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トルストイ著「我等何を為すべき乎」1-10

我等何を為すべき乎
トルストイ著 加藤一夫譯 春秋社

齢50にして断然旧生活と別れを告げたトルストイが、彼の文学生活以上の偉大なる感化を全世界に及ぼした事は何人も既に知るところである。
この生活の回転機に於いて、新しい生活の基調を彼はどこに見出したのであるか。『我等何を為すべき乎』は実に、彼のこの心情の真相を伝えたものであって、彼の全著作中に於いても最も重要なるものの一つである。
一面は宗教的の情操から、他面は社会的の文明批評から、この書は実に生きた宗教の提唱であり、精神的方面を高調せる社会運動の指針である。蓋(けだ)しトルストイズムの真髄はここにありと言ってもよく、この書が世界に及ぼした感化の如何に偉大であったかは今更言うまでもない。
本書及び『我が宗教』はかつて洛陽堂から出版したものであるが、トルストイ全集が刊行されるに至り当時の洛陽堂主人河本龜之介氏の諒解を得て、同訳書の誤字誤訳を訂正した上同全集に編集したものである。
今度春秋社が全集の分冊を刊行するに当たり、この書もまたその一冊に加えられる事となった。
この書が尚一層多く世間に読まれることを今も尚余は希望してやまない。
大正12年2月
巣鴨宮仲にて
加 藤 一 夫


生涯の大部分を田舎で過ごした後、私はついに1881年にモスクワに住むようになった。そしてそこに来るとすぐ私はその市の貧民の状態のひどいのに驚かされた。私は田舎に於ける人民に就いてはよく知って居たが、都会に於ける彼等の実際の状態に就いては少しも知らなかったのである。
モスクワでは、世に謂わゆる『袋をもち、キリストの名によって』行くところの田舎の乞食とは全く類の異なったある特殊の乞食に遭遇しないで街を通ることは出来ない。
モスクワの乞食は袋を持ってもなければ、お布施を乞いもしない。彼等は君に遭ったとしても、多くの場合ただ君の眼の注意を惹こうとするばかりで、君の顔の表情の如何によってはたらく。
私はそんなものの一人である破産した紳士を知って居る。彼はその何れの脚でも苦しそうに跛を引きながら徐々と歩いて行く一人の老紳士であった。彼が君に会う時には跛を引いて、そして腰をかがめる。若し君にして止まるならば、彼はその前立ての就いている彼の帽子を取って今一度頭を下げ、そして物を乞う。若し君にして止まらねば、彼はただ跛者であるように偽って、そしてその歩行を続けて行く。
これは純粋なるモスクワ乞食の一標本であって、余程経験を積んで居る一人である。
最初私は、何故かかる托鉢者が明からさまに物を乞わないのかを知らなかった。しかし後に至って私は何故と言う事は無しにその理由を学び得た。
ある日私は、一人の警官が水気で膨れ上がって居るボロ着の一百姓馬を車の中に押し込んで居るのを見た。私は彼が何をして居たのかと訊いた。すると警官は答えて言うには、
『乞食をして居たんです』
『じゃあ乞食は禁じられて居るのかね』
『そうらしいね』と彼は答えた。その男の馬車が駆け出したので、私は別の馬車を雇ってその後を追った。私は乞食は実際に禁じられて居るのか、若しそうだとすれば何故禁じられて居るのかを知りたいと思った。私は、一人の人が他人に物を乞うことが何うして禁じられ得るのかを解し得なかった。のみならず私は、かかる程度にまで栄えて居る都会に於いて、乞食は果たして、違法だか何うだかと言うことを疑って居た。
私はその貧民が携え行かれた警察署に入った。そして剣と短銃とをもって武装してテーブルの前に座って居る一警官に何のために彼が拘引されたかを訊いた。
その男は鋭い目で私を眺めた。そして言った。
『そんなことを訊いてどうするのです』
とは言え、彼はある説明の必要なることを感じたと見えて、付け加えて言った『官憲はあんな奴を拘引しろと命じるのです。だからそれは必要なんでしょう』
私はそこを辞した。その男を連れて来た男は控え室の窓に腰をかけて彼の手帳を調べて居た。私は彼に言った。
『それは本当かね、貧乏人がキリストの名で施物を乞うことを許されてないと言うことは……』
その男は恰も眠りから覚めたかの様に起き上がって、私を見つめた。そしてまた無神経な無関心の状態に帰って、窓台にもう一度腰をかけながら言った。
『官憲がそれを要求するんです。必要なんです』
そして彼はまた彼の手帳に気を奪われてしまった。私は私の馬車の方へ階段を下りた。
『どうですね、拘留しましたかね』と業者は訊いた。彼は明らかにこの事件に興味を感じて居たのである。
『した』と私は答えた 。彼は彼の頭を振った。
『じゃあ、モスクワでは乞食をすることは禁制なんだね』と私は訊いた。
『どうですか』と彼は答えた。
『どうして』私は言った。『キリストの名で物を乞うものが拘留されるんだね』
『近頃じゃ時勢が変わりましてな、ご覧の通り禁制でさ』と彼は答えた。
その時以来、私はしばしば警官が貧民を警察署に引致し、そこから区役所へ連れて行くのを見た。実際私は一度、警官の前後に繋がれたほとんど30人の、これ等の哀れな人々の群れを見たことがある。私は彼等が何をして居たのかを訊いた。
『乞食を……』がその答えであった。
人々はどこの街ででも多数の乞食に会うのにも拘わらず、礼拝時間や葬式の行われる時分には、教会の近傍が乞食の群れをもって覆われるのにも拘わらず、法律に従えばモスクワでは乞食は禁じられて居るように見える。しかし何故あるものが捕らえられ拘留されて、あるものがされないのか。これが私には分からなかった。合法の乞食と違法の乞食がある為めなのか、または彼等を全て捕らえると言うことは不可能の為めなのか、あるいは又あるものが捕らえられてもすぐ他のものがそれに変わるようになる為めなのか。
モスクワには色々の異なった乞食がある。乞食を商売にして生活して行くものがある。或いは又どうかしてモスクワに辿り着いて、非常な窮乏にある真に困って居る人民もある。
この後者の間には疑いもなく田舎から来た男や女がある。私はしばしばその種のものに遭った。彼等の中のあるものは病気になったが、快くなって病院を出ても、自分を養っていく手段をもモスクワを引き上げる方法をも見出し得ないで居る。ある者はまたその外に飲酒の悪癖に陥って居る。(私の遭った水ぶくれの人の場合は丁度これであろう)ある者は健康だが家屋敷を焼いてしまったり、そうでなければ非常に年取った者や、寡婦や、子供を抱いた捨てられ女である。その他の者では、至極剛健で、全く労働に堪え得る者もある。
これ等の剛健な手輩は特に私の興味を引いた。――モスクワへ来てからこの方、私は運動のために雀が丘に行って、木を挽いて居た二人の百姓と一緒に働くのを常として居たので、一層そうであったのである。これ等の人々は全く、私がしばしば町で会う乞食のようなものであった。一人はピョートルと言ってカルウガから来た在郷軍人で、今一人はウラディミイルから来たシモンであった。彼等はその背に衣服を纏っている外何をも持って居なかった。彼等は非常に骨折って働いて一日に40コペック以上45コペックを儲けた。この中から彼等は幾分を貯蓄した。――カルウガの兵士は毛皮の上着を買わんが為めに、ウラディミイルの百姓は田舎の彼の家に帰るに足るだけの金を得んが為めに……。
これ故に私は同じような人民に街で遭うと、特別の感興を彼等に感じた。そしてあるものが働いて居るのに他のものが乞食をして居る理由がわからなかった。
こんな種類の乞食に遭う毎に、私はどうして彼等がこんな状態になったか訊ねるのを常とした。一度私は一人の強い丈夫そうな百姓に会った。彼は施しを乞うた。私は彼に、その誰であるか、どこから来たかを訊いた。
彼は仕事を求めてカルウガから来たことを私に告げた。彼は初め、古い木を挽いて薪とする様な種類の仕事を見出した。ところが、彼及び彼の同僚がその仕事を終えるや否や、別の仕事を不断に探したけれど遂に何をも見つけ得なかった。彼の仲間は彼を棄てて去った。そして彼は非常な窮乏に陥って二週間を過ごした。そして職を得るために所有品の凡ゆるものを売ってしまって、今や木挽に必要な道具を買うことさえ出来なくなって居た。
私は彼に鋸を買う金を与えた。そして働きに行くべきところを告げてやった。私は以前からピョートル及びシモンと一緒に、新しい働き手を迎えて彼等の仲間とするように準備して置いてあったのである。
『きっと来るんだよ、仕事は沢山にあるんだから』と別れる時に私は言った。
『来ますとも……』彼は答えた。『働き口があるのに、何で人の家の戸を叩いて乞食をしたいものですか』その男は厳密にその来るべき事を約した。そして正直であるように、また実際働こうとして居るように見えた。
翌日、私は私の友人、ピョートル及びシモンのところへやって来た時、その男がもう来ているかどうだかを訊いた。彼が来なかったことを彼等は言った。そして実際決して来ることはなかった、こんなことで私はしばしば欺かれた。
私はまた、家に帰るために切符を買う少しの金が欲しいのだと言って来る、しかも数日の後にまた町で逢うそれ等の人々によって欺かれた。私は彼等の多くを知るようになった。そして彼等も私を知った。時々私を忘れて同じ偽りを繰り返してきかすこともあったが時々は又私を知って逃げ去って行った。
こんな風にして、私はこの階級の人々の間にも多くの悪漢の存することを見出した。
しかも尚これ等の憐れむべき悪漢はまた、大いに憐れまるべき理由があった。彼等はすべて襤褸を纏った飢えた貧民であった、或いは新聞紙がしばしば我々に告げる生活を逃れんが為めに自ら縊る種類の者であった。

町に住んで居る私の友人たちに、彼等を取り囲んで居るこの貧民のことに就いてこのことを話すと、彼等は常に答えた。『なに、君はまだ何も知らないんだよ。若し純粋の『黄金中隊(ゴールデン・コンパニー)』を見たけりゃキトロフ街へ行って、そこの宿泊所を訪ねるんだね』
ある快活なる私の友人は、これ等の貧民の数が非常に増えて、もう今では『黄金中隊』どころではなく、『黄金連帯』を編成していると言うことを付け加えた
私の快活なる友人は正しかった。しかしながら若し彼が、これ等の人々が中隊と言わず、連隊と言わず。しかし全軍隊――私の判断によれば五万を算する一軍隊――を編成すると言ったならば、一層真理に近かったのである。
普通の市民は、市に於ける貧窮に就いて、私に正確な報告を成し得ることに、ある悦楽と誇りとを感じて居るように見えた。
私はかつてロンドンを訪ねた時に、そこの市民が、恰もそれが何か誇らしいことででもあるかの様に、ロンドンの窮民に就いてある満足を持って私に語って居るのに気づいたことを覚えて居る。
とは言え、それに就いて多く聞き及んだところのこの貧民を視察したいと思って、私はしばしば、キトロフ街の方に向かって足を運んだ、だが、その度毎に私は苦痛と羞恥との感じに打たれた。『何故お前は、お前の救うことの出来ない人々の悩みを見に行かなければならないのだ。』と私のなかの一つの声は言った。『若しお前がここに住み、そして都市生活の凡ゆる歓楽を見るならば、行ってその浅ましい事実を見よ』と他の声は答えた。
かくて私は、2年前、12月のある風の吹く冷たい日、街の貧民窟の中心であるキトロフ街へ行った。
それは日曜以外のある週日の午後4時頃であった。まだそこまでにはかなり遠いあたりからして既に、初めから彼等のために作ったのではない事の決まりきった奇妙な着物を着た人々が段々と増えて来るのに気がついた。更に奇妙な靴を彼等は履いて居た。そして特異な不健康な容貌をして居た。彼等はまた明らかに彼等を取り巻いて居る一切のことに全く無関心な態度をとって居た。
最も奇態な最も不格好な着物を着て居る人々は、彼等が人の目にいかに映ずるかなどと言うことには寸毫の頓着もなくぶら就いて(ヽヽヽヽヽ)居た。彼等は全て同じ方向に向かって進んで居た。私は私の不案内な道を訊ねることもなく、彼等に従って行ってキトロフ街に来た。
