仰の網』の表われるのをいや増し行く熱心をもって待った、一年、二年、そして三年は過ぎ去った――しかもその本は出なかった。一八八八年に至って初めて私はその本の印刷が継続されていないと言うことを知った。私はその印刷された校正紙を買ってそしてその本を読んだ。あらゆる意味においてそれは驚くべき本であった。
 その内容は全く正確にピピンによって記されている。ヘルチィッスキィの本質的思想は、キリスト教はコンスタンティンの時から権力と連盟する様になって、そのために全く抂(くる)められ、毫もキリスト教ではなくなったと言うのである。ヘルチィッスキィがこの本を『信仰の網』と呼んだのはその標語を、人を漁る者となれと言う弟子の召命について語った福音書の言葉にとったからである。彼はその比喩をつづける、そして言う、『彼の弟子を通してキリストは彼の信仰の網の中に全世界を捕らえた。しかし大きな魚がその網を破って逃げてしまった。そして大きな魚によって造られたその穴からしてすべての小さな魚も逃げてしまった。かくして網は今ほとんど空虚である。』
その網を裂いたより大きな魚とは『権威者』である、皇帝である、王である、法王である、彼等は彼等の権力を拒否することなくして、キリスト教をでなく、ただその仮面を受納れたのである。
 ヘルチィッスキィは無抵抗のメノナイツやクエーカァや、ずっと以前にはボゴマイルスや保護派やその他のものによって教えられ、また今も教えられているのと同じ教理を教える。キリスト教はその信徒に柔和と謙遜と温順と毀害の赦しと、右の頬を打たれたならば左の頬を向けることと、敵を愛することとを要求する。それ故にそれは権力の本質的条件である暴力によって打ち勝たれないと彼は教える。
ヘルチィッスキィに従えばキリスト者は治者になることも出来ねば軍人になることも出来ない、また、彼は政府者の仲間入りをすることも商人になることも、地主になることすらも出来ない、彼はただ工人もしくは労働者たり得る。
これはその焔を失ってしまった職業的キリスト教を拒否した僅かなる古本のうちの一つである。この種の本のすべては異端的だと称ばれた。そしてその著者もろともに焼かれた。今では職業的キリスト教の曲解を示すところの極めて僅少なる古本が残って居る。この理由によってヘルチィッスキィの本は特別に興味がある。しかしそれが示す興味の外に人がどんな風にそれを見ようとも、この本は最も価値のある思想の産物である。その意の深さにおいても、その古さにおいても、また通俗的な言葉の異常な力と美とにおいても。しかもこの書は四世紀の間も印刷されなかった。そして今も尚ある少数の専門的学者の外には知られていない。
我々は我々の世界はキリストの教訓を抂(ま)げてしまうと言う福音書の証明を肯定し証拠だてるところのクエーカァやガリソンやバローやヘルチィッスキィなどによって書かれたこの種の本のすべては――すべてこれらの書物は興味と興奮とを喚起しただろう、――僧侶の間にもその群の間にも議論を喚発さしただろうと考えるだろう。我々はまたキリスト教の本質そのものを取扱ったこれらの本は解剖されて真理として認容されるかもしくは拒否され非難されるだろうと考えるであろう。
ところがその種の何事も起らなかった。同じことがこれらのすべての書物に起った。最も意見を異にした人々、信者たちも――もっと驚いたことには――信仰しない自由思想家たちも共に、執拗なる沈黙を守ることに一致したように見える。そしてキリストの教訓の真の意義を説明せんとして人々のなしたすべてのことは忘れられ、もしくは知られずして残された。
更らに驚くべきは、私が私自身の本にまでの引証によって始めてその存在を知った二つの本に関しての無智である。それは1824年に初めてロンドンで出版されたダイモンドの『戦争論』と言う本と、一八六四年に出版されたダニエル・ミユツセルの『無抵抗論』と言う本とである。これらの本の世に知れないと言うことの特に不思議なことは、その功績を別として、両方とも、単に無抵抗の理論ばかりを取扱ったのではなくて、主として、人生にまでの実際的適用、即ち、現今、一般的徴兵制度のために特に興味をひいて居り、また重要であるところのキリスト教と軍隊奉仕との関係を取扱っているからである。
問題は置かれるであろう。戦争は彼の宗教と相合わないと信じているが、彼の政府が彼に軍隊奉仕を分担せよと命ずる時、臣民は如何なる義務を有するか。
