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トルストイ「禁酒論」4-6完

トルストイ 『禁酒論』

然し葡萄酒や煙草を程よく使用する事から起る些細な麻酔のような僅かな――些細な――變化が、重大な結果を生み出す事があり得るであろうか?『若しも人が阿片やハシシュを喫み或いはぶっ倒れて感覺を失う程酒に酔っ佛うならば、勿論その結果は酷いものであろう、然し僅かにホップスや煙草の影響を受けている人には、それの結果は確かにひどいものではない』とは、一般に云われているところのものである。少し許りの麻酔や少し許りの判断力の麻痺は、何等の重大な影響を及ぼさないものであるように、人々には見える。然しそう考える事は、恰も石に打ちつけると時計を傷めるかも知れぬがその中に埃りを入れるのは一寸も害にならないと想像するようなものである。
然し人間の一生に及ぼす主要な仕事は、手や足や又は背でなされる仕事ではなくして、意識によってなされるものである事を記憶するがいい。足や手で何事かをしようとする人にとっては、先ず或る變化が彼の意識内に起らなければならない。そしてその變化が、人間のそれに基づく一切の運動を規定するものである。而もその變化は常に微妙で又認識し難いものである。
プリューロフ(露西亜の名畫家一七九九-一八五二)が或る日一人の弟子の習作を訂正した。その訂正された繪を一目見た弟子は叫んだ、『なぜ貴方は微細な點にしか御觸れにならないんですか、そんなものは全く問題にならぬではありませんか。』プリューロフは答えた、『藝術は些細な點から始まるものだ。』
此の言葉は單に藝術に關してだけではなく、凡ての生活上全く本當の事である。人は眞の生活は、些細な點の始まるところから――我等に取って小さく見えるところのもの、及び無限に小さい變化の起こるところ――初まると云っても差支えがない。眞の生活は大きい外的變化の起きるところ――人々が動き廻り、敵對し合い、相戦い、殺戮し合うところでなされるものではない、がそれは唯此等の小さい小さい無限に小さい變化の起きるところに於いてのみなされる。
ラスコーリニコフ(ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公)が眞の生活を生きたのは、老婆及びその妹を殺害した時ではない。かの老婆自身を殺害した時、時特に彼女の妹を殺害した時、彼は眞の生活を生きていなかった、が然しせずにいられなかった事をしながら――長い間籠めて置いた弾丸を發射しながら、機械のように行動したのである。一人の老婆は殺された、も一人の女が彼の前に立った、斧は彼の手中にあった。
ラスコーリニコフが眞の生活を生きたのは、彼が老婆の妹に逢った時でなくて、彼がまだ一人の老婆も殺さず、又殺す目的で他人の住居に這入り込みもせず、斧を手にせず又オバコオトの下に物を吊す輪を附けなかった時――彼が少し老婆の事だとか、一人の人間が他の、不必要な有害な人間を地球上から拭い去る事は、許さるべき事であるかどうかと云う事に就いて考えを巡らさずに、ペテルブルグで住むべきであるかどうか、母から金を受け取るべきであるかどうかと云う事に就いて、其他老婆に少くも關係のない問題に就いて考えを巡らしていた時に於いてである。やがて――全く動物的活動とは離れた領域に於いて――老婆を殺そうか殺すまいかの問題が決定された。その問題は―― 一人の老婆を殺してしまって、今一人の女の前に斧を手にして立った時に於いてではなく――何もしていない時で唯物を考えていた時に於いてであった、唯彼の意識が活動して居て、そしてその意識の中で、小さい小さい變化が行われつつあった時に於いてであった。人が起って來た問題を明瞭に決定するために最大の明徹さを要するは、斯様な時に於いてである、そして一杯の麦酒或いは一本の巻煙草が、問題の解決を阻害し、その決定を延ばしめ、良心の聲を抑止し、劣等な動物的な本性のためを図るために問題の解決を急ぐのは――ラスコーリニコフの場合のように――斯かる時に於いてである。