そこで私はまた、同様に敗れた肩衣や、粗末な上衣や、短袗や、木靴をつけた女たちを見出した。彼等の服装は珍奇で奇怪だったのにも拘らず、これ等の女たちは、その老いたると幼きとを問わず、極めて自由な闊たちな態度で、座って居るものもあれば商いをして居るものもあり、ぶら就いて居るものもあれば、あるいはまたお互いに罵り合って居るのもあった。
市場はもはや明らかに終わりかけようとして居る様であった。そこにはもはや、多くの人は居なかった。そして彼等の中の大概のものは市場を過ぎて、同じ方向へ丘に登って行った。私は彼等に従いて行った。
私が益々前方へ行けば行くほど、一つの途に流れ込んで来る人並みが益々多くなって来た。市場を過ぎ街道を登ったところで、私は二人の(一人は年寄りで、一人は若い)女に蹤いて行って居るのを知った。2人とも同じ灰色の破れた着物を着て居た、歩きながら彼等は何か商売上のことで話し合って居た。
何を言っても必ず間違いなく、ある卑猥な言葉が伴った。彼等のうちのいずれも別に酒を飲んで居るのではなかった。ただ自分たちの仕事のことに気を奪われて居るのであった。過ぎ去る人々も、彼等の側に居る者どもも、私にはそんなに不思議に響く彼等の言葉に少しの注意をも与えなかった。それはこの辺の一般の話し方であるように見えた。我々は左側に数軒の私立宿泊所を見て通ったが、群衆のある者はその中に入った。その他のものはある大きな角家の方に向かって小山を登った。私と一緒に歩いて居た人民の多くはこの家に這入った。その家の前で皆同じ種類の人々が人道の上の雪の中に立ったり座ったりして居た。
入り口の右側には女たち、左側は男たち。私はその男たちの前を通った。そして女たちの前をも通った。(皆で5、600もあったろう)そしてその群衆の終わったところで立ち停まった。
この建物は『リアピンスキー無料宿泊所』であった。群衆は中に入れてもらうのを待っている泊まり客で成り立っていたのである。夕方の5時にこの家は開かれて、群衆は入ることを許されるのである。私の蹤いて来たほとんどすべての人々はここまで来た。
私は人民の行列の終わって居るところに立ち停まって居た。私に近いところに居た者共は、私が彼等を見つめるまでは私を眺めた。彼等の肉体を覆って居る裂け残りの着物は色々の風をして居た。しかし彼等すべての者の眼の表情は一様に、『何故お前は、他界から来たお前は、我々と一緒に止まって居るんだ、お前は誰だ。お前は我々の窮乏を見て喜び、気晴らしにお前の閑をつぶし、そして我々を嘲笑したいと思って居る何不足ない富豪か。しかも尚、存在して居ない、また存在することの出来ない、――我々を憐れむ人か』と言って居るように見えた。
すべての者の顔に同じ質問が書かれて居た。みんなが私を見た、そして私の眼と行き合うと他所を見た。
私は彼等のうちの誰かと話したかった、けれど長い間私は勇気を呼び起こすことが出来なかった。とは言え、我々のお互いの瞥見は、お互を紹介した。そして我々は、たとえこの世に於ける我々の位地がそんなに広くかけ離れて居るとは言え、なんと言っても我々は同胞であるのを感じた。そしてお互いに恐れることを止めた。
私に隣して、一人の赤髭の、顔の腫れた百姓が立って居た。彼は列氏8度の寒さにも拘らず素足に木靴を履いて居た。3、4度我々の目は行き合った。私は最早彼に話しかけるのを恥と思わないほど、彼に引きつけられたのを感じた。(話しかけるのを制するのこそ真の恥であろう)どこから来たのかと、私は彼に訊いた。
群衆が我々の周囲に集まって来る間に、彼は熱心に私に答えた。彼はパンを買い税を払い得んが為めに仕事を求めてスモレンスクからやって来たことを言った。
『近頃は何もする仕事は御座いません』と彼は言った。『兵隊がみんなとりあげてしまいましてな、で俺はここで人の家の門口に立って居るんです。けれど何をかくしましょう、俺はこの二日間何ひとつ食べやしないんです』
彼はこれを、笑顔を作ろうと努めながらおずおずと言った。温かい飲み物の販売人、一人の老兵士が近所に立って居た。私は彼を呼んだ、そして彼の為めに一杯注がした。百姓は彼の手に暖かい器をとった。そしてそれを飲む前に、貴重な熱を少しも失わないようにと、コップで手を温めた、そしてそうしながら彼は私と話した。
これ等の人民の冒険、少くても彼等の告げる談話は常に同じであった。彼は小さい仕事を持って居た、次にそれを失った。そしてこの安宿で、金と旅券とを入れてあった財布を盗まれた。それ故に彼はもうモスクワを去ることが出来ないのである。
彼は私に告げて、昼間は飲食店で彼に与えられるパンのかけらを食べながら自分の身を温めることから、ここのリアピンスキー安宿には無料で泊まることなどを言った。
彼はただ、警部が巡行して来て、彼が旅券を持って居ないという件で拘留され、そして彼と同じ境遇にある人々と一緒に、徒歩で彼の郷里に送り還される時を待って居るのであった。
『木曜には検視があると言うことだから、その時にゃふんづかまる(ヽヽヽヽヽヽ)べぇ。そんだから俺はその時までどうしてでも持ちこたえねぇじやなんねぇんです』(監獄と強制旅行とは、彼には『約束の土地』の様に見えたのである)彼が話してる間に、群衆の家の2、3人のものが、彼等もまた全く同じ境遇に居ることを語った。
肩のあたりが裂けたたった(ヽヽヽ)一枚のシャツを着、頭には破れた帽子を被った一人の痩せた青白いそして鼻の高い青年が、群衆を推し分けて私の方へやって来た。彼は始終大震えに震えて居たが、私の注目を惹いた時に、彼の優秀を示すつもりか、百姓の話しを嘲り笑おうとした。
私は彼に幾らかの飲料を与えた。
彼もまた百姓がしたように大コップで手を温めた。ところが彼がやっと話しかけようとして居ると、薄いシャツと胴衣とを着けた一人の、大きな黒い鉤鼻をした、そして帽子を被らない男が肩で推しわけてやって来た。彼もまたいくらかの飲料を乞うた。
次には、外套を着て、それを腰の辺りに紐でしめ、編靴を履いた一人の丈高い老人が幾らかを乞うた。彼は酔って居た。
やがてまた一人の小さな男がやって来た。彼は腫れた顔と涙ぐんだ目とをもって居た、そして粗末な鳶色の短衣を着、寒さにぶるぶる震えて居る膝が露出して居る破れたズボンを履いて居た。彼はコップを持って居ることが出来ないほど震えた、そしてその飲み物を彼の着物の上にこぼした。他のものは彼を罵り始めた、しかし彼はただ悲惨にせせら笑いするばかりで相変わらず震えて居た。
彼の次に一人の醜い不具の男が、襤褸を纏い跣足(はだし)でやって来た。次には官吏風の男や、僧侶らしい男や、鼻のないおかしな男などが――彼等の全ては飢え凍えて居た。そして嘆願し謙遜した――私の周囲にやって着て、手を出して乞うた。しかしもう飲み物はなくなって居た。すると今度は一人の男は私に金を乞うた。私は幾許か彼にやった。第二第三と続いてやって来た、遂には全群衆がみんな私の周囲に押し寄せて来たまで。こうした混乱の最中に、隣家の門番は彼の前の舗石から立ち去れと叫んだ。すると彼等は従順にそれに聴き従った。
彼等のうちのある者はこの混乱を防ごうとした。そして私を庇おうとした。彼等は私が圧しつぶされないように私を引き出そうと努めた。しかし前には舗石の上に長い列をなして居た群衆は今や私の周囲に押し寄せて来た。誰も彼も私を見て施しを乞うた。そしてみんな来る度に他のものよりはもっと哀れで、困って居て、下劣であるように私には見えた。私は自分の持って居た丈けの金をみんな分けてやった――ほんの20ルーブル位だが、そして群集と一緒に宿泊所の中に入った、家は大きかった、そして4つの部分に分かれていた。上層の方は男子の室で、最下層が女の室であった。私はまず女の寝室に行った。――三等汽車に備え付けられたような寝台で一杯になって居る大きな室。それは上段と下段との二段に並べられてあった。
短袗も着ず、ボロボロの着物を着た妙な風をした老若の女たちは、中に入って来て、あるものは上段にあるものは下段にその位置をとった。年上のある者はこの避難所の建設者の名を唱えて自ら十字をきった。あるものは笑いそして誓った。
私は上層に行った。ここでも同じように男子がその自分の場所を取って居た。彼等のうちに私は私が金をやった一人の者を認めた。その男を見ると、私は急に慄然とするほど、恥ずかしく感じた、そして急いでそこを去った。
そして何か罪を犯したと言ったような感じに襲われながら、私は家に帰った。絨氈を敷いた階段を登って、毛氈を敷き詰めた室に入った。そして私の毛皮の上衣をとって、白いネクタイを着け白い手袋をはめた、揃いの着物の二人の従僕に仕えられて、五品の料理の食膳に着いた。過ぎ去った時の光景が突如として私の目の前に表われた。30年以前、私はパリで、ある人の頭が、幾千の見物人の前で、ギロチンの下に斬落とされるのを見た。私はその男が大罪を犯して居るのを知って居た。私は斯かる罪悪に対する死刑の正当を主張する議論はよく知って居た。私はこの死刑の執行が慎重に行われるのを見た。しかしながら、その頭と胴とが鋭い刃によって互いに別たれた時、私は私の生存の全神経に於いて、私が今まで死刑に就いて聞かされた凡ての議論が全く善くない虚言であるのを知った。たとえ如何に多くの人がその合法であることに同意しても、それは文字通りに殺人である。人はそれにいくら他の名義を付けようとも、彼等は斯くして、殺人を、罪悪のうちの最悪の罪悪を、実際に行なったのである。そしてそこで私は、私の沈黙と無干渉との故に、その罪悪の補助者であり奨励者であり協力者であったのである。
今やその同じ確信が、幾千の私の同胞の悲惨と飢寒と屈辱とを見た時に、再び私の心頭を襲った。モスクワには斯かる幾千の悩める者があるのに、私は千人中の他の十人のものと一緒に、凡ゆる種類の贅沢なる美食に飽き、私の馬をこの上なく愛撫し、そして私の凡ゆる床を天鵞絨の毛氈をもって飾って居るのだと言うことを、私は、単に私の頭脳を持ってではなく、私の霊魂の各鼓動をもって確認した。
世の中の賢者学者がそれに就いて何を言おうと、人生の進路は変更することが出来ないように見えようとも、同じ害悪は不断に行われて居た。そして私は、私の贅沢の習慣によって、その害悪の拡布者の一人であった。
この二つの場合の間に於ける差異はただこれ丈けである。即ち第一の場合では、私の成し得る凡てはたとえ私の干渉が全く無効であるのを知りながらも、断頭台の側に立って、死刑を執行しようとして居る殺人者に向かって叫び出すと言うことである。だがこの第二の場合では、単に少しばかりの飲み物や私の持って居た僅かばかりの金を与えるばかりでなく、上着を私の肩からとり、そして私が家に於いて持って居る凡ゆるものをやって終い得ると言うことである。しかも私はそれをなさなかった。それ故に私は他のものが食うものもない時に沢山の食べ物を持ち、一つの上着も持たない者がある時に私自信が二つを持って居る間は、自らを不断に行われて居る罪悪の共犯者であると感じないでは居られなかったのである。今も感じて居るのである。そして今後と謂えども決してそう感ずることを止めないであろうう。

リアピン宿泊所から帰ったその晩、私は私の感じをある友人に話した。すると彼は、都市居住者の一人である彼は、幾分誇らし気な調子で、それは都市に於ける極めて自然の物の状態であると言うこと、それを大した事の様に思うのは私が田舎者であるからだと言うこと、そしてそれは文明の避くべからざる状態の一つだから、何時だってそうであったこと、また何時だってそうあるであろううと言うことを、私に説明して聞かせた。ロンドンではもっと酷い……だから、別にそれは悪いことじゃない、そして別に心配したり悩まされたりする必要はないのだと言うことを説明して聞かせた。
私は私の友人と議論し始めた、しかもそれは、私の妻が何が起こったのですと言って隣の室から駆け込んで来た程、熱狂と憤激とを以ってである。私はもう我を忘れて、粗野な身振りをしながら、『我々はこんな風な生活を続けてはならないんだ、こんなに生きてはならないんだ、そんな権利がない』と、苦しい声を振り上げて叫んだものらしく見える。私は私の要らない興奮のために非難された。私は私がどんな問題にでも冷静に語ることが出来ないと言う事、直ぐ怒りっぽいと言うことなどを告げられた。そして私が見たようなそんな不幸の存在は、私の家庭内の生活を苦しくさす理由とはならないと言うことを教えられた。