この問題は非常に大切である。そしてそれに対する答は一般的徴兵制の今日においては特に本質的である。一切の、もしくは大多数の人々は、キリスト者である。そして全ての男子は軍隊奉仕に召命されている。人はキリスト者としていかにこの危急存亡の秋に処すべきであるか。ダイモンドの答はこうである。
『彼の義務は、柔和にしかも断乎としてその奉仕を拒むことである。ある人々は、何等の特別なる理由なしに、単純に、政府の行動に向っての責任はそれを指導する者にのみ存するとか、あるいは、政府及び君主がその人民のために何が美であるか何が悪であるかを決定するので、人民の義務はただそれに服従することであると決定してしまう。私は、この種の議論はただ、人々の良心を惑乱するものであると考える。私は政府の会議には列しない。それ故にその罪悪には責任がない。実際我々は政府の罪悪には責任がない。しかし我々は我々自身の罪悪には責任がある。そして政府の罪悪はまた我々のものとなる。もし我々にして政府それ自身が罪悪であるのを知りながらそれを実行するのを扶ける時には。政府に服従するのが彼等の義務であって、彼等の行う罪悪の責任は彼等からその治者に置き換えられると考えるものは自ら決定する。』
『人々は言う。我々は我々の行動を他人の意志に委ねる。それ等の行為は善でもあり得なければ悪でも有り得ない。それ等は徳性に向っての功績をもつことも出来なければ、悪に向っての責任をもつことも出来ない。何故ならばそれ等は我々の意思に従ってしたのでないから。』
兵卒がその心情によって学ばしめられる方向においても同じことが言われて居るのは注意すべきである。指揮官のみが彼の命令の結果に責任があると言われて居る。しかしそれは本当でない。人は彼の行為に対する責任から逭(のが)れることは出来ない。それは次の引用から見られる。
『もし汝の優秀者が汝の隣人の子供を殺すことや、汝の父もしくは母を殺すことを命ずるならば、汝はそれに従うか。もし汝が従わないなら、その時こそその全ての議論は立たない。何となれば汝がある場合において汝上官に従わないことが正しいなら、何処に汝の服従の制限があるか。そこにはキリスト教によって示されたのより他に制限がない。そしてこの制限は合理的であると共に実行的である。それ故に我々、戦争がキリスト教と一致しないと言う事を信ずるすべてのものの義務は――柔和にしかし断乎として軍役を拒むことである。こんな風に行動する機会をもって居るものは、大いなる義務が彼等の上に置かれて居ると言うことを心にとめねばならぬ。彼等の信仰にまでの忠実からして、それが人々の力のうちにある限りは、人類の平和なる未来が出て来る。彼等をして彼等の信仰を告白せしめ、そしてそれに依頼せしめよ、――ただに言葉においてのみならず、もし必要ならば受難においても。もし汝にしてキリストが虐殺を禁じたと信ずるならば、然らば汝をしてその仲間入りをさそうとする人々の議論をも命令をも信ずるな。汝が断乎として暴行に参与する事を拒否することによって、汝は汝自身の上に之等の言葉をきいてそれを履行する人々の祝福をよぶであろう。そして世界もまた汝を人類の更生に寄与せるものとして尊崇するに至るであろう。
ミユツセルの書物は1864年に書かれた、そして『無抵抗確説』もしくは『キリストの王国とこの世の王国との分離』と題されて居る。この本はアメリカの国内戦争の際にアメリカ政府によってなされたる兵役招集に関して意見を述べたもので同じ問題を取扱って居るのである。しかしそれは完全に今日に適用することが出来る。そしていかにして又如何なる条件のもとに人々は兵役を拒み得るか、また拒まなければならぬのかと言う問題を解決する。序文で著者は言う。
『よく知られて居る様に、合衆国には良心的に戦争を拒む多くの人々がある。彼等は無抵抗もしくは無防禦キリスト教信徒と称ばれて居る。彼等は彼等の国を防禦することを拒む。よし国家によってそれを成すべく要求されても彼等の政府の敵に対して武器をとり戦うことを拒む。今日に到るまでこれらの宗教的狐疑者は官憲によって尊敬された。それを確説するすべての人々は兵役を免除された。しかし今は国内戦争が始まってから此方、与論はこの処理法に反対した。彼等の国の防御のために戦争の危険と窮乏とを忍ぶことを彼等の義務と惟っているものは、自然と、長い間政府の利益と保護とを受けて居りながら、今や欠乏と危険の時において、その防禦の欠乏と危険とに参与することを拒むものに対して憤恚を感ずる様になった。かかる人々の地位が不合理であり怪異であると思惟せられ、そして猜疑の目をもって見られるのはむしろ当然である。』