小さい小さい變化である――然しその變化に、最も大きい最も恐るべき結果が依存しているのである。人が決心を固めて行動を始める時に生ずるところのものからして、多くの物質的な變化が結果する、家や財産や人間の肉體は亡ぶであろう、然し人間の意識的に隱されているところのものよりも、より一層重大な事柄は、何も起こり得ない。起こり得るものの限界となるものは、意識である。
然し極く微細な意識の領域で起こる變化から、想像する事の出來ない重大な、無際限な結果が伴い起るものである。
私が今説いているところのものは、何か自由意志或いは決定論と關係あるように、推察しないようにして貰い度い。その問題に就いての論議は、私の目的とするものに取っても、或いは此の事柄に就いての他の人に取っても不要な事である。私は、人は彼の欲する通りに行動し得るか否かと云う問題(私の考えに依ると、此れは正確に述べられた問題ではない)を解決せずに、唯人間の活動は無限に小さい意識の變化に依って左右されるものであるが故に、(我等が自由意志の存在を認める認めないに關係なく)その結果として、我等は、丁度人が品物の重さを秤るべき秤機に注意を佛わなければならないと同じように、此等の微細な變化が起る状態に、特別な注意を佛わなければならぬと云うのである。我等は出来得る限り自ら及び他人を良心の正しい作用のために、必要な思想の明撤と緻密とを破壊しないような状態に、置くようにしなければならない。そして麻酔品を使用して良心の働きを妨げたり混亂せしめたりしながら、その反對の態度で行動してはならない。
何故ならば、人は精神的存在であると共に動物的存在であるからである。人は、丁度時計が、その針によって動かす事も重な歯車に依って動かされる事も出來るのと同様に、精神的本性に影響を與えるものに依って動かされもすれば、動物性器本性に影響を與えるものに依って動かされる事も出來る。そして恰もその内部の機械仕掛に依って時計の運行を調整するのが最もいい事であるのと同じように、又人も―― 一人の自我――その意識に依って最もよく調整されるものである。そして時計に於けると同様に、人はそれを以って最もよく内部の機械を最もよく動かし得るそのものに特別の注意を佛わなければならぬように、人に於いても亦、特に意識の明快と云う事だけに注意を佛わなければならない、即ち意識は全人間を最もよく動かし得るものである。此れを疑う事は不可能である、人は誰でもそれを知っている。然し自己自らを偽る必要が起って來る。人々は、自分のする事を正しく見せようと気づかう位には、意識が正確に働かねばならぬと云う事に心を使わない、そして彼等は知りつつ彼等の意識の適當な働きを阻害する材料を使用している。

人々は偶然にでもなく、また懶惰からでもなく、自分に元氣をつけようとしようとてでもなく、又愉快な事だからと云うのでもなしに、唯自分の衷の良心の聲を眩ますために酒を飲み又煙草を喫う。そして若しもそれが本當であるならば、その結果は非常に恐るべきものであるに相違ない! 實際、壁を垂直にするために錘規を使わず、又部屋の隅々を正確にするために三角定規にせずに、壁の如何なる凹凸にも當て嵌まる柔らかい錘規を用い、鋭鈍いずれの角にも當て嵌まる定規を用いた人々の建てた建物がどんなものであるかを考えて見るがいい。
だが、自己麻酔に感謝すべき事であるが、それと丁度同じ事が、生活に於いてなされつつある。生活は良心と一致しない、そこで良心は生活に適合するように曲げられる。
此れは個人の生活に於いてなされると共に、又個人の生活から成り立っている全體としての人類の生活に於てもなされているところのものである。
斯様な人間の意識を酔麻さす事の充分な意義を理解せんには、各人をして生涯の各時期に通って來たその精神上の状態を注意深く、回顧せしめるがいい。各人は彼の生涯の各時期に、或る道徳上の問題が襲って來て、それを彼が解決しなければならぬし、又その解決は彼の一生の幸福に關係するものである事を見出すであろう。斯様な問題を解決するためには、大きな注意力の集注が必要である。斯様な注意力の集注は骨折りである。斯く骨折りに就いて特にその手始めに際しては、仕事が困難でまた苦痛であるように見える、そして人間の弱點がそれを放棄する欲望を呼び起こさす時があるものである。