私はその言の正当であるのを感じた。そして私の舌を緘した。しかし私の心霊の奥底に於いては、私は私の正しいのを感じて居た。そして私の良心を鎮めることが出来なかった。
以前は無関係若しくは奇異に見えた都市生活は、今や憎悪すべきものとなった。以前私が喜んで居た贅沢な生活のあらゆる恩恵は今や私を苦しめる様になった程。
私は私の生活様式に就いて、ある種の口実を見出そうと努めたけれど、私は尚も、私自身及び他人の客間や、清潔なそして豊かな食膳や、肥え太った馭者や馬をもって居る馬車や、商店や、劇場や饗応などを憤激することなしには考えられなかった。私はまた凡てこれに反して、かの飢えて慄えて、そして下劣になっている宿泊者の住民を対照して見ないでは居られなかった。そして私は、之等の二つの環境は不離のものだ―― 一つは他から産出したのだ、と言う考えを振り払うことが出来なかった。私がその最初の瞬間から感じたところの叱責の感じが、決して私を去らなかったことを私は覚えて居る。しかしこの感じと共に、すぐにまた他の感じが混入して来て初めのを弱めた。
私は私の親友や知古に、このリアピン宿泊所の印象を語った。すると彼等は然り同じような風に答えた。そして私の親切や慈悲を賞賛するばかりでなく、その光景がそんなに私を感動させた所以のものは、私、すなわちリオフ・トルストイなる者がしかく親切で憐み深いからであると言うことを説いて聞かせた。そして私は喜んでそれを信じた。
このことの自然的な結果は、最初の鋭い自責及び辱恥の感じが鈍くせられて、却って私自身の徳に対する満足の感じによって代られ、そしてその徳をして他人に知らしめようとする願望によって代られることに至った。私は自分で言った、『恐らく、誤って居るのは、自分がそんな贅沢な生活をして居ると言うことではあるまい、それは人生に於いては避くべからざることだろう。だから自分の特別の生活を変えたって、自分の見た害悪を除くことは出来やしない』と。
私自身の生活を変えたって、私はただ私自身及び私に最も近い最も親しいものを不幸に陥らせばかりで、他人の不幸は依然として残存するに過ぎない。それ故に私の目的は最初私が感じた様に、私自身の生き方を変えるのではなしに、私の力に於いて及ぶ限り、私の惻隠の情を刺激したそれ等の不幸なる者の位置を改善することである。
私の推理した全事実は、私が、非常に親切であり善良であるところの私が、私の同胞に善を為したいという事実の中に存したのである。そこで私は私の徳を示すべき博愛的活動の計画を立て始めた。しかし私はこの慈善事業を計画しながらも自分の心情の奥底では自分が正しくないことをして居ると感じて居たと言う事を言って置かなければならない。しかしながら余りしばしば起こることの様に、理性と想像とは良心の声を消して居たのである。この頃、戸籍調べが行われて居た、そして私はそれを、それによって私の名を輝かさんとする慈善団体を組織するのに良い機会だと思った。
私はモスクワに既存する多くの慈善団体を熟知して居た。しかしながら全て彼の活動は誤って居り、且つ、私のなそうとして居る者に較べれば物の数でないように私には見えた。そしてこれは私が富者の間に貧民に対する同情の念を刺激しようとして発明したところのものである。私は金を集め始めたそしてこの仕事を扶けんとし、戸籍調査の役人と一緒に凡ゆる貧民窟を訪れ、貧民と関係を結び、彼等が何に欠乏して居るかを見出し、金と仕事とを与え、モスクワから送り還し、その子供たちを学校に通わしめ、そしてその老いたる爺さんや婆さんを家庭や養育院に送ることを欲する人を募った。
加えてこれ、私は、この仕事に従事する人々から、永久的な協会を作り得ると考えた。その協会は会員に従ってモスクワの諸区に分かち、欠乏や不幸が新たに起らないように気をつけ、そして貧窮をその幼芽に於いて摘取り、それを救治すると言うよりも予防すると言う様にして、その任務を果たすのである。
私は既に将来を見越すことが出来た。その時には乞食や貧窮は全く消滅する。そして私はそれを完成する男なのだ。然る時、全て我々富めるものは従前の通り贅沢な生活を続け、立派な家に住み、五品の料理を食い、馬車を劇場や宴会に走らし、そして最早私がリアピンの宿泊所で見たような光景によって悩まされることはない。
この計画を立てたところで、私はそれに就いて論文を書いた。そしてそれを印刷に渡す前に、私は協力を得たいと思う人々のところへ行った。そしてその日私の訪問した凡ゆる人々に(主に富者)後に私の論文で発表したのと同じ考えを説明した。
私はモスクワに於ける貧民の状態を研究する為に戸籍調べを利用すること、そして尽力と金銭とをもって個人的にそれを絶滅する様な助力をなさんことを申出でた。そして然る後、我々は安心して平常の快楽を続け得ることを言った。皆は真面目に注意して私の言葉を聞いた。だが何の場合にも、私は私の聴き手が私が何を欲しているかを知るや否や不愉快を感じ幾分当惑し出して来るように見えるのを知った。だがそれは主として私の説の為めであったのを私は感じた。何となれば彼等は私の言ったことは凡て愚かなことだと思って居るからである。その場合私の聴き手が私の愚説に賛同したのは何か他の動機によってである様に見えた。『そうですとも。宜しう御座います。それは愉快なことでしょう』、彼等は言った。『もちろんあなたに同感しないわけには参りません。あなたの考えは立派です。私も同じようなことを思って居ました。しかし……ここの人々はそれは冷淡なのですから、まあ大した成功を期待する訳には参りますまいよ。私としてはもちろんそのご計画にご助力をしようと思って居ります。』
同じような答えを、私は凡てから受けた。彼等は同意した、だが私の見るところでは私の議論に納得したからでもなく、また彼等自身の願望からでもなく、ただどうしても、断り兼ねるある外的な理由によってである。
私がこれに気付いたのは、一つには私に金銭の補助を与えようと約束した人々の誰もが、その金額を定めないので、『じゃあ、あなたが寄付してくださるのは25ルーブルですか5ルーブルですか、200ルーブルですかそれとも300ルーブルですか』と訊いてその額を決めねばならなかったし、彼等の中の一人もその金を払わなかったからである。私はこの事に注意を向けた、何となれば人々はその欲するところのものに金を出そうとする時には、概して急いでそうするものだからである。例えばそれがサラ・ベルナールを見るために桟敷を買うのだとして見よ、金は直ちに払われる。だがここでは金を出すことに賛成し、その同情を表白したのに、誰もが直ちにその金額を支出しないで、ただ黙って私の指定した額に黙従したに過ぎない。
その日私が訪問した最後の家には大きな園遊会があった。その家の主婦は幾年の間慈善事業に携わっていた。沢山の馬車がその家の戸口で待って居た。高価な服装を着けた従僕を玄関口に控えて居た。特別の客室では、高価な衣服や装飾をつけた老若の貴婦人たちが、ある若い男たちに話しかけたり、貧民を扶けるための福引きに当てはめられた小人形を装ったりして居た。
この客室及びそこに集まって居る人民の光景は、私に非常な苦痛を感じしめた。なんとなれば彼等の財産が幾百万ルーブルの額に上っているばかりでなく、ここで衣装や絹糸や青銅や宝石や馬車や馬や揃いの着物や従僕などに費やされた資金の利子が、これ等の貴婦人たちの仕事の百倍にあたるばかりでなく、これがその場合である場合ばかりでなく、紳士淑女によって催されたこの舞踏会丈けに費やされた費用例えば手袋、晒麻、蝋燭、茶、砂糖、菓子など、凡てこれ等のものは、彼等によって行われた仕事の百倍に相当するからである。
私はよくこの事が分かった。だからここでは遂に、私の計画に同情を見出さないだろうと言うことを了解して居たかも知れない、だが私はある提議をなさんが為めに来たのであるから、如何にそれが私にとって苦痛であったと言え、私はほとんど私の論文の言葉そのままに、私の言わんと欲して居た事を言った。
そこにいた一人の婦人が私に幾許かの金を申し出た、そして彼女が感じ易い性格の為めに、自ら貧民を訪問する丈けの力を感じないから、この形式でお扶けをすると言い加えた。幾許の金か、そして何時それを与えるか、それは彼女は言わなかった。他の一人の婦人と若い男とは貧民訪問の仲間入りをしようと申出した。しかし私は彼等の申出によって益するところはなかった。私の話かけた主要の人物は、金が集まらないから大したことは為し得ないだろうと言った。そしてその救助金の多く集まらない理由は、モスクワに於ける知名の富豪若しくは富豪の中に数えられても良い、それ等は、最早与えられるだけ与えてしまったから、そして彼等の慈善は金を集めるのに成功する最も有効なる方法であるところの学位や勲章やその他の表彰を以って既に報いられて居るから。――従って官憲から新たなる名誉を得ると言うのは非常に困難だからだと言った。
家に帰って私は床に就いた、どんな結果も私の思惑から生まれて来ない事の預感を持ってばかりでなく、終日何か悪い卑しむべきことを為して居たと言う恥ずかしい様な感じをしながら。とは言え私は思い止まらなかった。
第一に、仕事は既に始められて居た、そして偽りの恥が私をしてそれを放棄するのを止めさせた、第二に、単にその仕事に従事して居るという単なる真実は、私を今まで通り生かしめるばかりでなく、若し失敗するならばそれを放棄して新しい生活の途を立てねばならかったから。――それ私の無意識に恐れて居た事である。それ故に私は私の内心の声には信頼しなかった。そして私の始めた事を続けてやった。

私の要求によって私は浜車道とニコールスキィ小路との間の、ブロートチヌイ小路内のスモレンスキィ街近くにあるカモフニーチェスキィ警察区の戸籍調査に任命された。この地方にはルザノフの長屋若しくはルザノフの砦と言う名で知られて居る家々がある、以前はこれ等の家屋は商人のルザルフのものであったが、今では井ミインの商人等のものとなって居る。ずっと以前から私は、その辺が貧窮や悪徳の最も低い部分だと考えられて居ると言うことを聞いて居た。そこで私は特にこの地方を私に任じてくれる様にと調査官に乞うたのである。
私の願いは許された。
私は市会からの任命を受けたので、まず市政調査の数日前に、単独で自分に与えられた部分の視察に出かけた。
与えられたある目論みの扶けで、私は直ちにルザノフの長屋、――別にこれと言う人口のない憂鬱な建物をニコールスキィ小路の左側に突き当たって居る一つの街道に近く見出した。一寸見たところで私は直ぐ、これが私の探して居たものであるのを推察した。街道を下りて行って居ると、私は、10歳から14歳まで位の、短い上衣を着た、数人の少年たちが、ある者は自分の足である者は単滑靴(シングルスケート)で、凍った小溝の上を滑って居るのに遭った。
少年たちは襤褸を纏って居た。だが全ての町の少年たちの如く鋭敏で大胆であった。私は彼等を眺めて立ち止まった。ぶら下がった黄色い頬をした一人の年取った女が、破れた着物を着て街角からやって来た。彼女は小山の上に登って居た、そして風の中から飛び出して来た馬かなんかの様に、一歩ごとに苦しそうに喘いで居た。私と並び立つ様になってから、彼女は嗄れた呼吸をしながら立ち停まった。どこか他の所で彼女は私に施しを乞うた事があったのであろう。けれどもここでは単に私に話しかけたばかりであった。
『まあ、あれを御覧なさい!』と彼女は氷滑りをしている少年たちを指さして言った。
『あんなにわんぱくをして! 誰彼等も直に親爺たちの様なルザルフのヤクザ者になるんです。』外套を着、庇のない帽子を被った一人の少年が、彼女の言葉を漏れ聞いて立ち止まった。そして『黙りやがれ!』と叫んだ。『手前こそルザノフの老いぼれ山羊じゃねぇか』
