トルストイ「神の國は爾曹の衷にあり」第四章
- 2017/06/10
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『神の国は爾曹の衷にあり』
第四章 科学的概念
私は今、キリスト教の真の理解を妨げる今一つの間違ったキリスト教に関する概念――科学的概念を論じて見よう。
宗門者たちは、自身の概念を『キリスト教的』と呼んで居る。そしてそれがキリスト教のただ一つの、真実にして又疑う予地のない解釈であると信じて居る。
科学者たちは、諸派の教会の過去並びに現在の信条をキリスト教と称して居る、そしてこれらの信条にキリスト教の全意義が尽くされているものと臆断して、キリスト教は廃れたる宗教であると明言している。
この様な立場からキリスト教を解する事の不可能なのを知るためには、我々は一般に宗教と呼ばれるもの特にキリスト教が過去並びに現在人類の生活中に占めていた位置と、科学が宗教に与えるその意義とについて、正しい観念を作らなければならない。
各個人が、自身の生活の意義に関するある何かの概念なしには生き得るものでもなく、又常に、しばしば無意識的にせよ、自身の行爲を、生活の意義に関してたしかめたその見解に一致せしめているがごとく狀態を同じくして生活する人の集団――社会及び国民――もまた、彼等の共同生活の意義をそれより結果する活動とに関して概念を持たざるを得ない。又個人が新しい生活の時期に入るや否や、必然的にその人生観を変え、又子供の見る以外のところに生活の意義を見るように、国民や人々の集団もまたその年数に応じて人生観を変え、又それより結果する活動を変える。
各個人と同人類との相違はこうである。個人は、彼の入ろうとしているその生活の新時期に相応しい新しい人生観を決定し、且つそれより結果する新しい活動を決定するに際して、既に彼の入ろうとしているその年頃を経過してしまった前時期の人々の教示を取り用いる事が出来る、しかし人類はかかる指導者を発見する事が出来ない、何故ならば人類は未踏の道を辿るものであり、且ついかに人生を解すべきか。人類が属する事になった、そして未だ何人も生活した事のない新しい境地にいかに処すべきかを質問すべき何人をも有しないからである。
既婚者や父親は、彼が子供であった時になしたごとくには人生を見ることが出来ない、人類もまた、生起した多くの変化――人々の稠密、各国民間に確立せられたる交通、自然と戦う完成した手段、知識の集蓄――に伴って、人生を昔のままに見て行くことが出来ない、それは必然的にまさに入りつつある新しき階梯に相応する新しい活動を生ぜしむべき新人生観を確立しなくてはならない。この必然を、すべての人間生活に、真意義――全然以前と異なる新活動を起こさせるべきところの新意義――をもたらす人々を生み出す人類の特殊な能力が充たして居る。新狀態に入る時、人類に先天的に具わっているかかる新しい特殊な人生観とそれより生起する活動との確立は、我等の呼んでもって宗教となすところのものである。
故に先ず第一、宗教は我等が告げるがごとく、以前は人類の進歩に伴っては居た、しかし今や人類はそれを追い越してしまっているところの一時的なる現象ではない。宗教とは、生命それ自身に具有する永遠的な現象である。そして他の時代に於けると同じく現在においても、人類にとって必要欠くべからざるものである。第二に、宗教とは常に過去の活動ではなく、未来の活動に関する定義である、故に過去の現象に関する研究は、少なくも宗教の本質に触れる事が出来ない。
一切の宗教の本質は、科学者の推論するごとく、自然力を比喩述に記述しようとする欲望でもなければ、超自然的なる力への依願でもなく、又自然現象に対する恐怖心でもなければ、外的な形式のうちに存するものでもない。
宗教の本質は、予言的に先見して人類の進むべき道を指示する人々の能力にあり、又以前の一切のものとは全然類を異にして、且つ未来の人類に新しい今までにない活動を起こさすところの、人生の意義に関する新しい定義のうちにある。
この先見の能力は、多少は各人に通有するものである、しかしこの能力が大なる力をもって現れ、すべての人々によって漠然と感じられていたものを明白に割然と規定し、且つ以前になかった新しい一切の活動を生ぜしめる、数百年も数千年も永続する新しい人生観を確立したところの人々は絶えず居た。
我等は三つの人生観を知っている――そのうちの二つは既に人類の進歩に遅れてしまって、その第三のものが、今日のキリスト教として現存している。三つの、然もただ三つの人生観しか現存しない、それは我等がこの三つの項目の下に、種々な人生観を分類して割当てた結果ではなくて、すべての人の行爲は皆その根底に、これらの三つの人生観のうちの何れか一つを有している、そして又我等はこれらの三つの人生観より外には、人生を解する他の方法を知らないからである。
その三つの人生観とは、次ぎの通りである、第一、個人的あるいは動物的、第二、社会的あるいは異教的、第三、宇宙的あるいは神的。
第一つのものに拠ると、人間の生活は彼自身の個人性だけに限られる。第二に拠ると、人間の生活は彼の個人性だけでなくして個人性の集合及び継続――家族、種族、国家――に限られている、そしてその生活の目的は、その集団の意志を満たすところにある。第三のものに拠ると、人間の生活は、彼自身の個人性あるいは個人の集合や継続のうちに包含されるのではなく、生命の創始とその起源――神――のうちに含まれている。
この三つの人生観が、過去及び現在の一切の宗教の根底を構成する。
野蛮人は、人生の意義はただ彼自身に、彼自身の個人的な欲望にありとする。彼の生活の幸福は、独り彼自身にのみ集注されて居る。彼の最大の幸福は、彼の情熱の完全なる満足である。彼の生活の動機は、個人的な享楽である。彼の宗教は、彼自身に対する神の個人的な寛怒と、彼等自らの利己的な目的のためにのみ生活しているとしての想像上の個人的な神々への崇拝とで成り立っている。
異教的社会的人生観を持つ人は、もはや人生の意義は彼一人にのみあるとはしない、が家族、種族、一名あるいは国家等を組成する個々人の集団にあると考える、そしてそれらの爲めとあらば自身の個人的幸福をも喜んで犠牲にする。彼の生活の動機となるものは、光榮である。彼の宗教は、偉大な人々に対し、彼の種族の長に対し、彼の祖先並びに彼の主権者に対して払われる尊崇と、神々――彼の家族、種族、人民及び国家等に専属せる保護者への崇拝とで成立っている。
神的人生観を持つ人は、彼自身の個人性に又は個人性の集団内に(家族、種族、人民、国家)の人生の意義を認めない、が、永遠にして不死なる生命の根源――神にそれを認める。神の意志を遂行するためには、彼は個人的な又は家族や社会の幸福を犠牲にする。彼の生活の動機は愛である。彼の宗教は一切の事物の根源――神の行爲と真理とに対する崇拝である。
人類の全歴史的な生活は、単に個人的動物的人生観から社会的人生観へ、社会的人生観から神的人生観への漸進的な推移に外ならない。数千年継続してローマで終わったところの古代の歴史は、個人的動物的人生観から社会的国家的人生観への推移の記録である。ローマ帝国時代からキリスト教出現までの歴史は、社会的人生観から神的人生観への推移の記録である。そして今や我等はその階梯を通過している。
この最後の人生観及びその上に築かれたキリスト教の教え、それは我等の全生活を導き又我ら一切の実際的並びに学理的の活動の根底をなすものであるが――この人生観は、外部の特徴で物事を判断する科学者によって、我等には一切の意義を失った廃れたる、仮面を剝がされた教義であると宣告されている。
科学者に拠ると、キリスト教は三位一体、贖罪、奇蹟、聖体、教会及びその他に関する独断的な教義だけで成り立って居る、そして人類間に起った無数の宗教の中の一つのものに過ぎない、現在では、既にそれは歴史上でその役目を演じてしまって、時節晩くれになって居る、そして今や、科学と真の知識との光の前に消滅し掛っている。
これが最もしばしば、一番ひどい人間の謬見の源となる事実の一例である。理解力の低い階段に属する人々は、高級な現象に遭遇すると、それを理解しようと努力する代わりに、又彼等がよってもって考慮すべき高き立場に上がろうとする代わりに――その現象を彼ら自身の低い立場から判断する、そして彼等がその自らを語ろうとするものに対する理解が少なければ少ないだけ、それだけ彼等の判断は一層大胆で、又熱烈である。
キリストの実際的及び倫理教義を、低き社会的人生観の立場から見る多くの科学者は、この教義を簡単に、我等の時代には重大な意義を持たないところのインドの禁欲主義ストァ派やネオ・プラトン派の教義及び反社会的なユートピアンの空想などの甚だ空漠とした統一のない複合であると見なして居る。彼等にとっては、キリスト教の意味は全部、その外的な形式――カトリック教、新教、教会の信徒及び世上の権力との抗争に尽きる。これらの外的な条件によってキリスト教の意味を定める彼等は、丁度音楽家の身振りで音楽の意味と性質とを判断しようとする聾の人間のようなものである。
これがコムトやストラウスやスペンサァやルナンのような、イエスの言葉の意味に通じない人々が、その言葉の発せられた理由や場合、及びその答えの与えられた質問等については一切知らず、又それ等の意味を検べる努力すらも払わずに――もしそれに対して悪意を持つ時は、簡単にその教義の合理性を否定し、又もし謙遜であるべき事を諾する時は、彼等の偉大性の高所からして、イエス・キリストは自分等の考えている事を言おうと欲したのだ、が彼はそれを言い表す方法を知らなかったのだとして、その教義を改正したりする事の理由である。彼等は、丁度自尊心の強い男が自分の話し相手を自分より下の人間と考えて、『そうだ、勿論君の言う事はこう言う事になる』と言って、その言葉を訂正さすのと同じように、彼の教義を取扱っている。
この修正は、常により高い神的な人生観を、低い社会的なものへと引き下げる結果を伴うものである。
一般に人々は、キリスト教の倫理的教義は善ではあるが、誇張されて居ると言う、そしてそれを完全なものにするためには、我等の現在の生活様式に不適合な余分なものを一切放棄させねばならぬ、然らざれば過度に且つ不可能な事までも要求するその教義は、実行し得られ且つ人間の力に相応するもののみを人々に要求する教義よりもむしろ有害でさえあると、キリスト教の学問ある注釈者が主張している。このようにして彼等は、キリストの教えを解せず又解し得ずしてその爲に師を磔刑にしたところのかのユダヤ人が、遥か以前になしたと同じその臆断を、再び繰り返して居るのである。