肉體上の仕事は最初苦痛のように見える、更に心の上の仕事はそれ以上に苦痛に見える。レッシングが云ったように、人々は考える事が困難になり始めた個所で考える事を止める傾向がある、然し私は、正にそこに於いて考えが初めてものになり始める時であると附加えよう。人は彼を悩ます問題を解決するためには、勞力――屡々苦痛な勞力――が必要であるように感ずる。そして此れを塗り消してしまおうと欲する。若しも彼が彼の諸々の能力を麻酔せしめる方法を有していないならば、彼は彼を悩ます問題を彼の意識から削除する事が出來ないであろう、そしてそれを解決すべき必要が彼にのし掛かって來るであろう。然し人は、此等の問題が現れて來る時は何時でも、それを追い佛うべき方法のある事を發見する――そして彼はそれを使用する。解決を期待する問題が彼を悩まし始めるや否や、彼は此等の方法に逃げ場を求める、そして煩わしい問題の惹き起こす不安を避ける。意識はそれらの解決を要求する事を中止する、そしてその未解決の問題は次の覺醒の時迄その儘未解決のままで残る。然しその時が來ると同じ事が繰返される、そして人は數ヶ月間數年間、又はその一生の間でも、此等の同じ道徳上の問題の前で、一歩もその解決の歩を進める事なしにその儘でいる。而も道徳上の問題の解説のうちにこそ、生活の全運行が存在するのである。
その有様は、恰も貴重な眞珠を得るために或る泥水の底を見る必要のある人が、水に入るのを嫌って澄んで透明になる度にその水を掻き立てるのに似ている。多くの人々は一生の長い間、同じ一度受入れた漠然とした矛盾の人生観に――覺醒の時期が近づく度毎に、常に彼が十年または二十年前に打ちつかって、そして故意にそれを突き破る事の出來る思想の尖端を鈍らすが故に打ち破る事の出來ない同一の壁に身を打ち寄せて――動かずその儘で居残っている。
各人をして彼が酒を飲みまた煙草を喫んだ數年間の彼自身を追憶せしめよ、また彼をして他の人々に就いての経験中の事を検べしめよ、然る時各人は皆麻酔品に溺れている人とそれから自由な人との間に、一定の劃然たる區別の線のあるを見るであろう。人が自らを麻酔せしめればせしめる丈け、道徳的に無感覺になるものである。

阿片やハシシュの個人の上に及ぼす結果は、我等に明示されているように、恐るべきものである。我等が知っているように、アルコホルの飲酒家に與える結果は恐ろしい、然し無害であると考えられているもの、そして大多數の人々特に教育ある人々を溺れさせているもの、即ち酒精や葡萄酒や麦酒、又は煙草の適度の使用の、我等の全社会に及ぼす結果は、更に比較にならぬ位に一層恐るべきものである。
社会の指導的活動―― 政治上の、官廳、科學文學、御呼び藝術上の活動が――大部分變態の状態にある人々、酔っ佛っている人々に依って行われているという事実を容認せば、そしてそれは容認されねばならぬ事柄であるが、その結果は自然恐るべきものであるに相違ない。
多くの現代の富裕な人々のように、食事の度毎にアルコホール性の飲料を飲んで、或る人はその翌日仕事をしている時間の間は、完全に常態で又真面目であると云う事は、一般に考えられている事柄である。然しそれは全然の誤謬である。一瓶の葡萄酒一杯の酒精、又は三杯の麦酒を昨日飲んだ人は、今日は興奮の結果として起こる眠氣と氣欝の状態にある、そしてそれがために喫煙に依って増大される氣抜けの状態にある。習慣的に喫煙し又は適度に酒を飲む人が頭脳を平常の状態に回復さすためには、少なくとも一週間又はそれ以上の酒及び煙草の節制を要するものである。然しそれは起こった試しの無い事柄である。
故に我等の間に行われるとしての多くのものは、それが他人を司配し又は教育する人々に依ってなされようとも、または司配され教育される人々に依ってなされようとも、それをなす人が素面(しらふ)でない時になされているのである。
そして此の事は冗談とも誇大の言とも考えないでほしい、我等生活の混亂、わけてもその暗愚な事は、主として多くの人々が生活している絶え間なき酩酊状態から起るものである。果して酒を飲まない人々は、我等の周圍に行われている凡ての事柄――エッフェル塔の建築から兵役に服する事に至る迄――をなす事が出來るであろうか?