私はその少年にここに住んで居るのかときいた。『えぇ、そしてあの女も、彼奴は長靴を盗んだんです』と彼は叫んだ。そして押しのける様にして滑って行った。
その女は罵詈の激流を濺ぎかけたが、咳の為めに妨げられた。この争論をして居る間にボロボロの着物を着た一人の白髪の老人が、腕を振り、片手に小さいパンの塊の一包みをさげて降りて来た。彼はまさに一杯の酒で元気をつけて来たように見えた。彼は明らかにその老女の罵詈を聞きつけたらしく、そして彼女の方に加担した。
『ふんづかまえるぞ、鼻つたれ!』追っかける様に見せて彼は叫んだ。そして私の後ろを通って舗石道を上った。若しも君にしてこの老人を繁華な流行街で見るならば、君は彼の老衰と繊弱と貧窮との風態に驚くであろう。けれどここでは、彼は一日の労働から帰りつつある快活な労働者と言った風で表れる。
私は彼に蹤いて行った。彼は街角を左に、ある小路に曲がった。そしてその家と門との前を通ってある旅宿の戸の中に隠れた。この小路に向かって、一つの料理家と沢山な小さな飲食店の戸が開かれて居た。それはルザノフ長屋であった。凡ゆるものは、灰色で汚くて悪臭を放って居た。――建物も、長屋も庭も人も。ここで遭った者の多くはボロを纏った半裸体のものばかりであった。ある者は歩いて居た。他の者は一つの戸口から他の戸口までと走って居た。二人の者は幾らかの襤褸を商って居た。私はその建物を一周した、他の小路に行き、他の庭に行った。そしてまた帰って来た、ルザノフ家屋の拱道の下に止まった。
私は中に入ろうとした、そして内部で何が行われて居るかを見た、しかしその観念は私をして非常に苦悩を感じさせた。若し彼等から何の為めに来たかと言われたならば何と言おうか。
けれど兎に角一寸戸惑った後、私は中に入った。庭の中に入った瞬間、私は最も嫌な臭いを感じた。庭は恐ろしく汚かった。私はその角を曲がった。その途端、私は人々が廊下の床板に沿って走って居り、そしてそこから、梯子段を降りて来る足音を聞いた。
第一に色褪せた桃色の着物を着て、袖をまくし上げた、そして靴下なしの足に靴を穿いた、草臥れた女が駆け出して来た。その次には、赤いシャツを着た女下袴(ペティコート)かなんかの様な極端に広いズボンをつけて、足に木靴を穿いた粗髭の男がやって来た。男は女を梯子段の下で捕まえた。そして『逃がさねえぞ』と笑いながら言った。『藪睨みの悪漢の言うことをお聞き!』と男の注意を厭って居ないことの明白であった女は言い始めた。然るに私を見つけるや否や、彼女は腹立たし気に叫んだ。『誰を探してるんだね、お前さんは』特に誰に会いたいと言うのでもなかったから、私は少々当惑してそこを去った。
このちょっとした出来事は、たとえそれがそれ自身としては別に顕著なものでは決してないとしても、ことに、中庭の向かい側で行われたこと――罵って居た老女、愉快そうな老人、氷滑りをして居た子供――を見た後のことで、急に私に、私が今行おうとして居る事に対する新しい光を投げた。私はモスクワの富者の扶けによってこれ等の人民に善事を為すのだと考えて居たのであるが、今や私は初めて今私の扶けようとしているこれらの哀れなる不幸な人民も、寒さや飢えに悩んでる時の外に、夜の宿りを求めて待って居る時の外に、何か他の事に捧げねばならぬ多くの時を持って居ると言うことを知った。毎日々々の二十四時間のなかで、こうしたことの他の時間があるのだ。そしてそこにこそ全生涯があるのだ。しかも私は今まで少しもそれに気付かないで居た。私はまた始めて、凡てこれ等の人民も、食を求め、寒さから逃れるために宿りを求めるところの、単なる努力の外に、その生涯の凡ゆる日の残りの時間を、他の人民がなさねばならぬと同じ風に生きねばならぬと言うことを知った。即ち、時としては怒らねばならぬし、気落ちもしなければならぬし、愉快そうに見せたり、悲しんだり、歓んだりしなければならない事を知ったのだ。そしてまた初めて、(たとえその告白はどんなにおかしく聞こえても)私の着手して居る仕事は、ただ幾千の人民に食わせたり着せたりする(丁度、幾千の羊に食を与えたり、檻の中に追込んだりする様に)事であってはならない。もっと実質的な扶助にまで発展しなければならないと言う事を充分に知るに至った。そしてこれ等の人々の各々も、私自身と同じ様に、過去の歴史を持って居れば、同じ情欲、同じ誘惑、同じ誤謬、同じ思想、また解決しなければならぬ同じ問題をもって居るのだと言う事を考えた時に、私の着手して居る仕事は突如として非常に困難なものとして私の前に表れた。そして私は全く自分の無力であるのを感じた――だが、それはもう始められて居た。私はそれを続けてやろうと決心した。

指定された日に、私を補助することに馴れて居た学生たちは朝早くから出かけて行った。然るに発頭人である私は、やっと12時に彼等に合流した。私はそれよりも早く来ることは出来なかったのだ。何故なら私は10時までも寝て居たし、それからは消化の為めに珈琲を飲んだり、煙草を喫わねばならなかったからである。12時には私はルザノフ長屋の戸口に立って居た。一人の警官は、調査係が彼等に面談することを欲する凡ゆる人に指定した一酒店に私を案内した。私はその中に入った、そしてそれが非常に不潔で悪臭を放って居るのを見出した。正しく私の正面に帳場があった。左の方には汚れたナプキンで覆われたテーブルを備えて居る小さな室、右の方には壁に沿って窓の内側に幾つも同じ様な小さなテーブルを置いて居る、そして柱が幾つも立って居る大きな室。そこここには、労働者か番頭かであることが直ぐとわかるところの、ボロボロの着物を着たものや、よい風をした者などが茶を飲んで居た。そこにはまた、女も沢山に居た。この店がそんなに不潔なのにも拘らず、会計をして居る人の素振りや、給仕の敏速や親切な態度からして、商売が仲々繁盛して居ることが容易にわかった。私がそこに入っていくや否や、給仕の中の一人が、私の外套をとるのに手を貸し、そして私の注文を聴こうとして待ちかまえた。これ実にここの人々が、如何にその業務を迅速に行う習慣を持って居るかを示すものである。
調査係に面会したいと私が言うと、帳場の後ろにある戸棚の中を片付けて居た外国風の服装をして居る一人の小さい男が、それに答えて、『ワーニャ』と呼んだ。この男は、イワン・フェドテイチと言って、カル-ガから来た一人の百姓で、この家の他の長屋の半分を借りて、それを宿泊人に又貸しして居る、この飲食店の所有主である。彼が呼ぶと、18歳位の、痩せた、悲しそうな顔をした、鉤鼻の一人の少年が急いでやって来た。すると主人は言った。『この紳士をお連れ申して係官のところへ行け。井戸を越えて、この建物の主家に行って居るんだ』
少年は彼のナプキンをとりのけて、ホワイトシャツとズボンの上に上衣をひっかけ、大きな帽子をとり上げ、そして敏捷な小肢で、裏戸からこの建物の間をくぐって私を連れて行った。脂ぎった悪臭芬々たる台所の入り口で、ボロに包まれて居る腐った臓腑を大切そうにして持って行く一人の老婆に我々は会った。我々は庭に降りた。その庭の周囲には一杯に石の土台の上に木造の家が立ち並んで居た。匂いが一番嫌であった。そしてそれは、人々が絶えず集まって居る便場を中心として発して居るように見えた。この滅法界な下水溜は、その周囲の疾病的な雰囲気によって、人々の注意を強請しないでは置かない。
少年は、彼の白いズボンを汚さないように注意しながら、小心翼々として、凍った汚物や凍って居ない汚物を横切って私を導いた。そしてその建物の中の一つに近寄った。庭や廊下を通るものはみんな立ち停まって私を凝視した。この場所では清潔な服装をした人が異様に見えたのは明らかである。
少年は、私たちの出逢った一人の女に、調査係の役人たちがどこかの家に入ったのを見ないかと訊ねた。すると三人の人々が同時に答えた。あるものは井戸の彼方側に居ると答えた、他の二人は、彼等はそこに居たが、もう今はニキタイワーノウィチの家に行ったと言った。
シャツをばかり着て、庭の真ん中に居た一人の老人は、彼等が第30号に居たと言った。少年はこの報告が最も確からしいと推断した。そして第一階の第30号に私を導いて行った。そこは、庭に充ちて居たのとは違った悪臭や、暗黒に込められて居た。
私たちは暗い通路に沿って下りて行った。私たちがそこを通って居る間に、一つの戸が急に開いた。そしてそこから、シャツ一枚の酔っ払った一人の老人が出て来た。明らかにそれは百姓階級のものではなかった。袖をまくし上げた、そして手に石鹸の泡がいっぱいに着いて居る一人の疳声の洗濯女が、彼をその室から突き出して居た。ワーニャは彼をひどく衝きのけながら、『こんなものを蹴るんじゃないよ――お前もお役人かい』と言った。
私たちが第30号の家に着いた時、ワーニャは戸をひいた。戸は湿った音をして開いた。私たちは石鹸質の蒸気の瓦斯や、粗悪な食物や煙草の匂を感じた。そして全くの暗がりの中に入った。窓は他の側に在った。私たちは曲折した回廊の上に立って居た。回廊は左右に別れて行って、種々の角度に於いて粗末に白く塗られた、不規則に並べられた板の壁で仕切られた室に導き入る戸口があった。
左方の暗い室で一人の女が木鉢で洗濯して居るのが見られた。他の一人の年とった女は右側の窓から外を眺めて居た。開いた戸に近く、木靴を穿いた一人の毛深い赤膚の百姓が寝台の上に座って居た。彼の手は彼の膝の上に置かれてあった。そして彼は彼の足をぶらぶら打ちふりながら悲しげに彼の靴を眺めて居た。
通路の終点に、調査官たちの集まって居る室に導く一つの小さな戸口があった。ここは第30号全体の女主人の室であった。彼女はイワン・フエドティチから家を借りて、普通の下宿にも一夜泊りの客にも室を又貸して居る。
この小さな室の中で、一人の学生が、金紙で光って居る一つの偶像の下に座って居た。そしてお役人風に威張って、シャツと胴衣とを着たある男に質問して居た。これは女主人の友逹で、女主人に代わって答えて居るのであった。女主人も――年取った女――二人の物好きな宿泊人もそこに居た。
私の入って行った時、室は全く一杯になって居た。私はテーブルの側までツカツカと進んで行って学生と握手した。そして学生が彼の報告を摘録して居る間に、私はそこの住民を研究した、そして私自身の目的のために彼等に質問をかけた。
しかしここでは私の恩恵を施すべき人が一人も居ない様に見えた。これ等の室の主婦は、その各々の室が斯くも粗悪で不潔であるのにも拘わらず、(それは特に私自身が住んで居る邸宅と比べて私を衝撃した)都会人民の見地からしても裕福に暮らして居るし、私がよく知って居る田舎の人民と比べては贅沢にさえ暮らして居た。彼女は羽蒲団や、綿入の毛布やサモワァルや毛皮の上衣や、陶磁器製の皿や金属製の皿などを入れた戸棚などをもって居た。女主人の友人もまた同じく裕福らしく見えて居た。それに時計や鎖さえも見せびらかして居た。宿泊人たちは貧乏であった、けれど彼等の間には、直ちに扶助を要するのは一人もなかった。
ただ三人だけ扶助を申し込んだ。――夫に捨てられたのだと言った晒麻を洗って居る女と、生活の手段の無い或る年老いたる寡婦と、そしてその日は何も食べなかったと私に告げた破れ靴の百姓と。しかしながら、更に繊細なる報告を集めて見ると、凡てこれ等の人民は全く欠乏に悩んで居るのではないと言う事が明らかになった。そして本当の扶助をなさんが為めには、もっと密接に彼等を識る様になるのが大切だと言うことがわかった。
私はその洗濯女に彼女の子供たちをある『家庭』に預けたらどうかと申し出した。すると彼女は当惑した、そして暫く考えた後私に礼を言った。けれど彼女がそれを欲して居なかったことは確かである。彼女はむしろ幾許かの金を貰いたかったのだ。彼女の長女は洗濯の手伝いをした、次女は見守りの役目をなした。
老いたる女は貧民救済所に収容して貰いたいと乞うた。しかし彼女の隠家を調べてみると悲惨な程不幸な状態に陥って居るのでないのがわかった。彼女は彼女の財産をしまってある函を持って居た。一つの茶壺と二つのコップと、そして茶と砂糖との入って居る古い糖菓函をも持って居た。彼女は靴下や手袋を編んだ、そしてある婦人慈善家から月々の扶助を受けて居た。