『多くの演説者及び記者たちはこの規定を非難した。そして実際的証拠からも、聖書の証明からも、無抵抗の誤謬を証明しようと試みた。それは極めて自然な事である。そして多くの場合において彼等は正しい――兵役の困難事を拒否するが、政府から得た利益を拒否しない人々に関しては正しい――しかし無抵抗の原理に関しては正しくない。』
著者は先ず無抵抗の命令は明白である、そして偽釈解の出来ない様にキリストに与えられている故に、あらゆるキリスト者はこれを守る義務があると言うことを証明することによって彼の書を始めて居る。
『神に従うよりも人に従う方が正しきか汝自ら考えよ。』とペテロもパウロも言って居る。同じ様にまた、キリスト者たらんと欲する者は誰でも兵役の要求についても考えねばならぬ。何故ならばイエスは言った。『暴力をもって悪に敵するなかれ』と。
著者はその原理そのものに関してこれを結局的だと惟って居る。しかしここに今一つの問題がある。それは政府の暴力によって得られたる利益を拒否しないものが兵役を拒否するの権利があるか何うかと言うことである。この問題は遂に著者によって取扱われた、そして彼はこう言う結論に到達した様に見える、即ち、もしキリストの教訓に従うキリスト教者にして戦争に行くことを拒むならば、如何なる国家的規定――法廷選挙等の――にも参与することが出来ない。また彼の個人的事情においても権威者や警官や行政官等に頼ってはならない。更らに進んで著者は旧約と新約の聖書の関係や、非キリスト者に対する政府の意義を考察し、無抵抗に反対する議論を述べ反駁している。彼はこの書をかくのごとくに結論する。
『キリスト者は政府を要しない。それ故に彼等はキリストの教訓に反する何物にも服従する事は出来ない。更らにまたそれに参与する事が出来ない。』
『キリストは彼の弟子をこの世から選んだ、彼等は世俗的利益も世俗的幸福も期待しない、――彼等はただ永遠の生命を期待する。その中に彼等を住まわして居る精神は彼等をして人生の如何なる境遇の下においても満足せしめる。世がもし彼等に寛容であれば彼等は常に満足する。もし世が彼等を平安に住まわしめないならば、彼等は他の住所を見出す。何となれば彼等はこの地上においては異郷のものであって何等定まりたる家がないからである。死にたるものが死にたるものを葬る。しかし彼等にとってただ一つの必要なるものがある――それはその教師に従うことだ。と言う事を彼等は信ずる。』
戦争に関するキリスト者の義務についてこれら二つの書物の何れの中にも与えられたる定義の、正であるか正でないかの問題を取扱わないとしても、人は提出されたる問題の実際的重要と、その答えの非常に必要であると言う事を見ないでは居られない。
許多の人々は――幾十万のクエーカァ信者、メノナイト、我国のドウホボール、モロカン、その他特殊の宗派に属さない多くのもの――すべてこれらのものは暴力を、それ故に兵役を、キリスト教と一致しないものだと思惟する。毎年毎年、ロシアではその宗教的信仰の根拠からして兵役を履行することを拒む多くの男子がある。政府は何をなすか。それは彼等をゆるすか。否、政府は彼等を強制するか、そしてそれに抵抗する時には彼等を罰するか。否、一人々々には次の様な風に行った。これはムーラブィエーフ・カアスエイの日記である。検閲官によって禁ぜられた、ロシアではほとんど知られて居ないところの。
1818年10月2日。ティフリス、
今朝指令官は自分に告げて、タムボーフ県の地主に属する五人の百姓が近頃グルーシアに送られたと言った。これらの人々は軍人として入ったのであるが勤務を拒んだのである。彼等は幾度も幾度も鞭打たれ格闘をさされたが、奉仕からのがれんがために、最も残酷なる苦しみにも死にも容易に自らをわたした。「私達を去らして下さい。」彼等は言う「私達を害さないで下さい、私達は誰をも害しはしません。人は皆平等です。皇帝も丁度私達は彼に租税を払わねばならないのでしょう。なぜ私は私に少しも害したことのない人を殺すために戦争に行って私の生命を危険にさらさねばならないのでしょう。あなた方は私をずたずたに切りきざむことが出来ます。しかし私は私の心を変えません。私達は制服を着ません。また会食の席にも座りません。私達を哀れむものは私達に慈善を与えるでしょう、しかし政府からは私達は何者をも受けたことがなく、また受けようとも思いません。」これらは、ロシアにはまだこの種のものが沢山あると言った百姓たちの言葉である。彼等は四回、大臣委員会にまでとりあげられた、そして最後にはその事情を皇帝にまで申告された。皇帝は彼等を矯正のためにグルーシャに送ることを命じた。そして司令官に、これらの百姓を正当なる精神狀態に持ち来すべき過程に関して月々報告すべきことを命じた。