何等の必要もなしに會合が催される、資金が集められる、人々が働く、計算をする、図面を引く、勞働すべき數百萬の日數と數千頓の鐵とが、一つの塔を建てるために消費される、そして數百萬の人々は、その上に登って、一寸の間その上に立ち止まって、それから再び降りる事を義務のように考えて居る。まして此の塔を建て又それに登る事は、今一つの更に此れよりも大きい塔を他の場所で建てようとする考え以外何も呼び起こしはしない。果たして素面の人はそんな事が出來るであろうか? 或いは今一つの例を取って見よう。凡ての欧羅巴人は數十年の間、人を殺す最も良い方法を案出する事に忙しく又出來る丈け多くの人々に、彼等が成年に達するや否や、殺人の方法を教える事に忙しかった。各人は決して野蛮人の侵入のない事を知っている、然し此等の開化して基督教の諸國民のなす準備は、各自相互の間に向けられているものである事を知っている、各人は、此の事が重荷であり、苦痛であり不便で破滅的で不道徳的で敬虔な事で、又癪に觸る事であるのを知っている――然し凡ての者は相變わらず相互間の殺戮の準備をしている。或る者は如何なる同盟國と共に、誰を殺すべきかと云う事を決定するために、政治上の結合を案出する、他の者は殺人の方法を教えられつつある者を指揮する、そして今一つ他の者は、再び――彼等の意思に反し、良心に反し、理性に反して――此等の殺人の準備に身を任せる、素面のものは果して斯様な事柄が出來るであろうか? 未だ一度も真面目な氣持ちになった事のない酒呑のみが只こうした事柄をなし、又單に此の點に於いてのみならず他のあらゆる方面に於いて我等の社会の人々が生活しつつあるから、生活と良心との間の恐ろしき不調和の状態にあって、生活を續ける事が出來る許りである。
以前未だ一度も、私が考えるのに、人々は斯くまで明らかに彼等の行為と相反せる良心の要求の下に生活した事はなかった。
今日人類はいわば、固く棒立ちになってしまったようなものである。それは恰も、或る外的な原因が自然にその自覺と一致した位地を取る事を妨げている感がある。そしてその原因――たとえ唯一のものでないとしても最大のものである――は、酒や煙草に依って我等の社会の大多數の人々が、自らを任せている者の肉體上の麻酔状態である。
此の恐るべき弊害からの解放は、人類の生活上に一新紀元を劃するであろう、そしてその紀元は手近にあるように思われる。弊害は認められている。一つの變化は既に、麻酔品を使用する事に關する我等の知覺の中に起っている。我々は此等の品の恐ろしい害悪を理解した、そしてそれらを摘出しようとし始めている、そして此の殆んど認め難い知覺内の變化は、必然的に人類を麻酔品の使用より開放するであろう――彼等の眼をその良心の要求に向かって開かしめるであろう。そして彼等は彼等の生活を意識と一致して整頓し始めるであろう。
そして此の事は既に始まりつつあるように思われる。然し常にそうであるように、凡ての下級階級が既にそれに浸潤してしまった後に初めて、上流階級の間に始まりつつあるものである。(1890年・露西亜暦5月10日)
然し飲酒も喫煙もしない人々が、 屡々酒を飲み煙草を喫う人々よりも比較にならぬ位道徳的に低い地位にいるのは、どうしてであるか? 又飲酒喫煙をする人々が、屡々心の上にも又道徳上にも最も高い資質を現わす事のあるのは、何故であるか?
その答えは第一、我等は飲酒喫煙をする人々が、飲酒喫煙をしない場合に到達する高所を知らない。又第二に、道徳天賦の高い人々は、麻酔品の悪化にも拘わらず、偉大な事をし遂げるという事実からして、我等は唯單に、彼等が若し自身を麻酔せしめなかったならば、尚一層偉大な事柄をしたであろうと云う事を結論し得る丈けである。一友が私に話したように、若しもカントがあんなに多く喫煙をしなかったならば、彼の作品はこんなに奇妙に又よくない、形式の下には書かれはしなかったろうと云う事は、如何にもそうでありそうな事である。最後に、人間の心的並び道徳的標準が低ければ低い丈け、それ丈け彼の良心と生活との間の矛盾を感ずる事も少ない、又それがために、自身を麻酔せしめようとする欲望を感ずる事も少ない。そしてその一方同じ理由で、最も敏感な性質の人々――生活と意識間の矛盾を素速く又病的に感ずる人々――が屡々麻酔性のものに溺れて、それに依って死ぬ事のある理由をも説明する事が出來る。(トルストイ)
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