百姓は明らかに、前日の酔後、食物よりはまずその喉を潤したかったのである。そして何者を彼に与えても直にそれは飲食店に行ってしまうであろう。だから、これ等の室に於いては、何れの点からしても、金で彼等を扶けることによってより(ヽヽ)幸福になし得る者は一人もなかった。
そこには単に貧民があった、――私の目には疑わしい種類の貧民が。
私は老女と洗濯女と百姓との名を記した。そして彼等の為めに何かしなければならない、けれど、それよりも先ず第一に、この家で接触するだろうと思って来た他の特に不幸な者を助けるべきだと、心の中で決めた。我々の今与えようとして居る扶助を分配せんが為めには、ある組織が必要だと私は決心した。第一には最も欠乏に悩んで居るものを見出し、そしてその次にこれ等のものに及ぼすと決心した。
然るに次の長屋にてもそのまた次の長屋にても私はただ同じ状態を――扶助を行う前にもっと精密に調査しなければならぬ様な――見出すばかりであった。金銭的扶助ばかりで幸福を与えることの出来る種類のものに至っては皆無であった。
これを懺悔するのは恥ずかしいが、私はこれ等の長屋で、自分の予期して居たものに似た何者をも見出し得ないのに失望し始めた。私は何か非常に変わった人民を見出すだろうと思って居た。しかし私は、この長屋を一通り行き渡った時、その住民は決して極端に特殊なものではなしに、私の住んで居る範囲の人々の様なものであるのを確信するようになった。
我々に於けるが如く、彼等に於いてももっと多く善い人もあればもっと少なく善い人もある。もっと多く悪い人もあれば、もって少なく悪い人もある。彼等の間にありて不幸な者は、我々の間に在っても等しく悲惨であろう、彼等の不運は彼等自身の衷にある――どんな種類の銀行手形に依っても癒すことの出来ない不幸である。

これ等の長屋の住民は最下級の町民の部類に属するものであるが、モスクワでは多分10万以上に上がるであろう。この家の中には凡ゆる種類の代表者がある、――小雇い主や日雇働きや、靴やブラッシュの製造人、指物師、貸馬車の馭者、独立せる請負人、洗濯女、古物屋、金貸人、その日稼ぎ、そして特殊な定まった職業のないもの。乞食や町の女も泊まって居る。
私はあのリアピン長屋の前で待って居るのを見た人々の様なものが沢山ここに住んで居た。しかし彼等は労働者と雑って居た。加えてこれ、その時私の見たものは最も哀れな状態に居た、彼等の所有物を、一切飲んだり食ったりしてしまって、飲食店から追い出され、寒さと飢えとを忍びながら、天からのマナを(昔イスラエルの民がエジプトより逃れ出た時、毎朝々々天からマナが降って居てイスラエルの民を養ったという伝説がある:訳者註)待つが如くに、無料宿泊所に入る許しを待って居た。――毎日々々、彼等各々の家に送り還されんが為めに、獄屋につながれんことを願いながら――ここでも私は、沢山の働き人の間に、その同じ種類の幾分の人々を見た。彼等は何等かの方法で、夜の宿泊料に数ファシングスを払い、そして食物や飲物のために1ルーブル若しくは2ルーブルを払うのを見た。
不思議に聞こえるかも知れないが、私はここではリアピン長屋で経験したような感じはしなかった。却ってそれとは反対に最初の一周をして居る間、私も学生もむしろ愉快な感じと言ったようなものより外のものは持たなかった。それは全く愉快であったとさえ言っても良いかも知れない。
私の第一印象は、ここに住んで居る多数の人々が労働者であり、非常に親切な気質の人々であると言うことであった。宿泊人の殆んど凡ては仕事をして居た――タライで働いて居る洗濯女、腰掛けを指して居る指物師、靴型で働いて居る靴工、小さい室は人で一杯になって居た。そして仕事は快活に精力的に行われて居た。労働者の間には汗の匂いが、靴工のところでは柔皮の匂いが、大工の店には木屑の匂いが、我々の鼻をついた。我々は時々歌を聞いた。敏速に且つ巧妙に働いて居る裸出しの逞しい腕を見た。
至るところで我々は親切にそして愉快に迎えられた。ほとんど凡てのところで我々がこれ等の人民の日常生活に侵入して行っても、斯かる訪問が富裕な人民の間に行われた時に起る様に、自分たちの尊厳を示すとか、若しくは訪問者を正しく評価しょうとかする欲望を彼等に起さしむる様な事はなかった。それに反して、凡て我々の質問は彼等をして別段自分の尊厳を誇示しようとはせしめないで、単純に答えしめた。――それは実に、どんなに彼等が名簿の中に記入されるか、ある一人が他の二人に相当するとか他の二人が一人に数えられるべきだとか言う事が、彼等を喜ばしめ戯談せしむるところの口実にされた位だ。
我々は食事をして居たりお茶を飲んで居る多くのものを見た。そしてその度毎に我々の挨拶の『パンと塩』若しくは『お茶と砂糖』などの代わりに、『よくいらっしゃいました』と彼等は言った。ある者に至っては、我々に座るべき席をさえ譲った。ここは我々が予期して居た様な、そんな、常に新陳代謝する人民の巣ではなくて、長いこと同じ人によって借りられた室が沢山にあった。
一人の大工はその職人と共に、そして一人の靴工はその傭職工と共に、ここに10年も住んで居る。その靴工の店は非常に不潔で息づまって居るが、それでも彼の家の者は皆愉快に働いて居る。私は彼等のうちの一人と話した、彼の悲惨な運命や、何を彼の主人に負うて居るかと言うようなことや、その他そうしたことを彼から探り出そうと思って――。けれど彼は私の言うことを了解しなかった、そして彼の主人や自分の生活に就いて甚だ喜ばしき見地から語った。
一つの宿泊所に一人の老いたる妻と共に住んで居る一人の老人があった。彼は林檎を商って居た。彼等の室は温かで清潔でそして彼等の所持品で充たされて居た。床は林檎の包で造った藁蓆で覆われて居た。そこには箱と戸棚とサモワールと陶器とがあった。片隅には沢山の聖像があって、その前には二つのランプが燈されて居た。壁上にはシートで包まれた毛皮の上衣が懸けられて居た、親切で話し好きの、額に皺の寄ったこの婆さんは、明らかに彼女の静平で尊敬すべき生活を楽しんで居ることを示して居た。
この安宿と長屋との持ち主であるイワン・フェドティチが出て来て我々と談した。彼は親しげに彼の宿泊人と冗談を聞いた。彼等をその名で呼び、そして我々には、彼等の性格の簡単なる描写を話して聞かせた。彼等は他の人々と同じであった、自分たちを不幸だとは思わなかった、そして実際に於いてそうである如く、他の何人とも同じ人間であることを信じた。我々は何か恐るべきことを見るだろう思って居た。そして我々はその代わりに、単に嫌悪すべきではないと言うばかりでなく、むしろ尊敬すべきものを見た。そしてこうした者はそこに沢山あった――たまには彼等の間に無職の襤褸を着た零落者を見ることがあるにはあるが、しかも彼等は決してその一般的印象を壊しはしない程に。このことは私に於ける程には学生には顕著なことでなかったらしい。彼等は単に、科学にとって必要だと思って居た仕事をなし、そして、行く々々我儘な観察をなして居たに過ぎないのである。しかし私は、慈善家である私がそこに行った目的は、零落した不幸な男女を――この家で会うであろうと思っていたところの――扶けることであった。しかも突如として、零落し堕落した不幸な人間を見る代わりに、大多数が静平で、満足して、快活で、親切で、そしてはなはだ善良であるのを見た。
更に強く私の感動したことは、私がここに来るよりも前に、私が救おうとして居る痛烈な欠乏が、既に救われて居たと言うことであった。しかし誰によって? 私が今救おうとして居たその同じ不幸な堕落せる人々によって。そしてこの扶助は私には解らないある方法で与えられて居るのであった。
ある地下室に、ある孤独な老人がチブスを病んで居た。彼はこの世にただ一人の縁者もなかった。彼には全く他人である或る女が―― 一人の小さい娘を持てる寡婦――彼の室の隣の隠家に住んで居た。そして彼女は彼を介護してやり、彼に茶を与え、自分の金で薬を買って来てやった。
他の長屋には産褥熱を煩って居る一人の女があった、一人の売春婦は彼女の子供を看てやり、その子供の為めに吸乳瓶を買い与え、そして2日間彼女の悲しい商売をする為めの外出を止めた。
一人の孤児の娘が、3人の子供を持って居る裁縫師の家族に引きとられた。こんなわけでここに残って居る者とては、ただ退職官吏や僧侶や失業の奴僕や乞食や、飲酒家や、娼婦や小児ばかりであった。そしてこれ等は直ちに金銭の手段で救うことが出来ないばかりでなく、彼等を扶ける前によほど注意して考察する必要のあるものである。私は人の余剰を分配することによって扶け得られる如き、直接衣食に欠乏して居る人を探して居たのであるが、そんなものは見つからなかった。私の見たものは凡て、彼等の為めに時と注意とを捧げるのでなければ、物質的に扶助するのは非常に難しい種類のものであった。

これらの不幸なる人民は私の頭の中で三つの部類に分けられた。第一は以前の有利な地位を失ってそれに還ろうとして待って居る者(斯かる人々は社会の最下級並びに最上級に属したものである)、第二は淫売婦であって、これ等は甚だ多い。第三は子供である。
私の思い出した、また記しとった人の大多数は、以前の地位を失ってそれに還らんことを欲して居る者であった。この種の人間もまた仲々沢山あった。彼等は主に上流社会や官吏部分のものである。地主と共に入って行った殆んど凡ての長屋に於いて、私達の告げられたことは、『ここでは自分たちの名簿を書かなくても済みます。若し酔っ払ってさえ居なけりゃ、それをすることの出来る男が居ますから』と言う事であった。
そしてイワン・フェドティチはそんな種類の人間――それは常に上流社会の零落階級者に属して居る――を名ざして呼ぶ。このようにして呼ばれると、若し彼にして酔っ払って居ない限りは、喜んでその仕事に着手する。彼は余程自分を偉そうにしてその頭を頷かせながら、眉をひそめたり、その談話の間に教養のある述語を挟んだり、そしてその不潔な震えて居る手に桃色の清潔な名詞を手にしながら、さながら今や彼は、その教育の優秀によって、絶えず彼を卑しめて居る者に勝ち誇ったかの如く傲慢と軽悔とを以って同宿の者を見まわしたりする。
彼は確かに桃色の名詞を用いる社会、彼もかつてはその一員であったところの社会との交渉を喜んで居る。
私が若し身の上話を問うならば、この種の人間は、単に喜んで語るばかりでなく、熱心に語る。彼の上に降りかかって来た凡ゆる種類の不幸、中にも彼の教養から考えて見ても、その中に残って居なければならない筈の以前の地位の事などに就いて、祈りの様に彼の頭の中に固定して居る物語を語り始める。
この種の多くの人民はルザノフ屋敷の凡ゆる長屋に散在して居る。ある長屋の如きは全部この種の男女で満たされて居る。私たちがそこに近寄った時、イワン・フェドティチは言った、『さあ、ここは貴族さんの住んでいるところです』
その長屋はいっぱいであった。殆んど凡ての宿泊人は――約40人の――うちに居た。この屋敷中でも、こんなに零落し堕落して見えた顔はどこにもなかった。――若し年寄りであるならば弱々しく、若ければ青白くしてそして痩せこけて居る。
私は彼等の中の多くのものと語った。殆んどお決まり(ヽヽヽヽ)の同じ話しが告げられた。ただその発展の程度が違って居るばかりであった。彼等は凡てかつては富んで居た、若しくは今も尚富める父や兄弟や伯叔父をもって居る。或いは彼の父若しくは、不幸な彼自身の何れかが高位高官に就いて居た事があったのである。然る時そこに何事かの不幸が来た。嫉妬深い敵によって起こされたか、彼自身の軽率な親切によってか、然らずんば何か異常な出来事によって起こされたか。そして凡ゆるものを失ってしまってから、彼はこれ等の奇態なそして憎むべき環境に沈淪し、虱や襤褸の間にあって、パンと臓腑とで口を糊し、乞食をして渡世する酔漢や遊蕩者の仲間となるのである。