我等の現代の科学者の説によると、目に目をもってし、歯に歯をもってするユダヤの法則――五千年以前に人類に知らされた応報の法則は、1800年以前にキリストによって教えられたような、古い法則によって代わるべき、かの愛の法則よりも、更らに一層得策なものと見えるらしい。
イエスの教えを文字通りに解し、それに従って生活した人々の一切の活動、すべての真のキリスト教徒やキリスト教の聖者や殉教者たちによってなされ且つ語られた一切のもの、及び世界を社会主義や共産主義の形に変容しつつある一切のもの――これら一切の者は、論ずるに足らぬ誇張に過ぎぬように見えるらしい。人々は十八世紀の間、キリスト教の感化を受けて生存して来た、そして最も進歩した思想家達に和して、キリスト教は易断的な教義に過ぎない、即ち、その実際的の意義は間違いで誇張で、人間性に叶った道徳の本当の、又本当な要求と一致し難いものである、そしてイエスが排斥してもって自分自身の法則をそれに代えんとしたところの正義の法則は我等に一層適したものであるとの結論に到達している。
科学に携わる人々は、悪に対する無抵抗の命令は誇張であり、又愚かな事でさえもあると考えて居る。彼等はそれを放棄した方がいいと考える。そして彼等の論ずるところのものは、イエスの教えではなくして、彼等が彼の教えであると想像するある何者かであると言う事に氣が付かない。彼等はイエスの教えの中の無抵抗の命令を誇張であるとする断定は、円の理論中にある半径相等しとする定義を誇張であるとする断定に等しいものであると言う事を知らない。かくの如き断定をするものは、円とは何を意味する事かを知らない人が、円周上の各点はその円の中心より距離相等しと言う事を要求するところの法則を、誇張であると断言するのに似ている。半径相等しとする定義を斥け又は緩和せんとする勧告は、円に関する無智を示すものである。イエスの実際上の教えの中の暴力によって悪に抗するなかれという命令を、排したり緩和したりしようとする勧告は、この教えに対する無理解を証明するものである。
そして実際これらの断定をなす人々は、全然イエスの教えについて無智である。彼等は、人類が1800年以前に入ったその新しい時期に相当する人生観をそれが確立し、且つこの新しい人生観より結果する活動を決定するものである事をも知って居ない。彼等はイエス・キリストが言った言葉に、意味がある事を信じない。あるいは彼等は山上や其の他の場所での説教中の教えは、彼の宗教的熱狂と愚鈍と教育の欠乏とに由るものであると考えている。
――『是故に我なんじらに告げん生命(いのち)の爲に何を食い何を飲みまた身体の爲に何を衣(き)んと憂慮(おもいわずらう)ことなかれ。生命は糧より優り身体は衣より優れるものならず乎 26なんじら天空(そら)の鳥を見よ稼(まく)ことなく穡(かる)事を爲さず倉に蓄(たくわ)うることなし然(しか)るに汝の天の父はこれを養い給えり汝之よりも優るる者ならず乎 27汝のうち誰か能(よく)おもい煩いて其生命を寸陰も延得んや 28また何故に衣のことを思いわずらうや野の百合花はいかにして長(そだつ)かを思え勞(つとめ)ず紡がざる也 29われ汝に告げんソロモンの榮華の極(きわみ)の時だにも其装(よそおい)この花の一にも及(しか)ざりき 30神は今日野に在りて明日爐に投入らるる草をも加此(かく)よせはせ給えば況してや汝をや鳴呼(ああ)信仰うすき者よ 31然らば何を食い何を飲み何を衣んとて思い煩うなかれ 32これみな異邦人の求むる者なり汝の天の父はすべてこれらのものの必需(なくてならぬ)ことを知りたまえり 33汝等まづ神の国と其義(ただしき)とを求めよ、然らばこれらのものは皆なんじらに加らるべし 34此故に明日の事を憂慮なかれ明日は明日の事を思いわずらえ、一日の苦勞は一日にて足れり』(マタイ伝第6章25‐34)
『汝の所有(もちもの)を售りて施し己が爲に常に旧(ふるび)ざる財布すなわち尽きざる財寶(たから)を天に備えよ其処は盗賊(ぬすびと)も近寄らず蟲も壊(そしな)わざる也 35汝の財寶の在るところには汝の心もまたそこに在るべし』(ルカ伝第12章33-34)
『行きて其所有(もちもの)を売り来りて我に従え。父母妻子兄弟家宅田疇(うね)を捨てざる者は――我弟子と爲(なる)ことを得ず』
『己を棄てその十字架を負いて我に従え。』
『我を遺しし者の旨に従い、其工(わざ)は成畢る。是わが糧なり。』
『我意(こころ)に非ずただ聖意(みこころ)なり。我が欲(ほ)う所を成さんとするに非ず。汝が欲する所に任せ給え。』
『生命とは我が欲うところをなすに非ずして、神の意をなすところに存す。』
低い人生観を持つ人々には、これらの立言はすべて、実際生活に適用する事の出来ない単なる法悦的な興奮の表現に過ぎぬように思われる。しかしこれらの立言は、あたかも社会的人生観から、一般善の爲に勤勞をしたり国家の爲めに一身を犠牲にしたりする法則が出て来るように出て来るものである。
社会的人生観側の人は野蛮人に向って、こう言う、『目ざめろ、自分のやっている事を考えて見るがいい! お前の一個人の生活は本当の生活とは言えない、何故なればそれは短くって悲惨に満ちているから。ただ集合した多数の人々の生活――種族、家族、国家だけが、生きつつ永続する、故に人は自分の個人性を、家族あるいは国家の爲めに犠牲にすべきである。『キリスト教の教えもまたこれと同じ事を、社会的公共的人生観を持って居る人に向って説いている、『悔い改めよ』即ち、目覚めよ然らざれば汝等は死ぬであろう。今日生まれて明日亡ぼされるこの肉体的な個人的な生命は、如何なる手段を尽くしても、安全にする事は出来ない事を知れ。如何なる外的の手段も、又如何なる制度もそれに安定と合理性とを与える事は出来ない。考えよ、そして汝等の送っている生活は、真の生活でない事を悟れ――家族生活や社会国家の生活は、汝等を破滅より救い出しはしないだろう。真の合理的な生活は、家族又は社会の生活に参与せずして、父なる神の生活及び一切の生命の根源に参与する限りにおいて、即ちその人の生活が父なる神の生活と合体する限りにおいてのみ、可能である。』
疑いも無く、これは福音書の各章において述べられてあるキリスト教の人生観である。この人生観を持たずそれを否定し、又はその問題と不正確とを証明する事は出来るであろう、がしかしその出来る源である人生観を理解する事なくしては、教義を判断する事は出来ない、そして低い見地から高位の事柄を判断するのは、尚更不可能な事である、それはあたかも礎に目をつけながら塔の頂を批評する事に等しい。しかしこれは現在科学者たちによってなされている、そして彼等がこう言う風に論じて来る所以は、いわゆるこれらの科学的方法を用いさえすれば、最早や彼等の論題とするところのものに関する理解が何であろうとも、その正確さについては疑うべき余地がないと言うような研究方法をもっていると言う信仰よりなる僧侶の妄想と等しい一つの妄想の下に仕事をしているからである。
確実なる知識を得る確実なる道具を所有していると言うこの仮想は、信仰なき者やいわゆる科学者などがキリスト教を正しく解せんとするに際しての、一つの主要なる障害をなすものである、そして無信仰ないわゆる無教育な人々は、それらの科学者たちの説に従ってしまう。この誤れる概念からして、一切のキリスト教に対する誤解が起こるが、中にも、特に二つの不思議なる誤りは、他の何ものよりも優して一層多く、キリスト教の教義の真の理解を妨げている。
この誤りの一つは、キリスト教の実際上の教義は、実行し難いものである、故にそれに服従する必要もなければ、それを生活の指導とする必要もない、もしそうでなければそれを我々の社会で実行できる範囲に修正し、且つ手加減を加えなければならないと言う考えである。も一つの誤りは、キリスト教の神に対する愛と神への奉仕とに関する教義は、何等確固とした愛の対象を与えない漫然とした神秘的な要求である、故に一層明確にして判然たる人々に対する愛と人類への奉仕との教義に置き換えなくてはならぬ、という考えである。
キリスト教の教義の実行難に関する第一の誤りは、こう言う事に起因している。即ち社会的人生観の人々は、キリスト教が人類を指導するその手段を知らない、そしてキリスト教の完全という標準をもって実際生活の規則と考えている、従ってキリスト教の教義は、その要求に完全に実行すれば生活を破壊する結果となるが故に実行不可能であると考え、又そう言う。『もし人が、キリストの教えを完全に実行するならば、その人は生活を破滅してしまうであろう、そして全ての人々がそうするならば、全人類は瞬く間に死滅してしまうであろう。』
『もし人々が明日の事を思わず、何を食い飲み、又着るべきかという事を考えないとしたならば、もし彼等の生命を守らず暴力によって悪に抗しないとしたならば、又もし友達のために生命を与え、絶対の貞潔を守るならば――その人及び人類はたちまちのうちに生存を止めるであろう。』
これが科学者たちの信じ、かつて言うところのものである。もしもイエスの教えによって示されている完全の教示が、社会上の規約に従って税金を払ったり、法廷に出たりその他の事をすると同じように、各人の遵奉しなければならぬ規則として採用されるならば、確かに彼等の言う事は正しいであろう。
その誤りは、キリスト教の教義は、低き人生観の上に建てられている他の教義と同じ手段によって、人々を導かないと言う事を忘れて居るところに在る。社会的人生観の教義は、人々を単に規則や法則の正確なる実行の要求によって導く、イエスの教えは、人々を天なる父の無限の完全さを示す事によって導く、そしてそれに向って人々が、如何なる低い不完全な狀態にあろうとも自ら進んで向上しようとするのは、当然の事である。
社会的の見地からキリスト教を判断しようとする人々の誤りは、この点にある――即ち彼等はイエスによって語られた完成は、充分又完全に獲得し得られるものと推察する、故に、すべてのこれらのものが実行された時はどうなるかと言う事を自問する(丁度彼等がある家の法律実行の結果について自問するように)。この推察は間違っている、何となればキリスト教徒に示されている完成は無限にして又獲得し得ないものであるから、しかもイエスは彼の教えを、絶対なる完全は達し得られないであろう、しかし完全にして無限なる完成の向上は絶えず人類の幸福を増すであろうと言う事、従ってその幸福は絶えず無限に増大され得ると言う事を知って、説き示されたものである。イエスは天使に向ってではなく、動物的生活をなして生き且つ動くところの人々に向って教えている。しかしこの動物的な衝動力に加うるにキリストは新しいそれと違った力――神的なる完成の意識――をもってしている。そしてかくのごとくして、この二つの力の流れに沿える生活の進路を指示している。人間生活がイエスによって示された教示に従って行われるであろうとする仮定は、急流を横切りながら流れに逆らって真直ぐに漕ぐ舟乗が彼の舟をその同じ方向に保ち得るであろうとする仮定に等しい。
