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トルストイ著「我等何をなすべき乎」31-40補注(完)

我等何を為すべき乎
トルストイ著 加藤一夫譯 春秋社
三一
『分業は存在する一切のものに遍通する法則である。それ故に、それがまた、人類社会にも存在しなければならぬ』と。それはそうであろう。しかし問題は尚残って居る。即ち、人類社会に現存して居る分業は、果たしてその存在しなければならぬ分業であるか何うかだと言うことである。そして人々が、分業を不合理且つ不正だと思惟して居る時に、如何なる科学も決して、人々が不合理且つ不正だと恣意して居るものを、続けて行かねばならぬと証明することは出来ない。
神学説は『権力は神より出ず』と言うことを証明した。まったくその通りであろう。しかし問題は尚残って居る。誰にその権力を与えられたか。エカテリナ女皇にか。まさにまた反逆者ブガチョフにか。如何なる神学的詭計も、この困難を解くことは出来ない。道徳哲学は『国家は単に個人の社会的発展の一形式である』と證明する。しかし問題はまだ残って居る。ネロやジンギスカンの国家も、かかる発達の一形式だと思惟され得るか、と言うことである。そして、如何なる超越主義者も、その困難を解くことは出来ない。
それは、科学的科学に就いて言っても同じである。分業は有機体及び人類社会の生活条件である。しかし、我々はこの有機体としての人類社会に於いて、分業をどんな風に考えなければならぬか。如何に科学が、縧蟲(サナダムシ)の細胞内に於ける分業を研究しようとも、その一切の観察は、人々の理性や良心の拒否する分業を、正当なものだと認めさすことは出来ない。如何に、研究された有機体内の細胞の分業が、信憑的であるとも、未だその理性を失って居ない人ならば、ある者が終生布を折って居なければならぬと言うことの正当でなく、またそれが分業などと言うものでなくて、人類の抑圧であると言うであろう。
ハァバァト・スペンサァ及びその他の人々は、ある町の全住民が織布者である時には、その織布者の活動は有機的分業のうちに在ると断言する。これを語る時、彼等もまた、神学者と同じ推理を用いる。即ち、そこに権力がある。だから、それはどんなものであろうとも、神から出て来たのである。そこに織布者がある。だから、彼等は分業の法則の結果として存在するのである。若し、その権力や織布者の地位が彼等自身にて創られたものならば、この議論にも幾分の道理はある。しかし、我々はそうでないのを知る。そして、それを創ったのは我々であるのを知る。果して然らば、我々はこの権力を神の意志によって立てたか、それとも、我々自身によって立てたか、また、これ等の織布者をある有機的法則の故に生ぜしめたか、それとも、何等かの他の原因によって生ぜしめたか、と言うことを確めるべきである。
ここに農業によってその生活の料を儲けて居る人々がある(それは万人の正になすべき固有の仕事である)。一人は鍛冶場を起こして自分の鋤を修繕する。彼の隣人が彼のところへやって来て、自己の鋤の修繕を頼み、そしてその代わりに、労力若しくは金を与えんことを約束する。第二番目のものも、同じ要求をもってやって来る。第三第四とやって来る。これ等の人々の社会に、分業の一形式が起こる。かくしてある人は鍛冶屋になる。
ある人はまた、自分の子供をよく教える。彼の隣人はその子供を携えて来て、彼等を教えることを彼に乞う。そして、こうして教師が出来上がる。しかし、鍛冶屋乃至教師は、ただ人民からそれを要求されるからこそして、鍛冶屋乃至教師となり、また、それを続けて行くのであり、人民が彼等の職業を要求して居る間だけ、鍛冶屋なり教師なりであり得るのである。若しも余り多くの鍛冶屋や教師が出来た場合や、若しくは、彼等の働きが、最早必要でなくなった場合には、彼等は直ちにその常識に従って、彼等の職業を投げ捨て、そして再び労働者となる。そしてこれは、正しき分業を破壊する様なもののない時には、始終また至るところで行われるところのものである。
そんな風に行動する人々は、その理性及び良心の何れによっても導かれて居るものである。それ故に、我々理性と良心とを付与されて居る者は、凡てかかる分業の正当だと言うことに同意する。而も、若し他人を強いて自己のために働かせることが出来ると言うところから、最早何等の需要もないのに、鍛冶屋が蹄鉄を作り続け、誰も最早教えを受けることを欲するものがないのに、教師が尚も教え続けることを欲する時には、その時こそ理性と良心とを付与されて居る凡ゆる公平な人々には、それは最早分業ではなくして、他人の労力の掠奪であると言うことが明らかである。何となれば、かかる分業は、最早、これをもって、その正不正を認知し得る唯一の標準――かかる労働に対する他の人の要求と、その労働のために捧げられる彼等の任意的報酬と――でもって満足に識別することが出来ないからである。而も、かかる余剰は、正しく科学的科学が、謂わゆる『分業』と名付けるところのものである。
人々は要求されないことをする、そしてそのために養われんことを請う。そして、それが分業だから正しいのだと言う。人民の主なる社会的禍害は――単に我々(ロシア国)に関してのみ言うのでない――無数なる政治官吏の遊民に在る。現時に於ける経済的不幸の主因は、英国の謂われる『生産過多』である。(即ちそれは、何人も要しない。そして何うしてそれから脱れていいか解らない程の、莫大なる物品の生産)凡てこれは、『分業』と言う奇妙な思想から出て来たのである。
何人も要しない靴を製造し続けて居ると言う理由のもとに、人々は彼を養わねばならぬのだと思惟して居る靴製造人を見るとは、実に不思議なことと言わねばならぬ。しかし我々は、明らかに人民に必要なる何者をも生産しないばかりでなく、却って彼の生産するものは何人にも要求されないのにも拘らず、大胆にも、尚も『分業』の理由のもとによく養われ、よく被せられる事を要求するところの、政府や教会や科学や芸術の士に就いては何と言っていいか。
世の中には、世間がその人の活動を要求し、そしてその人に酒樽と酒とが与えられるところの、魔術師と言う様なものがあるかも知れない。而も我々は、その魔術が何人にも要求されないのに、ただその技術を行はんことを欲するの故を以て、自らの養われんことを要求する魔術師の存在する事を想像し得ない。そしてこれは凡て、理性及び良心によってではなく、これ等の科学者等が斯くも一致の歩調をもって頼るところの、解釈によって定義されたところの、偽分業感から発生したのである。
実際分業は常に存在して居た。しかしそれはただ、人がその上に観察を下すと言うばかりでなく、彼の理性及び良心によって、それを定める時にのみ正しいのである。そして、凡ゆる人々の理性と良心とは、この問題を最も簡単にして最も確実になる方法で解決する。彼等は常に、ある人が他の人に特殊なる活動を請い、そしてその為めに自ら進んで他の人を養うことを申し出る程、その人の活動が彼にとって必要である時にのみ、分業の正当を認めると言うことによって問題を決定する。しかし、ある人がその幼年時代から30になるまでも、他人の肩に依りすがって生活し、その研学を終えた暁には、誰も彼に請いもしない非常に有用なことをなすと約束し、そして然る後、残余の生涯を何人も彼に要求しない何かを、今にし出かすと約束するばかりで、それ迄と少しも違ったことのない生活を続けるが如きは、決して真の分業ではない。却って、実際そうである様に、弱者の労働に対する強者の暴虐である。以前神学が神の預定と称し、哲学が避くべからざる生活条件と称し、そして今や科学的科学が労働の有機的分業と称するところのものは、凡て皆等しく、強者が弱者の労力を掠奪することである。
広く行われて居る科学の非常に重んじられる所以は、全くこの中にのみ存在する。この科学は今や怠惰に対する免許状の施与者となった。何となれば、彼女の殿堂に於いて、彼女のみが、社会的有機体の如何なる活動が寄生的であって、如何なる活動が有機体であるかを分析し決定するからである。恰も各人はそれ自らの理性と良心とに謀って、遥かに善く遥かに早く決定することが出来ないかの如くに……。
恰も以前に於いて、僧侶にも政治家にも、誰が他の人民にとって最も必要であるかと言うことが疑いを容れる余地のなかった様に、今や実證科学の信者にとっても彼等自身の活動は疑いもなく有機的である。と言うことに就いては疑う余地がないように見える。彼等の即ち科学及び文芸の代弁人は凡ての人類の有機体のうちで最も尊い細胞なのである。
彼等にして若し人々を堕落せしめないならば、古の僧侶や詭弁派が、彼等より以前になした様に、彼等をも、統治し食い飲み且つ享楽するに任せてもよい。
人々は理性的生物であるが故に、彼等は彼等より以前の他の人々がこの方面に於いて行ったことを利用して、善悪を識別し、真実にして更によき方途を求めながら、また、遅々としてではあるが、不断にこの途を歩み続けながら、悪と闘った。しかしその途を横切る毎に常に、別の欺瞞が彼等の前に表れた。そしてこの闘争は全く不必要であるから、彼等はよろしく人生の潮に降服すべきであると信じせしめようとした。第一には、古い教会の戦慄すべき欺瞞。少し々々、恐るべき闘争と努力とをもって人々はそれから脱れた。然るに、辛うじてそれを成し得たか得ない間に、その代わりに新しい欺瞞が表われた――国家的又哲学的欺瞞。
この新たなる欺瞞は、精密に古い欺瞞のやった通りである。その真髄は、理性と良心とに変わるに、一つの外面的なものを置き換えるところに成立するのである。外面的なものとは、神学に於いて天啓であった様に、科学に於いては観察と言うものである。
科学の罠はこの中にある。即ち、理性及び良心の、ある活動のある鉄面皮なる壊敗をさらけ出して、理性及び良心の何れに対する人々の確信をも破壊するのである。科学者は、彼等の虚言を科学的理論の衣でもって覆い隠し、そして、外的な現象を攻究することによって人間の生活法則を啓示するところの、不可抗の事実を攻究するのだと人々に保證する。理性及び良心の圏内に来るべき事物も今やただ観察によってのみ発見されるのだ。これ等の人々は善悪の概念を失ってしまった。そして斯くすることによって、凡て今迄の人類の間に行われたところの、善悪の表白や定義を了解することが出来なくなされた。
理性や良心が彼等に言った一切のこと、また開闢この方、人間最高の代表者に語った一切のこと、凡てこれ等は、彼等の通用語に於いては『条件的で主観的』である。凡てこれ等は打ち捨てなければならぬものである。
人は、理性によっては、真理を了解することを得ない、何となれば、理性は誤り易いからだと言う。そこには過つことの出来ない、殆んど機械的な他の方法がある――人は科学の根柢の上に立って事実を研究しなければならぬ。即ち最も疑うべからざる真理として提出される二つの根拠のない仮説、実證主義と進化論との上に立たねばならぬと言うのである。隆盛なる科学は、荘厳らしい様子を装って、人生の一切の問題の解決は、ただ自然の事実、特に有機体の事実を研究することによって得られると断言する。
軽信的な青年の群れは、この権威――破壊されたことのないばかりでなく、批評されたことすらもない――の新奇なのに征服せられて、(一代を支配して居る教理の保證に従えば)それのみが人生の一切の問題の説明にまで導き行くと言うところの唯一の道、即ち自然科学の事実の研究に走った。しかし、学生がこの研究を進めればする程、人生問題の解決の可能から遠ざかるばかりでなく、解決しようとする思想そのものをすら失う様になる。また彼等が言葉の上に表れた他人の観察を信じる程にも(細胞や原形質や物質の第四広袤などと言った様なものを信ずること)自分自身を観察しないことに慣れれば慣れる程、益々多く形式がその中心を隠す。善悪の意識を失えば失う程、また、今迄の人類の経歴を支配して来た善悪の表現及び定義を了解する力を失えば失う程、何等共通的な人類的意義をもって居ないところの、条件的と言う特殊な科学的通用語を自らに利用する様になる。何者かに隠されて、観察の深林に踏み入る程、独立的な思想の力を失うばかりでなく、彼等のタムルッド(ユダヤ教の所依の経典:訳者註)の中に包含されてない、他の人の清新なる人類的意志を了解することすら出来なくなる。却って、生活、即ち労働の習慣を失って、その最も善い時代を過ごし、そして自らの地位を是認されて居る様に思うに慣れ、かくて肉体的には何の役にも立たぬ寄生生活となり、精神的には頭脳を空虚にし、思想を生む一切の力を失うに至る。
かくて彼等の才能は益々鈍くされる。そして段々と自恃の習慣を獲得し、そのために単純なる労働生活や、人類の簡単明瞭にして共通的な思考法に帰る可能を永遠に掠奪してしまう様になる。
三二
分業は人類の社会に於いて常に存在して居た。そして私は敢えて言う、常に存在するであろうと。しかし我々にとっての問題は、それが存在して居ただろうかとか、尚も継続するであろうかとか言うことではなくて、何が我々を導いてこの分業の正当であると言うことを証明するであろうかと言うことである。
若しも我々にして、観察上の事実を我々の標準となすならば、我々は如何なる標準をも拒むことになる。何となれば我々が人々の間に見、そして我々には正当に見えるところの、凡ゆる種類の分業を、我々は正当だと思惟する。そして、これが今日隆盛を極めて居る科学的科学が、我々を導き行くところのものである。
分業!
『ある者は精神的及び霊的労働に従事し、他の者は筋肉的及び生理的労働に従事する』
何と言う確信をもって、人々はこれを説明して居ることであろう。彼等はそう考えんことを欲する、それ故に、明らかに古から行われて来た凶暴も、実際に於いては、立派な奉仕の交換の様に見える。
『汝』若しくは、寧ろ『 汝等』(何となれば、一人を養うものは常に多人であるから)――『 汝等は余を養い、余に被せ、そして余が汝等に要求するところの、そしてそれには汝等が幼児から馴らされて居るところの、凡てこれ等の荒仕事をなせ。然らば、余は既に余に馴れて居る精神的奉仕を汝等のためになすであろう。余に肉体の食を与えよ。その報酬として、余は汝等に霊的食物を与えるであろう。』
この宣言は公平である様に見える。そしてまた、若しかかる奉仕の交換が自由であるならば、まことにそうである。若し肉体的食物を供給する者どもが、霊的食物を得る前に、供給することを強いられないならば……。霊的食物の生産者は言う。『余がこの食物を汝等に与え得んが為めに、汝等は余に食わせ余に被せ、そして余の家から一切の汚物を運び去らねばならぬ』と。
然るに、肉体的の生産者は、何等、彼自身の要求をなすことも出来ずして、彼等の仕事をばなさねばならず、また、霊的食物を受けようが得まいが、その肉体的食物を与えねばならぬ。若しも交換が自由であるならば、条件はその何れの側に於いても同じでなければならぬ。霊的食物が肉的食物と同様に必要だと言うことには我々も一致する。然るに学者芸術家は言う。『我々が霊的食物を与えることによって、人々に仕え始めるを得る前に、我々は人々から、肉体的食物を供給されねばならぬ』と。
しかし、何故肉体的食物の生産者も斯く言ってはならないのであろう。『我々が肉体的食物をもって汝に仕え始める前に、我々はまず霊的食物を要する。そしてそれを得るまでは、我々は労働することが出来ない』と。
君は言う。『余は、余の提供しなければならぬ霊的食物を準備せんがために、耕作者や鍛冶屋や製本屋や大工や石屋やその他の労働を要する』と。
凡ゆる労働者もまた言うであろう。『あなたの肉体の食物を準備する為めに、働きに行く前に、私は霊の果実を要する。労働をする力を得んが為めに、私は宗教的教訓や、日常生活の社会的秩序や、労働にまでの知識の適用や、芸術の与うる慰籍などを要求する。私は、自分で人生の意義なんかに関する教訓を案出する時間がない――それを私に与えよ。私は、正義の蹂躙をとどめる日常生活の法律を研究する閑がない。これもまた与えよ。私は、機械学や自然哲学や化学や技芸学を研究する時間がない。如何に私の道具を改良すべきであるか、私の働き方や私の住宅や、その暖房具や燈器やを如何に改良すべきであるか、を教えた本を与えよ。私はまた、詩や、散文や、音楽を自分でやる時間がない。生活に必要なる昂奮と、慰籍と、を与えよ。芸術の作品を与えよ。』
君は言う、若し労働者が君のためになして居る労働を奪われたならば、君の重要な、そして必要なことが、出来なくなると。しかし私は言う、然らば労働者もまた宣告するであろう。『私にとってもまた、若し私の理智や良心の要求に適応する宗教的指導や、私の労働を安らかにする合理的な政府や、私の労働を軽減すべき知識や、それを高尚にすべき芸術の慰籍などを奪われたならば、私の重要な、そして必要な仕事、それはあなたのよりは重要でないとは言えない仕事(即ち耕作し廃物を運び去り、あなたの家を清潔にすること)をなすことが出来ない。今まであなたが私に霊的食料の形で提供してくれたものは、私にとってまさに何等の用をなさないばかりでなく、誰に果たしてそれが有用であるかをさえ了解することが出来ない。そして、凡ゆる人々にとって適当なる如く、私にとっても適当なるこの滋養分を受けない限り、私はあなたを養うべき肉体の食物を生産することを得ない』と。
若し労働者にして、斯くの如くに語るとするならば何うであろう。そして若し彼等にしてこれをなしたならば、これは戯談ではない。最も単純なる正義である。若しある労働者にしてこれを語ったならば、彼は精神的労働者よりは遥かに正しいであろう。何となれば、労働者によって生産される労力は、精神的労働者のそれよりは更に緊要にして更に必要だからである。また精神的労働者は、その与えんことを約束した霊的食物を与ふるに、何等妨げられることもないが、労働者が肉体の食物を与えるに当っては、彼自らが、それに欠乏して居ると言う事実によって妨げられるからである。
然らば、若しかかる単純にして合理的な要求が、我々の上に置かれたとするならば、我々精神的労働者は何と答えるべきか。何うして我々はこれ等の要求を満足せしむべきか。人民の宗教的要求を、フィラレットの問答書(キャテキズム)や、ソコロフの聖史や、修道院又は寺院から送られた文学をもって満足さすべきであるか。秩序に対する彼等の要求を、法典や、廃棄されたる各省の評決や、委員会及び委員の報告をもって満足さすべきであるか。そして知識に対する彼の要求を、スペクトラム分析や、銀河の観察や、思弁的幾何学や、顕微鏡的研究やスピリティズム説とミニュミズム説との争論や、科学学会の活動やなどの事を与えることによって満足さすべきであるか。彼等の芸術的要求を何うして満足せしむべきであるか。プーシキンやドストエフスキィや、ツルゲネフや、トルストイによってか。フランス国サロンの絵によってか、若しくは、裸体の婦人や、繻子や、天鵞絨や、風景を表現した我々の(ロシア国の)芸術家の絵によってか。家庭画によってか。ワグネルの音楽若しくは我々自身の音楽家のそれによってか。
凡てこれ等は全く無用である。まだ有用であり絵ない。何となれば、人民の労力を利用するの権利をもち、そして、彼等の霊的食料の準備に対する一切の義務を欠いて居る我々は、我々の行わなければならぬ単純なる目的を、全く見失ってしまったからである。
我々は何を労働者が要求して居るかをさえ知らない。我々は彼等の生活方式や、その物の見方をさえ忘れて居る。甚だしきに至っては、労働者その者の存在をさえ忘れてしまい、恰も何かこう人種学上の珍奇な事か、新たに発見された大陸かなんかの様に、それを研究する。我々は、我々自身に向かっては肉体の食物を要求し、自らは霊的のそれを分たんことを欲した。然るに仮想的な分業観――それに依れば、我々はまず我々の食事をとって、然る後に我々の仕事をなしてよいばかりでなく、幾時代も幾時代も、贅沢に食い、そして仕事をしなくてもいい――の結果として我々の肉体の食物の報償として有用なるある者を準備した。しかし、その有用なる或る者とは、我々自身及び科学や芸術にとってそうなのであって、その代わり智的食物を分与すると言う口実の下に、我々によって、その労力を消費させて居る労働者等にとっては、毫も有用ではないのである。まさに有用でないばかりでなく、全く了解すべからざるものであり、且つ甚だ厭うべきものなのである。
我々の盲目なことは、我々の労働は何のためになされて居るかをさえ忘れてしまった程にも、我々の上に負える義務を忘れさせた。そして、その人にまで仕えんと欲したその人民を、我々の科学的及び芸術的活動の対象となした。我々は、我々の快楽や娯楽の為めに彼等を研究し、そして描写する。しかし我々は、我々の義務は彼等を研究することでもなく、描写することでもなく、彼等に仕えんことであると言うことを、全く忘れてしまって居る。
我々はまた、我々が科学や芸術の部門に於いて企てた事を、他の人々がなして居る事や、我々の地位が、彼等によって占められる様になった、と言う事に気づきさえしない程に、我々の負った義務を見失ってしまって居る。
我々が総論に日を送って居る間に、――例えば、聖母懐胎論だとか、自然発生論だとか、スピリティズムだとか、原子の形だとか、多元論だとか、原形質だとかその他そういったものに就いて――凡てこうしたことの間にも、人民は依然として霊的食料を要求した。そして科学や文芸の未熟なるならず者(ヽヽヽヽ)は、その眼中全く事故の利得以外、何者もない種々の思弁家の注文に従って、この霊的食物をその人民に頒かち始めるに至った。
今やヨーロッパでは約40年の間、ロシアでは約10年の間、幾百万の書物や、絵や、歌が、流布された。展覧会は開かれた。そして人民は凝視し、歌い、そして智的食物を受けた(それを彼等のために支給しようと約束したものからではないが)。而も人民に支給せんことを伴って居る智的食料が、欠乏して居ると言う口実によって、我々自身の怠惰を弁明して居る我々は、静かに座して何等の注意を払うこともない。
しかし、我々は最早、それを成すことは出来ない。何となれば我々の最後の弁明は、我々の脚下から消え去ってしまったから。我々は特殊な部類を担当した。我々は我々自身の特殊な機能をもって居る。我々は人民の頭脳である。彼等は我々を養う、そして我々は彼等を教えんと企てる。ただこの事のためにのみ、我々は労働から免れる。然らば、何を我々は教えて居たか。彼等は待ちに待った。10年、100年。而も我々は尚、自分同士で語り合い、教え合い、慰め合い、そして全く彼等のことを忘れてしまっている。他の人々が、我々に代わって彼等を教え慰めて居るのに、分業に就いてペロペロ操って居て、全くこれに気づかないで居る程にも、彼等のことを忘れてしまって居る。そして我々が人民に提供する利益に就いての我々の談話が、単なる恥ずべき口実に過ぎないと言うことは明らかである。
三三
教会が我々の世界の智的生活を指導した時代があった。教会は人々に幸福を約束した。そしてその報償としては、生のための人類共通の闘争に加わることから自分を解き放った。