これ等の人々の思念や欲求や回想は全て皆過去に向けられる。現在は彼等にとっては何か不自然な厭うべき、そして関意するに足らないものの様に見える。彼等にとって現在は存在しないのである。彼等はただ過去の回想と、何時かは実現され得る、そしてその為めには極僅かの金さえあれば事足りるところの将来の期待とに生きて居る。ただ不幸なことには、この少し(ヽヽ)がなかなか達せられない。どこに行ってもそれは得られない。かくて彼等はいたずらに滅んで行く。ある者はより早く、ある者はより遅く。
ある者はただ、彼を親切に歓待するある有名な人を訪問せんが為めに立派な服装を着けたかった。ある者はまた、ただ着物を得、負債を払い、そしてどこかの町々へ旅行をしたかった。ある者はまた、彼の家財を質受けし、訴訟をする為めに――それは彼の勝訴に帰さなければならぬ、そしてその上は万事が都合よく運ばれる――少しばかりの金が要った。みんなその、自分たちにとって、自然で幸福だと思っている以前の地位を回復する為めに、ある外的な事情の扶けが必要だと言った。
若し私にして、自分が一個の恩恵者であると言う誇りによってくらまされて居なかったならば、彼等の不幸は外的な手段では救われないと言う事や、彼等の現在の人生観を変えない限りは、如何なる地位に在っても、決して幸福であり得ないと言う事や、彼等と言えども、決して特に不幸な境遇にある特別な人間ではない、我々自身をも包含して居る他の凡ての人々と同じ人間だと言う事が、その老若の別なく、一般に繊弱で肉欲的で、しかし親切な彼の顔を、もっと念入りに眺めたならば、容易に了解さるべき筈であった。
私は、この階級の人々との接触が如何に私にとって試練的であったか覚えて居る。今や私は何故そうであったかを了解した。彼等の中に於いて、私は恰も鏡に於けるが如く自分自身の姿を見た。若し私にして自分の生活や、自分の属して居る階級の人々の生活を慎重に考察したならば、我々とこれ等の不幸なる人々との間には何等実質的な相違が存しないと言うことを了解すべきであった。
市の最善の街に於いて、彼等自身の高価な邸宅や客室を持ち、パンと共に臓腑や魚よりも高価な食べ物を食べて居る私の周囲のそれ等の人々も、決して彼等より不幸でないとは言われない。彼等もまた、彼等の運命に満足せず過去を後悔し、より幸福な未来を待ち望んで居る。全くルザノフ宿泊所の不幸なる借屋人がなしたと同じ様に、彼等もまた、なるべく少なく働き、そしてなるべく多く働いて貰おうとする。彼等の間の差異はただその怠惰の度の大小による。
不幸にして私は最初これを見なかった、また、斯かる人民は単に私の慈善によるばかりでなく、彼等の誤れる世界観の改変によって初めて救われるべきであると言う事を了解しなかった。のみならず、人がその人生観を変えるには、彼自身の人生観よりはより(ヽヽ)精確なものを与えられねばならぬ。ところが不幸にも私は自らもそれを持って居ないのだから、他人に伝えると言うことは出来なかったのである。
これ等の人々の不幸は、まあ説明して見るならば、口に糊する食物がないからでなく、寧ろその胃の腑の損なわれて居るからに帰因する。私は、彼等を助けるためには彼等に食を与えることが必要なのでなく、食べ方を教えることが必要だと言うことが解らなかったのである。私は私の記しとめたこれ等凡ての人々を救わんことを予期して居たが、実際に於いてはその一人をも救い出す事が出来なかったと言う事を語らねばならない。しかも彼等の中のある者の要望したことは、凡て彼等を救う為めになされたのである。これ等の中で、私は特に三人の人と知古になった。三人とも多くの失敗と多分の補助との後、三年前にあった同じ地位に今は還って居る。

その後、私が救助することが出来ると思った不幸なる第二の階級は売春婦であった。売春婦はルザノフ長屋には非常に多かった。なお幾分女らしいところのある若い娘を初めとして、人らしい痕跡の少しも残って居ない恐ろしい姿をして居る老女に至るまで、凡ゆる種類のものが彼等のうちにあった。最初私の目論見のうちに入ってなかったこれ等の女を扶けると言う望みは、次の事情から起った。
我々が丁度この長屋を半分ばかり経巡った時は、我々はもう幾分機械的方法を感得して居た。新しい長屋に入って行った時、我々は直ちに持ち主に面会を乞うた。我々のうちの一人は書く場所を浄めた、そして他のものは、その室中の誰彼となく問いまわって、書いて居る者の所へその報告をもたらして来る。
地下室長屋のうちの一つに入った時、学生は家主を探しに行った。私はそこに居た凡ゆる人に質問し始めた。このところは次のように区分されて居た。4ヤード平方の室の中央には一つの暖炉があった。暖炉から四つの隔壁若しくは、帳が射出して居て、同じ数の小さな室をなして居た。相対して居る二つの扉と、四つの藁床とをもって居る第一の室の中に、一人の老男と一人の老女とが居た。それに隣して幾分細長い部屋があった。そしてその中に、灰色の羊毛の上着を着た若い青白い善人らしい家主が居た。第一の室の左の方には第三の室があった。そこには酔っ払った様な男と桃色の着物を着た女とが眠って居た。第四の部屋はある部屋の背後に在って家主の部屋を通って行く様になって居る。
私は第一の室で老いたる男と女とに色々なことを訊いて居る間に、学生たちは家主の部屋に入って行った。老人はかつて植字者であったが、今は如何なる生活の方法も持たないのである。
女は料理人の妻であった。
私は第三の部屋に行った。そして寝間着を着て居る女に、寝て居るのは誰かと訊いた。
彼女の答えたところに依ると、彼は一人の訪問者であった。
私は彼女の素性を訊ねた。
彼女は、彼女がモスクワの田舎から来た百姓娘であることを答えた。
『そして何の仕事をして居るんだね』
女は笑った。そして答えなかった。
『何うして生活して行くんだね、』私は繰り返した。――私の問いがわからなかったのだと思ったので。
『私は宿屋に座って居るんです』と女は言った。
私にはその意味がわからなかった。そして今一度繰り返して聞いた。
『どんな方法で暮らして行くんだね』
女はやはり答えなかった。そしてクスクス笑いを続けた。私たちがまだ行ってない第四の室でもクスッと笑うのが聞こえた。
家主が自分の室から出て来た。そして私たちの側に来た。
彼は確かに私の質問と女の答えとを聞いたのであろう。彼はキッと女を眺めた後、私の方に振り向いてそして言った、『あれは醜業婦です』と。彼は確かに、官吏社会で用いられるこの言葉を知って居たことや、その言葉を正しく発音した事を喜んで居る様であった。これを満足らしい慇懃な笑いをもって私に語った後、彼はその女の方に向きかえった。そしてその刹那、彼の表情は変わった。ある特殊な侮蔑的な態度と、犬にでも言う時の様な早口で、女を見若しないで彼は言った。『とぼけ(ヽヽヽ)あがるない、旅屋に座るんだなんて言わないで、正直に醜業婦だって言うがえぇ、――彼奴は自分の本名さえ知らないんです』私の方へ振り返って彼は言った。
『彼女を辱めるんじゃない。』私は言った、『若し人間がすべて神の戒に従って行くなら、こんな人間が居ない筈だ』
『そうです、そうです。勿論あなたの仰る通りです。』家主はつくり笑いをしながら言った。
『だから我々は彼等を憐れまにゃならん。そしてさながら彼等ばかりの罪ででもあるように、彼等を責めちゃならん』
私は何を言ったか正確には覚えて居ない。私はただ、この謂わゆる醜業婦と呼んだところの女で一杯になって居る長屋の主人の侮蔑的な言葉に不快を感じたことを覚えて居る。そして女を憐れんだ。そしてこの両方ともの感じを表した。
私がこれを言うや否や、クスクス笑いが行われて居た小さな部屋から、寝台の板の軋る音を聞いた。隔壁の上、天井まで達しないあたりで、小さな腫れた目と輝ける赤い顔とをした女の乱髪が見えた。第二、第三、と続いて現れた。彼等は確かに彼等の寝床の上に立って居た。三人ともその首をのばし、息をひそめて、そして緊張したる注意をもって私を眺めた。
苦しい沈黙が続いた。
この事の起こる前には微笑して居た学生も今や真面目になった。家主は困惑した。そして伏目勝ちになった。女たちは期待に輝いた眼をもって私を見た。
何人よりも多く私は当惑した。私は確かにこうした偶然な言葉が、斯かる結果を産むだろうとは予期して居なかった。それは丁度、精霊の交触にふるえて、枯死せる骨が動き始めたと言う、かの預言者エゼキエルの見た白骨をもって覆われて居る戦場の様であった。私は偶然に愛憐の一語を発したのである。そしてその言葉は、恰も彼等がただそれをのみ望んで居たかの様な、そして最早死屍ではなくて、再び生き返って来るのを待って居たかの様な、そんな効果を生み出したのである。
彼等は私を眺めつづけた、恰も何か次に出るかを訝しがって居るかの様に、恰もこれ等の白骨がひっつき(ヽヽヽヽ)始める、――肉で覆われ、生命をとって――に至る様な言葉を語り、行為をなさんことを、私に期待して居るかの様に。
しかし悲しいことには、私は与えるべき、若しくは私の始めたものを続けて行くべき何等の言葉もなく行いもないのを私は感じた。私の心霊の奥底では、私が嘘を言ったこと、私もまた彼等の様なものであること、私は最早これ以上言うことがないと言う事を感じた。斯くて私は名札の上にそこに寄留している凡ゆるものの名と職業とを書き記した。
この出来事は私を導いて新しい誤謬に至らしめた。私は、これ等の不幸なるものもまた扶けられると思い始めた。これは、容易になし得ることのように、自ら欺いて居る私には見えた。私は自分に言った、『さあ我々はこれ等の女の名をも書き下すんだ。そして後で、我々が(我々とは誰かと言うことを問う心が少しも私には起って来なかったが)凡ての事を書き留めた時に、彼等の事にとりかかろう』と。私は、幾時代の間も、かかる女をかかる状態の下に導き、尚もまだそうしようとして居るところの我々が、何日かある美しい朝に目ざめて、そして凡てそれを癒し得ると想像した。而も、若し私にして、病める母の代わりにその赤ん坊を羽育んでいた女との会話を想い起こしたならば、かかる想念の如何に愚かであるかを了解すべきであった。
我々は最初この赤ん坊を羽育んで居る女を見た時は、それは彼女の兒だと思った、しかし我々が彼女に彼女の素性を訊くに及んで、彼女は率直に自分のまだ未婚の女であることを告げた。彼女は『醜業婦』だとは言わなかった、一体にその恐るべき言葉を使うのは長屋の家主に決まって居た。彼女も兒をもって居た事があったのだと言う推想は、彼女の現状から救いだそうと言う観念を私に起こさしめた。
『この子はお前のかね』私は訊いた。
『いいえ、これはそこに居るあの女のです』
『何故お前はその兒を看てやって居るのだね』
『彼女から頼まれたんです、彼女は死にかかって居るんです』
私の推量が誤って居たにせよ、私は同じ精神を持って彼女と語った。私は彼女の何人であるか、及び如何にして彼女がかかる状態に沈淪して来たかを訊ねた。彼女は喜んで、そして甚だ率直に、彼女の物語をして聞かせた。彼女はモスクワの社会の下級階級に属して居た工場の働き人の娘であった。彼女は孤児となって残された。そしてその叔母の養女となった。そこから彼女はしばしば料理屋を訪う様になった。叔母は今はもう死んでしまって居る。
私は彼女に、彼女の生活の方針を変えることを欲するかどうかを訊ねた。けれどその問いは彼女の感興をさえ惹起させなかった。全く不可能であることにつける想像が何人の感興を喚びさまし得ようぞ、彼女は微笑した、そして言った。
『誰が黄色の切符を持って居る私を引きとって呉れましょう』
『だが』私は言った。『料理人とかその他何かそう言ったような職業が見つかることが出来るとしたら?』私はこれを言ったのは、彼女が、親切な、魯鈍の、丸い顔をした強健な女であって、私が今迄見た多くの料理人とは似てもつかない様な女であったからである。
私の言葉が彼女を喜ばさなかったのは明白である。彼女は繰返した。『料理人ですって……だって私はパンの焼き方を知らないんですもの』
彼女は戯談らしく語った。しかし彼女の顔の表情は明らかにそれを喜んで居ないことを示して居た。料理人と言うものを自分よりも下の者の様に考えて居たことも明らかである。