イエスは平行四辺形の両辺、即ち人間の生命を形成する永遠の不滅なる力――動物的本性の力と神の子であると言う意識の力と、その両者の存在を認めている。
イエスは動物的な力については言っていない、何故ならばそれはそれ自らを主張する、従って常にそれだけのものに過ぎず、人間の力では如何ともする事の出来ないものであるから。彼はただ精神的な力だけを説いている、そして人々にそれを充分意識するように、それを妨げる一切のものより完全に離脱するように、最上限度にまでその力をより遥かに成長せしめるようにと迫った。
この力を開放し且つ増大する事は、イエスの教えに従えば、人間の真の生活である。旧い教理にあっては、真の生活は規則と法則との実行にあった、イエスの教えにあっては、それは各人に示され又各人のうちに意識されるところの神的完成への完全なる接近、彼の意志と神の意志とのより一層近くより一層近き密接な融合、それに向って各人の憧憬する、そうしてそうするならば是の知れる生活が破壊されるであろうところの融合。
神的なる完全は人間生活の漸近線である、それに向って人間生活は絶えず向上し且つより近くに接近する、がしかしそれはただ絶対なる者においてのみ、到達し得られるものである。
キリスト教の教えは、人々がその理想の教示を実際生活の規則と取り違える時にのみ、生活の可能性を排するように見える。ただその時においてのみ、イエスの教えによって呈出される要求が、生活を破壊するように見える。それに反して、これらの要求のみが独り、真の生活の可能性を与えるものである。その要求なくしては、真の生活は到達され得ないであろう。
『人は左様に多くを要求してはならない』と人々は、キリスト教の要求を論ずるとき常にこう言う、『人は福音書の中に言われて居るように、明日の事は少しも思い煩うなかれと要求され得るものではない、が人は余り明日の事を思い煩い過ぎてはいかぬ、人は貧しきものに一切の持物を与えることは出来ない、がある一定の部分だけは与えるべきである。人は絶対に貞潔でなくてもいい、がしかし堕落を避けなければならぬ。人はその妻や子を見棄ててはならない、しかしそれらを余り愛し過ぎてはならない。』云々。
これは急流を横切ろうと欲して流れに逆らって舵を取るものに向って、流れに逆らっては駄目だ、行きたい方向に真直ぐに舵を取らなくてはならないと告げるに等しい。
イエス・キリストの教義はこの点において以前の教義と異なる、即ちそれは外的な規則によってではなく、神的なる完全に達し得るという内的な意識によって、人々を導く。人の心に住まう者は、程よき正義と博愛の規則ではなくて、完全な無限な神的な完成と言う理想である。この完全に対する向上こそはただ独り、人間生活の進路をして動物的狀態より神的狀態へ、現生に於て可能なる限り、変換せしめ得るものである。
ある目指す地点に上陸する爲めには、人は全力をもって流れの上方に舵を取らなくてはならない。理想の要求を低める事は、完全の可能性を減少する許りでなく、又理想そのものを破壊する事である。人々を左右する理想は空想的なものではなく、各人の精神の中に住んでいるものである、その完全な無限な完全という理想のみが独り人々を左右し、且つ彼等の活動を指導する。ただ絶対なる完全のみが人々の精神へのその勢力を維持する事が出来る。
イエス・キリストの教えは、それが絶対な完全――各々の精神の中に住める神的なものと神の意志との合体、子と父との合体を要求するという理由だけででも、力を持っている。この各人の内に住む神の子を動物より開放すると言う事、及びこの父との結合にそれが接近すると言う事――ただこの事のみがキリスト教の教えに拠れば、真の生活を構成するところのものである。
人間の内に於ける動物の存在、そしてその動物だけででは、人間の生活と言う事が出来ない。又神の意志だけに従う生活も共に、人間の生活と言う事が出来ない。人間の生活とは、動物的な生活と神的な生活の結合である。より近くその結合が神的生活に近付けば近付くだけそれだけ多く生活は増大される。
キリスト教の教えに従えば、生活とは神的なる完全への進行である。如何なる狀態も、他の狀態より高くもなければ、又低くもない。各狀態は、それだけでは何の可不可もない、到達し難い完全へ赴く途中のある一つの階梯に過ぎない、故にそれはそれだけででは、生活の低い程度をも高い程度をも構成しない。この教えに従えば、生活の増大はただ、完全に向かっての進行の速度いかんにある。故に収税吏ザーカィや姦淫の女や又は十字架に掛けられた盗賊などの完全への進歩は、パリサイ人の停滞した正義よりも遥かに高い程度の生活である。この教えに従えば、すべての人に対する義務的な如何なる規則も存在しない。低き程度にあって完全に向かって進むところの人は、よりよき又一層道徳的な生活を送る、そしてより高い道徳の標準に居ながら完全に向かって歩まない人よりも、より完全にこの教えを実行するものである。
この意味において失われたる羊は、柵の中のものよりも一層『父』に取って大切なものである、放蕩息子や一度失われて再び見出された銅貨などは、未だ一度も失われないものよりも遥かに貴重なものである。
法則の実行は、我等自身より神へ向かう進行においてなされる。その実行の内には、明らかに何か一定した法則も又規則もない。完全の一切の程度及び不完全は、皆この教えの前にあっては平等である、規則の実行は決して教義の実行とはならない、故にこの教えにあっては、如何なる義務的な法則も又規則も存在しない。
このイエス・キリストの教えと社会的人生観の上に成り立つ一切の以前の教えとの間の根本的な相違から、又社会的命令とキリスト教の命令との違いが表われて来る。社会的命令は大部分積極的である、そして人々を人として認め且つ彼等を正しきものとするところのある行爲をなす事を命ずる。キリスト教の命令(愛の法則は厳密にいえば命令ではない、その教えの真髄を言い表したものである)山上の垂訓の五戒はすべて消極的である、そしてそれらはただ人類が進歩のある階梯に達した時に爲してはならないところのものの教示に過ぎない。これらの命令は、言わば人類が辿りつつあるところの完全への無限の道に於ける標本である――それらは人類が進歩のある時期において達し得た完全の程度を記すものである。
山上の垂訓においてイエス・キリストは、それへの向上が人間にとって自然なものであるところの永遠の理想と現在人類がなし得るその理想への到達の程度とを共に表現した。
その理想とは悪意を持ち又は悪意を起こさす事ではなくして、すべての人を愛すると言う事である。その命令とは言葉や行いによって人々を怒らすなと言う事である。そしてそれは人々が理想への進行に確かにしないでおられる範囲を示すものである。これが第一つの命令である。
その理想は思念のうちにおいてすらも絶対の貞潔を守ると言う事にある。その命令は結婚生活の潔浄と悪徳な事よりの節制とである、そしてそれは、人々が理想への進行に違反しないでおられる範囲を示すものである。これが第二の命令である。
その理想は明日の事を考えず、現在に生きよと言う事である。その命令は誓いを立てず又未来に於ける約束をなすなと言う事である、そしてそれは人々が退歩しないでおられる最も低い限度を示すものである。これが第三の命令である。
その理想は如何なる事があろうとも、暴力を用いてはならぬと言う事である。その命令は恥ずかしめに耐えて自分の襯衣(はだぎ)をも与え、更らに報ゆるに悪をもってするなと言う事である。そしてそれは人々が退歩しないでおられる最低限度を示すものである。これが第四の命令である。
その理想は、我等の敵、及び我等を憎むものを愛すると言う事にある。その命令は我等の敵を害せず、彼等を悪口せず、又彼等と我等の味方との間に隔てを設けてはならぬと言う事である、そしてそれは、退歩しないで居られる最低の限度を示すものである。
すべてこれらの命令は、現在において、我等の完全への努力においては、しなくとも充分済むところのものに関する教示である。それは我等が今得んとして努むべきところのもの、漸次我等が習慣と無意識な本性との領域に移し変えねばならぬところのものを指摘している。しかしそれは決してキリスト教の教えを構成もしなければ、又キリスト教の意義を尽くすものでもない、それはただ完全への進行に於ける無数の階梯のうちの一つをなすと言うに過ぎない。完全への途中、教えによって指摘される他のより高い尚一層高い命令が、それに続いて出て来るであろう。
故にキリスト教はどうしても、命令の中に現わされて居るものよりもより高い要求を示さなければならない、しかしキリスト教は如何なる場合においても、その命令あるいは理想を、社会的人生観の立場よりキリスト教の教えを判断する人々がなすように、抹殺したり制限したりする事は出来ない。
キリスト教の教えの意味と重要さに関して、科学者の抱く一つの誤りは以上の通りである。この同じ源よりして今一つの誤りが生ずる、そしてそれはキリスト教の要求する神への愛と奉仕に代えるに、人類への愛と奉仕をもってするところにある。
キリスト教の神への愛と奉仕、及びそれより結果するものに過ぎないところの隣人への愛と奉仕に関する教えは、科学者には空漠とした神秘的な擅断的なものとして現れる、で彼等は神への愛と奉仕との要求を、全然、人々及び人類に対する愛の教えの方がより善く、又確固として分かり易いものであると言う信仰の下に放棄してしまう。
科学者たちは、善にして合理的な生活はただ人類への奉仕にあると言う事を、学理的に教える、そしてそれがキリスト教の意義であると信じ、キリスト教の教えをそれに変形し、自分の学説の確かであると言う証拠をキリストの言葉の中に探し求める、そして自分の意義もキリスト教も共に同一つのものであると空想する。
これは全然虚妄なる考えである。キリスト教の教えは、かかる同胞の利益と言う事に根拠を有するところの実証論者や共産主義者やその他、四海同胞の教えを説く人々の学説とは、少しも共通点を有していない。その両者の大いなる相違点は、キリスト教は人々の精神の中に明白な確固たる根拠を有して居るに反して、人類への愛を説く教義はただ類推によって達したる学理的な結論に過ぎない。