彼女(教会)がそれをなすや否や、彼女はその召命を捨て去った。そして人々は彼女に背いた。最初に彼女の破滅を致さしめたものは教会の誤りではない。コンスタンチンの時に、教会の牧師たちが、俗衆の力によって労働の法則を破壊したと言う事実の上に在る。それから、怠惰や贅沢に対する彼等の要求が、誤謬を生じせしめたのである。
この力を得るや否や、彼女は自分のことにかまい出した。そして彼女が奉仕しようと企てた人道に対することには関わらなくなった。教会の牧師たちは怠惰と堕落とに身を委ねた。
国家は、自ら人民の生活の指導者に任じた。国家は人民に、正義と平和と安寧と秩序と、日常の智的、及び、物質的欠乏の満足とを約した。そしてその報償として、国家に仕うものは生存競争の仲間入りから逃れ得た。かくて国家の奴僕が他人の労力を利用し得るに至るや否や、教会の牧師と同じ風に行動し始めた。
人民は彼等の眼中になかった。ローマに於いても、フランスに於いても、イギリスに於いても、ロシアに於いても、アメリカに於いても、上は国王より下は最下級の官吏に至るまで、彼等はみな、凡て自らを怠惰と堕落とに任ねた。今や、人民は国家に対する信仰を失ってしまった、そして無政府主義は、今や一つの理想として真面目に主張されるに至った。国家は人民の間にその特権を失った。ただその大臣たちが、自らその人民の能力を利用するの権利を要求したばかりに……。
科学と芸術もまた、彼等がそれを支持しようと試みた国家の権力によって扶けられて、同じことをなした。彼等もまた他人の労力を利用する権利と怠惰の権利とを要求し、そしてそれを獲得した。そしてまた、同じく彼等の職業に不忠実であった。彼等の誤謬もまた、彼等の教師たちが誤って思考された原理を楯にとって、人民の労力を利用する権利を要求し、斯くして彼等の使命の意義を失い、その活動の目的をして、人民の為ではなく、ただ科学及び芸術の、ある神秘なる活動たらしめたと言う事実から発足して居る。そしてまた彼等は、彼等の先駆者の如く怠惰と堕落とに没頭するに至った。たとえそれは智的退廃に於ける程にも、肉的には堕落しなかったとは言え。
科学及び芸術は、人類に貢献すること多大であったと言われる。
それは全く真理である。
教会及び国家が、人道(ヒューマニティ)に貢献するところの多かったのは、彼等がその力を濫用したからでもなく、その僧侶や宰相が、人民の共同生活や、生のための労働の義務を、排拒したからでもない。それはその他の事にある。
ローマ共和国の有力であったのは、その市民が堕落の生活を送り得たからでなく、彼等の間に、真に有徳なる人々を数え出すことが出来たからである。
科学及芸術に於ける場合もこれと同じである。
科学及芸術が人類に寄与するところの多かったのは、その教師たちが(以前に於いてはしばしば、現在に於いては常に、)自分たちを労働から逃れしめたからでなく、彼等の中の天才が、これ等の権利を利用しないで、人類の進歩を扶けたからである。
偽分業観をもって、他人の労力を利用する権利を要求する学者、及び、芸術家の階級は、真の科学及び真の芸術の進歩に貢献することは出来ない。何となれば、虚偽は真理を生み得ないから。
若しある学者及び芸術家が耕作したり、肥料車を引いたりするならば、我々は、それを非常に奇怪な事の様に思う程にも、かの飽食する、若しくは屠弱になった、智的労働者の代表に慣れて居る。我々は考える。若し彼等にしてその様なことをなさなければならぬならば、凡ては破滅に陥るだろうと。凡て彼等の智恵は彼等から振るいおとされ、彼等の胸中に秘めて居る偉大なる芸術設形象は肥料のために汚されるであろうと。而も我々は、我々の科学の教師たちが、即ち、真理の教師たちが、他の人民を強いて、彼等のために彼等自身で十分に出来ることをなさしめ、その生活の半分の時間を、飲食や喫煙や『自由派』や空談(おしゃべり)や、与太話や新聞や小説読みや、観劇やなどに過ごすことを不思議なこととは思わない。また、料理屋や劇場や舞踏会に於いて哲学者を見ることに驚かない。我々の心霊を喜ばしめ、高尚にする芸術家たちが、その生涯を、泥酔し、骨牌を遊び淫売婦を伴い、それよりももっと悪いことをして過ごすことを知っても、別に怪しみもしない程、我々の現在の境遇に慣れて居るのである。
科学や芸術は美しいことである。しかしそれが美しいものであればある丈け、それ故にそれを、自らの生活及び他人の生活に、労働を持って奉仕すると言う人類の義務を逃れるところの、堕落に結びつける事によって汚すべきではない。
科学と芸術とは、人類の進歩を扶けた。然りまことにそうである。だがそれは科学及び芸術の士が、分業の口実の下に、人類と自然との日常の闘争に於いて、自らの手をもってする人類最始の、そして疑うべからざる、労働の義務から遁れんが為めに、人民の不幸と苦悩とを、暴力によって利用することを(言葉によって、そして主としては行為によって)教えたからではない。
三四
『しかし』と君は言う。『我々が今日見るが如き科学に於ける異常なる成功を致さしめたものは、彼等をしてパンを儲ける必要から逃れしめたところのこの分業制そのものである。』
『若し万人が耕作をしなければならなかったならば、かかる巨大なる結果は得られなかったであろう。自然の上に人間の力を斯くも広げたこんな驚くべき成功は得られなかったであろう。人々の心を斯くも激動せしめ、航海業を発達せしめた天文学のそんな発見は、得られなかったであろう。汽船も、鉄道も、驚くべき橋梁も、隧道も、蒸気機関も、電信も、写真も、電話も、裁縫機械も、蓄音機も、電気も、望遠鏡も、分光器も、顕微鏡も、クロロホルムも、リスタァ包帯も、炭酸も存しなかったであろう……。』と。
私は、我々の時代がそれをもって誇りとして居る一切のものを数え立てようとするのではない。この枚挙や我々自身及び我々の偉大なる事業に就いて瞑想することの恍惚境(エクスタシー)やは、殆んど毎日の新聞や通俗書の中に見出すことが出来る。而してこれ等の恍惚郷は、幾度も幾度も繰り返された、そして我々は我々自身を讃美するのに疲れたことは殆んどない。かくて我々はジュル・ヴェルヌと共に、我々の時代に於けるが如く、科学及芸術の長足の進歩を遂げたことは決してなかった。そしてこれは全く分業によってのみ達し得られたのであるから、何うしてそれを奨励しないでは居られようか、と信ずる様になった。
我々をして、我々の時代の進歩が、真に驚嘆すべき異常なものであったと想像せしめよ。而してまた我々はかかる異常なる時代に生を受けたことの、特別なる幸運を負うて居ると想像せしめよ。しかし、我々をしてこれ等の成功の価値を、我々自身の自恃をもってせずして、分業の真の原理、即ち科学の奴僕をして、手工的労働から逃れしむるの代わりに、人民の利益のためにする科学者の智的労働をもって、定めるように努力せしめよ。
この進歩は実に驚くべきものである。しかし、ある不幸なる事柄のために、(科学者もまた、これを認めるところの)この進歩は、未だ労働者の境遇を改善せずして、寧ろ一層悪くした。
たとえ労働者が歩くことなしに、鉄道を利用することを得るとしても、彼の森を焼き、彼の口からパンを奪い、そして鉄道所有者にまで、殆んど奴隷たるかの如き境遇に置かしめたものは、この鉄道そのものである。
若し労働者が、(蒸気機関と機械とに感謝せよ)安い、そして悪い、キャラコを買うことが出来ても、彼から、彼の生活の料を奪い、そして彼を全く製造業者の奴隷のようにならしめたものは、この蒸気機関と機械とである。
若しそこに、労働者が使用してはならないと言うのではないが、ただ労働者がそれに払うことが出来ない為めに使用しない電信があるとしても、彼の製造した物品の価格が騰貴して居るのに拘らず、また、彼がその物品の需要されて居ると言うことをさえ知らない間に、電信に感謝せよ、彼の見て居るその目の前で、資本家のために、非常な安い値段で買い占められる。
若しそこに、蓄音機や、望遠鏡や、小説や、歌劇や、絵画陳列場や、その他、そうしたものがあったとしても、労働者の生活は、その中の何物によっても毫も改善されることはない。何となれば、凡てみな同じ不幸な境遇のために、それを如何ともすることの出来ないものだからである。
かくて遂に、これ等の驚くべき発見も、芸術の製作も、労働者の生活を悪くはしない迄も、決してそれを改善すると言うことはない。そしてこのことでは科学者は全て一致する。
かくて、若しも我々にして、科学や芸術によって獲得せられた成功の実質に関する問題にまで、自分の恍惚ではなく、分業の根柢が弁護されるところの真の標準を――即ち労働階級に有利であるところの――適用するならば、我々は尚今だ、我々が今好んでなして居る様な、自己満足を許すべき何等の確固たる理由を見出し得ないことを知るであろう。
百姓は鉄道を利用する。百姓の妻はキャラコを買う。小屋では松の瘤木が燃やされずしてランプが点火される。そして百姓はマッチをもって彼のパイプに火をつける。――凡てこれは愉快なことである。しかし、だからと言って、鉄道や工場が、人民に善をなしたとは何で言われよう。
若し百姓が鉄道を利用し、ランプや、キャラコや、マッチを買ったとしても、それは我々が、彼等のそうするのを禁じ得ないからの事の為めである。しかしながら我々はよく、鉄道や工場が彼等のために建てられたのではないと言うことを知って居る。然らば、何でこれ等の労働者の、偶然な機会によって時たまに得られる快楽が、人民に対するこれ等の制度の有用の証拠とされねばならぬか。
我々はまた、若し鉄道若しくは工場を建てるところの技師や資本主にして、労働者のことを念頭に置くことがありとしても、彼等はただ、何うして最も多く、労働者を利用し得るかと言うことを考えて居るに過ぎないことを知り抜いて居る。そして我々は、ヨーロッパに於いてもアメリカに於いてもまたロシアに於いても、彼等がそれをなすに十分な成功を収めたことを知って居る。
凡ゆる有害なものの中にも何か有用なことはある。家が焼かれた後にも、我々は、そこに座して自分を温めることが出来、また、その焼け木杭(やけぼっくい)の一つからパイプに火を点けることが出来る。しかしそれだからと言って、我々は火炎が有益だとは言うことが出来ない。
何を我々はなそうとも、自らを欺かざれ。我々は凡て、鉄道や工場を設立したり石油や燐寸を生産したりすることの動機をよく知って居る。技師は、政府のためには戦争を容易にせしめんが為めに、資本家の為めには彼等の経済的目的のために鉄道を敷設する。彼が製造工業者のために、器械を製造するのは、彼自身の利益のためであり、また、資本主の利益のためである。彼の製造したり計画したりすることは、凡てみな政府のため、資本主のため、また、その他の富める者のためである。彼の最も巧妙なる発明は、大砲や、水雷や、密室監獄等の如く、人民にとっては直接的に有害であるか、然らずんば、電燈だとか、電話だとか、その他無数の便利品の如く、人民にとっては無用であるばかりでなく、全く及び難いものであるか、或いは又、人民を堕落せしめ、彼等からその最後の金、即ち最後の労力を、酒や、葡萄種や、ビールや、阿片や、煙草や、晴れ着や、その他凡ゆる種類の小品の為めに奪ってしまうからである。
しかし、時としては科学者の発明や、技師の仕事が、例えば、鉄道やキャラコや鋼鉄や鎌やなどの如く、人民に有用な事もあるが、それはただ、我々のこの世界に於いては、一切のものは互いに関連して居り、そして一切の有害な行動の中からでも、それが有害に作用(はた)らきかける人々に向かって、時たまには善が生まれると言うことを証明するばかりの事である。
科学者及び芸術家は、ただ若し彼等の活動が、恰も彼等が、政府や資本主に仕えることを目指して居る様に、人民に仕えることを目的として居たとするならば、人民に有益であったと言うことを得たのである。
若し科学者及び芸術家が、人民の要求を彼等の目的とさえしたのならば、我々はそう言うことが出来たのである。しかし事実は決してそうではなかったのである。
凡ての学者は、原形質の発明や星の分光器的分析などに導き行くところの、彼等の聖職に従事して居る。しかし何うして鎌に刃をつけるかとか、どんな種類の斧が木を伐るのによいかとか、どんな鋸が最も使いよいかとか、どんなパン粉でパンを作るべきであるかとか、何うすれば最もよく捏ねられるかとか、何うすれば膨らますことが出来るかとか、どの様にして暖炉を温めたり据付たりするかとか、どんな食物や飲み物や陶器が用いるのに最も便利が良いかとか、どんなに菌類は食べても良いかとか、何うしたらば便利にそれを食い得るかとか、言った様な事に関しては、科学は決して自ら労することがない、若しくは殆んどそんなことはしない。
而も、凡てこれ科学の任務である。
それ自身の定義に従って行ったならば、科学は無用でなければならぬことを知った。これは単に一つの口実である、而も非常に厚かましい口実である。
科学の任務は人民に奉仕することである。我々は電信や電話や蓄音機などを発明した。しかし如何なる改善を人民の生活の上に行ったか。我々は200万の昆虫の目録を作った。しかし我々は聖書の時代からこの方、一疋の動物を馴育したことがあったか。凡ての我々の家畜は馴育されたものである時に……。そして今も尚、糜や、鹿や、鷓鴣や、松鶏や、山鷸などが野生のままである時に……。
植物学は原子を発見した、そしてその中には原形質と原形質のうちには何か他のものを、そしてまた、その中にもまた何か他のものの存することを発見した。
これ等の仕事は長く続くであろう。そして決してその終局のないのは明らかである。それ故に学者は何か有用なことをする閑がない。小麦はレンズ豆の既に耕作されて居た古のエジプトや、ヘブリウの時代からこの方、今日に至るまで、馬鈴薯を除いての外、ただの一つの植物も人民の栄養のために加えられたことはない。而もその馬鈴薯でさえ、科学によって発見されたのではない。我々は、水雷や、屋内排水渠や、を発明した、紡車(てぐるま)や、鋤や鎌の柄や、連伽や、熊手や、バケツや、桔楻竿(はねつるべざお)やなどは、依然としてルウリクの時代と同じである。若し何かが改良されたとしてもそれを改良したものは学者ではない、無学者である。
芸術に就いて言っても同じである。多くの人々は偉大なる作家として喝采された。我々は入念に彼等の作品を分析した。山なす批評を書いた。そして批評の批評を書いた。我々は美術館に絵を蒐めた。そして欠くるところなく、その諸派の芸術を詳細に研究した。そしてまた我々は我々自身でさえ、非常な困難をもってやっと聴き得るが如き、交響楽や歌劇を有って居る。而も我々は、何を人民の俗伝や、伝説や、物語や、歌謡に加えたか、何の絵を、何の音楽を、我々は、人民のために加えたか。
人民のための、書物や絵画は出版せられ、小風琴は製せられた。しかし我々は、その何れにも与ったことはない。
最も顕著にして明白なることは、我々の科学及び芸術の誤れる傾向である。それは実に、彼等自身の命題に従えば、人民に有用である様には見えるが、この傾向に従えば、有用であるよりは寧ろ有害である様に見えるところの、それ等の部面に、自らを現わすところのものである。技師や、外科医や、教師や、芸術家や、著者やは、その職業上、人民に仕えねばならぬ様にされて居るらしく見える。しかし、何を我々は見るか。現代の傾向では、彼等の人民にもたらし得るところは、害毒より外の何者でもない。技師と器械とは、資本と共に働かねばならぬ。資本なしには、彼等は全く何者に向かっても無用である。
全て彼等の仕入れは、それを用いんが為めには資本を要し、大多数の労働者を雇わねばならぬ性質のものである。彼等自身では、年平均千ルーブル乃至千五百ルーブルを費やすに慣れて居て、何人もかかる多額の報酬を与えないが為めに、田舎に住みに行くことを得ないと言うのは、言うまでもない。だから彼等の職業柄よりして、彼等は人民に仕えるには適しないのである。
彼等は、橋の拱門を高等数学によって計算することを知って居る。蒸気機関の力及び力の伝達の計算の仕方も知って居る。しかし彼等は、普通の労働の簡単明瞭なる要求に答えることには失敗する。彼等は如何にして鋤や荷車を改良すべきかを知らない。若しくは、労働者の生活状態を勘定のうちに入れて、小川を通じせしむるには何うしたらよいかを知らない。
彼等は実に最も貧しい百姓たちが知り、且つ了解する程度にも、凡てこれ等のことを知り若しなければ、了解もしない。彼等に工場や多くの人民を与えよ、外国に蒸気機関を注文せしめよ。彼等はよくこれ等のことを整理することが出来る。しかしながら彼等は、幾百万の労働者の、今日の如き状態に於ける労働を、如何にして軽減すべきかを発見することを知らない。また発見することを得ない。それ故に彼等の知識から言っても、仕事や習慣から言っても、また、要求から言っても、彼等は毫もこの仕事には適しないのである。
外科医は更に悪い状態に在る。彼の仮想的な科学は、ただ何事もしないで他人の労力を利用し得る人々をのみ如何にして治療すべきかを了解し得るが如き性質のものである。彼は、彼が科学的に活動し得んが為めには、数限りもない、高価な助手だとか、器械だとか、薬品だとか、療養院だとか、食料だとか、下水だとか、を要する。彼の給料の外に、彼は、一人の患者を治療せんが為めに、この費用を負担しなければならぬ幾百人を、飢えの為めに殺さねばならぬ様な、そんな多額の費用を要求する。
首都に於いて彼の師事した有名な人士は、ただ病院に収容することを得、必要な利益や器械を買う金を払い得る、そして、若し必要な場合には、この鉱泉若しくは彼の鉱泉にと、直ちに北から南へと自由に行くことの出来る患者をのみ診る人々である。
彼等の科学は、凡ての田舎外科医が、衛生的設備のために金を出すことの出来ない程貧しい労働者には仕えることが出来ないとか、そこには病院がないからとか、その仕事にのみ従事することが出来ないからとか、助手や副外科医が要するからとか言った様なことを訴えるが如き種類のものである。
一体これは何を意味するか。
こう言うことである。即ち、日常の必要品の要求が人民の不幸の原因であり、病気の根源であり、そしてまた、その蔓延と、難治との根源であると言うことである。今や科学は分業の旗印の下に、人民を扶くべき、その選手を選んで居る。科学は、富豪階級の間には十分にその根拠を据えた。そして治療のために必要な凡てのものを買い得るそれ等の人々を、如何にして医すべきかを探して居る。そしてまた人々を遣わせて、またと一銭の蓄えもないそれ等の人々をもそれと同一の方法をもって治療することを欲する。しかしそこには金がない。そこで、病気にかかっても金がない為めに、治療を受けることの出来ないそれ等の人民から、それを徴収しなければならなくなる。
平民治療術の弁護者は言う。今日に至るまで、この事業は未だ十分に発達しなかったと。
明らかにそれは発達しなかった。何となれば、若しそれが我々人民の間に発達したならば、(それは神の禁じ給うところである)そして若し地方に於いて、二人の医師と、産婆と、そして二人の副外科医との代わりに、彼等の要求するが如く20人もあったならば、然らば、そこに彼等によって侍せられないものが一人もなくなってしまうであろうから。人民の便利のために協力すべき科学の仕事は他にあらねばならぬ。そしてこれが、この存在しなければならぬ筈のことが、まだ始まって居ない。
科学の真の協力は、科学者や技師や外科医が、現に存して居るが如き分業、と言うよりは、寧ろ他人の労力の剥奪をもって、合理的なものだとは思わなくなった時、また彼の奉仕の報酬として、千ルーブルも若しくは百ルーブルの金額を――私は敢えて数10万ルーブルとは言わない――取るの権利をもって居ると思わなくなった時、そして、かかる人が労働者と同じ境遇に入って、同じ方法で生活せんが為めに、労働者の間にやって来て、そして彼等を治療せんが為めに、機械や技術や衛生に、この知識を適用するに至った時、初めてそこにそれが始まるのである。
然るに今のところでは、労働者の血と肉とによって養われて居る科学者たちは、全くこれ等の人々の生活状態を忘れてしまって居る。彼等は(彼等の語るが如く)これ等の状態を無視する、そして彼等の仮想的な知識がその適用を人民の間に見出し得ないと言って、真面目に怒って居る。
治療術の部面は器械術の部面に於けるが如く、尚未だ触れられて居ない。労働の時間は如何にすれば最もよく分けられるか、如何にして、また何をもって、最もよく養われるか、着られるか、如何にして湯気や寒気を防ぐべきか、如何にして最もよく洗濯をし、授乳し、赤ん坊を纏うべきかと言った様な問題や、そして現に今、労働者の存して居る状態に適用されるべき凡てこれ等の問題は、まだ解決に着手されて居ない。
同じことはまた、科学的教師――小学教師の活動にも適められる。科学はまたこの職業をも、科学によれる教授は、ただ富める者にのみ可能であり、教師は、丁度外科医や技師などの如く、不知不識の間に金の方に引き寄せられ、ことに我々のロシアに於いては政府の方に引き寄せられるが如き有様のものと為してしまった。
そしてこれはもうこれより外に仕様がない。何となれば、学校というところは、普通に、転換腰掛けだとか、地球儀だとか、地図だとか、図書館だとか、教師や生徒のための袖珍書だとかを、備付けられて居るところであって(そして概して、学校が科学的に設備されればされる程、益々多く経費が嵩むものである)それを維持していくのには、人民の租税を二倍にする必要があると言ったような種類のものであるからである。科学はこうしたがるものである。子供達は仕事のために必要である。そしてそれが貧民であればあるほど必要である。科学の弁護者は言う。『児童教育は、今でも人民のために必要である。しかしそれをもっと発達せしめよ。そうすればさらに一層良くなるであろう』と。しかし、それ若しもそれが尚も発達するならば、一地方に20の学校の代わりに100――みんなが科学的な――になるであろう。そしてその両親は、これ等の学校を維持することを強いられるであろう。彼等は更に貧乏になるであろう。そして彼等の子供達の労働を益々熱烈に要求するであろう。
然らば何うすれば良いのか。
これに対する彼等の答えはこうである。『政府は学校を建てるであろう。そしてヨーロッパの残余の国に於けるが如く、教育を義務的にするであろう』と。而も、金は尚も人民から徴収されねばならぬ。そして労働は彼等にとって更に苦しくなるであろう。人民の労働は休む時間が益々少なくなるであろう。そうなれば、そこに義務教育などと言うものは全然行われなくなるであろう。
そこにはまた、ただ一つの遁路がある――教師が労働者と同じ境遇に住むことである。そして自由に、自ら進んで、彼に提供されるもののために、彼等を教えてやることである。
科学をして人民に奉仕するの義務を成就することを得なくせしむるものは、この誤れる傾向である。しかし、我々の教育階級のこの誤れる傾向は、その真の意義を発揮する為めには、人民に近付き易いものでなければならぬ筈の芸術的活動に於いて更に明白である。