福音書中の寡婦の様に、最も単純な方法で、病める女の為めに彼女のもてる凡てのものを捧げたところのこの女は、それと同時に、この種の職業にある他の女と共に、労働をして居る男や女を、自分よりも下等な卑しむべきものだと思って居るのである。彼女は働くことなくして生きる様に教えられた――彼女の友の凡ゆるものが極めて自然なことと考えて居るところの生活である。これは彼女の不幸であった。これが為めに彼女は現在の状態にまで沈淪したのである。そしてそれに縛り付けられたのである。これが彼女を料理屋に携え来たったのである。我々、男子或いは女子の誰がこの誤れる人生観から救い出し得ようぞ。労働の生活は怠惰の生活よりも尊重すべきであると言う事を確信して居る人がある。そして誰がこの確信に従って生きて居るか、そして誰がこれをもって彼等の評価や尊敬の標準となして居るか。
若し私にしてこのことに就いて考えたならば、私は、私も、私の知って居る他の人も、この疾患から何人をも救い出し得ないと言うことを了解すべきであった。
あの隔壁の上に現れたそれ等の驚異や覚醒の顔は、単に彼等の上に示された憐憫に対する驚愕であって、その生活を改善せんと欲する意志でなかったことを了解すべき筈であった。彼等は彼等の不道徳を見ない。彼等は彼等の排斥せられ非難されて居るのを知って居る、しかし彼等はその何の為めであるかを知らない。こんな風にしても、彼等は彼等の様な女の間で幼年の頃から過ごして来た。そしてその種の女は今までも常に存在したし、今も存在して居るし、また社会にとっては必要なので、政府は彼等が法規に従って生きて居るかどうかを見る為めに官吏を任命して居ると言う事を熟知して居る。
のみならず彼等は男子の上に勢力を有し、男子を征服し、そしてしばしば他の女よりもより(ヽヽ)多く男子を左右することを知って居る。彼等はまた、社会に於ける彼等の位置が、彼等が常に非難されて居るにも拘わらず、男子並びに女子及び政府によって認められて居るのを知って居る。それ故に彼等は何を悔い改めなければならぬか、如何なる点を改善しなければならぬかを了解しない。
私達の巡回のうちに、学生は私に、長屋の中のあるところで、13になる娘を売ろうとして居る女のあることを告げた。この少女を救わん事を欲して私はその長屋の方へ行った。
母と娘とは非情な貧窮の中に住まって居た。40歳になる小さい色の黒い醜業婦である母は、単に醜いと言う位のものでなく、寧ろ不快な程醜かった。娘もまた同じように醜であった。
彼等がどんな生活をして居るかと言う事に関する私の間接的な凡ゆる問いに対して、母は明らかに私が何か悪い企み(ヽヽ)をして居るとでも感じて居る様に、疑惑と憎悪との様子を持って、無愛想に答えた。娘はまず母の顔色を窺わないでは何事をも言わなかった。疑いもなく彼女は母に絶対の信頼を置いて居るのであった。
彼等は私の心の中に愛隣の情を起こさしめないで却って嫌悪の情を起こさしめた。しかし私は、彼女の娘を救うことや、これ等の女の悲惨なる状態に同情し、且つここに来るかも知れないところの、貴婦人社会の注意を喚起することが必要だと決心した。
然しながら、若しも私にして、彼女の母の素性を考えたなら、如何にして彼女はその娘を生んだか如何にして養い且つ教育したか(確かに何等外側からの扶けによらず、自らの大なる犠牲によってであるところの)を考えたなら、若しまた、女の心の中に於いて形成されて居る人生観に就いて考えたなら、――私は、彼女の行為に於いて、何等少しも悪くて不道徳なところのないのを了解すべきであった。何故なら彼女は彼女の娘の為めに彼女のなし能う限りの事を、即ち彼女にとって最善だと考えたことを、なしたのを見るからである。
この娘を無理に彼女の母から奪い去ることは出来る。しかし娘を売ろうとして居るのは悪いことだと言うことを信じさせるのは不可能である。万人によって是認せられて居る生活状態、それに従えば、女は結婚もせず働きもせず、ただ情欲の充足にその身を捧げれば良いのだと言う生活から、この女を、――この母を救うのが第一の必要である。若し私にしてこのことを考えさえしたら、この女を救わんが為めに私の送ろうとして居る貴婦人が、ただにその家庭的義務を避け、怠惰な肉欲的生活を送って居るばかりでなく、同じ生活の様式で、その娘を意識的に教育して居ると言うことに気がつく筈であったのである。一人の母はその娘を料理店に送り、他の母はこれを朝廷や舞踏会に送るのである。しかしこの二人の母によって抱かれて居る世界観は全く同じである。即ち女は男の淫欲を満足せしめねばならぬ、そしてその故に彼女は養われ、着物を作ってもらい、大事にされるべきであると言う想念である。
然らば、如何にして我々の貴婦人たちはこの女やその娘を救い得ようぞ。

更に奇怪なことは私の児童に対する取扱い方であった。慈善家としての私の役割に於いて、私は子供にもまた注意を払った。そして罪なき子供がこの洞窟に於いて淪落することから救おうとした。私は、後に自らこの事に当たろうと思って、彼等の名を書きとめておいた。
これ等の子供の中でも、私の注意は特に、12歳の少年のセリコーザに惹きつけられた。この少年はある靴工と一緒に住んで居たが、彼の主人が獄につながれてからは住むべき家もなくて残された。私は心からこの悧巧で聡明な少年を哀れんだ。私は彼のために何かしてやりたいと思った。
私は今、この場合に於ける私の慈善の結果に就いて語ろうと思う。何故なればこの少年の物語は、何よりもよく、慈善家としての私の誤れる地位を示すものであるから。
私はその少年を自分の家に連れて行って、台所に使うことにした。私は、堕落の洞窟から連れて来た虱だらけの子供を私の子供のところへ住まわすことが出来るだろうか。私は彼を私の奴僕と一緒に居らしめることを非常に親切なことだと思った。私は彼に私の古い着物をやったり食を与えることをもって自分を非常な博愛家のように思った。それをなしたのは私と言うよりは私の料理人であったとは言え。少年は私の家に一週間ばかり止まって居た。
この一週間の間に私は彼を二回見た。そして彼の側を行き過ぎる時に一言二言話しかけた。街に出た時には私の知って居た靴工を訪ねて少年を年期徒弟にしてくれないかと頼んだ。私の家に訪ねて来た一人の百姓は彼の村に行って、どこかの民家で働かないかと少年を誘った。少年はそれを拒んだ。そして一週間以内に逃亡してしまった。
私は彼を探してルザノフの長屋に行った。彼はそこに帰って居たが、私の訪ねた時は家に居なかった。彼は既に2日間動物園に行って居た。一日30コペックで雇われて、象を導きながら野蛮人の服装でその行列の間に雑って居た。その時、ある見せ物がそこで行われて居たのである。
私は再び彼を見に行った。けれど彼は明らかに私を避けた。若し私にしてこの少年の生活と私自身の生活とを反省したならば、この少年が愉快な怠惰な生活の甘味を舐めた事によって害され、労働の習慣を失ったと言うことを了解すべきであった。しかも私は彼に恩恵を施し彼を改善せんが為めに、私自身の家に彼をひきとったのである。而して彼はそこで何を見たか。彼はそこで、彼よりも幾分年上や年下やまたは同年輩の私の子供達が自分では何一つしないで、能う限り多くの仕事を他人に負わすのを見たのだ。彼等の周囲にあるものは何でも汚くしたり損ねたりする。凡ゆる種類の珍味を食べ過ごし、磁器を壊し、彼にとってはご馳走であるべき食物をひっくり返して犬に投げ与える。若し私が、彼を洞窟の中から救い出して来て、立派な所に連れて来て置くならば、彼はそこに存在して居る人生観に同化しないで居るわけには行かない。そして彼はこれ等の人生観に従って、人生は尊敬すべき地位に在っては働くことなくして住み、よく食いよく飲み、そして快暢な生活を送らねばならぬのだと了解する。
まことに彼は、私の子供達がラテンやギリシャの文典の科外研究に多くの労力を費やさねばならぬと言うことを知らなかったのであろう。そして彼は、斯かる仕事の目的を了解することが出来なかったろう。しかしながら、若し彼がそれを了解したとするならば、私の子供達の彼に及ぼす影響は更に大であるべきは、何人と言えどもこれを見逃がす訳には行かない。その時彼は、彼等が今迄かかる方法で教育されて居た事、現に働かないで居ること、そしてまた、今後と言えども出来る丈け少なく働き、そして卒業免状のお陰で、生活の幸福を享楽するであろうことを了解したであろう。
しかし彼がそれに就いて了解した事は、彼をして家畜の世話をしたり、馬鈴薯やクワス酒で口を糊するところの百姓家には行かしめないで、野蛮人の服装をして象をひっぱっ(ヽヽヽヽ)てまわるのに、一日30コペックスの賃銭で動物園に雇われて行く様にした。自分の子を全くの怠惰と贅沢との間に教育して居る者が、他人や他人の子を改善せんとしたり、私がルザノフの洞窟と言って居るところで、破滅と懶惰に堕ってしまうことから救おうとすることの如何に愚かなことであるかを了解すべきであった。しかもそこでは彼等の中の四分の三は自己のために働き、また他人のために働いて居るのである。だがその時私はこれ等の何者をも了解して居なかったのである。
ルザノフの長屋には、最も哀れなる境遇に在る多くの子供が居た。そこには娼婦の子があった。孤児があった、そして乞食に連れられて街道を経巡る子供達があった。彼等は凡て非常に落ちぶれて居た。しかしながらセリョウザに於ける私の経験は私の今送って居る様な生活を続けて居る限り、私は彼等を救い得ないのだと言う事を教えて呉れた。
この少年が私たちと一緒に生活して居た間、私は私たちの生活の仕方を、殊に、私の子供達のそれを、彼から隠そうとして気を揉んだことを覚えて居る。彼を善良な、そしてよく働く子としようとする私の凡ての努力は、私の手本や私の子供たちの手本によって、すっかり(ヽヽヽヽ)無効に帰したのを感じた、一人の子供を娼婦や乞食の手から取って来るのは甚だ容易である。若しまた金さえあれば、彼を洗い、彼に新しい着物を着せ美しいものを食わせ、そしてまた別種の礼儀を教えることさえ決して困難ではない。しかしながら、彼に如何にして生活の料を儲けるかを教えると言うことは、我々の如く、自分でそれを儲けるどころではなく、その反対をして居る者にとっては、まさに困難であるばかりでなく、寧ろ不可能なことである。何故ならば、我々の実例と、我々には三文の価値もないのだが、彼等にとっては非常な上進であるところのこの、生活の様式の変化とによって、我々は彼に全くその反対を教えるからである。
君は一匹の子犬をとって、それを愛養し、君に物をもって来させ、そしてそれを見て喜ぶ。しかしながら、人はこれを食わせたり着せたり、ギリシャ語を教えたりするばかりで十分でない。君は彼に、如何にして生きるべきかを教えねばならない、即ち、如何にして成るべく少ない他人から取り、成るべく多く他人に与えるかと云う事である。しかも我々は、我々の生活の形式に於いては、彼を我々の家に連れて来ようとも、或いは彼を育て上げる為めに我々の家に連れて来ようとも、全くその反対を教えずには置かないのである。
一○
私は今だ嘗て、かの(ヽヽ)リアピンの宿泊所に於いて私の感じた程、人間に対する惻隠の情や、自己に対する嫌悪の情を経験したことがない。私は今や既に始めた計画を実行し、そして私の会った人々に善を成そうとする願望でもって充たされた。
そして言うのは何だか可笑しい様だが、善を為し、また金に困って居る人にそれを与えると云う事は、たとえ善い事であっても、また人々を普遍的な愛に向くべきである様に見えても、それは全くその反対になると云う事である。苦い感情がそれによって惹起せられ、そして彼等を非難するような傾向が起きる。最初の巡視に於いてすら、リアピン宿泊所に於けると同じ光景が起こった。けれどそれは同じ効果を生むには至らなかった、非常に違った印象を生ぜしめた。
まずそれは、即刻の救助を要するある不幸な人――二日間食を摂らなかったある女――をその長屋の一つの中に見出したと言うことから始まる。