人類への愛の教義は、その根底に社会的人生観を持っている。その社会的人生観の真材は、個人的生活の意義を個人の集団―― 一族と家族、国家の生活に移し換えたと言うところに在る。この転化――生活の意義の、自我より人民もしくは家族もしくは種族への転化――はその原始的な形においては容易に且つ自然に行われた。自我から人民あるいは部落へのこの同じ転化はもっと困難であり、又特殊の訓練を要する、そして個人的意識を国家に移し換える事は、その最極限度を示すものである。
自愛と言うものはすべての人々に遺伝するものである、そしてすべての人々は何等の激励を要せずに自分を愛する。援助を与える部落に対する愛、妻――人生の喜びであり伴侶であるところの者――への愛、子は――人生の慰安で且つ望みである者への愛、生命と教育を与えた両親への愛――これらの愛は皆すべて自然である。そしてこの愛は自愛よりも遥かに度合の低いものではあるが、比較的しばしば遭遇し得られるところのものである。
誇り又は利己心からの種族及び人民への愛は又、多少不自然ではあるが、存在するであろう。自分と同じ人々――自分と種族、言語や宗教を同じくする人々――への愛は、自愛、あるいは家族や部落への愛よりはその感情は遥かに度合の低いものかも知れぬが、又同じく存在し得る、しかし国家――トルコ、ドイツ、英国、オーストリアあるいはロシアへの愛は、ほとんど不可能である、それはただあり得る様に推察されるだけで、その方面への熱心な訓練をしない限り、真に存在するものではない。この集団は人が自分の意識を転移し得る力の限度である、この虚構なるものに対して、人は自発的な感情を持つことは出来ない。しかし実証論者や他の科学的な同胞主義者は、その対象の拡大せられるに応じて感情は弱まるものであると言う事を考慮に入れない、そして同じ方向に向って学説的に理論を進めていく、『もしも個人に取って、家族及び一族に、後には一般の人々及び国家にまで意識を移し換えて行く事が有利であるならば、人類の集団にその意識を移し換えて行く事は、更らに一層有利であるべき筈である、又すべての人に取って、今日家族及び国家の爲めに生きている様に又人類の爲めにも生きるようになれば一層有利であろう。』
これは、学理的には正確である。
自分に対する意識と愛とを家族へ、家族から種族、人々及び国家へと言う具合に移し換えて、各人民や階級に人類が分かれる事から起る争闘や悲惨から脱れるために、一般人類にまでその愛を移し換えてしまう事は、人々に取っては、全く理論に叶った自然的な事ででもあろう。これは最も論理的な決着であると見えるかも知れぬ、そしてそれは、愛は経験されるべきもので教えられるべきものではないと言う事、及び愛は真の対象を要求するものであるのに、人類は虚構なもので実在するものではないと言う事を、忘却している科学者たちによって、教えられているところのものである。
種族、家族及び国家でさえも、人間の発明したものではない、しかし蜂や蟻の集団のように自然に発展したものである、そして現存せる実在である。動物的な個人性の利益から家族を愛するものは、彼が愛するもの――アンナ、マリア、ペテロ、ヨハネを知っている。当派を愛し且つそれを誇りとするところの者は、彼がゲフル党員のすべて、あるいはギベリン党員のすべてを愛すると言う事を知っている、又国家を愛するところの者は、彼がライン河からピレネー山脈に至るまでのフランスを、その首府――パリ――その歴史及びその他の事を愛すると言うことを知っている。しかし、人類を愛するところの者は、何を愛するのであるか? 国家や国民は存在する、抽象的な観念としての人間も存在する、しかし実在としての人類は存在もしなければ、又存在する事も出来ない。
人類! 人類の範囲とは何処に在るのであるか? 何処にそれが始まり、そして何処にそれが終わるのであるか? それは野蛮人、白痴、酒吞み、あるいは狂人を除外するのであるか? もしも我等が人類と、その最下級の代表者との間に画線を引くとすれば、何処にそれを引くべきであるか? 我等はアメリカ人のように黒人を、多くの英国人のようにインド人を、又はある他の国民のなすようにユダヤ人を除外すべきであるか? もしも我等が除外者なしに全人類を抱容するならば、何故に我等はただ、人間のみを含めて、しばしば最下級の代表者よりも優れて居る事のある、高等動物を入れないのであるか?
我等は実在としての人類を知りもしなければ、又その範囲も知らない。人類とは愛する事の出来ない虚構物である。人々が彼等の家族を愛するように人類を愛する事は、実際すべての人々に取って最も有利な事であろう。共産主義者の言うように、人間諸活動の競争や争闘に代える共産的組織をもってし、一般的のものをもって個人的なものに換える、即ち各人がすべての者の爲めに生き、又すべてのものが各人の爲めに生きるようになれば、非常に好都合であるであろう、しかし不幸にして、そこにはか様な狀態を作り出すべき、如何なる動機も存在しては居ない。実証論者や共産主義者やその他同胞主義を説く人々に、人々の彼等自身に、家族に、及び、国家に対して感ずる愛の拡大と、その愛を一般人類にまで拡め及ぼす事について語る、しかし彼等は、その彼等の教える愛は個人的な愛である事を忘れている、その愛は、敷衍した形をなして、家族に及び、更らに一層弱めかつ乏しくされて国土に及ぶ、そしてそれは、オーストリアや英国又はトルコ等の如き人爲的の国家の場合にあっては、全然消滅してしまう、そして人が全然不可思議な対象――人類――に対しては、空想中においてすら感じ得ないところのものである。
『人は彼自身(動物的生命)、家族又は彼の国をも愛する。どうしてそれと同じように人類を愛する事が出来ないのであろうか? それはどんなに結構な事であろう? そして偶然にもキリスト教はこれと同じ事を教えている。』これが共産主義者、実証論者、及び社会主義者と、同胞主義者の所見である。それはもしもそれが可能であるならば、確かに結構な事であろう、何故なれば個人的社会的人生観に基礎を有するところの愛は、国土に対する愛以上には拡大する事が出来ないからである。
その論議の虚妄な点はここにある、即ち社会的人生観、家族と国土とへの愛の基礎は、自愛のうちにその根を据えて居る、そして自我から家族、党派、国土、国家と言う具合にそれを移し換えて行くに従って、漸次力を失い、乏しくなって行く、そして最後に国家への愛に至ってはそれは最極度にまで減少してしまって、それ以上進めて行く事が出来ない。
愛の範囲の拡張は、疑いもなく必要な事である、しかしその実行に際しては、この拡張の必要その事が愛の可能性を破壊し、個人的人間的愛の不充分なのを明らかにするものである。実証論者、共産主義者及び社会的同胞主義者間の説法者たちが、キリスト教愛をもって、不充分と判明したところの人類的愛の補足として、推挙しようとしている訳はこれである。しかし彼等はその結果だけ神への愛を欠く人間への愛を推挙して、その根本のものを推挙しない。
しかしかかる愛は存在する事が出来ない、何故ならばそれに対する如何なる動機もないが故に。キリスト教的愛は人生の意義は神への愛と奉仕にありとするキリスト教的人生観よりのみ、発生するものである。
自我に対する愛から、家族、国土、国家に対する愛へと、自然に突き進めて行く事によって、社会的人生観は、人々をして、一切の生物を含める無限の人類に対する愛、即ち人の心に何かの感謝を点ぜずには居られないところのものに対する愛の必要を、意識せしめるに到った。それは如何なる解決をもつける事の出来ない一つの矛盾にまで登りつめた。
キリスト教の教えのみは独り、その有する一切の意義をもって、新しい意義を人生に附与する事によって解決を与える。キリスト教は自己に対する愛、家族、国土、人類に対する愛、及び人類のみならず、一切の生物あらゆる限りの生存に対する愛を認める、それは愛の範囲の無限の拡張の必要を認める。しかしそれはこの愛の対象が外にではなく、それ自身の内にある事を家族や党派や国土、又は人類あるいは全く外的なる世界の内にではなく、それ自身の内に、神的なる個人性の内にある事を認める、そしてその個人性の本質は愛である。惨めさや果敢なさの意識から飛び出した動物的な個人性によって要求せられる普通的な愛である。
キリスト教と以前の教義との相違はこうである。社会的な教義は言う、汝の本性(ただ動物的な本性を指す)に反して生きよ、その本性を家族、社会及び国家の外的な法則に従属せしめよと。キリスト教は言う、汝の本性(神的な本性を指す)に従って生きよ、その本性を何ものにも――汝自身の、又は他人の動物的本性のいずれにも――従属せしめてはならぬ、然る時は汝は外的な自分を外的な法則に従属せしめる事によって得る事の出来なかったものを、獲得するであろう。
キリスト教の教えは、人をして自我に対する原始的な意識――動物的自我でなく神的自我、動物的な外形に含まれた神子我、天父に似た神、神聖なる火――に戻らしめた。この愛を本質とする神の子の意識は、社会的人生観の人々によって経験されるところの、全包括的な愛の一切の要求を、満足せしめるものである。その後者にあっては、愛は、個人の幸福がその範囲の拡張を要求するが故に、必須物であった、そしてその愛はある何かの対象と結び付けられて居た、キリスト教の人生観にあって人は必須物でもなく、又何か特殊なものに属しもしない、それは人間の精神の本質である。人は、かくかくのものを愛すれば有利であると言う理由からではなく、愛は彼の精神の本質であるが故に――愛せずに居られないが故に愛するのである。
キリスト教の教えは、人の精神の本質は愛であると言う事、彼の幸福は誰れ彼れの個人に対する愛によってではなく、神――精神の内においては愛として意識し、それを通してすべての人々や事物を愛するところの一切のものの根元――への愛によってのみ、獲得し得られるものであると言う事を教えている。これがキリスト教と、実証論者の教義及び其の他の一切の非キリスト教的同胞主義者の説との間に存する根本的な相違である。
多くのキリスト教の教えに関する間違った説の源をなすところの、二つの主なる誤りはこうである。即ちその一つは、以前のすべての教義と同様にキリスト教もまた、義務的な規則を教える、そしてその規則は皆実行し難いものであるとする、他はキリスト教の本質は、一家族のようにすべての人々が有利にして又好都合な協力をなす事を教えるところにある、そしてそうするためには、神への教えは問題外として、ただ人類への愛の規則を守れば充分であるとする。
超自然的なものに関する教えがキリスト教の本質をなしていて、その実行は不可能であるとする科学者の誤った見解は、この間違いに充ちた考えから生ずる曲解と一緒になって、又今一つの我等現代の人々のキリスト教に対する無理解の源をなしている。