科学はその間抜けた遁辞、『科学は科学のために活動しつつある』ので、それが十分に発達しきった暁には、人民に近付き易い様になると言う遁辞、に隠れるかも知れない。しかし芸術は若しそれが真に芸術であるならば、万人に、特にその人のためにそれが創作された人々に、近づき易いものでなければならぬ。然るに我々の芸術は甚だしくかかる要素を排斥する。そして彼等は人民の用になろうとすることを欲しもしなければ了解もしない。またそうなることも得ない。一人の書家はその大作を出さんが為めには、その中で、少なくも40人の指物師や靴製造人の(今、不潔な宿泊所で凍えたり窒息したりして居るところの)働けそうな大きな画室を持たなければならぬ。しかしこれが凡てではない。彼はモデルを要する、衣裳を要する、そして始終彼処から此処へと旅行をしなければならぬ。芸術学校は、人民から集めた金を芸術の奨励のために、幾百万ルーブル使ったか知れない。そしてこの芸術の作品は、宮城の壁間にかかり、人民には知られもしなければ要求されもしない。
音楽家は、彼等の大なる思想を表白せんがためには、白い襟飾(ネクタイ)をつけたり又は特別な服装をした200人の人を集めればならぬ。そして歌劇を演ずるために幾10万ルーブルの金を費やさねばならぬ。而もこの芸術的作品は(若し彼等がそれを人民の用に提供しても)人民には、何かこう当惑さされる。そして間の抜けたものの様にしか見えはしない。
作者や記者は、画室だとか、モデルだとか、演奏場だとか、俳優だとか、と言った特殊な設備を要しないようである。しかし、ここにもまた、彼等がその大作を準備せんが為めには、旅行や、宮殿や、内閣や、芸術的享楽や、芝居や、音楽会や鉱泉等の享楽を要する。その住家に於ける一切の快楽や、生活に於ける一切の慰楽は言うまでもない、若し彼にして、この目的を達する為めの金を貯蓄して居なかったならば、彼は一層良いものを作らんが為めに、年金を与えられる。而もまた、我々が而かく高価に評価するものも、人民とっては廃物同様何等の用をなさない。
若しも科学者及び芸術家の願いに従って、かかる精神的食物の生産者が、凡ゆる村が一つの画室を建て、演奏場を備え、そして芸術家が自らのために必要欠くべからざるものと思考するところの状態に於いて、一人の著者を養わねばならぬ程にも増加したとするならば、何うであろう。私は敢えて言う。労働者はこれ等の穀潰しの寄生虫を養うことを強制されざらんが為めに、一枚の絵も見ず一つの交響楽も聞かず、或いは一篇の詩や小説をも読まない誓いを立てるであろうと。
そして、何で芸術家は、人民に仕えなくても良いのか。凡ての小屋には聖像と聖画とがある。どの百姓も、どの人民の女も、歌う。多くのものは楽器をもって居る。そして、何人も物語を語り、詩を繰返すことが出来る。彼等のうちの多くのものは読むことが出来る。一体、何故これ等の二つのものが、それは丁度、鍵と錠との様に作られて居る芸術と人民との二つが、そんなに分離する様になったか。そして、最早我々が、如何にして再びそれを結合すべきかを想像し得ない程にも分離するに至ったか。
書家に対して、画室や、モデルや、服装やを持たずに絵を書けと言ってみよ。若しくは極安価な画をかけと言って見よ。彼は言うだろう。それは彼の了解して居るが如き画を拒絶することであると。音楽家に対して、小風琴を弾いたり、田舎娘に歌謡を教えよと言って見よ。詩人に対して、書き下した詩や小説や風刺やを投げ捨てて人民のために歌本を作り、無学者にも解る物語や言伝えをものせよと言って見よ。――彼等は、君が錯乱して居ると言うだろう。
しかしながら、彼等を養い来たり、今も尚食わせ着せて居る人々に対して、精神的食料を与えん事を約したばかりで、自らを労働から脱れしめた人々が、後になってから、如何にして人民に適当なる食物を作るべきかをさえ忘れてしまい、而もこの約束の破綻をもって、却って彼等自身の威厳を致さしむる者だと思って居ると言う事は、精神の錯乱以上に悪いことではなかろうか。
かかる事は至る所に於いて存在すると彼等は言う。然らば、不合理が至る所に存在して居るのである、そしてそれは、人間が分業の口実のもとに、人民に精神的食料を約束しておきながら、依然として人民の労力を飲み尽くしてしまって居る間は永久にそうである。人々が科学や芸術をもって人民に奉仕し得るのは、ただ彼等が人民の間に住み、人民の生活するのと同じ方法で生活し、何等の要求をも人民の上に負わさず、そして、人民が彼等を受けようが受けまいが、凡てそれ等を人民の自由意志に任して於いて、さて、彼等の科学的及び芸術的奉仕を人民に提供した時にのみ限るのである。
三五
科学及芸術の活動が、人類の進歩を扶けることに協力したと言うことを言うのは、そしてその活動をもって、今現に、この名によって称ばれて居るところの者だとするのは、きっと流れを下って居る短艇の進行を妨げるが如き櫂の拙劣なる動かし方が、ただそれを妨げて居るばかりだのに、短艇の進行を進めて居るのだと言うのと同じである。謂うところの分業は、――それは我々の時代に於いて科学及び芸術の士の活動の一条件となった他人の労力の侵害である――人類の進歩を遅緩ならしめた主なる原因であった。そして今も尚そうである。
その証拠を我々は、富の不正なる分配のために、芸術や科学の習得は、労働階級のものには到底企及し得ないしと言う承認のうちに見る。そして、この分配の不正確と言うことは科学及び芸術の進歩によって減少しないで、寧ろそれと伴って成長する。而も、かかる事の起きるのは別に驚くに足りない。何となれば、富の不正なる分配は科学及び芸術の士によって、宣伝された分業の理論からのみ発生したものだからである。
分業を不変の法則として弁護する科学は、この分業の上に築かれた富の分配の不正にして有害なることを見るが、而もまた、分業を認めるその活動が、再び一切を正当な地位に復さしめ、そして人びとを幸福に導くと断定する。
と言うと、きっとそれは、ある人々は他の人々の労力を利用して居る。しかし彼等にして、若し、これを長らくそしてもっと大規模になし続けてさえ居るならば、この不正な富の分配、即ち他人の労力の利用が、消滅するに至ると言うに似て居る。
人々は永劫に尽きざる泉の側に立って、そしてその水を渇ける人々から背け、而して水を産出する者は彼等自身であると言い、今に万人がそれを十分に有ち、且つ節約し置くことの出来る程沢山になるだろうと言う。而も、絶えず流れて止まない、そして一切の人類を養って居るこの水は、その源に立って他所に押し流さしむる。それ等の人々の活動の結果によるのではない。それは、たとえ誰がそれをどのように止どめようと努めたとて、そんな事には頓着なしに流れ且つ広がる。
真の教育――換言すれば、ある時期に於いて、彼等の近づき得る最高の真理によって統一せられたる人々――は常に存在して居た。しかしそれは、かかる者だと公言したところの、かの教会では決してなかった。そしてまた、そこに真の科学と芸術とはあった。しかし、それ等は、今自らその名を持って称んで居るところの者ではなかった。
自らを、ある時代に於ける、芸術及び科学の代表者であると思惟して居る人々は、常に、彼等が驚くべきことをなしつつあった、なしつつある、そして何よりも大切なことは、これから将になそうとして居るのだ、と想像し、そして彼等を除いては、そこになん等の芸術も科学も存しないと想像して居る。それは、詭弁学派にもスコラ派にも錬金術者にも、カバリスト派にも、タルムッド派にも、及び我々自身の時代の科学的科学者や芸術的芸術家にもそう見えた。
三六
『しかし、科学!芸術!君は科学、芸術を排拒する。それは即ち、人類がよって持って生活するところのものを排拒するのである。』
私は常にこれを聞く、人々はこの論法を撰って、私の議論に少しの分析を加えることもなく、全くこれを排拒してしまおうとする。『彼は科学と芸術とを排す。彼は、人々を再び野蛮な状態にまで引返そうとする。然らば何うして我々は、彼にきかねばならないか、若しくは、彼と議論しなければならぬか。』と。
しかしそれは良くない。まさに私は、科学や――人類の合理的な活動――芸術――この合理的活動の表白――を拒まないばかりでなく人類をして、彼等が今我々の時代の誤れる教訓によってその方に急ぎ走って居る、かの野蛮なる状態から脱せしめんがために、何を私が為すかを語るのは、この合理的な活動とその表白との名に於いてである。
科学及び芸術は、人間にとっては、飲食物や衣服の如く必要である――否寧ろこれ等よりも更に必要である。しかし、彼等がそんなものとなったのは、我々が科学や芸術を必要なものであると決定したからでなくて、彼等が真に人間にとって必要だからである。今若し私が、乾草を人間の肉体的食物のために準備するとしても、乾草は食物であると言う私の思想は、直ちにもってそれを肉体の食物とはなさない。私は言うことを得ない、何故君は乾草を食べないか。それは君にとって必要な食物なのに……、と。食物は実際必要である。けれど、恐らく私の提供したものは、遂に食物ではあり得ないであろう。
これと同じことが我々の科学及び芸術にも起こる。我々にとっては、ギリシャ語に語尾のLogyをつけてそしてこれを科学と称ぶならば、それは実に科学となる様に見える。そして若し我々にして裸体婦人の如き卑猥なる絵、をギリシャ語のChoreographyの名で称び、そしてそれを芸術だと言うならばそれで芸術となるのである。
しかし如何に多く我々がこれに就いて言おうとも、我々が今、関与している仕事、即ち、昆虫を数えたり、銀河を科学的に分析したり、水精(ヲーターニンフ)や歴史画を書いたり、小説を書いたり、交響楽を作曲したりする、この我々の仕事は、それが人々から(その人々の為にこの仕事の為されて居るところの)喜んで受け入れられるまでは、科学とも芸術ともなることを得ない。
今日に至るまで、それは受納れられなかった。若しも、ある人々ばかりが食物を準備することを許され、その他のものは、凡てそれをなすことを禁じられ、若しくは、それを産出し得ないとするならば、私は敢えて言う、その食物の質は粗悪になる。若し食物を生産する独占権を持って居るものが、ロシアの百姓であるならば、然らばそこには、彼等の好きな黒パンと、クワス酒と、馬鈴薯と、玉葱との外如何なる食物もなくなるだろう。若しその独占権が、ある階級の人々によってのみ占有されて居るならば同じことは、芸術や科学の如き、人間最高の活動に於いてもあり得る。ただ、肉体的食物に於いては、自然物から余りかけはなれた堕落はないが――パンも玉葱も余り甘いものではないが、而も尚食べられる――精神的食物と来ては非常な邪道が生じ得ると言う相違があるばかりである。そしてある人は長い間不必要なそして有害有毒でさえある、精神的食物で養われて居ることもあろう。彼等は阿片や酒をもって徐々にその身を殺して居るであろう。そして彼等はこの種の食物を庶民の群れに提供するであろう。
この同じことが我々の上に起こったのである。と言うのは科学及び芸術の士が、特権的境遇に居たからである。我々の世界に於ける科学及び芸術は、その最善の力を科学及び芸術に捧げんが為めに区別して居るところの全人類の精神的活動ではなくて、これ等の職業を独占して居て、自らを科学者若しくは芸術家と称して居るところの、少数の群れの活動だからである。それ故に彼等は芸術及び科学の真の概念を顛倒して、自己の職業に対する感覚を失い、そして単に少数の寄生虫の群れを楽しましむる事に従事し、彼等の堪えざる退屈を救ってやるに過ぎない。
人類の存在してより此方、科学は常に、最も平明な、そして、最も広い言葉の意味に於いて存在して居た。科学は、一切の人間の知識の総和として、存在して居た。そしてそれなくしては、人生は考えられない。だから、そこにはこれを攻撃したり弁護したりするの必要はない。
しかし事実はこうである。この知識の理由が甚だ多様であって、如何にして鉄を採るかと言った様なことからして、天体の運動の知識に至るまで、若し何の知識がもっと重要であって、何の知識がもっと重要でないと言うことを、決定すべく、彼を助けるところの、舵を持って居なかったならば、この多様な知識の林の中で、迷い込んでしまわなければならぬ程にも、一切の種類の沢山の知識がその中に包括されて居る。
それ故に、人々の最高の叡智は、人々の知識を整頓し、その知識が更に重要であって、どの知識は左程必要でもない、と言うことを決定するところの案内係を見出すことである。この一切の他の知識を指導したところの者を、人々は常に、言葉の厳密な意味に於いて科学と称した。かかる科学は常に存した。野蛮なる状態を離れて今日に至るまでの、人類の社会に於いて……、人類が存在してより此方、多くの教師はこの厳密なる意味の科学を――それを知ると言うことは人間にとって最も大切なことであるところの科学を――組織すべく、凡ゆる国民のうちに顕れた。この科学の目的は、常に、各人及び一切の人の運命及び真の幸福が、何であるかと言うことの探求であった。この科学は、一切の他の科学の重要とその表白とを決定すべき案内者として役立った。人類の運命の科学と協力した斯かる知識と芸術とは、与論に於いて最高のものと思惟された。
斯くの如きが、孔子、仏陀、モーゼ、ソクラテス、キリスト、モハメッドの科学であった。即ち、謂わゆる教養ある人民と称して居る我々自身の群を除いての外の、一切の人々によって了解されて居るが如き科学である。
それは常にまさに第一位を占めたのみならず、他の科学の重要を決定したところの一科学である。と言うのは、かかる重要なる価値をそれに与えたものは、この科学の嘘つき坊主や、教師のみであると、想像しているからではない。しかし何人も人間の運命や幸福の科学がなくとも、彼自身の内的経験によって学び得るが故に、それより以外の価値を定めると言うことがあり得ないし、また、人間のために科学や芸術を選ぶと言うこともあり得ない。そしてまたそこには、科学の研究と言うようなものもあり得ない。何となれば、科学の適用さるべき問題が無量に存在して居るからである。私は無量と言う字をゴジックで書く、何となれば私はそれを精確な意味に於いて、用いるからである。
何が一切の人々の使命と幸福とを構成するか、と言うことに関する知識なくしては、凡ての他の芸術及び科学は、ただ怠惰そして有害な娯楽(今日現に行われて居る如く)たるに過ぎなくなる。人類は長い間生活して居た、そして彼等は決して人間の使命や幸福に関した科学なしに住んだことはない。皮相な観察者には、人々の幸福に関する科学は、仏教徒や、プラマ教徒や、ユダヤ教徒や、キリスト教徒や、若しくは、孔子や老子の追随者等とは違って居る様に見えるのは事実である。(人は彼等の本質的統一を見んが為めには、これ等の教訓を少し考察してみればいいのだが)人々が野蛮な状態を出したところ常に我々はこの科学を見出す。然るに、近代人は突如として、この今日まで一切の人類の知識を指導して来た科学をもって、一切のものの途中に横たわる障碍であると決定する様になった。
人々は家を建てた。一人の大工は一つの設計をたてた。他の大工は第二の設計をたてた。第三のをたてた。その設計は幾許かずつの相違をもって居る。しかし彼等はそれぞれに正しい。そして何人も、若し各々の設計が成就された暁には、家を建てられるだろうと言うことを知って居る。かかる建築士は孔子である。仏陀である。モーゼである。キリストである。ところが、今やある人々がやって来て、やがて来たるべき重なることは設計の不必要だと言う事である、そして人々は、ともかくも目分量で建つべきであると言うことである、と確説する。そしてこの『兎も角も』を、これ等の人々は、最も精確な科学と呼ぶのである。きっと、法王が自らを『最も聖なる者』と自称した様に……。
人々は凡ゆる科学を拒否する、人間の使命と幸福に関する最も本質的な科学を。そして彼等は、この科学の拒否をもって科学と称ぶのである。人類が存してより此方、偉大なる智者は常に顕れた。彼等は彼等の理性と、良心の要求との闘争に於いて、まさに彼等の使命や幸福に関する問題ばかりでなく、一般人民のそれに関する問題を自らに提出した。自らを創造したかの、力は、自分及び各人に何を要求するか。そして、個人的幸福と一般的幸福との為めに、自分の心中に植え込まれた望みを満足さす為めには、何うすれば良いのか。
彼等は自ら問う。自分は何か不可測の、即ち無限の、全体であり又部分である。自分と自分に等しい他の部分との関係――自分と人々及び全体との関係――は何であるか、と。
そして良心の声からして、理性からして、また古人の言の考量からして、また同じ問題を自問した同時代人からして、これ等の偉大なる教師たちは、簡単明瞭にして万人に了解され、そして常に実行に移され得るが如きそんな教訓を演繹し出す。
斯かる人々は、第一流、二流、三流、四流、その他、一切の階級の中にも存して居た。世界はかかる人々で満たされて居る。凡ての生存する人々は、自らに質問をかけた。如何にして自分は、自分自身の個人的生活の要求と、一切の人々の一般善とを要求する良心や理性とを調和すべきか、と。そしてこの一般的苦悩からして、新しい生活形式が徐々としてではあるが、しかし不断に、益々多く、理性と良心との要求を満足させながら進化発展して居る。
然るに、突如として新たなる階級が現れた。彼等は言う。凡てこれ等は無意味な囈語である。打ち捨てるべきである。これは演繹的思考法である。(仮に何人も機能的思考法と演繹的思考法との区別が何処に存して居るかを了解し能わなかったとは居え)そしてこれはまた、神学的及び哲学的時代の方法であったのである、と。
人々が内的経験によって了解した一切のこと、及び彼等自身の生活法則(器能的活動……彼等の合言葉で言うと。)の意識に関して、お互いに語り合ったこと。開闢の初めより人類の最も偉大なる智者によってこの方向に於いてなされた一切のこと――凡てこれ等は些細なことである。三文の価値もないことである、と。
この新しい教えに従えば、君は一つの有機体の細胞である。そして君の合理的活動の問題は、君の機能的活動を確説しようとすることに存する。これを確かめんが為めには、君は君自身の外を観察しなければならぬ。
君が考えたり、悩んだり、語ったり、了解したりする、細胞であると言う事実、そしてその理由の下に、君は、同じように語ったり悩んだりする他の細胞に就いて、彼若しくは彼女が、君自身と同じ様に悩んだり喜んだりするか何うかを探求し、斯くすることに依って、君自身の経験を確かめると言う事実、または、君が、その題目に就いて書いたよりも前に生存したり、悩んだりしたところの、物言う細胞を利用し得ると言う事実、または、過去の細胞の書いた事に一致する幾万の細胞が、君もまた常に直接の内的経験によって君自身の機能的再活動の正不正を理解するところの、一個の生ける細胞であると言う、君自身の経験を確かめると言う事実――凡てこれ等は、何者をも意味しないのだと告げられる。それは、凡て虚偽の、そして悪い方法である、と。
真の科学的方法は斯うである。若しも君にして、君の器能的活動が何をもって成り立つか、君の運命や幸福は何であるか、人類及び全世界の運命は何であるかを知ろうと欲するならば、然らば君は、君の良心や理性の要求の声に(それはそれ自らを君及び君の同僚にまで至現する)聴くことをやめねばならぬ。君は人類の大教師たちが、彼等自らの良心と理性に就いて言った一切のことを信じてはならない。そして君は凡てこれを無意味だと思惟し、そして最初の第一歩から始めねばならぬ。
そして最初から始める為めには、君は顕微鏡を通じてアメーバや条虫の細胞の運動を観察しなければならない。若しくは、もっと容易なことは、無謬の免許をもって居る人々が、それ等のことに就いて君に告げることを信じなければならない。そしてこれ等のアメーバや条虫の運動を観察して、或いは他人が見たことを読んで、君はこれ等の細胞に、彼等が何を要求して居るか、彼等の傾向性は何であるか、彼等の反省、推定、習性は何であるかと言うことに就いて、君自身の人類的感情を付与しなければならない。そしてこれ等の観察からして(その中に於いては、各々の言葉は、思想若しくは表現のある誤謬を備えて居る)解剖学に従って、君は、何が、君の運命であるか、そして君に等しい他の細胞の運命が何であるかと言うことを演繹しなければならない。
君自身を了解しえんが為めには、まさに君の眼に見える条虫を研究しなければならぬのみならず、君の見ることの出来ない顕微鏡的極微動物や、君及び他の何人も嘗て見たことがなく、また今後と雖も確かに見ることのなかるべき、一つの型から他の型にまでの変形を研究しなければならぬ。
その同じことは芸術に於いてもそうである。真の科学の存するところ、それは常に芸術によって表白された。人類が存在してより此方、彼等は常に、一切の彼等の活動からして、種々の知識からして、科学の主たる表現、人間の運命及び幸福の知識を引き出した。そして芸術は実に、厳密なる言葉の意味に於いて、これの表現であった。
人類が存在してより此方、常に人類の幸福や運命に対して特別に敏感な人物があった。彼等は彼等をして彼等の真の運命から脱線せしむるところの、欺瞞との闘争や、この逃走に於ける苦悩や、善の勝利に対する彼等の希望や、悪の勝利に関する絶望や、来るべき幸福の期待に於ける彼等の恍惚やを、言葉をもって、また、サルタリ(古昔ヘブル人の用いた楽器――訳者)や銅鈸(同――訳者)にのぼせて表した。
人類の存在してより此方、人々によって最も高く評価されたところの真の芸術は、人間の運命や幸福に関する科学の表白と言う事より以外の運命をもっては居なかった。
今日に至るまで、芸術は常に、人生の教訓に仕えた。(後には宗教と称せられたが)そして人々が、しかく(ヽヽヽ)高く評価したものはこの現実であった。
然るに、人間の運命と幸福との科学の代わりに、宇宙的知識の科学が現出したと言う事実と共に――科学それ自身の精神と意義とを失い、そして真の科学が冷笑的に宗教と称ばれる様になったので――人間の重要なる一活動としての真の芸術は消滅した。
教会が存して居た間、そして人類の使命や幸福やを教えて居た間、芸術は教会に仕えた。そして真理であった。しかしそれが教会を離れて、それが接触する者には何にでも仕えるところの科学に仕え始めるや否や、芸術はその意義を失ってしまった。そして、芸術はただ芸術に仕えるのだと言う、古風な要求と、馬鹿げた断定とがあるのにも拘らず、それはただ、人々に贅沢品を供給し、そして不可避的に歌舞術や調理法や理髪法やコスメティック(それ等の生産者は、自らを今日の詩人や画家や音楽家や、などと同じ権利をもって、芸術家と称ぶかも知れない)などに変わってしまった。
過去を振り返って見て、我々は幾千年の間に、幾十憶の人民の間からして、たった僅かの、孔子や仏陀やソロンやソクラテスやソロモンやホーマァやイザヤやダビデの如き者が出現したのを見る。霊的食物の真の芸術的生産者は、まさに一階級から現れるのではなく、万人の間から現れるのであるのにも拘らず、極めて稀にしか現れない様に見える。だから、人々が彼等をかくも高く評価したと言うことには別に不思議はない。而も今や我々は、凡てこれ等の古の偉大なる芸術や科学の代表者を要しなくなったのである。
今や分業の法則に従って、科学的及び芸術的要素を殆んど機械的に製造することが出来る。そして10年もかかれば、世界開闢の初めからの一切の人々の間に生まれたのよりは、もっと偉大なる科学や芸術の士を製造するであろう。今日では学者と芸術家との商売的協力がある。そして、ある改良せられた方法で、彼等は人々の要する一切の精神的食物を準備する。そして彼等は、最早昔の生産者(非常に遠い昔では無く比較的近世の人々のですら)に就いて思いを巡らす必要がなくなった程、多くを準備した。彼等の言うところによれば、彼等の、活動の凡ては、神学的、及び哲学的時代の活動であった。一切は破壊されなければならない。そして真の智的活動は、ここ数十年の間に始まったのである。