それはこうして起こったのだ。ある非常に大きい、殆んど空っぽの長屋の中で、私はある年とった女に何も食べないで居る様な、そんな不幸な人が居ないかと訊ねた。年とった女は暫くためらった後、二人を示した。それから、急に思い出したかのように『ここにそんなのが一人居まさあ』と一つの藁褥(パレット)を指示しながら彼女は言った。そしてまた付け加えた。『この人は実際何も食べるものがないんです』
『そんなに言うものじゃない。彼女は誰だね』
『彼女は淫売だったんですが、今は誰もかまわないんで何にも儲けることが出来ないんです。屋主女(やぬし)も今迄は可哀想がって居ましたけれど、今はもう出したがって居るんです。――アガフイヤ、これアガフイヤー』と年寄りの女が叫んだ。
私たちはもう少し近くまで進んで行った。そして藁褥から何か起き上がって来るのを見た。これは、汚れたつづろ(ヽヽヽ)の婦人シャツを着、奇妙に輝くどんよりと瞶めた様な眼を持って居る、骸骨の様に痩せた、そして灰色の髪の毛を乱して居る女であった。その女は凝乎と我々の方を瞶めた、そしてその骨だらけの胸を被うために後ろの方に寄った短衣(ジャケット)を、引寄せながら『何だね、何だね、』と犬の様に呻った。
私は女に、如何して生きて行くのかを訊ねた。最初、女は私の言葉の意味を了解する事が出来なかった。そして言った。『自分でも知らないんです。私は追い出されようとして居るんです』
私は再び訊いた。そして、まあ何と恥ずかしいことであるか、私の手は殆んどそれを書くことが出来ない。私は女に かれが飢えて居ると言うのは真個か何うかと言うことを訊ねた。女は同じ熱病的な興奮的な態度で答えた。『私は昨日何も食べなかったんです、今日も食べないんです』
この女の悲惨な様子は深刻に私を感動せしめた。しかしリアピン宿所に於けるのとは全く違った風にであった。あそこでは私は、彼等に対する憐憫から、当惑と羞恥とを感じた。しかしここでは、遂に私の求めて居たもの――飢えたもの――を見出したことを喜んだ。
私はその女に1ルーブルを与えた。そして他の人々がそれを見て居たのをどんなに嬉しく感じたかを私は覚えて居る。
年寄りの女もまた私に金を請うた。それが必要であるかどうだかを考えもしないで、彼女にもまた、いくらかの金を手渡した程、私は与えることを喜んだ。彼女は戸口のところまで私に従いて来た、そして廊下に居た人々は如何に彼女が私に感謝したかを聞いた。恐らく貧民につける私の質問が何等かの期待を惹起したのであろう、二、三の同居人が居るところで私の後に従いて来た。
金銭を請うた者の中には、私に最も不快な印象を与えた明白な酔漢があった。しかし一度年寄りの女に与えた以上、それを拒む権利がないと私は思った。で、私は更に多く与え始めた。これは益々多く嘆願者を増すばかりであって、全長屋を通じて一つの大混乱を巻き起こしめるに至った。
梯子段の上や廊下の内は、私の後を追う人々で充たされた。私が庭へ出て来た時一人の少年が人々を押しわけて、ちょこ(ヽヽヽ)ちょこ(ヽヽヽ)と敏捷く梯子段を走下りて来た。私には気づかないで彼は慌てて言った。
『あの人はアガフイアに1ルーブル与ったよ』
庭まで降りて来てから、彼もまた、私に従いて来て居る群衆の中に雑った。私は街道まで出た。凡ゆる種類の人々が私を取り巻いて金を請うた。持って居た銅貨をみんな(ヽヽヽ)与えてしまったので、私はある店に行って10ルーブルの両替を請うた。
リアピン宿泊所で行われた様な光景がここでもまた起った。恐るべき混乱が続いて起った。年寄りの女、身すぼらしい紳士、百姓、子供、凡ゆるものが店の周囲に押し寄せて救助を乞う手を展ばした。私は与えた。そして彼等のうちのあるものに、その職業や生活の方法を訊ね、総て雑記帳のうちに記した。店主は外套の毛皮のカラアを折上げて塑像の様に座って居た。そしてちょいちょい(ヽヽヽヽヽヽ)群衆を眺めたり、遥か前方を瞶めたりなどした。明らかに彼は他の凡ゆる人の様に、これは凡て全く愚かなことであるのを感じて居た様であるが、敢えてそう話すことはしなかった。
リアピンの長屋では、人民の悲惨と屈辱とが私を圧倒した。そして私はそのことによって自分を非難した。のみならず、自分がより善い人間に成り度いと思いまた成れると思った。だが、ここではその光景がそれと同じいのに拘らず、全く異なった感情が私の中に起った。第一に私は、私の方に押し寄せて来た多くの人々に向かって憤りを感じた。次には店の人々や門番たちが私に就いて何と感じるであろうかを怖れた。その日私は重い気分で家に帰った。私は自分が愚かで、自家撞着の事を為したのを知った。しかし私の良心の悩んで居る場合の例として、私は、恰も少しもその成功を疑って居ないかの様に益々多く私の企てて居る目論見を語った。
次の日、私は独りで、手帳の中に記して置いた、そして最も悲惨らしく見えた人々の所へ行った。彼等は他のものによりはもっと容易に救い得るものと私は思って居た。
既に記述した様に、これ等の人民の中に何人をも、真に私は救い得なかった。それを成すことは私が想像して居たよりは困難になった。どうしてそれを成すべきかを知らないか、それともそれを為すのは不可能であったかなのである。
最後の巡視までに、私はしばしばルザノフの宿泊所に行った。そしてその度毎に同じことが起った。私は男や女の群衆に押し寄せられた。そしてそれ等の人々の間で全く失心してしまった。
そこには余り沢山の人が居るので、何とも出来ないのを私は感じた、そして私は彼等が余りに多いので腹を立てた。のみならず、これを別々に引離して見る時、何等の同情も私の中には起って来なかった、私は彼等の中の何れもが嘘を吐いて居るのを感じた。少なくとも曲説して居り、私を単に、その中から金を抽き出すべき財布の様に思って居るのを感じた。私にはまたしばしば私から奪い取った金は、当に彼等の地位を改善しないばかりでなく、益々悪くするに過ぎない様に見えた。
これ等の長屋に行けば行く程、同居人との交渉が深くなればなる程、何をするのも不可能であるのが明らかになった。しかしそれにも拘らず、私はこの計画を、戸籍調査の最終の日の夜までも止めなかった。
私はこの訪問を他の訪問の何物よりも恥ずかしく感じる。前には私は一人で行った。しかし今度は20人も一緒に行った。この最後の巡視の仲間入りを欲した者共は、その晩の7時に私の家に集まり始めた。彼等の中の殆んど総ては知らない人であった。数名の学生、一人の官吏、そして二人の私のハイカラ女たち、その人は平常の決まり文句“Cis tres in teressant”(それは大変面白い)を繰り返した後に、戸籍調査官の一つに加えられることを私に請うた。
私のこれ等のハイカラ友達はギリシャ服や踵の高い旅行靴の扮装であった。そんなところを訪問するのにはそれの方が彼等の通常の服装よりは似合って居ると考えて居るのである。彼等は特異な手帳や異常な風をして鉛筆を持って居た。彼等は丁度、人が狩猟か、賭博か、若しくは戦争に行く時の様な精神の興奮状態にあった。彼等を見るに至って、私は、我々の企画の虚偽と愚かさとを、益々明らかに見た。しかしながら、我々は総て同じ滑稽な地位に居ないか。
出立前に我々は参謀会議とでも言った様な会議をした。そして何うして始めるべきであるか、どんな風に部門を分けるべきであるかなどと言う事を相談した。この会議は凡ゆる他の官庁の会議や集会や委員会などと少しも変わったところはなかった。何れも皆、何か言わなければならぬ、若しくは請わなければならぬことがあるからではなしに、ただ他人に後れをとらざらんが為めに何か言うことを見出そうと試みるところからして語ったのだ。しかしこの会議中、何人も私がかくもしばしば説き及んだところの慈善の行為に就いて語る者は一人もなかった。そしてたとえ私は非常に羞恥を感じて居たとは言えこの巡視中に、困窮の状態にある凡ての者の名を書きとめて置く様にして、我々の慈善計画を遂行しなければならぬと言うことを注意して置くのが必要だと思った。
私は常に、これ等のことを語ることを愧じた。しかしここでは、この探検の為めの匆卒な準備の最中に、辛うじて一語を発することが出来た。みんな私に聴いた、そして感動した様に見えた。そしてみんな言葉の上では私に同意した。だが、確かに彼等の各々はその愚かなことで、何にもならないと言うことを知って居た。そこで彼等は直ちに他の題目に就いて語り始め、遂に出発の時までそれを続けた。
我々は陰暗な旅亭に来た、給仕を呼んだ、そして我々の文書を整頓し始めた。我々は、ここの人民が、この巡視のことを聞いて、その長屋を立ち退こうとして居ると言うことを聞いた。我々は家主にその門を閉じることを請うた。そして我々自ら庭に行って、遁げようとして居る者共に説いて、誰も彼等の旅行券を見ようとして居るのではないと保証した。
不思議なそして苦しい印象が驚愕するこれ等の宿泊人によって起こされたことを、私は記憶して居る。半分裸であるような襤褸を纏った彼等は、暗い庭内に在る軒燈の光によって、みんな丈高い人の様に私には見えた。恐懼のためにちぢこ(ヽヽヽ)まって居る彼等は、病気を醸しそうな離小屋の周囲に小団をつくって立ち、そして我々の言を謹聴した。けれど我々を信じなかった、そして猟犬に追いつめられた動物かなんかの様に、何とかして我々から逃れ去ろうと努めて居た。
凡ゆる種類の紳士、町や田舎の巡査、検事や判事などは、始終彼等を、町や村に於いて、途上や街道に於て、旅亭や長屋に於て、狩りたてて居たが、突如として夜分にやって来て、ただ彼等の数を計えんが為めに門を閉ざしたのである。これを信ずるのは、野兎が、彼等を捉えんが為めにではなく、ただ彼等を計えんが為めに犬がやって来たのだと信ずることの困難であるのと同じであるのを見出した。
しかし門は閉ざされた、驚かされた宿泊人等は各自銘々の場所に帰った。我々は小さい組に分かれて巡視を始めた。私の組は、私のハイカラ友達と二人の学生とであった。ワアニャは提灯を下げ、大上衣と白いズボンを着て我々の前に行った。我々は彼に従いて行った。我々は私にはおなじみ(ヽヽヽヽ)の長屋に入った。その場所にも親しみがあった。その中のある人々にも親しみがあった。しかし大多数は私には新顔であった。光景もまた新奇で恐るべきものであった。――リアピンで見たのよりは更に恐るべき光景であった。総ての室は満たされて居た、総ての藁褥は占領されて居た、一人によってではなく、時には二人によって。その光景の恐ろしいと言うのは、お互いが押し合いへし合いして居るからである。男女の区別がなくごちゃ雑ぜになって居るからである。泥酔してない女の如きも男と共に眠って居た。子供のある多くの女は怪しき男と共に狭い寝床の上に眠って居た。
これ等の人民の身すぼらしい、汚い、つづろ(ヽヽヽ)の着物や恐怖の故に、光景は凄惨であった。特に余りそれが沢山あるので凄惨であった。第一の長屋も、第二も、第三も、第十も、二十も、そして極まりがない。至るところ、同じ悪臭、同じ息詰まる様な上気、同じ異性の混淆、酩酊する若しくは無感覚となった男や女。同じ恐怖、忍従、そして同じ罪が彼等の面上に印せられて居た。かくて私は、きっとリアピン宿泊所に於けるが如く、深く愧じ且つ悲しんだ。遂に私は私の成そうとして居る事の厭うべき愚かであり、それ故に不可能であるのに気付いた。斯くて私は、こんなことが何にもならないのを知って、彼等の名を書くことや色々の質問をやめた。
リアピン宿泊所では、私は他人の身体に恐るべき傷を見たような男であった。彼はその人のために悲しみを感じた。今迄、彼等を救わなかったことを愧じた。しかも彼はまだまだその悩めるものを扶けることを望み得た。しかし今や私は、薬を持って患者のところへ来て、傷を切開したところが、ただそれを寸断したに過ぎなくて、今までなしたことは凡て徒労であった事を悟り、彼の療治は無効であったことを告白しなければならない医者の様なものであった。
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