第四章 科学的概念
私は今、キリスト教の真の理解を妨げる今一つの間違ったキリスト教に関する概念――科学的概念を論じて見よう。
宗門者たちは、自身の概念を『キリスト教的』と呼んで居る。そしてそれがキリスト教のただ一つの、真実にして又疑う予地のない解釈であると信じて居る。
科学者たちは、諸派の教会の過去並びに現在の信条をキリスト教と称して居る、そしてこれらの信条にキリスト教の全意義が尽くされているものと臆断して、キリスト教は廃れたる宗教であると明言している。
この様な立場からキリスト教を解する事の不可能なのを知るためには、我々は一般に宗教と呼ばれるもの特にキリスト教が過去並びに現在人類の生活中に占めていた位置と、科学が宗教に与えるその意義とについて、正しい観念を作らなければならない。
各個人が、自身の生活の意義に関するある何かの概念なしには生き得るものでもなく、又常に、しばしば無意識的にせよ、自身の行爲を、生活の意義に関してたしかめたその見解に一致せしめているがごとく狀態を同じくして生活する人の集団――社会及び国民――もまた、彼等の共同生活の意義をそれより結果する活動とに関して概念を持たざるを得ない。又個人が新しい生活の時期に入るや否や、必然的にその人生観を変え、又子供の見る以外のところに生活の意義を見るように、国民や人々の集団もまたその年数に応じて人生観を変え、又それより結果する活動を変える。
各個人と同人類との相違はこうである。個人は、彼の入ろうとしているその生活の新時期に相応しい新しい人生観を決定し、且つそれより結果する新しい活動を決定するに際して、既に彼の入ろうとしているその年頃を経過してしまった前時期の人々の教示を取り用いる事が出来る、しかし人類はかかる指導者を発見する事が出来ない、何故ならば人類は未踏の道を辿るものであり、且ついかに人生を解すべきか。人類が属する事になった、そして未だ何人も生活した事のない新しい境地にいかに処すべきかを質問すべき何人をも有しないからである。
既婚者や父親は、彼が子供であった時になしたごとくには人生を見ることが出来ない、人類もまた、生起した多くの変化――人々の稠密、各国民間に確立せられたる交通、自然と戦う完成した手段、知識の集蓄――に伴って、人生を昔のままに見て行くことが出来ない、それは必然的にまさに入りつつある新しき階梯に相応する新しい活動を生ぜしむべき新人生観を確立しなくてはならない。この必然を、すべての人間生活に、真意義――全然以前と異なる新活動を起こさせるべきところの新意義――をもたらす人々を生み出す人類の特殊な能力が充たして居る。新狀態に入る時、人類に先天的に具わっているかかる新しい特殊な人生観とそれより生起する活動との確立は、我等の呼んでもって宗教となすところのものである。
故に先ず第一、宗教は我等が告げるがごとく、以前は人類の進歩に伴っては居た、しかし今や人類はそれを追い越してしまっているところの一時的なる現象ではない。宗教とは、生命それ自身に具有する永遠的な現象である。そして他の時代に於けると同じく現在においても、人類にとって必要欠くべからざるものである。第二に、宗教とは常に過去の活動ではなく、未来の活動に関する定義である、故に過去の現象に関する研究は、少なくも宗教の本質に触れる事が出来ない。
一切の宗教の本質は、科学者の推論するごとく、自然力を比喩述に記述しようとする欲望でもなければ、超自然的なる力への依願でもなく、又自然現象に対する恐怖心でもなければ、外的な形式のうちに存するものでもない。
宗教の本質は、予言的に先見して人類の進むべき道を指示する人々の能力にあり、又以前の一切のものとは全然類を異にして、且つ未来の人類に新しい今までにない活動を起こさすところの、人生の意義に関する新しい定義のうちにある。
この先見の能力は、多少は各人に通有するものである、しかしこの能力が大なる力をもって現れ、すべての人々によって漠然と感じられていたものを明白に割然と規定し、且つ以前になかった新しい一切の活動を生ぜしめる、数百年も数千年も永続する新しい人生観を確立したところの人々は絶えず居た。
我等は三つの人生観を知っている――そのうちの二つは既に人類の進歩に遅れてしまって、その第三のものが、今日のキリスト教として現存している。三つの、然もただ三つの人生観しか現存しない、それは我等がこの三つの項目の下に、種々な人生観を分類して割当てた結果ではなくて、すべての人の行爲は皆その根底に、これらの三つの人生観のうちの何れか一つを有している、そして又我等はこれらの三つの人生観より外には、人生を解する他の方法を知らないからである。
その三つの人生観とは、次ぎの通りである、第一、個人的あるいは動物的、第二、社会的あるいは異教的、第三、宇宙的あるいは神的。
第一つのものに拠ると、人間の生活は彼自身の個人性だけに限られる。第二に拠ると、人間の生活は彼の個人性だけでなくして個人性の集合及び継続――家族、種族、国家――に限られている、そしてその生活の目的は、その集団の意志を満たすところにある。第三のものに拠ると、人間の生活は、彼自身の個人性あるいは個人の集合や継続のうちに包含されるのではなく、生命の創始とその起源――神――のうちに含まれている。
この三つの人生観が、過去及び現在の一切の宗教の根底を構成する。
野蛮人は、人生の意義はただ彼自身に、彼自身の個人的な欲望にありとする。彼の生活の幸福は、独り彼自身にのみ集注されて居る。彼の最大の幸福は、彼の情熱の完全なる満足である。彼の生活の動機は、個人的な享楽である。彼の宗教は、彼自身に対する神の個人的な寛怒と、彼等自らの利己的な目的のためにのみ生活しているとしての想像上の個人的な神々への崇拝とで成り立っている。
異教的社会的人生観を持つ人は、もはや人生の意義は彼一人にのみあるとはしない、が家族、種族、一名あるいは国家等を組成する個々人の集団にあると考える、そしてそれらの爲めとあらば自身の個人的幸福をも喜んで犠牲にする。彼の生活の動機となるものは、光榮である。彼の宗教は、偉大な人々に対し、彼の種族の長に対し、彼の祖先並びに彼の主権者に対して払われる尊崇と、神々――彼の家族、種族、人民及び国家等に専属せる保護者への崇拝とで成立っている。
神的人生観を持つ人は、彼自身の個人性に又は個人性の集団内に(家族、種族、人民、国家)の人生の意義を認めない、が、永遠にして不死なる生命の根源――神にそれを認める。神の意志を遂行するためには、彼は個人的な又は家族や社会の幸福を犠牲にする。彼の生活の動機は愛である。彼の宗教は一切の事物の根源――神の行爲と真理とに対する崇拝である。
人類の全歴史的な生活は、単に個人的動物的人生観から社会的人生観へ、社会的人生観から神的人生観への漸進的な推移に外ならない。数千年継続してローマで終わったところの古代の歴史は、個人的動物的人生観から社会的国家的人生観への推移の記録である。ローマ帝国時代からキリスト教出現までの歴史は、社会的人生観から神的人生観への推移の記録である。そして今や我等はその階梯を通過している。
この最後の人生観及びその上に築かれたキリスト教の教え、それは我等の全生活を導き又我ら一切の実際的並びに学理的の活動の根底をなすものであるが――この人生観は、外部の特徴で物事を判断する科学者によって、我等には一切の意義を失った廃れたる、仮面を剝がされた教義であると宣告されている。
科学者に拠ると、キリスト教は三位一体、贖罪、奇蹟、聖体、教会及びその他に関する独断的な教義だけで成り立って居る、そして人類間に起った無数の宗教の中の一つのものに過ぎない、現在では、既にそれは歴史上でその役目を演じてしまって、時節晩くれになって居る、そして今や、科学と真の知識との光の前に消滅し掛っている。
これが最もしばしば、一番ひどい人間の謬見の源となる事実の一例である。理解力の低い階段に属する人々は、高級な現象に遭遇すると、それを理解しようと努力する代わりに、又彼等がよってもって考慮すべき高き立場に上がろうとする代わりに――その現象を彼ら自身の低い立場から判断する、そして彼等がその自らを語ろうとするものに対する理解が少なければ少ないだけ、それだけ彼等の判断は一層大胆で、又熱烈である。
キリストの実際的及び倫理教義を、低き社会的人生観の立場から見る多くの科学者は、この教義を簡単に、我等の時代には重大な意義を持たないところのインドの禁欲主義ストァ派やネオ・プラトン派の教義及び反社会的なユートピアンの空想などの甚だ空漠とした統一のない複合であると見なして居る。彼等にとっては、キリスト教の意味は全部、その外的な形式――カトリック教、新教、教会の信徒及び世上の権力との抗争に尽きる。これらの外的な条件によってキリスト教の意味を定める彼等は、丁度音楽家の身振りで音楽の意味と性質とを判断しようとする聾の人間のようなものである。
これがコムトやストラウスやスペンサァやルナンのような、イエスの言葉の意味に通じない人々が、その言葉の発せられた理由や場合、及びその答えの与えられた質問等については一切知らず、又それ等の意味を検べる努力すらも払わずに――もしそれに対して悪意を持つ時は、簡単にその教義の合理性を否定し、又もし謙遜であるべき事を諾する時は、彼等の偉大性の高所からして、イエス・キリストは自分等の考えている事を言おうと欲したのだ、が彼はそれを言い表す方法を知らなかったのだとして、その教義を改正したりする事の理由である。彼等は、丁度自尊心の強い男が自分の話し相手を自分より下の人間と考えて、『そうだ、勿論君の言う事はこう言う事になる』と言って、その言葉を訂正さすのと同じように、彼の教義を取扱っている。
この修正は、常により高い神的な人生観を、低い社会的なものへと引き下げる結果を伴うものである。
一般に人々は、キリスト教の倫理的教義は善ではあるが、誇張されて居ると言う、そしてそれを完全なものにするためには、我等の現在の生活様式に不適合な余分なものを一切放棄させねばならぬ、然らざれば過度に且つ不可能な事までも要求するその教義は、実行し得られ且つ人間の力に相応するもののみを人々に要求する教義よりもむしろ有害でさえあると、キリスト教の学問ある注釈者が主張している。このようにして彼等は、キリストの教えを解せず又解し得ずしてその爲に師を磔刑にしたところのかのユダヤ人が、遥か以前になしたと同じその臆断を、再び繰り返して居るのである。
我等の現代の科学者の説によると、目に目をもってし、歯に歯をもってするユダヤの法則――五千年以前に人類に知らされた応報の法則は、1800年以前にキリストによって教えられたような、古い法則によって代わるべき、かの愛の法則よりも、更らに一層得策なものと見えるらしい。