而してこの50年の間に、ドイツの大学だけででも、今まで世界中に存して居た偉大なる人びとよりは、もっと多くの偉人を製造し、また非常に沢山の科学をも製造した。何となれば人はただ、あるギリシャ語にLogyと言う語尾をつけ、出来合いの章句に従って命題を整理しさえすれば、科学はつくられるからである。かくて我々は、まさに我々が彼等の全てを知ることが出来ないばかりでなく、その名を覚えることさえ出来ない程――これ等の名だけでも大きな辞書を一ぱいにするだろう――沢山の科学を製造し、今も尚毎日のように製造しつつあるからである。
この意味に於いて我々は、フィンランドの教師たちが、その地主の子弟にフランス語の代わりにフィンランド語を教える様なものである。彼はよく教えた。しかしそこに一つの障碍があった――彼自身の外、何人もそれを了解しなかった。我々は凡ゆるものを甚だよく学んだ。しかし悲しいことには、自分たちの外、何人もそれを了解しない。そして誰の何人も、それを無用の囈語だと思惟する。
しかしこれにもまた説明がある。人々が科学的科学の有用を了解しないのは、彼等がまだまだ神学的時代、即ち、ヘブライの人民や支那人やインド人やギリシャ人やが、彼等の偉大なる教師たちによって語られたことを、何でも鵜呑みに了解したところの、馬鹿げた時代の知識の影響を受けて居るからであると。
しかしその原因が何であろうと、事実はこうである。即ち芸術や科学が常に人類の間に存在して居た。そして彼等が真に存在して居た時には必然的に一切の人々に理解された。
我々は、我々の謂わゆる、科学及び芸術と言うものに忙殺されて居る、而も、我々の忙殺されて居るものは、人々にとって必要でもなければ理解もされない。それ故に我々は我々のなして居ることに、科学の名も芸術の名も与える権利がない。
三七
ところが私はこう言われる。『お前はただ、科学や芸術に、科学や芸術の同意しないところの他の狭隘な定義を与える。だが、それは彼等を排除しない。お前がどんなに言っても、尚そこにガリレオやアルウノオやホーマーやミケランジェロやベートーベンやワグネルや、その他、その生涯を科学や芸術に捧げた一段下った小芸術家や小科学者の、科学的及び芸術的活動が存続する』と。
普通にこれは、その理由のもとに、今、芸術及び科学が占めて居る特権的地位を付与する分業の新原理を忘れようとして、古の学者及び芸術家と、近代のそれと、の活動を連結するところの連鎖を作ろうとする――他の場合ではそれを拒否するのだが――努力の為に言われる。
まず第一に、古の代表者との間に、如何なるかかる関連をも設けることが出来ない。それは恰も、原始キリスト教信者の聖い生活と、現在の法王生活との間に、何等の共通点の存しないのと同じである。かくてガリレオやシェイクスピアやベートーベンやの活動は、ティンダルやユウゴーやワグネルの活動と何等の共通点がない。聖き教父たちが、法王との間の如何なる関連をも拒否するであろう如く、古の科学者もまた、近代のそれとの如何なる関連をも拒否するであろう。
次に、芸術及び科学は自分を非常に重要なものだと自称するが、それは我々をして、それによって彼等が彼等の運命を予測して居るか何うかを決定せしむる非常に明白な標準となる。それ故に我々は自ら芸術と科学とか称して居るところのものの活動が、果たしてそう呼ぶ権利を持って居るか何うか何等の証拠なしにではなく、彼等自身の標準によって決定する。
たとえエジプトやギリシャの僧侶たちが、彼等自身の外、何人にも知られない秘密を行っても、そしてこれ等の秘密が、一切の芸術及び科学を包含すると言っても、私は、これ等が人民に有用であると言う断定のもとに、彼等の科学の実有を肯定することが出来ない。何となれば、この謂わゆる科学は、彼等のIde dixit(自ら公言するところ)によれば超自然的科学であるからである。しかし、今や我々は、一切の超自然を拒否する、極めて簡単明瞭なる標準を持って居る。芸術及び科学は、社会の幸福の為めに、若しくは人類の全体のために、人類の精神的活動を充足することを約束する。それ故に、我々はただ、この目的を懐抱し、そしてそれを獲得した者をのみ芸術及び科学と称ぶ権利をもって居る。それ故たとえこれ等の、刑法や、国法や、国際法を案出し、新しい大砲や爆発を発明し、卑猥なる歌劇や、小歌劇或いは同じ卑猥なる小説を作るところの学者及び芸術家が、自らを何と称ぼうが、我々は、かかる活動を、芸術及び科学の活動と呼ぶの権利はない。何となれば、この活動は社会や人類の幸福を眼中に置かず、却って人類を解読するように向けられて居るからである。
同様にまた、如何にその性質の単純なところからして全生涯を通じて顕微鏡的極微動物や望遠鏡や分光器上の研究に従事したこれ等の、学者だとか古い証券を注意深く研究した後に、歴史小説を書くのに忙しいところの、若しくは、絵を描いたり、交響楽や美しい詩を作ったりするところの芸術家が、自分を何と称せようが、またどんなに熱心であろうが、彼等自身の科学の定義に従うならば、第一に、彼等の科学のための科学、若しくは芸術のための芸術は、人類の幸福と言うことを眼中に置いて居ないが故に、また、第二には、これ等の活動が社会及び人類のために何等の結果をも生ずるのをも見ないが故に、彼等凡てを、科学及び芸術の士と呼ぶことが出来ない。
時としては、彼等の活動からして、誰かに有用なる、そして愉快なることが起きる様なことがあっても、その事実は直ちにもって彼等を芸術家、若しくは科学者だと思惟するの権利を(彼等自身の科学的定義に依るならば)与えることは決してない。
同様にまた、たとえ、電気を、光や熱や運動に適用することを案出したり、或いはダイナマイトや五色の色を現出する新化合物を発見したりした人々や、或いは、ベートーベンの交響楽をよく演奏し、舞台でよく芝居をやり、家庭画や風景画やその他の絵をよく描くところの人々や、ただ富める人々を楽しませることを目的とする面白い小説を作る人々やが、自らを何と呼ぼうが、これ等の人々の活動を芸術や科学と称することは出来ない。何となればこの活動は有機体の脳髄の如く、全体の幸福を目的としないで、単に、人々が、謂うところの芸術を発明したり、生産したりすることによって得るところの、個人的利得や、特権や、金銭やを追うところに存するからである。それ故に、この活動は恐らく、宿屋の主人や競馬師や女小間物屋や娼婦やなどの如く、人生に愉快なものを加える諸々の貪欲なる個人的活動と分離することは出来ないだろう。何となればこの第一第二、そして最後のものの活動は、分業の土台の上に於いて、一切の人類の幸福のために奉仕することを約束するところの、芸術や科学の定義の下に来たらないからである。
芸術や科学の科学的定義は正しい。ただ不幸にして現代の芸術及び科学はこの定義の下に来たらない。あるものは有害なるものを生産する。他の者は無用な物を生産する。そして第三の組は、ただ富める人民の用に供するつまらない物を生産する。彼等は凡て、非常に良い人々であろう。けれども、彼等は彼等自身の定義に従って、それを実現せんが為めに身を投じたことをしない。それ故に彼等は、きっとその自らの義務を実現しない近代の僧侶等が、自らを神聖なる真理の所有者、又は教育者と思惟するの権利をもって居るのと同じ位の程度に於いてしか、自らを芸術家若しくは科学者と称ぶ権利を持って居ない。
近代の芸術家及び科学者が、何故に彼等の使命を成就しなかったか。また成就し得ないか。それを了解するのは困難ではない。彼等がそれを成就しなかったのは、彼等が、その義務を権利に変えたからである。真の意味に於ける科学的及び芸術的活動は、ただこの権利を無視して義務を知るときにのみ成果を見る。人類がこの活動をそんなに富価に見積もるのは、ただそれが自己拒否だからである。
若し、真に精神的労働によって他人に仕える様に召命されたのならば、その人はこの労働を行う為めに苦しまなければならないだろう。何となれば、霊的成果の産出されるのは、悩みによってであるからである。自己拒否及び苦悩は思想家及び芸術家のひく籤であり分である。何となれば彼等の目的は人々の幸福だからである。人々は不幸である。彼等は悩み、そして、破滅に行く。人は、徒に待就いてその自己の時を失ってはならない。
思想家や芸術家は決して、動もすれば、皆々が想像したがる様にオリプスの山上に座る様なことはなかろう。彼は救済と慰籍とを見出さんが為めに、人々とともに苦悩しなければならない。彼は悩むであろう。何となれば、彼は常に憂慮と激動との中にあるから。彼は人々に幸福を与えべきものを見出すべきであった、彼は彼等を苦悩より救い出すべきことを告ぐべきであった。而も彼は、決してそれを見出しもしなければ言いもしなかった。明日はもう遅いだろう――彼は死ぬかも知れない。それ故に、苦悩と自己犠牲は常に、思想家及び芸術家の運命であろう。
学者や芸術家の創造しつつある団体の中で育てられ、(しかし実際に於いては、彼等はただ科学や芸術の破壊者を創造して居るのである)そして生涯、科学者及び芸術家の免許を得て、十分に養われて居る人々は、思想家にも芸術家にもなり得ないだろう。しかし、彼の心霊の中に植え付けられたところのものではあるが、二つの不可抗力――彼自身の内的衝動と人々の要求との――によって、それに惹きつけられるので、敢えて看過しないところのものを考えたり表白したりすることを、喜んで制御するものは、真の思想家及び芸術家になり得るであろう。
思想家及び芸術家は、自負を以て自ら享楽する艶々した肥えた男であることは出来ない。霊的及び智的活動は、及びその表白は、実際に他人の為めに必要である。そして、人々の指名のうちで最も難しいものである――福音書に言われて居る様に、一つの十字架である。
一つの使命の、現在に対する唯一の確実なる特質は、この自己拒否である――他人の幸福のために人のうちに植え付けられた力を顕わさん為めの自我の犠牲である。世界に幾許の昆虫があるかとか、太陽の黒点を観察するとか、小説や歌劇を書くとかは悩みなしにもなし得る。しかし人々に、ただ自己犠牲と他人への奉仕とによって成立するところの、彼の幸福を教えるとか、この教訓を力強く表白するとかは、自己拒否なしにはなし得ない。
教会は、その教師たちが忍耐強く忍び、そして悩んだ間は純潔を保って居た。しかし彼等が肥え太り艶々し出すや否や、彼等の教育的活動は終わった。人民は言う。『昔は祭司は黄金であった、そして聖餐杯は木であった、今は祭司は木であって聖餐杯は黄金である』と。キリストが十字架の上で死んだのは無駄ではなかった。犠牲や苦悩が一切のものを征服するのは無駄ではない。
我々の芸術や科学は支給されて居る。彼等は免許を持って居る。一切の人は、ただ如何すればより善く彼等に支給し得るかを考える。即ち、彼等をして他人に仕える事の出来ない様にする。真の芸術及び真の科学は、二つの過まつべからざる特質を持って居る。第一は、科学及び芸術の仕え人は、彼の使命を自己の利益のためでなく、自己拒否によって実現するところの内的なもの。第二は、彼の製作は、一切の人に(彼はその人々の幸福を目的として居る)理解されると言う外的なものである。
何をもって人々は、彼等の運命及び幸福であると思惟しようとも、科学はこの運命及び幸福の教師であり、芸術はこの教師の表白であろう。ソロンや孔子の法則は科学である。モーゼや、キリストの教訓は、科学である。アテネの宮殿や、ダビデの詩篇や教会の礼拝やは芸術である。しかし物質の第四の廣衣の発見や、化合物の作表などは、決して科学ではなかった。また有り得ないであろう。
我々の時代に於いては、真の科学の地位は神学及び法律によって占められて居る。真の芸術は、教会や国家の儀式によって占められて居る。しかし、何人もそれを信じもしなければ真面目に考えもしない。我々が芸術及び科学と称して居るものは、ただ怠惰な精神や感情を刺激せんことを欲して居るところの、怠惰なる精神及び感情の産物である。そしてそれは人民の幸福を眼中に置いて居ないので、人民には理解されもせず無意義でもある。
我々が人々の生活を知ってより此方、我々は常にそして至るところに、自らを科学と称ぶ偽教理の行われているのを見る。そしてそれは、人々に人生の真正の意味を与えないで、却ってそれを彼等から隠すものである。
エジプト人、インド人、支那人、そして特にギリシャ人(詭弁派)の間に於いてもそうであった。神秘派、ノスティック派、キャバリスト派の間に於いても、中世期に於ける神学スコラ主義、錬金術に於いても、そして今日に至るまでもそうであった。我々は実に、かかる特殊な時代、即ち自らを科学と称んで居るかの知的活動が、まさにその誤謬から解き放たれたばかりでなく、確かに特別な進歩の状態に在る特殊な時代に住むとは、何と言う幸福なことであろう、と。この幸福は人々が自らの不具を見ることが出来ず、また見ないであろうと言う事実から来たりはしないだろうか。神学者やキャバリストの科学に就いては、空なる言葉の外、何者も残されて居ない時に、何うして我々が、特に幸運なのであろう。
我々の時代の特質も、古のそれと全く同じである。我々のみが真の道を歩んで居り、そしてただ我々に於いてのみ、真の知識が始まると言う、同じ自負と盲目的な同じ確信とがある。今に我々は驚くべき何かを発見するであろうと言う同じ期待がある。庶民が少しも了解せず、又それを受納れもしなければ、要しもしない時に、我々の知識が我々の手にあると言う事実のうちに、同じ誤謬がある。
我々の地位は非常に困難である。しかし何故我々は、それを目の当たり見ることを得ないか。
今や我々が正気になって、もっと精密に自分自身を検覆すべき時である。我々は実際、モーゼの椅子に座して、神の国の鍵を持ち、そして自らも入らなければ、他人をも入らしめない学者やパリサイの途である。
芸術及び科学の祭祀たる我々は、最も忌々しい欺瞞者である。我々の地位には最も狡猾で最も堕落せる祭司が嘗て有したよりも、遥かに少ない権利しかない。
我々の特権的地位には如何なる遁辞もない。我々はこの地位を瞞着で得たのである。そして欺瞞によってそれを保って居るのである。異教的祭司、及び僧侶、ロシア及びローマカトリック教、如何に彼等は堕落して居ても、而も彼等の地位に対する権利を持って居た。何となれば彼等は、人生及び救済に就いて、人々を救うべく反抗したからである。而も我々は、彼等の地位をその根柢から覆し、そして人民に当っては、彼等が嘘つきであると言うことを証明して、彼等の地位を奪い、而もまさに、人生に就いて人々に教えないばかりでなく、彼等にはそれを学ばねばならぬと言う必要がないと言うことを承認する。我々は人民の血を吸う、そしてこのために我々は我々の子供に、彼等もまた、我々がやって居る様な寄生的生活を続け得んが為めに、ギリシャやラテンの文法を教える。
我々は言う。世に階級があった。我々はそれを廃棄するであろうと。しかしある人々、及びこの子供たちが働き、他の人々及び子供たちが働かないと言うことは、何を意味するか。
我々の国語を知らないヒンズウを連れて来て、多くの時代のロシア及びヨーロッパの人々の生活を彼等に示して見よ。彼は、労働者と非労働者との二つの重要にして明確なる階級が、きっと、彼等自身の国に存在して居るが如くに、ここにも存在して居るのを見出すであろう。彼等の国に於けるが如く、同じ様にまた、我々の国に於いても、働かなくても良い権利は、我々が普通に、芸術だとか科学だとか、教育だとか称んで居るところの、特殊な手引きによって獲得されたのを見るであろう。
我々にこの驚くべき愚行を持ち来たしたのは、この教育と、それに関連した理性の転倒――斯くも簡単明瞭なことを我々が見ないのは、そこから来る――とである。我々は、我々の同胞の生命を食い尽くし、そして自分を、同情の深い、教育のあるそして、全く正しいキリスト教信者だと思って居る。
三八
何が為されねばならぬか。何を我々は為さねばならぬか。
我の生活が悪にして不正であると言う事実の承認を包含すると同時に、それを更改する可能のないと言うことを暗示するこの質問を、私は至る所で聞く。そこで私はそれをこの本の標題としたのである。
私は私自身の苦悩と探究と、そして、私がこの質問の為めに見出した答えと記述した。
私もまた、他の人と何も違ったところはない。若し私が何かのことに於いて、私自身の周囲の普通民から区別するとするならば、それは主として、下の事実から生じたのである。即ち、私がこの普通の人よりも一層に、我々の世界の偽教訓に仕え、溺れ、そして現に流行しつつある学派の人々から一層に賞賛せられ、それ故に、私は私の大部分の同僚よりも、更に一層堕落し、常道を逸して居ると言う事実からである。
それ故に私は、私が私自身のために見出したこの質問に対する答えは、より同じ問題に悩んで居る一切の真摯な人々のためにもなるだろうと思う。まず第一に『何を為さねばならぬか』という問題に対して私は答える。
自分自身をも他人をも欺いてはならないと。その結果が何うであろうとも、真理を恐れてはならないと。
我々は凡て、他人を欺くと言うことが、何う言うことであるかを知って居る。而も、それにも拘らず、朝から晩まで、欺き続けである。――私が家に居る時にも『不在です』である。少しも喜んで居ない時に『それは嬉しい』である。尊重して居ない時に『結構です』である。金を持って居る時に『私は金を持って居ない』である。
我々は他人を欺くことを悪いと思う、殊にある種の欺疑を悪いと惟う。しかし我々は自分を欺すことを恐れない。而も、他人に対する最も悪い直接的な偽りも、その結果から見て、自分に対する偽り(それによって我々の生活が構成されて居るところの)なんかとは比べ物にならない。さてこの偽りを、若し『何をなさねばならぬか』という問題に答えたいと思うならば、避けねばならぬ。
実際私は、私の全生涯を通じて、私のなす凡てのことが偽りの上に立ち、そして私は、この偽りを他人にも自分にも真理だとして与えて居る時に、何をなさねばならぬかと言う問題に対して、如何に答えるべきであるか。この意味に於いて、偽らないと言うことは真理を恐れないと言う事である。自分自身から理性や良心の演釋をかくさんが為めに、口実を発明しないことである。或いは他人の発明した口実を受納れないことである。凡て我々の周囲と衝突し、ただ理性と良心とを友としなければならない様な破目になることを恐れないことである。理性や良心の導いて行く境遇を恐れないことである。如何にそれは恐るべきものであろうとも、欺瞞の上に築かれたそれよりは悪い事はあり得ない。
精神生活をすると言う特権地位を占めて居る人々にとって、偽りを避けると言うことは、真理を恐れないと言うことを意味する。恐らく我々は決して償還し得ない位にも負債して居るのであろう。しかし、如何に多く我々が負債して居ようとも、我々は我々の勘定をつけねばならぬ。如何に遠く我々は常道を踏み外して居ようとも、それを続けて行くよりは踏み返す方が良い。
我々の同僚に偽ると言うことは、常に不利益である。どんな仕事でも、偽りによってよりは、真によっての方が直ちになされ、そしてまた迅速になされる。他人を欺すことは物事を一層混雑にし、そしてその決定をぐずつかす。自分を欺して真実であるかの如くふれ散らすことは、全く人の生活を破滅させてしまう。
若しも成人にして、悪い道を善い道の様に思いなして居るならば、然らば、彼の一歩は一歩と、その目的からかけ離れて行くであろう。長い間悪い道を歩き続けて居る人は、自分でその悪い事を悟るか、然らずんば他人から告げられるであろう。しかし若し彼にして、如何に多く踏み迷ったと言うことを思って、この悪い道をでも、ずんずんと進んで行くならば、遂には正しい道に出会うであろうと言うことを、自分に確信させようとするならば、彼は確かにそれを見出し得ないであろう。若しも或る人にして真理を恐れ、それを見ても承認せずして、却って虚偽を選ぶならば、彼は決して何をなすべきかを学び得ないであろう。
我々、まさに富める人であるのみならず、謂わゆる教育のある人々と称ばれる特権的地位に在る者は、我々をして、再び正気に立ち還らしめ、我々の送って居る虚偽の生活を悟らしむる為めには断固たる決心を要し、非常な苦悩をなめなければならぬ程にも常道を遠く踏み外してしまった。
私は私の生活の虚偽を悟るようになった。私の悪い道が私を導いて行ったそれ等の苦悩に感謝する。そして私のやって居る生活の誤謬を見出したところで、私はまず、第一には理論に於いて、次には実行に於いて、私の理性と良心との導くところには何処にでも、それがどんなところに向いて行って居るかなどには頓着しないで、大胆に行くだけの勇気を持って居た。
私はこの大胆の報酬を得た。
私の周囲を取り巻いて居た一切の複雑にして分裂紛糾せる無意義な生活現象は、突如として明白になった。そして以前には、非常に奇妙で、悪徳に満就いて居た、これ等の現象の間に於ける私の地位は、急に自然で安易なものとなった。
この新しい地位に於いて、私の活動は、精確に自らその道を決定した。しかしそれは、以前そうありそうに見えたものとは全く違った活動である。それはずっと平静で愛情的で、そして歓喜に充ちた新活動である。以前、私を威嚇したところのものは、今や私を惹きつける。
それ故に私は思う。誰でも誠実に『何をなさねばならぬか』と言う問題に身を委ね、そしてこの質問に答えるのに、自らを欺かず、彼の理性や良心の導き行くところに従い行くならば、その人は既にその問題に答えた人だと。
ただ自らを欺くことを止めさえすれば、彼は直ちに何をなすべきか何処に行くべきか、如何に行うべきかを見出すであろう。そこには、その答えを見出すのに、たった一つの障碍がある。――それは彼自身及び彼自身の地位を余りに高く見積もることである。それ故に『何をなさねばならぬか』という問題に対する、第一の答えから結果する第二の答えは、この言葉をその十分なる意味に於いて繰り返すことであった。即ち、私自身の地位、及び活動に対する私自身の評価を全く変えてしまうことである。かかる地位を有用だとか重要だとか考える代わりに、我々はそれの有害で無用であると言うことを承認しなければならぬ。自分自身を教育のあるものだと考える代わりに、我々は我々の無智を見なければならぬ。自分自身を親切で道徳的であるかの如く想像する代わりに、不道徳で残忍であることを承認しなければならぬ。我々の重要を見る代わりに、その無意義を見なければならぬ。
私は言う。自分自身に偽ることを避くるのみならず、更に進んで、私は、悔改めねばならなかった。と言うのは、たとえその一つが他の一つから当然起らねばならぬことであるとても、私が非常に重要な人物であると言う悪い観念は、私は誠実にそれを悔改め、そして私自身の誤れる評価を投げ捨てるまでは、私の行って居た虚偽の罪の如何に大であるかが解らなかった位にも、私自身の本性の一部となって居たからである。