これらの改善の結果は知られていない。いやこの全挿話は全く知られていない。なぜならそれは非常に秘密にされたから。
それが政府が75年前に行ったことである。それが何時でも人民には注意して秘してはあるが多くの場合において行われたことである。今も尚同じ風に行われて居る。ただハアソセ県に住んで居るドイツ人のメノナイトだけは、その兵役拒否を価値あるものと認められ、兵役の代りにその間林務官として勤めることを許されて居るのみで。
宗教的根拠からして兵役を拒否した近頃のすべての事件においては(メノナイトを除いて)政府は次の様に行った。――それは先ず、『義務不履行者を改善して正常なる精神狀態に持ち来さん』がために現代において許されたあらゆる方法の暴力を行うことより始められ、そしてそれは、総てこれらの行動を最大秘密の中に保って置く。私は1884年にモスクワにおいてされた一つの兵役拒否事件を知って居る。その時には、山の様な文書が積まれ、全事件は最大秘密のもとに大臣の手に保たれた。
第一歩は祭司にその犯人を送るのである。すると祭司は破廉恥にもその義務不履行者を責める。しかしキリストの名においてキリストを拒否せしめんとする勧奨は常に不成功に終る。そこで彼の霊的牧者の訓戒の後に、犯人は憲兵隊に送られる。しかし憲兵隊ではその事件のうちに何等政治的意義を含んでないのを見て、彼を送りかえす。それから後彼は科学的医師をして癩狂院にと送らせる。こうしてあちこちに送られている間じゅう、犯人はまるで罪の宣告を受けた罪人かの様に、その自由を奪われ、あらゆる種類の侮辱と苦悩とを蒙らされる。(これは四つの事件において起こったことである)医者たちはこの犯人を癩狂院から出してやって、続き続いて秘密なそして狡猾な手管をはじめる。その人を開放しないようにも、――そうすると他の者をして、兵役を拒んだ彼の例に倣わしめる恐れがあるので――他のものをして、彼から兵役は彼等が教えられたごとくに神の律法に一致したものでなく反ってその反対であると言うことを学ばしめない様に、彼を他の兵卒の間にとどめて置くまいとして。
政府にとって最も便利な処置は犯人を殺してしまうことであったろう。彼を死に至らしめるまで打つか、あるいは古のある他の方法を試みることである。しかし我々すべてが信ずると告白している宗教に忠実である故でもって、人を大っぴらに死刑に処することは不可能である。同時にまた服従することを拒んだ人をそのままにして置く事も出来ない。そこで政府は苦悩によってキリストを拒否せしめる様にしむける。あるいは然らずんば彼を公然と処刑することなくしてある目立たない方法で免じてやる。そして何等かの方法で世界の目からその人を、またその人の行為を、隠さんことを務める、ここにこの人を苦しめんがために色々の手管や工夫が後へ後へと始められる。彼は国境の県に追放されるか、あるいは服従しないように怒らされ、かくて訓練に従わないと言って罪を宣告せられて獄に投ぜられたり懲治隊に送られるかする。――そこでは彼は全く、無罪と幽居とでもって苦しめられ得る。――あるいはそうでなかったら精神異常として癩狂院に閉じ込められる。たとえばある者はタシュケント隊に転役さすのだと言う口実でタシュケントに追放された。他のものはオムスクに追放された。今一人は不従順のために試練に会って投獄された。今一人は癩狂院に送られた。
それは何処へ行っても同じである。当に政府ばかりでなく、自由思想家の大多数もまた、最も恐るべき残虐なるそして腹立たしき形式に於ける暴力が――如何なる時においても殺人を行う用意のなって居る軍国主義――当にキリスト教と一致しないと言う事を拒否するばかりでなく、社会が服従して居るがごとくに見せかけて居る単なる人道主義とさえも一致しないと言うことを拒否せんがために今まで言われ、書かれ、行われた一切の事を慎重にまげてしまう。
かくて私が(一)キリストの教訓の意義の了解に向ってなされたところの、また今もなされているところの事に関して、(二)このキリストの教訓の説明と実現との事業に対してロシア並びに欧米諸国の高位の支配階級の態度に関して、私の得たるすべての報告は私をして、これらの支配階級の中には、真のキリスト教に意識的に反対する、精神及び主としてすべてのキリスト教的顕現を抑圧し隠蔽せんとする事に表される精神の存することを確信せしめた。
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