イエスの教えを文字通りに解し、それに従って生活した人々の一切の活動、すべての真のキリスト教徒やキリスト教の聖者や殉教者たちによってなされ且つ語られた一切のもの、及び世界を社会主義や共産主義の形に変容しつつある一切のもの――これら一切の者は、論ずるに足らぬ誇張に過ぎぬように見えるらしい。人々は十八世紀の間、キリスト教の感化を受けて生存して来た、そして最も進歩した思想家達に和して、キリスト教は易断的な教義に過ぎない、即ち、その実際的の意義は間違いで誇張で、人間性に叶った道徳の本当の、又本当な要求と一致し難いものである、そしてイエスが排斥してもって自分自身の法則をそれに代えんとしたところの正義の法則は我等に一層適したものであるとの結論に到達している。
科学に携わる人々は、悪に対する無抵抗の命令は誇張であり、又愚かな事でさえもあると考えて居る。彼等はそれを放棄した方がいいと考える。そして彼等の論ずるところのものは、イエスの教えではなくして、彼等が彼の教えであると想像するある何者かであると言う事に氣が付かない。彼等はイエスの教えの中の無抵抗の命令を誇張であるとする断定は、円の理論中にある半径相等しとする定義を誇張であるとする断定に等しいものであると言う事を知らない。かくの如き断定をするものは、円とは何を意味する事かを知らない人が、円周上の各点はその円の中心より距離相等しと言う事を要求するところの法則を、誇張であると断言するのに似ている。半径相等しとする定義を斥け又は緩和せんとする勧告は、円に関する無智を示すものである。イエスの実際上の教えの中の暴力によって悪に抗するなかれという命令を、排したり緩和したりしようとする勧告は、この教えに対する無理解を証明するものである。
そして実際これらの断定をなす人々は、全然イエスの教えについて無智である。彼等は、人類が1800年以前に入ったその新しい時期に相当する人生観をそれが確立し、且つこの新しい人生観より結果する活動を決定するものである事をも知って居ない。彼等はイエス・キリストが言った言葉に、意味がある事を信じない。あるいは彼等は山上や其の他の場所での説教中の教えは、彼の宗教的熱狂と愚鈍と教育の欠乏とに由るものであると考えている。
――『是故に我なんじらに告げん生命(いのち)の爲に何を食い何を飲みまた身体の爲に何を衣(き)んと憂慮(おもいわずらう)ことなかれ。生命は糧より優り身体は衣より優れるものならず乎 26なんじら天空(そら)の鳥を見よ稼(まく)ことなく穡(かる)事を爲さず倉に蓄(たくわ)うることなし然(しか)るに汝の天の父はこれを養い給えり汝之よりも優るる者ならず乎 27汝のうち誰か能(よく)おもい煩いて其生命を寸陰も延得んや 28また何故に衣のことを思いわずらうや野の百合花はいかにして長(そだつ)かを思え勞(つとめ)ず紡がざる也 29われ汝に告げんソロモンの榮華の極(きわみ)の時だにも其装(よそおい)この花の一にも及(しか)ざりき 30神は今日野に在りて明日爐に投入らるる草をも加此(かく)よせはせ給えば況してや汝をや鳴呼(ああ)信仰うすき者よ 31然らば何を食い何を飲み何を衣んとて思い煩うなかれ 32これみな異邦人の求むる者なり汝の天の父はすべてこれらのものの必需(なくてならぬ)ことを知りたまえり 33汝等まづ神の国と其義(ただしき)とを求めよ、然らばこれらのものは皆なんじらに加らるべし 34此故に明日の事を憂慮なかれ明日は明日の事を思いわずらえ、一日の苦勞は一日にて足れり』(マタイ伝第6章25‐34)
『汝の所有(もちもの)を售りて施し己が爲に常に旧(ふるび)ざる財布すなわち尽きざる財寶(たから)を天に備えよ其処は盗賊(ぬすびと)も近寄らず蟲も壊(そしな)わざる也 35汝の財寶の在るところには汝の心もまたそこに在るべし』(ルカ伝第12章33-34)
『行きて其所有(もちもの)を売り来りて我に従え。父母妻子兄弟家宅田疇(うね)を捨てざる者は――我弟子と爲(なる)ことを得ず』
『己を棄てその十字架を負いて我に従え。』
『我を遺しし者の旨に従い、其工(わざ)は成畢る。是わが糧なり。』
『我意(こころ)に非ずただ聖意(みこころ)なり。我が欲(ほ)う所を成さんとするに非ず。汝が欲する所に任せ給え。』
『生命とは我が欲うところをなすに非ずして、神の意をなすところに存す。』
低い人生観を持つ人々には、これらの立言はすべて、実際生活に適用する事の出来ない単なる法悦的な興奮の表現に過ぎぬように思われる。しかしこれらの立言は、あたかも社会的人生観から、一般善の爲に勤勞をしたり国家の爲めに一身を犠牲にしたりする法則が出て来るように出て来るものである。
社会的人生観側の人は野蛮人に向って、こう言う、『目ざめろ、自分のやっている事を考えて見るがいい! お前の一個人の生活は本当の生活とは言えない、何故なればそれは短くって悲惨に満ちているから。ただ集合した多数の人々の生活――種族、家族、国家だけが、生きつつ永続する、故に人は自分の個人性を、家族あるいは国家の爲めに犠牲にすべきである。『キリスト教の教えもまたこれと同じ事を、社会的公共的人生観を持って居る人に向って説いている、『悔い改めよ』即ち、目覚めよ然らざれば汝等は死ぬであろう。今日生まれて明日亡ぼされるこの肉体的な個人的な生命は、如何なる手段を尽くしても、安全にする事は出来ない事を知れ。如何なる外的の手段も、又如何なる制度もそれに安定と合理性とを与える事は出来ない。考えよ、そして汝等の送っている生活は、真の生活でない事を悟れ――家族生活や社会国家の生活は、汝等を破滅より救い出しはしないだろう。真の合理的な生活は、家族又は社会の生活に参与せずして、父なる神の生活及び一切の生命の根源に参与する限りにおいて、即ちその人の生活が父なる神の生活と合体する限りにおいてのみ、可能である。』
疑いも無く、これは福音書の各章において述べられてあるキリスト教の人生観である。この人生観を持たずそれを否定し、又はその問題と不正確とを証明する事は出来るであろう、がしかしその出来る源である人生観を理解する事なくしては、教義を判断する事は出来ない、そして低い見地から高位の事柄を判断するのは、尚更不可能な事である、それはあたかも礎に目をつけながら塔の頂を批評する事に等しい。しかしこれは現在科学者たちによってなされている、そして彼等がこう言う風に論じて来る所以は、いわゆるこれらの科学的方法を用いさえすれば、最早や彼等の論題とするところのものに関する理解が何であろうとも、その正確さについては疑うべき余地がないと言うような研究方法をもっていると言う信仰よりなる僧侶の妄想と等しい一つの妄想の下に仕事をしているからである。
確実なる知識を得る確実なる道具を所有していると言うこの仮想は、信仰なき者やいわゆる科学者などがキリスト教を正しく解せんとするに際しての、一つの主要なる障害をなすものである、そして無信仰ないわゆる無教育な人々は、それらの科学者たちの説に従ってしまう。この誤れる概念からして、一切のキリスト教に対する誤解が起こるが、中にも、特に二つの不思議なる誤りは、他の何ものよりも優して一層多く、キリスト教の教義の真の理解を妨げている。
この誤りの一つは、キリスト教の実際上の教義は、実行し難いものである、故にそれに服従する必要もなければ、それを生活の指導とする必要もない、もしそうでなければそれを我々の社会で実行できる範囲に修正し、且つ手加減を加えなければならないと言う考えである。も一つの誤りは、キリスト教の神に対する愛と神への奉仕とに関する教義は、何等確固とした愛の対象を与えない漫然とした神秘的な要求である、故に一層明確にして判然たる人々に対する愛と人類への奉仕との教義に置き換えなくてはならぬ、という考えである。
キリスト教の教義の実行難に関する第一の誤りは、こう言う事に起因している。即ち社会的人生観の人々は、キリスト教が人類を指導するその手段を知らない、そしてキリスト教の完全という標準をもって実際生活の規則と考えている、従ってキリスト教の教義は、その要求に完全に実行すれば生活を破壊する結果となるが故に実行不可能であると考え、又そう言う。『もし人が、キリストの教えを完全に実行するならば、その人は生活を破滅してしまうであろう、そして全ての人々がそうするならば、全人類は瞬く間に死滅してしまうであろう。』
『もし人々が明日の事を思わず、何を食い飲み、又着るべきかという事を考えないとしたならば、もし彼等の生命を守らず暴力によって悪に抗しないとしたならば、又もし友達のために生命を与え、絶対の貞潔を守るならば――その人及び人類はたちまちのうちに生存を止めるであろう。』
これが科学者たちの信じ、かつて言うところのものである。もしもイエスの教えによって示されている完全の教示が、社会上の規約に従って税金を払ったり、法廷に出たりその他の事をすると同じように、各人の遵奉しなければならぬ規則として採用されるならば、確かに彼等の言う事は正しいであろう。
その誤りは、キリスト教の教義は、低き人生観の上に建てられている他の教義と同じ手段によって、人々を導かないと言う事を忘れて居るところに在る。社会的人生観の教義は、人々を単に規則や法則の正確なる実行の要求によって導く、イエスの教えは、人々を天なる父の無限の完全さを示す事によって導く、そしてそれに向って人々が、如何なる低い不完全な狀態にあろうとも自ら進んで向上しようとするのは、当然の事である。
社会的の見地からキリスト教を判断しようとする人々の誤りは、この点にある――即ち彼等はイエスによって語られた完成は、充分又完全に獲得し得られるものと推察する、故に、すべてのこれらのものが実行された時はどうなるかと言う事を自問する(丁度彼等がある家の法律実行の結果について自問するように)。この推察は間違っている、何となればキリスト教徒に示されている完成は無限にして又獲得し得ないものであるから、しかもイエスは彼の教えを、絶対なる完全は達し得られないであろう、しかし完全にして無限なる完成の向上は絶えず人類の幸福を増すであろうと言う事、従ってその幸福は絶えず無限に増大され得ると言う事を知って、説き示されたものである。イエスは天使に向ってではなく、動物的生活をなして生き且つ動くところの人々に向って教えている。しかしこの動物的な衝動力に加うるにキリストは新しいそれと違った力――神的なる完成の意識――をもってしている。そしてかくのごとくして、この二つの力の流れに沿える生活の進路を指示している。人間生活がイエスによって示された教示に従って行われるであろうとする仮定は、急流を横切りながら流れに逆らって真直ぐに漕ぐ舟乗が彼の舟をその同じ方向に保ち得るであろうとする仮定に等しい。