私の道の明らかになったのは、ただ、私が悔改めた時、――即ち私自身を特別な人であるかの如き観念を捨てて、一切の他の人々と同じであると考え始めた時、――に至ってからの事である。その前には私は、『何をなさねばならぬか』と言う質問に答えることが出来なかった。何故なれば、その質問それ自身が甚だ不正に置かれたからである。
私が悔改める迄は、私はこの質問をこんな風に置いたのである。『私は、教育と才能とを獲得して居る私は、どんな活動を選ぶべきであるか。何うして私は、この私の教育と才能とをもって、人民から奪いつつあるものを償うべきであるか』と。
この質問は誤って居る。何となれば、その中には、私が他の人々の様ではなく、40年の間、かかって獲得した才能と教育とをもって、他人に仕うる様に召命せられた特殊の人間であると言う観念を含んで居るからである。
私はこの質問を、私自身に発した。しかし実際に於いては、私は既に、この質問に答えて居た。まずもって、私が私自身に適好して居る種類の活動をもって、人々に仕える様に証明されて居ると言うことを決定することによって……。私は実際に自分に訊うた。『こんなに立派な作者であり、こんなに良く教育せられ、そしてこんな才能を持って居る自分は、これ等の才能を人類の幸福のためにどうして用いたらよいか』と。
しかし、ほんと(◦◦◦)は、その質問をこう言う風に発すべきであった。――恰も、一切のタルムッドを研究し、聖書の中に於ける字の数を正確に知りそして、彼の科学の微細なる点を一切知り尽くして居た博学なる教法師が、自分に問うべきであった様に――。 『不幸な境遇上、私の最善の時代を、労働に慣れしむる代わりに、フランス語や、ピアノや、文法や、地理や、法律や、詩などを学び、小説や、伝奇や、哲学説を読み、そして軍隊的訓練を受けたところの自分は、何を為し能うか。私は生涯の中の最善の時を、心霊を堕落さす怠惰な職業に従事して過ごした自分は、何を為し能うか。過去に於いて、こんな不幸な境遇に居ったにも拘らず、その間常に自分を養い、被せ、そして、今日尚、それを引き続きやって呉れて居る、それ等の人々に報いる為めに、何をなし能うか。』と。
若しも、私にして、『悔い改めた後、かくも害なわれた人である自分は、何を為し能うか』と言った風に質問を発したのであるならば、答えは容易であるべきであった。まず第一に私は私の生活の資料を正直に得る様に努めねばならぬ。――即ち他人の肩に寄りかかって住まない工夫を学び、そしてそれを学んで居る間の、及び、それを学んだ後の、凡ゆる場合に於いて、その頭脳や心情をもってすると同じに、手や足をもって、そしてまた、私の全体をもって、人々の欠乏して居ることの用となる様に勤めねばならぬ。
それ故に私は言う。私自身の環周のものにとっては、他人や自分に偽ることをやめるだけでなく、更に進んで悔改めることが必要である。我々の教育や、文化や、才能に付ける傲慢を捨て、また、我々を人民の恩恵者であるとか、我々の有用なる学識を人民に分与せんとして居る進歩せる人間だとか考えないで、ただ新しい頁を繰ることをのみ欲するところの、全く罪深き害なわれたる無用の長物であって、人民の恩恵者どころではなく、却って彼等を害ない恥しめるところの者であると言うことを承認することが必要である、と。
幾度か、私の書き物の消極的部分に同情する善良な青年たちが、私に質問をかけて『然らば私は何をなさねばならないのですか。大学若しくは何か高等の学校を卒業した私は、何を、――有用であらんが為めに何をなさねばならないのですか』と訊く。
これ等の若き人々は質問する、しかし彼等の心霊の深みに於いては、彼等は既に、彼等が受けた教育は彼等の非常な優越であり、この優越をもって人民に仕え様と決心して居る。
それ故に、彼等のしない一つの事がある。――それが果たして善いことであるか悪いことであるかを自問して、彼等の謂わゆる教育なるものを正直に且つ批評的に検覆しないことである。
若し彼等にしてこれをなすならば、然らば彼等は彼等の教育を非難し、新たに学び始めるの止むなきに至るであろう。そしてこれのみが即ち必要なのだ。彼等にしてこの質問を不正に発して居る間は、何がなされねばならぬかと言うことに就いての問題に答えることは決して出来ない。質問はこう発せられねばならぬ。『私の最善の時を、心霊にも肉体にも、共に有害なる科学的タルムッドを研究するのに費やしてしまった不幸を感じて居る、助けなき無用な男である私は、何うしてこの誤謬を正し、そして人々に仕え得るか。』と。然るに質問はいつもこんな風に発せられる。『かくも多くの立派な知識を獲得したところの私は、この知識をもって何うすれば人々に有用であり得るか』と。
それ故に人は、自ら欺くことをやめて悔改める迄は『何をなさねばならぬか』と言う質問に答えることは決して得ない。而も悔改めの恐るべきでないのは真理の恐るべきでないのと同じである。等しくそれは、仁慈的にして善を生むものである。我々はただ、人生に於いては、何人も何等の権利も特権も持って居ないと言うことや、義務には終わりもなければ制限もないと言うことや、そしてその義務の第一は、彼自身の生活のため、または他の人の生活のため、為すべき、自然との闘争に参加しなければならぬと言うことを了解しせんが為めには、全真理を受納れて完全に悔改めることを要するのである。そしてこの人間の義務の承認は、『何がなされればならぬか』と言う質問に対する第三の答えの本質を構成する。
私は私自身を欺くことを避けようと試みた。私は私の教育と才能が重要であると言う誤れる評価の最後の残物を根絶し、そして悔改めようと試みた。しかし『何がなされればならぬか』という問題に答える前に、そこに一つの新しい困難がある。
何が特別になされねばならぬかを知らんことを要求する程、それ程、沢山のなされねばならぬことがある。そしてこの質問に対する答えは、私はその中に住んでいる害悪を、誠実に悔改めた事によって初めて与えられた。
何がなされねばならぬか。何が正になされねばならぬか。何人も問い続ける。そして私もまたこれを問い続けた。然るに私は私自身の職業を高く見た関係からして、私の最初のそして疑うべからざる仕事は、私の生活の料や衣服や燃料や家屋やその他のものを儲け出すことであり、そしてこれを為す事によって、自分自身に仕うると共に、他人にも仕えることである(何となれば、世界が始まってより此方、凡ゆる人の、最初にして疑うべからざる義務はこの中に含まれて居るからである)と言うことを見なかった。
この一つの仕事の中に、人々は――若し彼が既にそれをやり始めてさえ居るならば――彼の本然の全精神的また具体的要求を、欠けるところなく満足せしめ得る。衣食を得、自分及び自分の家族の面倒を見ると言うことは、彼の生理的要求を満足せしむるであろう。同じことを他人にする時には精神的要求を満足せしむるであろう。
人間の他の活動の一切は、これ等がまず充たされた時に於いてのみ合理的である。如何なる部面に彼の使命が存して居ると考えようとも、即ち人民を治めようとも、国民の保護に任じようとも、神聖なる職業に仕えようとも、教育に従事しようとも、人生の快楽を増加するの手段を発明しようとも、宇宙の法則を発見しようとも、芸術的形象に於ける永遠の真理に合体しようとも、合理的な人間の、最初にして最も確実なる義務は、常に、彼自身の生命及び他人の生命を保存する為めに、自然との闘争に参加することの中に存する。
この義務は常に第一に置かねばならぬ。何となれば人間にとって最も必要なことは生命であるからである。そしてそれ故に、人々を保護し人々を教えんが為めに又は彼等の生活を更に快適ならしめんが為めに、彼のしなければならぬ第一の事は、この生命を保つことである。然るに、彼はこの闘争に参加しない。そして他人の労力を飲み尽くして居る。そして斯くすることによって、他の人々の生命を破壊しつつある。而も、彼等の生命を破壊して居ながら、人々に仕えようとすることは、愚かしいそして、不可能なことである。
自然との闘争によって生活の資料を獲得すると言う人間の義務は、常に、一切の義務の不可疑にして最始の義務である。何となれば、それは人生の法則だからである。そしてその蹂躙は、不可避的に人間の肉体的及び精神的生活の破壊と言う刑罰を受ける。若し或る人にして、独り住み、そして、自然との闘争から逃れるならば、彼は直ちに、彼の肉体の破壊によって罰せられるであろう。
しかし、若し或る人にして、彼の義務から逃れ出で、そしてそれを他人に代わって為さしむるならば、(そうすることに於いて彼は彼等を破滅している。)彼は直ちに、彼の合理的生活の破壊によって罰せられるであろう。即ち、その中に合理的の意義を持って居る生活の、破壊である。
私は、私の経歴のために、全く顛倒されて居た。そして、この神、若しくは自然の、最初にして疑うべからざる法則は、それを充足することが不思議に見える程にも、我々の世界に於いては隠蔽されて居た。そして私は、恰もこの永遠にして疑うべからざる法則を蹂躙しないでそれを成就する事が、不自然にして恥ずべきことででもあるかの如く、それを恐れ且つ耻じた。最初、私には、この法則を成就する為めには、或る種の設備、例えば同志の思想家の協会、家族の同意、田園生活(都会生活でなく)の如きものが必要だと思った。次に私は、肉体的労働の如き事をなそうとしたのは、我々の生活にとって、非常に不自然なことを行おうとして居たのであるかの如くに、それを恥じ、そして如何にして始めるべきかを知らなかった。
しかし、私はただ、これを、私が発明し整理しなければならぬ或る唯一の活動ではなくて、私が生活して居た誤れる境遇から、自然の境遇に還ることであり、私が生活しつつあった虚偽を弁明することであると言うことを了解しさえすればよいのであった。――私はただ、これをよく承認しさえすればよかったのである。かくて一切の困難は消滅してしまった。
何事かを整頓し調和さすと言う事が、毫も必要でなかった。若しくは、他人の同意を待つ必要もなかった。何となれば、何処に於いても、如何なる境遇に於いても、自らを養う如く、私を養い、被せ、温めて呉れる、人々があったからである。そして何処に於いても、如何なる事情の下に於いても、若し私にして十分な時と力とをさえ有って居るならば、これ等のことを私自身のためにも、彼等のためにも、為し得たからである。
それにまた、私にとって普通でない不思議な行為を行うのに、偽羞恥を感じることが出来なかった。何となれば、それをなさない事に於いて、私は既に、偽りならぬ真個の恥を感じて居たからである。
この結論に達し、そしてそれからの実際的演繹に達した時に、私は既に理性の演繹に恐れず、そして理性の導き行くところに従って行った事によって、十分に酬いられた。
この実際的結論に達した時に、私は、以前はかくも困難で、複雑であるかの如くに見えたところの、それ等の問題の解決の如何に平易で簡単であるかに感動された。『何をなさねばならぬか』と言う質問に対して、非常に明白なる答えを得た。即ち、第一に汝自身に必要なことをなせ、汝自身でなし能う凡てのことを自ら整えよ。――汝の茶壺、暖炉、水、衣服。
『これは、凡て、これ等のことを自分のためにさせられて居たそれ等の人々に、不思議に思われはしないだろうか』と言う問いに対しては、それが不思議に見えたのはほんの一週間ばかりのことであって、一週間の後に於いては、前の境遇に還ることが更に不思議に見える様になった。
『この根柢の上にたった一つの社会を、或る村に建設せんが為めに、生理的労働の団体を組織する必要がないか』という問いに答えては、これをなす為めに、その様なことが毫も必要でない様に見えた。若し労働が、或る人をして怠惰である事を得せしめたり、他人の労力を利用することを――金を貯蓄する人々の場合に於けるが如く――目的としないで、単に必要を充たさんが為めであるばかりならば、然らばかかる労働は、自然と人民をして都会を去って、この労働の最も快適にして生産的になる田舎に行かしめるであろう。
またそこには何等の協会を建設する必要もない。何となれば、ある労働者は他の労働者と、自然的に協同するであろうから。『この労働は私の時間を奪ってしまって、私から、私がしかく好んで居るところの、そしてそれには慣れて居るところの、そして疑いの雲に閉ざされる時には、必要だと思惟されるところの、かの智的活動の可能を奪ってしまいはしないか』と言う問いに答えては、その答えは、全く予期しないところのものであった。一切の過剰なる精神的活動から逃れたので、智的活動の精力は、肉体的運動の割合に従って増加した。
事実、以前私が退屈と闘う努力の為めに費やして居た8時間――毎日――を生理的労働に費やしても、尚そこに8時間が残って居る。その中から、私は私の境遇上、5時間を精神的労働に充てた。そして若し、過去14年の間、書くことより外に何事もせず、そして300枚の印刷紙を書いたところの、甚だ多産な著者である私が、その14年の間を、労働する人々と共に普通の仕事をし、冬の夕や休日を計算の中に入れないで、1日5時間ずつ読書をしたり研究したり、そしてただ休日のみ一日に2頁ずつ書いて居たとするならば私は(1日26頁書いた事がある)仍(しきり)に同じ300枚の印刷紙を書いたであろう。
驚くべき事である。七歳の童子と雖もよく為すを得る至極簡単なる数学的計算である。而も私はそれを決してしなかったのである。一昼夜24時間の中で我々を8時間を眠るしかもそこにはまだ16時間が残って居る。若し誰かが1日に5時間を精神的に労働するならば、彼は莫大なる仕事をなすであろう。然らば、残りの11時間を我々は何に充てるべきであるか。
それ故に、生理的活動はまさに精神的活動を妨げないばかりでなく、却ってそれを改善し刺激するように見える。
生理的労働は、私から、人間に固有な多くの罪のない享楽、例えば、芸術の享楽だとか、知識の獲得だとか、社交だとか、そして一般に人生の幸福だとかを奪いはしないかという質問に答えては、それは全くその反対であった。私の生理的労働は強烈になればなる程、最も困難だと思われる労働、即ち、農耕的労働に近づけば近づく程、私は益々多くの快楽と知識とを獲得した。そして人類との私の交際は、益々親密に且つ愛情的となり、そして、益々多く、私は人生に幸福を感じる様になった。『そんなちっぽけな大海の一粟が、何の結果を生じ得よう。余一個の生理的労働は、余が飲み尽くした労働海に比較して果たして何の効果がある』という質問(それはしばしば甚だ真摯でない人々から聞くところのものである)。
この質問に対してもまた、私は極めて予期しない答えを受け取った。
私が生理的労働を私の日常生活の条件とするや否や、私が生理的に怠けて居た時に要した偽れる、そして不経済な習慣の大部分が、何等の努力なしに、自然と止む様になった。昼を御夜に代え、夜を昼に代えた習慣に就いては言わずもあれ、寝具や服装や私の習俗的な清潔に就いて言っても、私が生理的労働を始めるや否やそれは最早、出来得べからざる、そして煩わしい事となった。私の食物の量も、質もまた全く一変した。以前、私の好いて居た、甘美で濃厚で、精美で、複雑で、そして香りの高い食物の代わりに、私は淡白なもの――酸っぱいキャベツのソップや粥や黒パンや少量の砂糖を入れた茶――を最も口に適ったものとして選ぶようになった。
かくて、私が一層親密な交際を結ぶに至ったところの、普通の労働者が、少量の食物で満足して居ると言う例とは関係なしに、私の要求は私の労働生活と共に、次第に、自然と、変化して来た。かくて私が、段々この労働に慣れて来るに従って、またその方法が段々と解って来るに従って、私の生理的労働の一滴が一般の労働界に於いても見分けられる様になった。そして私の労働が益々多くの結果を得るに従って、他人の労働に対する私の要求は、益々少なくなり、私の生活は、何等の努力も困難もなしに、かつて夢想だにし得なかったところの(労働の法則を充足しない限りは)簡単生活に近づいて来た。
以前の私の、非常に物入りの多い要求は――虚偽と娯楽との為めの要求――怠惰なる生活の直接の結果であったと言うことが明らかになった。生理的労働をして居ては、そこに虚栄を入れるべき余地がない。またそうする事によって気持ちよく時を過ごして居るのだから、娯楽なんかの必要もない。疲労を覚えた後には、茶を飲んだり、本を読んだり、家族のものと話したりしながら取る単なる休息は、芝居だとか、骨牌遊びだとか、演奏会だとか、夜会だとか等よりは遥かに愉快である。
『この常ならぬ労働は、人々に仕えんが為めに必要なる健康を害しはしないか』と言う質問に答えては、激烈なる労働は、殊に私の様な年齢になってからは、非常に悪い結果を持ち来す、そしてスエーデン式の体操や、乗馬や、その他、人間の本然的条件を充足せんと企てられたその他の工夫の方が遥かにいいと言う、有名な医者の実證的な断言にも拘らず、激しく働けば働く程、益々強健に、愉快に、そして親切になるのを私は感じた。
新聞紙や、芝居や、演奏や、夜会や、舞踏会や、骨牌や、雑誌や、小説などの如き、これ等一切の人間の心意の発明が、人間の本然的条件たる他人のための労働をしない人々の、精神生活を支撑する手段に外ならざる如く、食物や、飲物や、家屋や、空気の流通法や、室内の温暖法や、衣服や、医薬や、鉱泉や、体操や、電気療法や、その他の療法やの用意の為めに、人間の心意の発明した一切の衛生的及び医薬的方法もまた、人間の本然的生活条件たる労働をしない人々の、肉体的生活を支撑せんが為の、手段方法たるに過ぎないと言うことが、確実不動のこととなった。凡てこれは、ただ窓の戸を開け放って、まさに人間に対してのみならず、獣類に対してでも自然であるところのことをさえすれば善い時に、他の言葉で言えば、食物を吸収し、かくして精力をつめ込み、そしてそれを筋肉の労働によって発散しさえすればよい時に、室内を密封して置いて、さて化学的装置によって、その中にある植物のために、水分の蒸発を致さしめる様なものに過ぎない。
我々の環周(サークル)の人々にとっての、衛生や医術に関する、一切の深遠なる研究は、恰も過度に熱したる蒸気機関の一切の弁を塞いで置いて、それが爆発しない様にとて、何等かの装置を工夫せんとする機械士の努力と同じである。
凡てこの事が解ってしまった時に、私は、私が長い間の懐疑と、探求と、そして多くの思考とを費やして、この著名なる真理、即ち、若し人が眼を持って居るならば、彼はそれを通して見なければならず、耳があるならば、それで聴かねばならず、脚では歩き、手や背では働かねばならぬ、――また若しこれを用いないならば、用いるために作られて居る彼の肢体は、彼にとって一層悪いものになる、と言う真理に到達したと言うことが可笑しく見えた。我々特権的人民とっては、きっと一人の私の友人の馬に起こったのと同じことが起こった、と言う結論に私は達した。馬を好まず、また馬に就いて何事をも了解しないところの彼の執事は、その主人から、売却するために最良なるずんぐり(ヽヽヽヽ)馬を用意することを命ぜられたのである。すると彼は、馬の群れから最良なのを選び出したのである。そして、一つの厩の中に繋いで、燕麦で養ったのである。けれど、彼はあまりに心配し過ぎたので、誰にもこれを任さず、乗りもせず、駆りもせず、厩の外につれ出しもしなかったのである。
勿論、これ等の馬は、凡て何の役にも立たなかった。
同じことは我々にも起った。ただこれ丈けの相異である。――即ち、君は馬を欺くことは出来ない。だから彼等を外に出さないようにするのには、彼等を繋いで置かねばならぬ。だが、我々は、凡ゆる種類の誘惑を持って、(恰も鎖をもってするが如く我々を縛り繋ぐところの)自然なそして有害な境遇のもとに繋がれて居る。
我々は、人間の精神的及び生理的本性に反する生活を、自分のために整えた。そして、これが真個の生活であると言うことを信ぜしめんが為めに、我々の心意の凡ゆる力を使用する。我々が教養と呼ぶところの一切の事は、――人生の快楽を改善するところの科学及び芸術、――全てみな、人間の本然的精神要求を欺瞞せんと欲するものに過ぎない。衛生と称び医術と称ぶところの凡ては、人間の本然的生理的要求を欺かんとする努力である。
しかし此等の欺瞞には制限がある。そして我々は今や、その制限に到達した。『若しも斯くの如きものが、人生であるならば、然らば寧ろ生きない方が良い』と流行して居るショーペンハウエルやハルトマンの哲学が言う。『若し斯くの如きが人生ならば』然らば『寧ろ生きない方が良い』。これは特権的階級の間に自殺の数の増加することによっても証せられる。『若し斯くの如きが人生ならば、我々の後代の為めにもまた生きない方がいい』と放縦なる治術は言う。そして女の生殖力を破壊する方法を発明する。
人類の法則は聖書の中に次の如く示されて居る。『汝面に汗して食物を食わん』と又『汝、悲しみて子を産まん』と。
この事に就いて一つの文章を書いたボンダレフは、この言葉の解釈の上に一つの光を与えた。
私の生涯の間に於いて、私の上に偉大なる感化を及ぼした二人のロシアの思想家がある。彼等は私の思想を豊富にし、私の世界観を啓発した。
彼等は詩人でもなく、学者でもなく、また説教家でもない。二人とも現に生きて居る著名の人物である。すなわち百姓のスウタエフ及びボンダレフである。モリエールの小説中の一人物が、治療術に就いて出鱈目を言い、肝臓が左側にあると言って、そして『我々は全てこれを変更したのだ』と言った様に、まことに我々は全てこれを変更したのだ。人々は働くことを要しない―― 一切の仕事は器械によってなされるであろう。そして女は子を産むを要しない。治療術はこれを避ける、異なれる方法を教えるだろう。何となれば今や既に余りに多くの人民が存して居るからである。
クラポエンスキー地方に、戦争中は兵站監督の部下で、パンの買い手をして居たところの、襤褸を纏える百姓が流浪して居る。彼はこの官吏を知ってから、そして愉快な生活を見てから、遂に発狂してしまった。そして彼もまた、働くことなくして皇帝から養われ、他の紳士の如くに生活する事が出来ると考えて居る。
この百姓は今や自らを、『一切の軍用糧食官元帥公爵プロキン閣下』と呼んで居る。
彼は、自分が一切の階級を経て昇進したのだと言うこと、及び戦争の間中の彼の奉仕のために彼は、陛下から無制限の銀行手形や、衣服や、制服や、馬や、馬車や、茶や、従僕や、それから一切の種類の食料を支給されるべきだと言うことを言う。若し誰かが彼に少し働く気はないかと訊くならば彼はただ『有難いことには、百姓たちは凡てそれをやって呉れる』と答える。若し我々が彼に、百姓もまた働きたくはないだろうと言うならば、彼は答える。『百姓の労働を楽にせんが為めに器械が発明された。だから別に難しいことはない』と。若し我々が彼に、何のために生きて居るのかと訊くならば、彼は答える。『時間を過ごす為めにさ』と。
私は常にこの男を一つの亀鑑と見る。私は彼の中に、私及び私の全階級のものを見る。百姓が、器械の発明の結果、楽になった仕事に従事している間に、時間を空費して生活せんが為に、一切の位階を通じて昇進せんとするのである。