イエスは平行四辺形の両辺、即ち人間の生命を形成する永遠の不滅なる力――動物的本性の力と神の子であると言う意識の力と、その両者の存在を認めている。
イエスは動物的な力については言っていない、何故ならばそれはそれ自らを主張する、従って常にそれだけのものに過ぎず、人間の力では如何ともする事の出来ないものであるから。彼はただ精神的な力だけを説いている、そして人々にそれを充分意識するように、それを妨げる一切のものより完全に離脱するように、最上限度にまでその力をより遥かに成長せしめるようにと迫った。
この力を開放し且つ増大する事は、イエスの教えに従えば、人間の真の生活である。旧い教理にあっては、真の生活は規則と法則との実行にあった、イエスの教えにあっては、それは各人に示され又各人のうちに意識されるところの神的完成への完全なる接近、彼の意志と神の意志とのより一層近くより一層近き密接な融合、それに向って各人の憧憬する、そうしてそうするならば是の知れる生活が破壊されるであろうところの融合。
神的なる完全は人間生活の漸近線である、それに向って人間生活は絶えず向上し且つより近くに接近する、がしかしそれはただ絶対なる者においてのみ、到達し得られるものである。
キリスト教の教えは、人々がその理想の教示を実際生活の規則と取り違える時にのみ、生活の可能性を排するように見える。ただその時においてのみ、イエスの教えによって呈出される要求が、生活を破壊するように見える。それに反して、これらの要求のみが独り、真の生活の可能性を与えるものである。その要求なくしては、真の生活は到達され得ないであろう。
『人は左様に多くを要求してはならない』と人々は、キリスト教の要求を論ずるとき常にこう言う、『人は福音書の中に言われて居るように、明日の事は少しも思い煩うなかれと要求され得るものではない、が人は余り明日の事を思い煩い過ぎてはいかぬ、人は貧しきものに一切の持物を与えることは出来ない、がある一定の部分だけは与えるべきである。人は絶対に貞潔でなくてもいい、がしかし堕落を避けなければならぬ。人はその妻や子を見棄ててはならない、しかしそれらを余り愛し過ぎてはならない。』云々。
これは急流を横切ろうと欲して流れに逆らって舵を取るものに向って、流れに逆らっては駄目だ、行きたい方向に真直ぐに舵を取らなくてはならないと告げるに等しい。
イエス・キリストの教義はこの点において以前の教義と異なる、即ちそれは外的な規則によってではなく、神的なる完全に達し得るという内的な意識によって、人々を導く。人の心に住まう者は、程よき正義と博愛の規則ではなくて、完全な無限な神的な完成と言う理想である。この完全に対する向上こそはただ独り、人間生活の進路をして動物的狀態より神的狀態へ、現生に於て可能なる限り、変換せしめ得るものである。
ある目指す地点に上陸する爲めには、人は全力をもって流れの上方に舵を取らなくてはならない。理想の要求を低める事は、完全の可能性を減少する許りでなく、又理想そのものを破壊する事である。人々を左右する理想は空想的なものではなく、各人の精神の中に住んでいるものである、その完全な無限な完全という理想のみが独り人々を左右し、且つ彼等の活動を指導する。ただ絶対なる完全のみが人々の精神へのその勢力を維持する事が出来る。
イエス・キリストの教えは、それが絶対な完全――各々の精神の中に住める神的なものと神の意志との合体、子と父との合体を要求するという理由だけででも、力を持っている。この各人の内に住む神の子を動物より開放すると言う事、及びこの父との結合にそれが接近すると言う事――ただこの事のみがキリスト教の教えに拠れば、真の生活を構成するところのものである。
人間の内に於ける動物の存在、そしてその動物だけででは、人間の生活と言う事が出来ない。又神の意志だけに従う生活も共に、人間の生活と言う事が出来ない。人間の生活とは、動物的な生活と神的な生活の結合である。より近くその結合が神的生活に近付けば近付くだけそれだけ多く生活は増大される。
キリスト教の教えに従えば、生活とは神的なる完全への進行である。如何なる狀態も、他の狀態より高くもなければ、又低くもない。各狀態は、それだけでは何の可不可もない、到達し難い完全へ赴く途中のある一つの階梯に過ぎない、故にそれはそれだけででは、生活の低い程度をも高い程度をも構成しない。この教えに従えば、生活の増大はただ、完全に向かっての進行の速度いかんにある。故に収税吏ザーカィや姦淫の女や又は十字架に掛けられた盗賊などの完全への進歩は、パリサイ人の停滞した正義よりも遥かに高い程度の生活である。この教えに従えば、すべての人に対する義務的な如何なる規則も存在しない。低き程度にあって完全に向かって進むところの人は、よりよき又一層道徳的な生活を送る、そしてより高い道徳の標準に居ながら完全に向かって歩まない人よりも、より完全にこの教えを実行するものである。
この意味において失われたる羊は、柵の中のものよりも一層『父』に取って大切なものである、放蕩息子や一度失われて再び見出された銅貨などは、未だ一度も失われないものよりも遥かに貴重なものである。
法則の実行は、我等自身より神へ向かう進行においてなされる。その実行の内には、明らかに何か一定した法則も又規則もない。完全の一切の程度及び不完全は、皆この教えの前にあっては平等である、規則の実行は決して教義の実行とはならない、故にこの教えにあっては、如何なる義務的な法則も又規則も存在しない。
このイエス・キリストの教えと社会的人生観の上に成り立つ一切の以前の教えとの間の根本的な相違から、又社会的命令とキリスト教の命令との違いが表われて来る。社会的命令は大部分積極的である、そして人々を人として認め且つ彼等を正しきものとするところのある行爲をなす事を命ずる。キリスト教の命令(愛の法則は厳密にいえば命令ではない、その教えの真髄を言い表したものである)山上の垂訓の五戒はすべて消極的である、そしてそれらはただ人類が進歩のある階梯に達した時に爲してはならないところのものの教示に過ぎない。これらの命令は、言わば人類が辿りつつあるところの完全への無限の道に於ける標本である――それらは人類が進歩のある時期において達し得た完全の程度を記すものである。
山上の垂訓においてイエス・キリストは、それへの向上が人間にとって自然なものであるところの永遠の理想と現在人類がなし得るその理想への到達の程度とを共に表現した。
その理想とは悪意を持ち又は悪意を起こさす事ではなくして、すべての人を愛すると言う事である。その命令とは言葉や行いによって人々を怒らすなと言う事である。そしてそれは人々が理想への進行に確かにしないでおられる範囲を示すものである。これが第一つの命令である。
その理想は思念のうちにおいてすらも絶対の貞潔を守ると言う事にある。その命令は結婚生活の潔浄と悪徳な事よりの節制とである、そしてそれは、人々が理想への進行に違反しないでおられる範囲を示すものである。これが第二の命令である。
その理想は明日の事を考えず、現在に生きよと言う事である。その命令は誓いを立てず又未来に於ける約束をなすなと言う事である、そしてそれは人々が退歩しないでおられる最も低い限度を示すものである。これが第三の命令である。
その理想は如何なる事があろうとも、暴力を用いてはならぬと言う事である。その命令は恥ずかしめに耐えて自分の襯衣(はだぎ)をも与え、更らに報ゆるに悪をもってするなと言う事である。そしてそれは人々が退歩しないでおられる最低限度を示すものである。これが第四の命令である。
その理想は、我等の敵、及び我等を憎むものを愛すると言う事にある。その命令は我等の敵を害せず、彼等を悪口せず、又彼等と我等の味方との間に隔てを設けてはならぬと言う事である、そしてそれは、退歩しないで居られる最低の限度を示すものである。
すべてこれらの命令は、現在において、我等の完全への努力においては、しなくとも充分済むところのものに関する教示である。それは我等が今得んとして努むべきところのもの、漸次我等が習慣と無意識な本性との領域に移し変えねばならぬところのものを指摘している。しかしそれは決してキリスト教の教えを構成もしなければ、又キリスト教の意義を尽くすものでもない、それはただ完全への進行に於ける無数の階梯のうちの一つをなすと言うに過ぎない。完全への途中、教えによって指摘される他のより高い尚一層高い命令が、それに続いて出て来るであろう。
故にキリスト教はどうしても、命令の中に現わされて居るものよりもより高い要求を示さなければならない、しかしキリスト教は如何なる場合においても、その命令あるいは理想を、社会的人生観の立場よりキリスト教の教えを判断する人々がなすように、抹殺したり制限したりする事は出来ない。
キリスト教の教えの意味と重要さに関して、科学者の抱く一つの誤りは以上の通りである。この同じ源よりして今一つの誤りが生ずる、そしてそれはキリスト教の要求する神への愛と奉仕に代えるに、人類への愛と奉仕をもってするところにある。
キリスト教の神への愛と奉仕、及びそれより結果するものに過ぎないところの隣人への愛と奉仕に関する教えは、科学者には空漠とした神秘的な擅断的なものとして現れる、で彼等は神への愛と奉仕との要求を、全然、人々及び人類に対する愛の教えの方がより善く、又確固として分かり易いものであると言う信仰の下に放棄してしまう。
科学者たちは、善にして合理的な生活はただ人類への奉仕にあると言う事を、学理的に教える、そしてそれがキリスト教の意義であると信じ、キリスト教の教えをそれに変形し、自分の学説の確かであると言う証拠をキリストの言葉の中に探し求める、そして自分の意義もキリスト教も共に同一つのものであると空想する。
これは全然虚妄なる考えである。キリスト教の教えは、かかる同胞の利益と言う事に根拠を有するところの実証論者や共産主義者やその他、四海同胞の教えを説く人々の学説とは、少しも共通点を有していない。その両者の大いなる相違点は、キリスト教は人々の精神の中に明白な確固たる根拠を有して居るに反して、人類への愛を説く教義はただ類推によって達したる学理的な結論に過ぎない。
人類への愛の教義は、その根底に社会的人生観を持っている。その社会的人生観の真材は、個人的生活の意義を個人の集団―― 一族と家族、国家の生活に移し換えたと言うところに在る。この転化――生活の意義の、自我より人民もしくは家族もしくは種族への転化――はその原始的な形においては容易に且つ自然に行われた。自我から人民あるいは部落へのこの同じ転化はもっと困難であり、又特殊の訓練を要する、そして個人的意識を国家に移し換える事は、その最極限度を示すものである。