これ即ち我々の階級の人々の持って居る愚かなる信仰を精確に表白したものである。我々が特に自分の成すべき事をも問う時には、我々は実は何事をも問うて居るのではない。何事をも為すことを欲しないことを確言して居るのである。ただ、かの凡て位階を経て昇進したのだと言う、正気を失って居る元帥公爵プロキン閣下の様に、しかく誠実にこれを確言しないばかりである。
正気に帰って居る人々は、そんな問題を提出することが出来ない。何となれば、一方から言えば、彼が利用する一切の事物は、人類の手によって総て作られ、又、現に作られつつあるものだからである。而して又他方から言うと、健康な人間が朝起きて、朝餐を食べるや否や、彼は、自己の手足と並びに頭脳とをもって労働せんとする心の傾向を感ずる者だからである。仕事を見出さんが為めには、ただ、働き惜しみをしないことである。ただ労働を恥辱だと感じる人のみが――きっと、自分で扉を開くことをせざらんが為に、それをなす召使いを呼ぶまで待って呉れとお客に乞うたある婦人の様に――ただ、斯くの如き人物のみが、特別になされねばならぬ何がそこに在るかを問うことが出来る。
困難は職業を工夫することの中にない。――何人も彼自身のため、また他人のため為すべき多くの事をもって居る――我々は、我々自身の快楽のために、食ったり、寝たりするのだと言う罪ある人生観を捨てて、人間は何よりもまず、第一に食べ物をつめ(ヽヽ)込まれる器械であるから、食って働かないと言うことは恥ずべきことであり、困難なことであり、不可能なことである。そして食って働かないと言うことは、最も危険な状態であって、放火の如く悪いことである、という単純にして正当なる人生観を(凡ゆる労働者はこの人生観の中に在って育ったのである)獲得することにある。
ただこの自覚を持つことが必要である。然らば我々は直ちに、職業を見出すべく、そしてその職業は常に愉快であろう。のみならず、我々の心霊と、肉体との両つながりの要求を満足さすことが出来るであろう。
私はこの全事件を、自分で、斯くの如くに描いて見た。一切の人の一日は、彼の食事によって四つの部分若しくは、百姓によって称ばれて居るが如く、四つの段階に区分される。第一、朝食前。第二、朝食より昼餐まで。第三、昼餐よりお八つ時まで(Poldnik.午餐と晩餐との間のちょっとした(ヽヽヽヽヽヽ)晩餐)。第四、お八つ時から夜まで、人間がその方に引き寄せられたる活動もまた、四つの種類に区分される。第一、筋肉の活動。手や、脚や、肩や、背の活動――汗をかく位の激しい労働。第二、指や手首の活動。技巧的及び手工的活動。第三、智的及び創造的活動、第四、他人との社交的活動。
人間が使用する品物もまた、四つに分けられる。第一、何人も、激しい労働の生産物を――パン、家畜、建物、井戸、橋、その他――使用する。第二、手工的生産物――服装、長靴、金物、その他。第三、知的活動の生産物――科学、芸術。第四、人々との社交、知己、協会。
人間は、凡てこれ等の四つの能力を働かすことが出来、そして彼の使用する四つの種類の労働の産物に変える事が出来る様に、一日の仕事を整理するを得たならば、それは一番良い事だろうと私は思った。即ち、一日の四つの部分を捧げるに、第一には激しい労働に、第二には智的労働に、第三には手工に、第四には社交に、と言った様にする事である。若しも人が、彼の労働をそんな風に整理することが出来ればいい。しかし、若しそれが出来ないとするならば、一つの事が肝要である。――労働の義務の承認。一日の各々の部分を善用する事の義務。
現今、我々の社会を支配して居る偽分業が消滅し、人類の幸福とは矛盾しないところの正しい分業の始められるのは、ただその時に至ってのみであろうと私は考えた。
例えば、私は私の全生涯を、智的職業に没頭して居た。そして、斯くして労働の分け前をもって居るのだと自分に言って居た。即ち、私の特別な仕事は著作である。智的労働である。一切の他の仕事は私のために必要である。私はそれを他人のなすに任せる、若しくは、彼等をしてそれをなさざるを得ざらしめる。然るにこの割り当ては、たとえ不正ではあっても、非常に便利であるかの如くに見えては居たが、今や尤も不便になった、特に智的労働は非情な不便となった。私は私の全生涯を書き続けて居た。そして、私の食物をも、睡眠をも、娯楽をも、この特殊なる労働に適合せしめた。この仕事の外は何もしなかった。
その結果の第一は、私の観察や知識の範囲を狭めることであった。かくて私は、しばしば研究の対象を有しないことがあった。そしてそれ故に、人間の生活を記述しなければならなかった時にも、(人間の生活は凡ゆる智的活動の不断の問題である)私は私の無智を感じた。そして、特殊な職業に携わって居ないものなら誰でも知って居るそんな事を、学び且つ問わねばならなかった。第二の結果は、私が書こうと思って机の前に座った時にもしばしば私は、書こうとする内的な気分を感じない様なことがあったばかりでなく、何人も、私の作そのものを、即ち私の思想を要するのではなく、ただ、雑誌の利益のために、私の名を要求したのに過ぎなかった。
私は、私の成し能う丈けのことを書こうと思って、非情な努力をした。時としては毫も成功しなかった。時としては、非情な駄作を書き上げるのに成功した。そして、不満足と悲哀と感じた。かくの如くにして、幾週も幾週も過ぎた。その間私は食ったり、飲んだり、温めたりすることの外、何もしない。若しくは、何人にも必要のないことをなしたり、労働階級の人々でさえ殆んど成し得ない様な最も悪い、最も卑しい罪悪を行って過ごした。しかし私は、激しい労働と同様に、生理的労働や、手工的労働の、必要を覚るや否や、万事は全く変化した。私の時は如何に卑賎(ハングリー)に過ごされるとも、而も私にとっては、有用に、愉快に、そして教訓的に過ごされるに至った。
それ故に私は、私が特別の地位に在ると言うことのために、ただ私が内的要求を感じた時か、若しくは、私の文学的著作のために直接の必要を感じた時にのみ、この疑いもなく有用な、そして愉快な、仕事をやめる。そしてこれは、私の特殊な労働の本質を善くならしめ、従って有用と愉快さとを増さしめる』。
斯くて、私にとっても、凡ゆる人にとっても、同様に必要であるところの、それ等の、生理的職業に私が従事しても、まさにそれは、私の特殊な仕事と抵触しないばかりでなく、この活動の有用と、本質と、面白さとの、必要欠くべからざる条件である。
鳥は、それにとっては、飛んだり、歩いたり、啄んだり、考えたりするのが、必要である様に造られて居る。そして、凡てこれを為した時、初めてそれは、満足もし、幸福でもある。それでこそ鳥である。人間もまた、その通りである。彼は歩いたり、重いものを転がしたり、上げたり、運んだり、指や、眼や、耳や、舌や、脳をもって働いたりする時にのみ満足する。そして、その時に於いてのみ彼は一個の人である。
彼の使命が労働することであるのを認めるに至ったところの人は、自然と、本然的に、彼の内的及び外的の要求を満足させるところの労働に、職業を変えようとする様になる。そしてただある特別なる労働に対する不可抗の衝動を感じ、他の人々がこの労働を要求する時にのみ、この原則を破る。一切の人の要求の充足の為めには、労働を容易にし且つ愉快にするが如き別種の労働の交代を要求すると言った様なことが労働の本性である。
労働は呪うべき者であると言う誤れる観念のみが、人を導いて或る種の労働から逃れしむるに至る。即ち、ある特別な労働をさすところの強制的職業を他人に要求する事によって、他人の労力を奪う様にする。そしてそれを今日では分業と称して居る。
靴製造人や、機械師や、作者や、音楽家などといった職業の人は、寧ろ人間に固有な労働から逃れる方がいいと思う程、我々は、労働の割当に於ける我々の誤れる概念に慣らされる様になった。他人の労力に対して何等の兇暴が加えられず、怠惰は快楽であると言う誤れる信仰が行われさえしないならば、何人も、彼の特殊なる労働に従事しなければならぬからと言って、彼の要求を充たすのに必要なる生理的労働から逃れる様な事はない。何となれば、特殊なる職業は決して特権ではなくて、或る人の性向や彼の同胞のための一つの犠牲だからである。
野に於ける彼の在来の楽しい労働を捨てて、彼の隣人のために靴を修繕したり、製造したりする労働を始めたところの、村の靴製造人は、ただ、彼が縫うことが好きであるのと、誰も彼より上手に縫うことが出来ないのを知るのと、また、人民が彼に感謝するのを知るのとでのみ、野に於ける愉快で有用な労働を、他人のために、やめるのである。
しかしながら彼は、彼の全生涯中、楽しい労働の掛け替えを彼自身で奪い去ることを欲し得ない。それはStarvstaにとっても、機械師にとっても、作者にとっても、学者にとっても同じである。
主人が彼の書記を、百姓として送る時だとか、若しくは、政府がその大臣の一人を、流罪に処する時などに、彼等が罰せられて居るのだとか、酷く取り扱われて居るのだとか、考えられるのは、ただ我々の考えが転倒して居るからである。実際に於いては、彼等は非常に善いことを彼等の為めに行ったのである。即ち、彼等は楽しい掛け替えの労働をもって、彼等の苦しい特殊な仕事に変えたのである。
本然的の社会に於いては全く違って居る。私は、一つの社会を知って居る。そこでは、人民は彼等の私生活を自分自身で儲けて行く。この社会の成員のうちの一人は他のものよりは教育がある。彼等は彼に、講演を請う。そこで彼は、夜になって彼等のために講演をしなければならぬので、昼間準備をしなければならぬ。彼は、彼が他人に有用であり、そしてそれを善くなし得ると感ずるが故に、それを喜んでなす。しかし彼はこの専一なる知的労働に疲れて来る、そしてそれ故に、彼の健康が損なわれだす。そこでその社会の成員が、彼を哀れみ出す。そして彼に、来って彼等と共に、野にて労働せんことを乞う。
労働をもって人生の根本的重要事となし、歓喜となす人々にとっては、その根拠や土台は、常に自然との闘争にあるであろう。――まさに百姓の労働に於いてのみならず、手工や智的職業や社交に於いても。
一つ或は多くから此等の種類の労働が分化すると言う事だとか、労働の特殊化だとかは、ただ、特殊なる天賦をもてる人がその仕事を好み、また、彼がそれを、他の何人よりも善くなす事を知ったところで、他人が直接に、彼に要請する事を成就せんが為めに、彼自身の利益を犠牲に供する時にのみ行われる。
ただ斯かる労働観と、それから結果するところの本然的分業とによってのみ、ほんの想像上、我々が労働の上に置くところの呪詛が消滅するであろう。そして、凡ゆる労働は常に歓喜であろう。何となれば、人は、疑うべくもなく有用で、愉快で、そして容易い仕事をなすか、若しくは他人のために、もっと難しい特別な労働を行うことによって、犠牲を捧げて居ることを自覚して居るからである。
しかし分業はもっと利益が多いと言われる。利益が多いとは誰にとってであるか。全速力をもって出来る丈け多く長靴や型着機を造ることは、一層に利益が多いか。しかし誰がこの長靴や型着機を造るか。幾代も幾代も、ただ針の頭をばかり造って居る男であるか。然らば何うしてそれは、人民にとって一層利益が多いと言えるか。若しも出来る丈け多くの型着機や針を造るとこが目的であるのならば、まことにそうであろう。しかし問題は、如何にして人民を幸福にするかと言う事である。
人の幸福は生活のうちに在る。そして生活は労働の中に在る。
然らば、何うして苦痛多き圧制的職業の必至が、人間にとって一層有利なのであるか。若しも問題がただ、全体の幸福なんかを計算に入れないで、ある人々の利益をばかり考えるのならば、然らば、他人を食うところの或る人々はもっと有利であろう、彼等は言う。実によいと。
一切の人々にとって最も有利なことは、自分が自分のために欲求することである――即ち、最も大なる幸福及び自分の中に植え付けられた一切の自分の要求の満足。肉体的並びに精神的また良心的理性的要求。
今や私は、私の幸福のために、及び此等の要求の充足のために、ただ私が今迄住んで来た(狂人のクラビエンスキィと共に)愚かさから医されさえすればよいのだと言うことを発見した。即ち、紳士は働くことを要しない、そして人々は紳士のために働かねばならぬ、そして紳士は何も生産しないで、ただ人間の固有なる事をなすべきである――私自身の要求を満足さすべきである――と言う、愚かさから医されさえすればよいのであると言うことを発見した。
それを発見したところで、私は私自身の要求の充足のためのこの労働は、諸種の労働に分かち得、その各々はそれ自身の魅力をもち、そしてまさに重荷でないばかりでなく、何か他の労働の後の、一つの休息として役立つと言うことを信ぜしめるられる様になった。
私は斯かる分け方の適当を少しも主張しようとするのではないが、労働者の一日の仕事を食事によって分かった如く、労働の種類を四つの部分に分かったのである。そして、かくして私の要求を満足せしめようと務めたのである。
しからばそこに『我等何をなすべきか』と言う質問に対する答案がある。そして、それは、私が私自身で見出したところのものである。
第一。自らを欺いてはならない。たとえ如何に私が、理性の指し示す道からかけ離れて居ようとも、私は尚真理を恐れてはならない。
第二。私を他人と区別するところの、私自身の正義や特殊を拒否せよ。そして私自身の罪を負え。
第三。人間の永遠にして疑うべからざる法則を充たせ。――自然と闘い、私自身の生命を支え、そしてまた、他人の生命を支えんが為めに、私の全存在をもって労働することによって。
三九
私は既に、 私自身に関する凡てを言い尽くした。しかし私は尚、凡ゆる人に関することを言わないでは居られない。また数多くの考證によって私自身の演繹を確かめないでは居られない。
私は、何故私が、私自身の階級の莫大なる人々が、私の今、立って居る所に達しなければならぬと考えるかを説明したい。そしてまた私は、若しも僅か四、五人のもの丈けでもそこに達したとしても、如何なる結果が将来するかを語らねばならぬ。まず第一に、若しも我々の集団や階級の人々が、ただその事情を、自分で真面目に考えさえすれば、自らの個人的幸福を探求しつつあるより(ヽヽ)若い人々は、明らかに彼等を破滅に導く行くところの、日増しに増大して居る人生の悲惨事を恐れる様になるであろう。我々の間の用心深い人々は、(若し彼等にして自らを一掃精密に検覆さえすれば)彼等自身の生活の残酷と不合理とに戦慄するであろう。そして臆病な人々は彼等の生活形式の危険に威かされるであろう。
我々の生活の悲惨!如何に我々富める者共が、科学や芸術の助けによって、弥縫し支撑せんと欲しても、それは、日に々々、益々弱くなり、不健康になり、そして苦痛多くなるであろう。年と共に、自殺や、未だ生まれざる赤ん坊に対する罪が、増えて行くであろう。年と共に、我々の階級の新時代の人々は哀願し行き、年と共に益々多く、我々は、我々の生活の悲惨の増大を感じるであろう。
生活の慰籍と、歓楽との増大や、治療法や義歯、義髪やなどの発明をもってしても、我々の生活の行路に於けるこの悲惨の救われ得ないのは明白である。
この真理は、斯かる自明の理となった。新聞紙の広告を見るならば、『貧民の祝福』と言う標題のもとに、富者のための胃散に就いて印刷されて居るが、それでは、強い消化力を持って居る者はただ貧しきものばかりであって、富者の胃は扶けを要する、そしてその補助は色々の散薬の中でも、特にこの胃散がいいと記されて居る程にも。君はこの事情を、如何なる種類の娯楽をもっても、慰籍をもっても、散薬をもっても、改善することが出来ない。ただ生活の新しい頁を繰る事によってのみ得られる。
我々の生活と良心との矛盾。如何に我々が、人類に対する我々の反逆を自ら弁明しようと努めるとも一切の我々の弁明は、事実の前に粉砕してしまう、そして、我々はただ、我々自身を楽しましめんが為めに、人々の食物や被服や労力を破壊する。それ故に、我々の仲間の者の良心は、たとえそれが胸中に残存して居るのは殆んど皆無であるとしても、而も尚、窒死させられることは出来ない。そして我々の、悩み且つ滅びつつある同胞が、我々のために我々に与えて呉れて居る、これ等人生の一歳の慰籍と陶酔とを毒する。凡ゆる良心的な人は、これを自ら感ずるばかりでなく今日では更に鋭く感じなければならぬ。何となれば、科学及び芸術の最善の部分は(その部分は科学及び芸術をして、今も尚その一種の高い使命を留保せしむる所以のものである)不断に、彼の残酷と、彼の地位の不法とを思い起こさしむるからである。
古い安全なる弁明法は全て破壊された。科学のための科学、芸術のための技術の進歩の、新しい暫存的弁明法は素朴なる常識をも満足ささないであろう。
人々の良心は新しい欺瞞によって静められることは出来ない。それはただ生活の新しい頁を繰って、最早や弁明の要のなくなった時にのみ沈静さすことが出来る。
我々の危険! 如何に我々が、我々の圧制して居る人民の忍耐を疲弊して居るかと言う、平明にして明白なる危険を、自分に隠しおおそうとしたところで、その危険は日々に時々に成長しつつある。それは今迄も我々を威嚇しつつあった。しかし今や殆んどその航路を、恰も―― 怒涛澎湃たる海洋に弄ばれている小船の中に於けるが如く、――続け行く事を得なくさそうとして居る。而もその海たるや今にその怒りをもって我々を呑み盡そうとして居るのだ。
破壊と虐殺との恐怖をもってする、労働者の革命は、まさに我々を威嚇するばかりでなく、我々は既に過去30年をその中に過ごして来た。その爆発を延ばさせて居るのは、ただ我々の数多き狡猾なる工夫によってである。
斯くの如きがヨーロッパの状態である。斯くの如きがロシアの状態である。しかしてロシアでは一層に悪い。何となればそこには何等の安全弁がないからである。人民を抑圧して居る階級は、皇帝を除いての外は、我々の人民の間には最早や何等の弁明をも持って居ない。彼等はただその地位を暴虐と狡智と利便(即ち巧妙)とでもって持ち堪えて居る。而も、人民の最悪なる代表者等の我々に対する憎悪と、最善なる代表者等の我々に対する侮慢とは、刻々に時々に増大しつつある。
ロシアの人民の間に、一つの意味深長な言葉が、ここ三四年の間に流布されて居る。かつて私の聞いたことのないこの言葉をもって、人民は街中で誓言をたて、そしてそれをもって彼等は我々に一つの定義『寄生虫』の名を与える。
圧制された人民の、憎悪と侮慢とが増大しつつある。そして、富める階級の生理的及び精神的の力が減少しつつある。凡てを支えて居る欺瞞はその力を失い、そして富める人民はこの絶体絶命の危険のために医さまる時はない。物の古い制度に帰ることは不可能である。古い特権を回復するも不可能である。その生活の進路の変更することを欲せず、新しい生活の頁を繰ることを欲しない者にとっては、ただこの一事が残されてある。即ち、彼等の生きて居る間は、思う存分勝手に振る舞ってさてその後は人民の成すに任すと言うことであろう。実際斯くの如くに、盲目なる富者の群れは考える。しかし危険は不断に増加しつつある。そして恐るべき災害は益々近く寄って来る。
生活の変更の必要を富者に證明しなければならない理由が三つある。第一は、彼等自身の幸福、及び彼等の家族の幸福に対する欲求は、彼等が今、生活して居る様な方法では得られないと言う事のため。第二は、良心の声の満足は、物の現存の状態では明白に不可能であると言うことのため。第三は、生命に対して不断に増大しつつある威嚇及び危険は、如何なる外的の手段方法をもってしてもそれに対抗することの出来ないと言うことのため。凡てこれ等は、富者をして、 彼等の生活形式を更改せしめないでは止まない。この更改のみが幸福や良心の願望を満足せしめ、――また危険を除去せしむる。そして斯かる更改を成すたった一つの手段がそこにある。――即ち、我々自身を欺くことをやめ、悔改め、そして労働は呪うべきものではなくて、人生に於ける楽しき職務であると言うことを承認することである。
これに対して彼等は答える。『幾千の百姓が私の持って居る金の為めに喜んで労働をなすのに、私が一日に10時間や8時間や5時間の生理的労働をしたとて、それが果たして何になるか』と。
第一の善い結果は、君がもっと快活に、もっと健康に、もっと健全に、もっと親切になると言うことだ。そして君は、君がそれから遁げ隠れたところの、若しくは、君には隠されたところの、真の生活を学ぶであろう。
第二の善い結果は、若し君にして良心を持って居るならば、今、君が人々の労働を眺める時に悩む様な悩みから、――我々は常に、我々の無智から、人民の労働の重要を増したり減じたりして居る――免がれるばかりでなく、絶えず君は、日々に君の良心の要求をより(ヽヽ)多く々々満足させて行きつつあると言う、楽しい承認を経験し、また、我々は最早、恐らく何等の善をもなし得ないだろうと感じる程にも、多くの害悪を我々の生活のうちに堆積して居る、そんな恐るべき状態から離れ得るであろう。君はまた、他人に善を為し得ると言う自由な生活の喜びを経験するであろう。君はまた、今まで君には閉ざされて居た、道徳の世界の領域に通ずる一路を開拓し得るであろう。
第三の善い結果は斯うであろう。君は、君の悪い行為に対する復讐の恐怖を不断に感ずる代わりに、他人をこの復讐から救いつつあると言うことを感じるであろう。特に、抑圧された人民を、その怨恨や鬱憤の残忍なる感じから救いつつあると言うことを感じるであろう。
しかし、一般に語られるところは斯うである。若し我々、深い哲学的、科学的、政治的、芸術的、宗門的、社会的、問題を目の前に控えて居る我々如き種類のものが、大臣であり、元老院議員であり、学士会員であり、教授であり、芸術家であり、唱歌者であるところの我々が、また、15分間がそんなに高価に人々から値ぶまれるところの我々が、長靴を磨いたり、襯衣を洗ったり、地を掘ったり、馬鈴薯を植えたり、雛や牝牛を飼ったりなんかするが如き、まさに我々の門衛や料理人ばかりでなく、我々の時を尊重する幾千の人々が、我々のために喜んでなして呉れる仕事をなすのに、我々の時間を費やさねばならないのだ? と。
しかし、何故我々は、自分で着物を着たり、洗ったり、髪を梳るか。何故我々は歩いたり、婦人や客人に椅子をすすめたり、扉を開けたてしたり、人々を馬車に扶け入れたり、その他、以前は我々の奴隷によって行われた幾百の事を自分でするか。
何故なれば、斯くの如きは、我々自身で為してよいと考えるからである。また人類の品位に適う者だと考えるからである。即ち、人類の義務だと考えるからである。生理的労働に就いて言っても同じである。人間の品位、彼の神聖なる義務は、彼の手を足を、それが彼に与えられた目的に向かって用いることである。即ち、それは、飲み込んだ食物を手足の労働(それは食物を生産するところ)によって消費し、そしてただ、それを洗って綺麗にしたり、口に食物や煙草を詰め込むのに使ったりなどをする様な、そんな濫用によって消費されない様にすることである。
それが、凡ゆる社会に於ける、凡ゆる人のための生理的労働の意義である。然るに、この自然の法則を破った我々の階級の中に、全範囲に於ける人類の不幸がやって来た。そして我々にとっては、生理的労働は他の意味を持つ様になった。――人類を威嚇する恐るべき害毒を転ぜしむるところの、説教若しくは布教の意味である。