自愛と言うものはすべての人々に遺伝するものである、そしてすべての人々は何等の激励を要せずに自分を愛する。援助を与える部落に対する愛、妻――人生の喜びであり伴侶であるところの者――への愛、子は――人生の慰安で且つ望みである者への愛、生命と教育を与えた両親への愛――これらの愛は皆すべて自然である。そしてこの愛は自愛よりも遥かに度合の低いものではあるが、比較的しばしば遭遇し得られるところのものである。
誇り又は利己心からの種族及び人民への愛は又、多少不自然ではあるが、存在するであろう。自分と同じ人々――自分と種族、言語や宗教を同じくする人々――への愛は、自愛、あるいは家族や部落への愛よりはその感情は遥かに度合の低いものかも知れぬが、又同じく存在し得る、しかし国家――トルコ、ドイツ、英国、オーストリアあるいはロシアへの愛は、ほとんど不可能である、それはただあり得る様に推察されるだけで、その方面への熱心な訓練をしない限り、真に存在するものではない。この集団は人が自分の意識を転移し得る力の限度である、この虚構なるものに対して、人は自発的な感情を持つことは出来ない。しかし実証論者や他の科学的な同胞主義者は、その対象の拡大せられるに応じて感情は弱まるものであると言う事を考慮に入れない、そして同じ方向に向って学説的に理論を進めていく、『もしも個人に取って、家族及び一族に、後には一般の人々及び国家にまで意識を移し換えて行く事が有利であるならば、人類の集団にその意識を移し換えて行く事は、更らに一層有利であるべき筈である、又すべての人に取って、今日家族及び国家の爲めに生きている様に又人類の爲めにも生きるようになれば一層有利であろう。』
これは、学理的には正確である。
自分に対する意識と愛とを家族へ、家族から種族、人々及び国家へと言う具合に移し換えて、各人民や階級に人類が分かれる事から起る争闘や悲惨から脱れるために、一般人類にまでその愛を移し換えてしまう事は、人々に取っては、全く理論に叶った自然的な事ででもあろう。これは最も論理的な決着であると見えるかも知れぬ、そしてそれは、愛は経験されるべきもので教えられるべきものではないと言う事、及び愛は真の対象を要求するものであるのに、人類は虚構なもので実在するものではないと言う事を、忘却している科学者たちによって、教えられているところのものである。
種族、家族及び国家でさえも、人間の発明したものではない、しかし蜂や蟻の集団のように自然に発展したものである、そして現存せる実在である。動物的な個人性の利益から家族を愛するものは、彼が愛するもの――アンナ、マリア、ペテロ、ヨハネを知っている。当派を愛し且つそれを誇りとするところの者は、彼がゲフル党員のすべて、あるいはギベリン党員のすべてを愛すると言う事を知っている、又国家を愛するところの者は、彼がライン河からピレネー山脈に至るまでのフランスを、その首府――パリ――その歴史及びその他の事を愛すると言うことを知っている。しかし、人類を愛するところの者は、何を愛するのであるか? 国家や国民は存在する、抽象的な観念としての人間も存在する、しかし実在としての人類は存在もしなければ、又存在する事も出来ない。
人類! 人類の範囲とは何処に在るのであるか? 何処にそれが始まり、そして何処にそれが終わるのであるか? それは野蛮人、白痴、酒吞み、あるいは狂人を除外するのであるか? もしも我等が人類と、その最下級の代表者との間に画線を引くとすれば、何処にそれを引くべきであるか? 我等はアメリカ人のように黒人を、多くの英国人のようにインド人を、又はある他の国民のなすようにユダヤ人を除外すべきであるか? もしも我等が除外者なしに全人類を抱容するならば、何故に我等はただ、人間のみを含めて、しばしば最下級の代表者よりも優れて居る事のある、高等動物を入れないのであるか?
我等は実在としての人類を知りもしなければ、又その範囲も知らない。人類とは愛する事の出来ない虚構物である。人々が彼等の家族を愛するように人類を愛する事は、実際すべての人々に取って最も有利な事であろう。共産主義者の言うように、人間諸活動の競争や争闘に代える共産的組織をもってし、一般的のものをもって個人的なものに換える、即ち各人がすべての者の爲めに生き、又すべてのものが各人の爲めに生きるようになれば、非常に好都合であるであろう、しかし不幸にして、そこにはか様な狀態を作り出すべき、如何なる動機も存在しては居ない。実証論者や共産主義者やその他同胞主義を説く人々に、人々の彼等自身に、家族に、及び、国家に対して感ずる愛の拡大と、その愛を一般人類にまで拡め及ぼす事について語る、しかし彼等は、その彼等の教える愛は個人的な愛である事を忘れている、その愛は、敷衍した形をなして、家族に及び、更らに一層弱めかつ乏しくされて国土に及ぶ、そしてそれは、オーストリアや英国又はトルコ等の如き人爲的の国家の場合にあっては、全然消滅してしまう、そして人が全然不可思議な対象――人類――に対しては、空想中においてすら感じ得ないところのものである。
『人は彼自身(動物的生命)、家族又は彼の国をも愛する。どうしてそれと同じように人類を愛する事が出来ないのであろうか? それはどんなに結構な事であろう? そして偶然にもキリスト教はこれと同じ事を教えている。』これが共産主義者、実証論者、及び社会主義者と、同胞主義者の所見である。それはもしもそれが可能であるならば、確かに結構な事であろう、何故なれば個人的社会的人生観に基礎を有するところの愛は、国土に対する愛以上には拡大する事が出来ないからである。
その論議の虚妄な点はここにある、即ち社会的人生観、家族と国土とへの愛の基礎は、自愛のうちにその根を据えて居る、そして自我から家族、党派、国土、国家と言う具合にそれを移し換えて行くに従って、漸次力を失い、乏しくなって行く、そして最後に国家への愛に至ってはそれは最極度にまで減少してしまって、それ以上進めて行く事が出来ない。
愛の範囲の拡張は、疑いもなく必要な事である、しかしその実行に際しては、この拡張の必要その事が愛の可能性を破壊し、個人的人間的愛の不充分なのを明らかにするものである。実証論者、共産主義者及び社会的同胞主義者間の説法者たちが、キリスト教愛をもって、不充分と判明したところの人類的愛の補足として、推挙しようとしている訳はこれである。しかし彼等はその結果だけ神への愛を欠く人間への愛を推挙して、その根本のものを推挙しない。
しかしかかる愛は存在する事が出来ない、何故ならばそれに対する如何なる動機もないが故に。キリスト教的愛は人生の意義は神への愛と奉仕にありとするキリスト教的人生観よりのみ、発生するものである。
自我に対する愛から、家族、国土、国家に対する愛へと、自然に突き進めて行く事によって、社会的人生観は、人々をして、一切の生物を含める無限の人類に対する愛、即ち人の心に何かの感謝を点ぜずには居られないところのものに対する愛の必要を、意識せしめるに到った。それは如何なる解決をもつける事の出来ない一つの矛盾にまで登りつめた。
キリスト教の教えのみは独り、その有する一切の意義をもって、新しい意義を人生に附与する事によって解決を与える。キリスト教は自己に対する愛、家族、国土、人類に対する愛、及び人類のみならず、一切の生物あらゆる限りの生存に対する愛を認める、それは愛の範囲の無限の拡張の必要を認める。しかしそれはこの愛の対象が外にではなく、それ自身の内にある事を家族や党派や国土、又は人類あるいは全く外的なる世界の内にではなく、それ自身の内に、神的なる個人性の内にある事を認める、そしてその個人性の本質は愛である。惨めさや果敢なさの意識から飛び出した動物的な個人性によって要求せられる普通的な愛である。
キリスト教と以前の教義との相違はこうである。社会的な教義は言う、汝の本性(ただ動物的な本性を指す)に反して生きよ、その本性を家族、社会及び国家の外的な法則に従属せしめよと。キリスト教は言う、汝の本性(神的な本性を指す)に従って生きよ、その本性を何ものにも――汝自身の、又は他人の動物的本性のいずれにも――従属せしめてはならぬ、然る時は汝は外的な自分を外的な法則に従属せしめる事によって得る事の出来なかったものを、獲得するであろう。
キリスト教の教えは、人をして自我に対する原始的な意識――動物的自我でなく神的自我、動物的な外形に含まれた神子我、天父に似た神、神聖なる火――に戻らしめた。この愛を本質とする神の子の意識は、社会的人生観の人々によって経験されるところの、全包括的な愛の一切の要求を、満足せしめるものである。その後者にあっては、愛は、個人の幸福がその範囲の拡張を要求するが故に、必須物であった、そしてその愛はある何かの対象と結び付けられて居た、キリスト教の人生観にあって人は必須物でもなく、又何か特殊なものに属しもしない、それは人間の精神の本質である。人は、かくかくのものを愛すれば有利であると言う理由からではなく、愛は彼の精神の本質であるが故に――愛せずに居られないが故に愛するのである。
キリスト教の教えは、人の精神の本質は愛であると言う事、彼の幸福は誰れ彼れの個人に対する愛によってではなく、神――精神の内においては愛として意識し、それを通してすべての人々や事物を愛するところの一切のものの根元――への愛によってのみ、獲得し得られるものであると言う事を教えている。これがキリスト教と、実証論者の教義及び其の他の一切の非キリスト教的同胞主義者の説との間に存する根本的な相違である。
多くのキリスト教の教えに関する間違った説の源をなすところの、二つの主なる誤りはこうである。即ちその一つは、以前のすべての教義と同様にキリスト教もまた、義務的な規則を教える、そしてその規則は皆実行し難いものであるとする、他はキリスト教の本質は、一家族のようにすべての人々が有利にして又好都合な協力をなす事を教えるところにある、そしてそうするためには、神への教えは問題外として、ただ人類への愛の規則を守れば充分であるとする。
超自然的なものに関する教えがキリスト教の本質をなしていて、その実行は不可能であるとする科学者の誤った見解は、この間違いに充ちた考えから生ずる曲解と一緒になって、又今一つの我等現代の人々のキリスト教に対する無理解の源をなしている。
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