教育のある人間にとって、生理的労働はつまらない職業だと言うのは、宮殿を建設するのに『各々の石を精確にその位置に置いたって何になるか』と言うのに同じである。凡ゆる偉大なる事業は、平静と謙遜と単純の条件の下に行われる、人は壮大なる飾光燈(イルミネイション)の間に於いて、若しくは轟々たる大砲の音のただ中に於いて、若しくは制服を着て居ながら、耕すことも、家畜を飼うことも、考えることも出来ない。
通常我々が、ある行為の重要だと言う思想と関連さすところの、イルミネーションや、大砲の轟きや、音楽や、制服や、清潔や、眩燿やは、事実それとは反対に、その行為が重要でないと言う證左である。偉大なる真の事実は常に単純で謙遜である。我々の為めに残された最も偉大なる事業――即ち我々の住んで居るところの、それ等の恐るべき矛盾の解決――もまた斯くの如きものである。これ等の矛盾を解決するところの行為は、例えば生理的労働によって我々自身を扶け、若し能うであれば他人をもまた扶けるが如く、そんな、謙遜で世に著れない、見たところ可笑しな行為である。これが正しく、我々富者の為さねばならぬことである。若し我々が今現に生活して居る地位の不幸と不正と危険とを了解するならば……。
若し、私を始めとして、第二、第三、第十の人々が、生理的労働を拒絶しないで、それを、我々の幸福のために、また、我々の良心の宥和のために、そして我々の安全のために、必要だと思惟するならば、その事情のもとに如何なる結果が起こるであろう。その結果はこれであろう。即ち第一、第二、第三、第十のものが、何人とも衝突しなくなり、政府の兇暴もなく、革命の兇暴もなく、かくて世界に満ち溢れて居る、そして解決することの出来ない様に見えて居る、それ等の問題を解決するであろう。そして彼等は、人生が彼等にとって善いものとなる様な、そんな方法に於いて、それを解決するであろう。彼等の良心は宥和せられ、彼等を抑圧する害悪は、彼等にとって最早恐るべきものでなくなるであろう。
他の効果はこれであろう。他の人もまた、彼等が至る所に求めて居た幸福が、今や彼等の極く間近にあると言うことや、良心と社会の制度との間に於けるこの解決することの出来ない様に見えた矛盾が、最も容易で最も愉快な方法で解決されることや、また、彼等を取り囲んで居る人々を恐れる代わりに彼等と交わり、彼等を愛さねばならぬと言うことを了解するであろう。
解決することも出来ない様に見えるところの、経済的及び社会的問題は、クルイロフの手箱の問題の様なものである。その手箱は何等の困難もなく自ずと開く。しかしそれは、人々が最も単純にして最も自然的なこと。即ち、それを開けると言うことを――なしさえすれば……。解決の出来そうにない問題は、ある人が他の人の労働を利用すると言う古い問題である。この問題は、我々の時代に於いては、財産のうちにその表白を見出した。
以前は、他人の労力は、ただ暴虐、即ち奴隷制によってのみ用いられた。我々の時代に於いては、それは財産の手段によってなされる。我々の時代に於いては、財産は、それを所有して居る者の一切の悪及び悩みの根源であり、それを誤用する者の良心の一切の侮恨の根源である。そしてそれを所有する者と、所有しないものとの間に起こる衝突より生ずる、一切の危険の根源である。
財産は一切の悪の根源であると同時に、近代の社会の一切の活動が向けられて居り、世界の一切の活動を指導するところのものである。国家や政府や財産のために、萊因の河岸や、アメリカ及び支那の土地や、バルカン半島やを占領せんとして、陰謀を企て戦争を始める。銀行家や、商人や、製造業者や、地主やは財産のために詭計を用いて、自らを苦しめ他人を苦しめる。政府や、官吏や、工匠は、財産のために、闘争し、欺瞞し、圧制し、苦しめる。裁判所や警察は財産を保護する。懲役、監獄、謂わゆる刑罰と言われる一切の恐怖――それは全て財産のためになされる。
財産は一切の根源である。而して今や、全世界は富の分配と保護とに忙しい。
然らば財産とは何であるか。人々は、財産とは真に人に属する何かだと考え、それ故にこれを財産だと称ぶのだと考えるのに慣れて居る。我々はやたらに我々自身の家だとか、我々自身の土地だとか言う。しかしそれの誤謬であって迷信であるのは明瞭である。我々は、財産はただ他人の労力を利用する手段に過ぎないことを知って居る。若しくは知らないでもそれを認めることは容易である。而も他人の労力は、決して我々のものではあり得ない。それは財産の概念とは何等の共通点を持たない。――非常に精密なそして精確な意味の概念に於いては……。
人は常に、彼自身の意志に従うものや、彼自身の意識に合体するものを、彼自身のものだと称んで来た。またこれからも称ぶだろう。彼の身体でなく、しかし彼の身体同様に彼の意志に従わせたいと思う何事かを、彼自身の者と称ぶや否や、人は誤謬に陥る。そして失望し、悩み、他人をも同様に悩ましむる。人は彼の妻を彼のものと称ぶ、彼の子供達をも彼の奴隷をも彼の付属物をも、彼自身のものと称ぶ、しかし現実は常に彼の誤謬を彼に示す。そして彼はこの迷信をも、悩みをも、他人を悩ますことをも脱れねばならぬ。
今や我々は、名目の上では奴隷の所有を拒否しながら、而も金銭のために(そして政府の強制徴収のために)金銭に対する我々の権利を要求するに至った。即ち、他人の労力に対する権利を……。
しかし、我々の妻や子や奴隷や馬を、我々の財産として要求することは、実際と矛盾した純然たる虚構である。そしてそれを信ずる者をして悩ましめるに過ぎない。何となれば私の妻や子は、私の身体が私に従う様には決して私に従わないからである。それ故に私自身の身体だけが、常に私の真の財産と称び得る唯一のものである。――それ故にまた、金銭や財産は、決して真の財産ではない。しかしただ自欺であり、苦悩の根源である。常に私に服従し、私の意識に結びつけられる私の財産と言うものは、ただ私の身体ばかりである。
我々は、我々の身体より外のものを、我々自身のものだと称ぶのに慣れ、そしてそれ故に斯かる粗野な迷信が我々にとって、何等の悪い結果を生じる事がなく、却って有用であるように思惟するが、しかし、それはただ我々がそう思惟するばかりである。我々はこれが、他の一切の迷信の如く、ただ恐るべき結果を持ち来すに過ぎないと言うことを見る為めには、物の本性を少し考察して見さえすれば良いのである。
最も簡単な例をとって見よう。私は私自身を私自身のものだと考える。そして私の様な他の人をも私のものだと思う。私は私の食事の料理法を了解しなければならぬ。若し私にして、他人を私の財産と思惟することの迷信を脱却しなければならないのならば、私は私の真の財産(即ち私の身体)にまでの、凡ゆる他の必要と共に、この料理を習得すべき筈であった。然るに、私はそれを私の仮想的な財産に数えた。そしてその結果は、私の料理人が私に服従せず、私を喜ばそうともせず、そして私から遁走さえしたり、死んだりすると言うことである。そして私は、私の要求を満足さすことが出来ないままで残され、それを習得するの習慣を失い、そして料理法を自分で学ぶのに費やしたであろうと思われる位の時間を、この料理人のために思い煩わされるのに費やすと言うことである。
建物や、着物や、器物や、土地や、金銭の、財産に於ける場合も同じである。一切の仮想的な財産は、常には満足さすことを得ないところの、照応のない要求を、私の衷に喚び起こさしむる。そして私から、私の真の、そして確固たる財産――私の身体――のために獲得すべきであるところの、知識や熟練や習慣や改善などを獲得するの能力を奪ってしまう。
その結果、常に私は、決して私の財産でもなく、また財産であり得ない者のために、私の力を、時として私の全生命を、消費した。(私自身に、私の真の財産に――何等の得るところもなく)
私は、ある『私有』図書館や『私有』絵画陳列館やを私自身に備える。私はまた、私の要する凡ゆるものを買わんが為めに、私『自身』の金銭を獲得する。それはこう言う事になる。――私がそれを何と称ぼうとも、私の財産でなく、また財産であり得ず、そしてまた活動の目的でもない処の、この仮想的な財産のことに没頭する事によって、私が真にそれによって労働し得、そして真に私に役立ち、また常に私の権内に止まって居る私の真の財産であるところのものを見失ってしまう。
言葉は常に、我々が故意にそれに誤った意義を附すに至る迄は、ある一定の意味を持って居る。
然らば、財産とは何を意味するか。
財産とは、私にばかり与えられたもの、私にばかり属する唯一絶対のものを意味する。それをもって私が自らの欲する何をでもなすことの出来るもの、何人も私からとり去ることの出来ないもの、その生涯の最後まで私のものであるもの、そして私がその生命を増加し改善せんが為めに用いるべきものである。凡ゆる人物にとって、斯うした意味の財産は、ただ、私自身である。
かの仮想的な財産、そのためにこの世の一切の苦悩――戦争、処刑、裁判、監獄、奢多、堕落、殺人、そして人類の破滅――が存するところの(この仮想的な財産を真の財産とならしむることが出来ないので)その財産を了解するのはこの意味に於いてである。
然らば、10人の人がその必死の要求からでなく、ただ、人は仕事を要求し、そして彼が働けば働く丈け彼のためによくなるだろうと言うことを認めるところから、耕作したり、木を挽いたり、長靴を製したりする様な事情からは、どんな結果が生ずるであろう。
これがそこから生まれ出るであろう、10人若しくはただの一人でもいい、その思想や好意をもって、そのために彼等が住んで居るこの恐るべき害悪が、彼等の運命の法則でもなければ、神の意志でもなく、また歴史的必至と言うべきものでもない、それは至って強固でもなければ威圧的でもない、薄弱にして無力な迷信であるから、人はそれから脱れ、繊弱なる蜘蛛の巣の吹き払われる様にそれを破壊せんが為めには、恰も偶像に対するが如く、それを信ずることを止めさえすればよいのだと言うことを人々に示すことになるであろう。
その生活の楽しい法則を成就せんが為めに働き、労働の法則の実現のために働くところの人々は、かくも不幸に満就いて居るところのこの財産の迷信から、自らを自由にするであろう。そして然る時、我々自身の身体以外の仮想的財産を保護せんが為めに存して居る凡てこれ等の世間的設備は、彼等にとってまさに不必要なばかりでなく、むしろ重荷になるだろう。そしてこれ等の制度は、人生にとって不必要な、有害な、仮想的な、そして、虚偽の条件であると言うことが万人に明らかになるであろう。
労働を、呪詛でなく、歓喜だと思惟する人にとっては、彼自身の身体以外の財産は――即ち、他人の労力を利用する権利若しくは可能力――まさに必要でなくなるばかりでなく、むしろ不便になるものとなるであろう。若し私が、私の食事を料理することを好んで居るならば、そしてそれをなすのに慣れているならば、然らば他の人が私のためにそれをなすと言う事実は、私の日常の仕事を私から奪い取り、また、彼が自分で満足した様には私を満足させないであろう。のみならず、仮想的な財産の獲得はかかる人にとっては必要でなくなるであろう。労働をもって彼の生活そのものと思考する人は、その全生活を労働をもって充たし、そしてそれ故に他人の労働を益々少なく要求するに至るであろう。――換言すれば、彼の閑暇を費やし、彼の生活を飾る財産として、他人の労働を要求することは少なくなるであろう。
若しも或る人の生活が労働によって占められて居るならば、彼は多くの室や家具や諸種の服装を要しない。彼はそんなに多くの贅沢な食物や機関車や娯楽を要しない。特に労働を彼の生活の事業若しくは歓喜と思惟する人は、他人の労働を利用することによって、彼自身の労働を楽にしようとは求めないであろう。
人生は労働によって成り立つと思惟する人は、一層多くの熟練と巧妙と忍耐とを獲得する割合に従って、益々多くの仕事をなし、そしてその全時間を占有することを企画するであろう。その生活の目的を労働の中に見出し、それを、その労働の結果であるところの財産の獲得の中に見出さない人にとっては、労働の道具に就いての問題さえ起こり得ない。たとえ、かかる人は常に最も生産的な労働の道具を選ぶと言っても、彼はまた、最も非生産的な道具をもって働いても、同じ満足をもつであろう。
若し彼にして蒸気犂(すき)を持つならば、彼はそれを持って耕すであろう。若しまたそれを有たないならば彼は馬犂をもって耕すであろう。若しまたそれを持たないならば、彼は普通のロシア犂(Sokha)をもって耕すであろう。若しそれさえもないならば、彼はただの犂(Spade)を用いるであろう。そして如何なる事情の下にでも、彼は彼の目的を達するであろう。即ち、彼の生活を人間に有用な労働でもって過ごすであろう。そしてそれ故に、充ち足れる満足を感じるであろう。かかる人の地位は内的の事情に於いても、外的の事情に於いても、その生涯は財産の獲得に一生を捧げた人の境遇よりも更に幸福であろう。
外的な事情から言うと、彼は決して欠乏に襲われることはない。何となれば人は彼が労働を避けないのを見て、恰も流れる水によって水車を整える様に、彼の労働をして彼等にとって、最も生産的にしようとするであろうからである。そして彼の労働を一層生産的ならしめんが為めには、人々は、財産の獲得を目的として居る人々には決してしない様な、彼の物質的生存の為めに備えるであろう。物質的欠乏の支給、これ人の要求する凡てである。
内的な事情から言うと、かかる人は財産を求めて居る人よりは常にもっと幸福である。何となれば、後者が彼の求めて居るものを決して得ないのに反して、前者は常に彼の力量に従って(諺に言うが如く、その手にKoredを持って居る虚弱な年老いたる瀕死の老人ですらも)十分なる満足をうけ、人間の愛と同情とを得ることが出来るからである。
この事の結果の一つは、ある奇怪な半狂乱的な人物が、煙草を吸ったり骨牌を遊んだり、馬を乗り回したり、凡ゆる智的労働者が随時に持つことの出来る10時間を、一つの場所から他の場所へと、退屈を持ちまわったりする代わりに、田を耕したり、長靴を製したり、その他のことをする様になる事である。
他の結果は、そのために人々が苦悩し、自己及び他人を苦しめて居るところの仮想的な財産は、幸福のために必要でないばかりでなく、それを阻碍する一つの迷信に過ぎないと言うことや、真の財産はただ、人自らの頭や、手や、足であると言うことや、その真の財産を、有用に、そして愉快に、利用せんが為めには、それによって我々の生命の最善の力を浪費して居るところの、我々自身の身体以外の財産と言う、誤れる観念から逃れることであると言うことを、これ等の蠢(しゅん)愚(ぐ)なる人民が、その行為に於て表明するであろうと言うことである。
今一つの結果は、ある人がこの仮想的な財産を信ずることを止めたならば、その時こそ初めて彼は、彼の真の財産――我々がまだ想念にさえ浮かべたことのない幸福と共に百倍の果を持ち来すところの、彼自身の身体の真の用語を知るであろうと言うことや、彼は至るところで彼自身の足で立つところの、 有用な、強健な、そして親切な、男になり、常に凡ゆる人の兄弟となり、一切の人に理解され、一切の人に要望せられ、一切の人に親しまれるようになるだろうと言うことである。
然る時、人々は、一人の――或いは十人の、かかる蠢愚なる人々を見て、財産を尊重する迷信のために縛られたところの、かの恐るべき結節を解かんが為めに、何を成さねばならぬかと言うことや、その下に在りて、今、呻吟しつつあり、そしてそれから何うして脱れたらよいかを知らないところの、不幸なる境遇から脱れるのには、何をなさねばならぬかと言うことを知る様になるだろう。
これが表明する程にも平明に、それを使用することの不正を示し得る推理はどこにもない。
船人は船を流れに逆らって曳きあげつつある。 しかし世には、自分一人では船を曳き上げ得ないからと言うので、彼の分を為すことを拒むような馬鹿な船人を見出し得ると言うことは可能であろうか。動物的生活の権利の外に、――食ったり寝たりする――何等かの人類的義務を承認するものは、恰も、船人が、ただ彼の胸掛けを着けて、与えられたる方向に歩きさえすればよいのを知るのと同じ様に、何処に斯かる義務が成立するかをよく知る。彼はただ彼の義務を成就した時に至って初めて、何をなすべきか如何にしてなすべきかを知らんことを求めるであろう。
この船人の様に、また、共同的な何等かの労働をなす一切の人々の様に、全人類の労働をなすものに就いても同じである。船人はただ彼の胸掛けを着ければよいのである。そして与えられたる方向に行けばよいのである。そしてこの目的の為めに、この方向は常に同じであると言う一つの、そして同じ理由が、万人にまで与えられる。
この方向が我々に与えられて居ると言うことは、我々を取り巻いて居る人々の生活並びに凡ゆる人の意識のうちに、また、今迄の人類的叡智の一切の表現の中に、明白に且つ確実に示されて居る。それ故に、ただ働くことを欲しない者のみ、それを見ないと言い得る。
然らば、それからして果たして何が将来するか。
これだ。最初は一人、次には他の人が船を曳く。すると彼等を見て第三のものが加入する。そして斯くして一人一人と最善の人々が加入する。そして尚未だ何故に、また、何の為めにそれがなされて居るかを了解しないところの人々をも勧誘して加入さすので、それが滑らかに行われ、船が恰も一人で動いているかの如くに動くようになる。
最初は、神の法則を成就せんが為めに、良心的に労働する人々がある。次にはその人々に加えるに、半ば良心的に半ば信仰でもって受納れる人々がある。次にはまた、ただその先頭者を信じて労働するもっと沢山の人々がある。そして最後には大多数の人民。かくて人々は遂に自ら滅亡することを止めて幸福を見出すようになる。
こんな世界は、我々の群れの人々が、そして彼等に従った大多数の労働者等が、下水道を拵(こしら)えるのを恥ずかしいと思わず、寧ろ他人をして、即ち我々の同胞をして、その中の物を持ち運ばしむることを恥だと考える様になる時に現出するであろう。(そしてそれは直に現出するであろう)彼等は普通長靴で訪問に出かけるのを恥だとは考えないだろう。しかし裸足の人民の側を雨除け靴で歩くのを恥ずかしく感じるであろう。彼はフランス語を知らず、最近の小説を読まないの恥だとは考えないであろう、しかしパンを食いながら、それが如何にして作られるのかを知らないのは恥だと考えるであろう。彼等は糊の付いた襯衣や清潔なる着物のないのを恥だとはしないであろう。しかし清潔な上着を纏うことを怠惰者だと言う表象として恥ずるであろう。彼等は垢じみた手をもつことを恥多きことだとは考えないであろう、しかし手に硬結(まめ)のないことを恥ずるであろう。
凡てこれは与論がそれを要求する時に至って行われるであろう。与論はそれを、人々が彼等から真理を隠すところのそれ等の罠を振り捨てた時に要求するであろう。この方向に於ける偉大なる変化が、私の記憶の範囲内に於いても行われた。これ等の変化は、ただ与論が変化した時にのみ起こった。私の記憶に残って居る範囲に於いては、この事が起こった。即ち富める人にして、若し二人の奴隷をもてる四頭の馬車を駆ることを得ないならば、それを恥辱だと感じたのに反して、また、彼に着せ、彼を洗い、客室に侍するところの男女の召使いをもって居ないことを恥じたのに反して、今やそれが急変して人手なしに、自分で着物を着、自分で洗うことや、奴僕なしに馬車を駆ることを恥じない様になった。凡てこれ等の事は与論によって成し遂げられた。
我々は今与論が用意して居る変化を見得ないか。25年以前には、奴隷制を弁明した罠を破壊する丈けで満足した。そして与論は何が賞賛すべき事で、何が恥ずべき事であるかと言うことに関する態度を変えた。そして人生は変化した。人々の上に及ぼす金銭の力を弁明する罠を破壊すれば十分であろう。然らば与論は賞賛すべきものと恥ずべきものとに関する見解を変えるであろう。そして人生は変化するであろう。
しかし金の力を弁明する罠の破壊や、この方向に於ける与論の変化は既に行われつつある。この罠は既にその正体を現して居る。ほんの(ヽヽヽ)僅かばかり、真理を覆って居るに過ぎない。まさにそれが行われなければならないばかりでなく、既に成し遂げられた。ただ自覚的には認められず、まだ名ざされても居ないところの、与論の変化を明白に見ようと思うならば、人はただ、もっと注意深くそれを吟味しさえすればよい。我々の時代の教育の程度の低い人をして、彼が宇宙に対して懐抱して居る見解から生ずる結果に就いて考えて見よ。然らば彼は、それによって彼の生活が導かれて居る善悪の無意識的評価や、賞賛すべきものと恥ずべきものとに就いての評価が、彼の人生観とは全く矛盾して居るのを知るであろう。
我々の時代の或る人をして、ただほんの(ヽヽヽ)一分間、彼自身の懶怠なる生活から離脱せしめ、彼の人生観より生ずるその評価に従って、それを局外者の見地から眺めしめよ。然らば彼は、彼の世界観から生ずる彼の生活の定義の前に、驚嘆して立つであろう。
我々をして、一つの例として、富豪階級の一青年(青年に於いては生活力はより(ヽヽ)強い、そして自意識はより(ヽヽ)漫然として居る)及び何等かの思想の影をとらしめよ。凡ゆる謹厳なる青年は、老人や子供や女を扶けないことを恥辱だと思う。彼は、共同の仕事に於て、自分はその危険を避けて居る間に他人の生命や健康を危険にさらすことを恥辱と考える。何人も、スカイラァが、キルギス人――暴風雨の荒れすさんだ時、自分たちがテントの中に在ってクウミス酒を飲んで居る間、その妻や老人を外に出し天幕の隅を抑えさせたところの――に就いて告げた様なことを為すのを、恥ずべき、そして野蛮なことだと思惟する。何人も、弱き人を強制して彼の為めに働かしむることを恥だと考える。ことに、例えば船火事の時の様な危険な場合に於いて、最も強い者が弱い者を押しやり、そして我先きと助け舟に乗り移るが如きことを恥辱だと感じる。人々は凡てこれを恥ずべきことだと思惟し、決してかかる例外的な事情の下に於いては、そんなには行うまいとする。しかし日常生活に於いては、同じ行為が、或いはもっと悪いことが――罠によって隠されて居るところの――不断に彼等によって行われて居る。
それの恐るべきことを認めんが為めには、人はただそれを熱心に考えさえすればよい。
ある青年は彼の襯衣を日毎に取り替える、誰がそれを洗うのか。ある女。そして彼女の状態の如何を問わない。多くの場合、それは彼の母若しくは祖母に相当する位の女、時にはまた病気して居る女、この青年は、他の一人の青年が、その出来心からして、彼の清潔なる襯衣を取り替えて、それを洗わんが為めに、彼の母にも相当する年齢の女のところに送るのを見た時、彼を何と称ぶであろう。
ある青年は、当世風にならんが為めに、馬を貯える。そして彼の父若しくは祖父にも当る様な一人の老人が、生命を賭してその馬の訓練に従事さされる。そしてその危険のなくなった時分には彼はその馬に乗る。自らは危険な位置をさけて、それを他人に負わせ、そして彼自身の快楽のためにかかる危険を許すところの或る人を見た時、その青年は彼に就いて何と言うであろう。
しかも富裕階級の全生涯はかかる行為の連鎖から成り立って居るのである。我々の労働を扶ける為めでなくて、我々の出来心を満足せんが為めに――これ等は我々の生涯を充たす――老人や子供や女の過重なる労働や、生命の危険を伴って居る労働が、他人によってなされる。漁夫は我々のために魚を捕らえて居る間に溺死した。洗濯女は風邪を引いて、そして死んだ、鍛冶屋は盲目になった。工場で働くものは病気になり、そして器械によって傷つけられた。樵夫は倒れる木によって摧(くじ)かれた。労働者は屋根から落就いて死んだ。裁縫女は痩せこけた。一切の現実的労働は生命の浪費と危険とをもってなされる。これを隠し、これを見ることを拒むことは不可能である。そこに一つの救済がある。この境遇より脱れる一つの方法がある。即ち、若し我々の時代のある人にして――彼自身の原理に従って――自らを無頼漢若しくは臆病者と(仕事を他人の肩の上に負わせ、生命の危険を負わさせるところの)称ばれ度くないならば、彼は、人々から、ただ彼の生活によって必要なものをとり、自らもまた、生命の浪費と危険とに結びつけられて居る真の労働に服さなければならないと言うことである。
私の記憶している限りでは、更に感動的な変化が行われた。私は、各々の椅子の背後に、一人の召使いが一つの皿をもって立って居たのを覚えて居る。人々は二人の従僕に従われて訪問した。一人のコザックの男子と一人の女子とが、人々に彼等のパイプを与え、そしてそれを清め、その他そうしたことをせんが為めにある室内に立って居た。今や、これは我々には不思議な何か異常な事の様に見える。しかしある若い男或いは女、或いはもっと年上なものが、他人を訪問するのに、彼の馬に馬具をつけしめると言う事や、そしてその肥え太った馬がただこの目的のために飼われて居ると言う事も、同じにまた不思議ではないか。同様にまた、一人の男が五つの室に住み、若しくは一人の女が、彼女自身のため、またはその夫や子供のために着物を紡ぐのは、ただ幾らかの亜麻や羊毛を要するばかりだのに、彼女の着物ために、十ルーブル、百ルーブル、千ルーブルを費やすと言うことは不思議ではないか。
人々が何もしないで、煙草を喫ったり、遊んだり、彼方此方と馬を乗りましたりする時に、人民の一大隊もが、彼等を食わせたり温めたりするために多忙を極めて居ると言うことは不思議ではないか。
老人が極めて眞面目に、芝居や音楽に就いて語ったり、新聞紙に書いて居る時に、他の不健全なる人々が、音楽隊や俳優を見に、馬を乗り回して居るとは不思議ではないか。
幾万の少年男女が、如何なる仕事にも適当しない様に教育されて居るとは、不思議ではないか。(彼等が学校から帰宅するや、彼の二冊の本は一人の召使いによって持ち運ばれる)
やがて、給仕に侍られて五品の料理を食ったり、主人が自ら料理しないで他人に料理をしてもらったりすることを恥じる時が来るであろう――そしてもうそれは既に近づいて居る。歩くべき足をもって居るのに、純種の馬を乗りまわすばかりでなく、馬車を駆るが如きことは恥辱になるであろう。それを嫌って居ては働くことの出来ない週日服を着たり、靴を穿いたり、手袋をはめたりすることが恥辱になるであろう。他人が1ルーブルのために働いて居る時に、150ルーブル若しくは千ルーブルをさえ値するピアノを弾くことが恥辱になるであろう。牛乳もパンもない人民が存する時に、犬を牛乳や白パンで養ったり、光も薪もない人々が存する時に、その光で働きもしないのに、ランプや蝋燭を灯したり、何の食物も調理されない暖炉を温めたりすることが恥辱になるであろう。然る時には、演奏会や芝居の一桝のために、1ルーブルどころではなく6ペンスをすらも、公然と与えることを考えることが出来なくなるであろう。凡てこれ等は労働の法則が与論となる時に実現されるであろう。
四○
聖書に言われて居るように、男と女に与えられたる一つの法則がある。――男には労働の法則、女には出産の法則――よし我々の科学を以て『すべてを変化せしめている』とは言っても、この男の法則も女の法則も共に、依然として何等の変化もして居ないことは、きっと生活者がその位置に於けるが如くである。そしてその法則を破壊する時には死によって罰せられざるを得ない。ただ僅かに存する相違と言うのは、男が法則を破れば、殆んど現在とも言い得る程の将来に於て死によって罰せられるが、女にとっては、もっと遠い未来に於て罰せられると言うことである。
全ての男によって行われる法則の一般的背反は、即時に男を破壊する。女の犯罪は次代の人々を破壊する。少数の男女によって行われる法則の遁策は、人類全体を破壊することはない、しかしその犯罪者から人類の合理的本性を剥奪する。
男子によって行われる、この法則の違反は、遠き以前に、他人に暴力を加え得る諸階級の中に始まり、そしてそれは漸次にその進みを広げて現代に達し、今や狂乱の域に達して居る。その狂乱こそこの法則のある種の犯背の中に含まれて居る理想であり、プローキン侯爵によりて説かれ、ルナン及び凡ての教育のある人々によって分有されたところの理想なのである。即ち仕事は機械によりて為され、人間はそれ自身を享楽する多くの神経の梱包となるであろう。
従来婦人がこの法則に違反したということは、殆どなかった。ただ僅かに売淫と、家計を破壊する個人的な犯罪にその面影を示したのみである。裕福な階級の婦人たちは婦人の法則を履行したのに、男子たちは男子の法則を履行しなかった、それで婦人たちは男子たちに比較して強くなり、従って守るべき法則から離れて居て、その結果その理性を失った男子を支配し来たって居るし、また、将来も支配するであろう。婦人たち(パリの婦人たち、特に子供のない婦人たち)は文明の凡ゆる手段を用い、その魅力で男子を凌いて居る程にも、魅惑的になって居ると一般に言われて居る。
これはまさに正しくないばかりでなく、正しく真理の転倒である。男子を凌いだ婦人と言うのは子供のない婦人ではなくして、母親なのである。男子がその法則を履行して居ない間にも自らはその法則を履行した婦人なのである。
人工的に子供を産まないようにして居て、その容姿などで男を惑わす婦人に就いて言うならば、彼の女は男に勝っている女であるのではなく、却って男に汚され、男の水準に引き下げられた女であり、かくて彼女は男と同じく彼女の義務から離れ、生活の合理的な意義と言う意義を失って居る女である。
この誤りはまた、謂わゆる『婦人の権利』と呼ばれている驚くべき不条理を生む 。これ等の権利の定則と言うのは次のようなものである――
『あなた方男子は』女は言う『あなた方の真の労働の法則から離れてしまって、そして私たちの重荷を私たちに運べと要求する、果たして然るならば私たちもまたあなた方と同じ様に労働から逃れよう。きっとあなた方が銀行や官省や大学や専門学校でするように。私たちは男の人々と同じように分業という口実の下に、他人の仕事から利益を得たい、生活したい、少なくとも私たちの欲を充たしたい』彼等は斯く言う、また実際に於いて、男はするよりも拙いどころでなく却ってよくこの分業を口実にする。
謂うところの女子の権利と言う問題は、真の労働の法則から離れた人々の間に起こったものである。またその人々にのみ起こり得たものである。その法則に帰りさえすれば、それでこの問題は消滅する筈である。自己に特有の止み難い労働を有して居る女は、男の労働を分かつことの権利を要することは決してあるまい――鉱山に於いても、野面を耕すことでも、彼女は富裕階級の偽りの労働に於いてのみその分け前を要求する。
我々の階級に属する女は男より強かった。また現在も強い。それは彼女の魅力によるのでもなければ、また男のする通りの仕事の偽善的な類同を行う上の熟練によるのでもない。ただ、彼女が法則の圏外に踏み出して居ないと言うことの為めである。彼女は生命の危険を冒して、最善の努力を以って、その真の労働を忍んで居るからである。而もその真の労働から、富裕階級の人々は逃れて居るのである。
しかしながら私の記憶に存する限りでは、女の法則背離もまた始まって居る。――換言すれば、女の堕落が始まって居る。そして私の記憶する限りでは、そのことは歩一歩と進んで居る。法則を失ってしまった女は、自分の力は人を魅惑する力の中か、または知的労働の偽善的言い前が上手いと言う事の中にあるのだと信ずる。しかし子供は此の人、彼の人をと妨碍する。この故に私の記憶する限りでは、科学の力を借りて子孫を破壊する多くの手段が富裕の階級の間に広まった。そして見よ、力を自己の掌中に握って居た女たちや母親たちや二三の富裕階級の人たちは、それを逃してしまって、僅かに自分等を路傍の婦人たちと同じ水準の上に置く様になって居る。悪は遠く広がってしまった。尚日毎に広がって居る。やがて間もなく富裕階級の凡ての女たちを掴んでしまうだろう。そして彼女たちは男たちと同じになり、男たちと一緒になって、人生の合理的な意義と言う、意義を失って了うに至るであろう。ただそれにはまだ時がある。
若しも女たちが自分等の尊さや、力やを理解して、そして彼女等の夫や兄弟や子供たちの共済の仕事にそれを用いさえしたら如何であろう! 凡ての人々の救済!
富裕階級の婦人たちよ、母親たちよ。世界の男子たちをその苦しめる悪から救済することは、あなた方の掌中にある!
それは容姿や奔走や頭の飾りや男に対する魅力などに追われて居る女たちとか、またはその意志には反して、偶然にそして絶望の中に、子供を生み、やがてそれを乳母の手に委ねてしまう様な女ではなく、または種々な講義に出かけて行って、心理測定学上の中心や分化に就いて語り、或いは彼等が発展と名付けて居る彼等の行の邪魔をされない為めにとて、子供を産むことを免れようとする女たちでもない――却って子供を産むことから免れるだけの力を持ちながら、かの永久不変の法則を厳格に意識的に守って、この服従の負担と労働とは、彼等の生活の真の目的であることを知って居る婦人及び母親たちである。富裕階級のこれ等の女たちや母親たちの手の中にこそ、他の何人よりも更に多く、人生に於ける我々の世界に属する男たちを、その悩める災難から救済する力は備わって居るのである。
意識的に神の法則に服従する婦人たち及び母親たちよ、あなた方は人道の凡ゆる外観を失ってしまっている我々の惨めな壊れた世界に於ける唯一の人々であり、神の法則による生活の全真意義を知る唯一の人々である。また、あなた方自体の実例によって、男子たちが自ら奪い去った神の法則に服従することの幸福を、彼等に示して得る唯一の人々なのである。
あなた方は人間の全実在を占有して居る歓喜と幸福とを知る唯一の人々である。その祝福は神の法則から離れない各人の分け前なのである。 あなた方はその夫に対する愛の喜びや――凡ての他の愛のように、決して終わる事がなく、決して破られる事がなく、却って他の新しい喜びの起首を形づくるところの、その子供に対する愛の喜びを知って居る、あなた方が神の法則に対し樸直であり従順である時には、あなた方の世界の男たちが労働と呼んで居るその労働の道化たる口実ではなく、神が男たちに課した真の労働を知って居る。そしてそれに対する報い――それの与える祝福を知っている唯一の人々である。
あなた方は愛の数々の喜びのうちに、恐れと希望との情緒をもって、あなた方を九ヶ月の間悩ましめそしてあなたがたを死の淵にまで、忍び難き苦難と苦痛とにまで、持ち来すところの、懐胎の悩ましき状態を期待する時にそれを知る。あなた方はやがてあなたがたにのみ知られて居る祝福を伴い来たるところの、最も恐る可き苦難の近接と拡張とを喜びの中に期待する時に、真の労働の状態を知る。
あなた方は直ぐ又これらの苦難の後、休みもなく、中絶もなく、労働と苦難との他のひと続き、即ち保育のそれ等に取り掛かる時、それを知る。そしてこれが為めにあなた方は、自分の感情を鎮め、弱い人間の必要――即ち諺には父よりも母よりも快よいと言われて居る睡眠の要求をも排けるのである。幾月の間、幾年の間二夜も続いて眠れない事もあり、終夜目覚めて居ることも稀ではない。ただ独りあちらこちらと歩きながら、その疲れた腕には病める嬰児を揺りながら。嬰児の苦しみはあなたの心を裂くのである。誰にも認められず、見られずに、それに対して何等の奉仕も報酬も予期することなく、あなたがそれを凡て為す時に、また偉大なる行為としてではなく、かの福音比喩に於ける労働者の如く、ただ自分の義務を行って居るのだと考えながらこれをなして居る時に、――その時にあなたは、何が偽りの道化たる労働であり――人間の名声に対して、そして何が真の労働――即ち神の意志の実行――であるかを知り、自分の心の中にこの神の意志の指示を感ずるのである。若しもあなたが真の母親であるならば、当然のものとのみ考えて何人もあなたの労働を認めもせず称えもして居ないのみでなく、あなたが働いてやった人々ですら、あなたの恩に背くのみでなく、あなたを苦しめもし、批判することが少なくないことを知って居る筈である。その次の子供にも又、あなたは同一のことをする。――再びあなたは、苦しみ、再びあなたは、認められない恐るべき辛苦を繰り返し、再びあなたは、何人からも何等の報酬を求めないで、そして前と同じ満足を感じて居る。
若しもあなたがそうした母親であるならば、二人若しくは20人の子供を産んだ後にも、もうこれで十分だとは言わないであろう、50歳の職人も、食い且つ眠ってその上自分の筋肉が仕事を要求する時には自分の仕事をしたとは言わないだろうから。若しもあなたがそうした母親であるならば、職人が自分で始め、そして殆んど完成した仕事を他の人には与えないと同じように、哺育の面倒を乳母の手に委ねる様な事はしないであろう。それはその仕事の中に自らの生命を打ち込んで居るからである。その仕事をすればする程、あなたの生命はより(ヽヽ)充実し、より(ヽヽ)幸福であるからである。
しかしあなたがこうした女であるときは、――男にとっては幸いにも未だこうした女があるのである――あなたは自分自身の生活を導いた神の意志を充たすと言うこの法則を、あなたはあなたの夫のあなたの子供たちの、さてはあなたの周囲の男たちの生活にも応用するであろう。若しもあなたがそうした母親であって、そして若しも経験によって、自己を否定したる、見られざる、生命の危険を伴う報われざる労働のみが、他人の生活に関する至極の努力のみが、人間の使命であって、それが満足を与えるものであることを知るならば、あなたは他の人にも同様のことを求め、あなたの夫を奨励して同様の労働をするようにし、この同一の労働によって人間の価値を定め、そしてそれに対してあなたの子供たちを準備するであろう。
子供を産むことを一つの不愉快な出来事と見、愛や安楽や、教育や社交の歓楽を人生の意義と見る母親ばかりが、その子供たちを育てて、彼等に出来るだけの歓楽を与え、出来るだけそれを楽しませようとする。また彼等を贅沢に養い、美麗に装わせ、人為的に楽しませ、そして生命の危険と至極の努力とを伴う男及び女の、自己犠牲的労働の出来るようには教えないで、――却ってそれ等から離れる様に教える。生活の意義を失ってしまって居るそうした女のみが、男の偽りの労働に同情する、そしてその女の夫は、その偽りの労働によって人間の義務から逃れ、その女と共に、他人の労働から利益を得るの可能を有して居る。こうした女のみが、その娘の為めに同じような夫を選び、身に備わるものによって男たちを評価せず、外部から付随したもの―― 地位、金、他人の労働によって利益するの術――によってするのである。
で、神の法則を実際に知る真の母親は、自分の子供たちをそれを履行する様に、準備する。かかる母親にとっては、その子が贅沢なものを食わされ、不相応な身なりをして居るのを見るのは、苦痛であるだろう。こうしたことは凡て、彼女自身に経験した神の法則の履行から、その子を妨げるものであることを知るからである。こう言う女は、その子女をして労働から離れしむる恐れのあるものは教えないで、この生の労働を忍び、助けになるようなものを教えるであろう。
彼女は、人間の使命は何であるか、何の中に存して居るかを知って居る、その結果何をその子に教える可きか、如何なる準備をその子に為すべきかを知って居る。だから彼女は、その子に何を教えるべきか、如何なる準備をその子に為すべきかを聞こうとはしない、こうした女はまさにその夫を偽りの労働――この労働の唯一の目的は他の人々の仕事から利益を得るにあるのであるが――から阻む許りでなく、これに対して二重の誘惑となる様な行為を、嫌悪と恐怖とをもって見る。かかる女は男の手の白さとか、動作の優雅とかによって、その娘の夫を選びはしない、しかし何が労働で、何が偽りであるかを十分に知って居るので、常にそして至る所で、その夫を始めとして、男性の人々を尊敬し、そして彼等に生命の消費と危険との伴う真の労働を要求し、そして真の労働から離れる目的を有って居る偽りの労働を非難する。
かかる母親はその子を産んで、それを自分自らの手で哺育する。なかんずく彼等を養い彼等の為めに備え、彼等のために働き、彼等を洗い、彼等を教え、彼等と共に眠り、彼等と共に語る。それを彼女は自分の生涯の事業とするからである。
こうした母親のみ、その夫の財力とか、その子の免許状とかによって子供たちの外的な安全を求める事をしない。しかし彼女自ら知って居る神の意志である自己犠牲の履行や、生命の危険を伴う労働に耐える才能を彼等に課する。その中にのみ生活の安全と幸福とが横たわって居るのを、彼女は知って居るからである。かかる母親は自分の義務は何であるかを他人に尋ねる必要はない。彼女は前からこれを悉く知って居る。そして何も恐れはしない。
よし男や、子供のない女には、神の意志を充たすべき道に就いて疑いがあり得るにしても、母親に対してはその道は確実に明らかに引かれて居る。そして若し彼女にして、純一な心を持って、人類のみ到達することの許されて居る善の最高点に立って、それを謙遜に履行するならば、彼女は凡ての男性を同一の善に導く明星となるのである。母親たる人のみ、その死する前に、彼女をこの世界に送った神に対して、自分自身を愛するよりも以上に愛した子供たちを生み、かつ育て支えて来たその神に対して――彼女のみ、その命じられた生を果たしたので、穏やかに言うことが出来る
『今やあなたの召使いを穏やかに旅立たし給え』と、
そしてこれは、恰も最高の善に対すると同じに、人々の憧憬するところの最高の完全であるのである。
その使命を全うする斯かる女は、男を支配する人々である。そして人類にまでの案内星として役立つ。男たちの新時代を準備し、公論を作るところの、そしてこの故に、これ等の婦人たちの手中に、我々の時代に実存する威嚇的な害悪から男たちを救う最高の救済が横たわって居るのである。
然り女性たちよ、母親たちよ、あなた方の中にこそ、他の誰よりもより高く、世界の救済は横たわって居るのである。
四○の補注
男と言う男、女と言う女の天賦は、他人の為めに働くことである。不徳義でない凡ての人はこの一般的の提議に同意するであろうと思う。この天賦を履行する上の男と女との相違は、彼等がそれに達する手段に存するのみである、換言すれば、彼等が人間の為めに働くその手段にあるのである。
人々は他人に仕える。肉体的の仕事によって――食物を求めつつ――知的な仕事によって――自然の法則を研究してこれを制御しつつ。――及び社会的の仕事によって――人生の制度を定め、人々の間に於ける相互の関係を定めつつ。
他人に仕える手段は、男にとって多様である。人類の全活動は、子供を産み、それを育てると言うことを除けば、男の誰の奉仕にでも解放されて居る。女は、男の為めに委ねられた一切の手段によって人々に仕えることの出来る上に、更に彼女の肉体の構成上、男の奉仕の領域から除外されて居るところのものによって、他人に仕える様に召命せられ、そして不可抗的に索引される。
人類の本務は二つに分かれて居る。即ち一つは人類の幸福の増加、他は種族の存続。男は後者を履行することが出来ないようにされて居るので、主として前者にまで召命されて居る。女は彼等のみがそれに適して居るので、全然その後者に召命される。この相異は何人も忘れてはならない。また破壊してもいけない。またそうすることも出来ない。またそうすることは罪深いことである。この相違から各の本務が生ずる。――その本務は人間によって発明されたものでなく、物事の本性の中にあるのである。この同じ相違から、女や男に対する徳不徳の評価が生ずる――この評価は、世紀と言う世紀に実存したので、今も尚実存して居るし、人間に理性がある限りは実存を止めないだろう。
自分の生活の大部分を自然に備わった肉体的精神的労働に費やす男や、全然、自分の特権たる出産、哺育の労働にその生活の大部分を費やす女やは、同じ様にその本務を為しつつあることを感じ、そして同じ様に他の人々の尊敬や愛を受ける様になる。何故なれば、彼等は共々その彼等に命じられたことを履行するから。また斯くの如きが物の本質だから。
男の天賦は女のよりは広く、かつ変化がある。女の天賦は男のそれよりも整一で狭い、がより深淵である。この故に男は数百の本務を持って居るので、若しその大部分の義務を履行しさえすれば、その内の一つや十を誤ったとしても、その人は悪人でもなく有害な人でもない、然るに女は男よりも本務の数が少ないので、若し彼女がそのうちの一つを偽るならば、その時直ちに、数百の本務の内十のものを偽って居る男よりも劣ることになるのであると言うことは、従来そうであったし、将来も常にそうである。こう言ったことが従来一般の説であり、また将来も変わることはあるまい――それはこうしたことが物事の本質であるからである。
男は神の意志を充たす為めに、神に仕えるに肉体的職業や、思想や道徳の領域に於いてせねばならぬ。凡てこれ等の方法に於いて彼はその天賦を充たすことが出来る。神に対する女の奉仕は、主として又殆んど専ら、子を産むことによって成り立って居る(それは彼女を除いてはそれを為し得ないから)
しかし人生に関する最高の見解を得るためには、私の考えでは、講義に出席する必要はない。彼女の要求する凡てのものは、福音書を読むことであって、そして彼女の目、耳、なかんずくその心を閉ざさないことである。
嘗て、若し君にして、子供のない女とか、結婚して居ない女とか、寡婦とかは如何にすべきかと問われるならば、それ等の女たちは男の種々なる労働を分担すれば良いと私は答える。しかし女の如くしかく貴重な身を以ってして、彼女のみ履行するに適して居るところの大天賦を充たす可能性を奪われると言うことは、悲しまずには居られない。
特に女は各自に、子供を産むことを終わった後も、尚力が残って居るならば、男の労働の助力に従事するの時を持つであろう。男の労働に於ける女の助力は、非常に尊いものである。出産に適した若い婦人が、男の労働に従って居るのを見るのは、実に痛ましい事である。
そうした女を見るのは、丁度農作に適した土地が、練兵の場所や散歩場として石に覆われて居るのを見るのと同じである。寧ろそれにも増して痛ましい。と言うのはこの地はただ食物を生ずるのみであるが、女は他に類例のないもの、何者よりも貴いもの――即ち人を産むことが出来るからである。そして実に彼女のみ、これを為すことが出来るからである。
(完)
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