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トルストイ「神の國は爾曹の衷にあり」第五章

『神の国は爾曹の衷にあり』
第五章 この世の矛盾
キリストの教えに対する無理解の原因となるものは多い。その一つは人々が、牧師達の様に、キリスト教の教義を超自然的な方法で伝達されたものと決めて、それでもって、それを了解したと空想したり、あるいは科学者のように、その外的な現れに過ぎぬところの皮相な事実を研究して、それでもって、それを理解したと考える事である。今一つの無理解の原因は、その教義を実行し難いものとして、それに代えるに人類への愛をもってし得るものと推測するところの間違った考えである。しかしすべてのこれらの曲解の主なる原因となるものは、キリストの教えは何かの生活上の変更なくして受け入れられるとか、あるいは受け入れられないとかするその考えである。
現在の狀態に慣れた人々は、それを愛し且つそれを変える事を恐れて、その教義は何等の生活上の変更をも要せずして受け容れられるところの啓示と規則との集まりのように考えようと試みる。しかしキリストの教えはそれに従う事が人間の義務であるところの規則に関する教えであるばかりではない、又それはすべての以前のものとは類を異にする新しき活動を起し、人類をして今や入ろうとしているその新時期に導いて行く人生の新しい意義に関する定義である。
人類の生活は個人の生活のごとくに、進歩し且つ多くの異なった時期を通過して行く。各時期はそれに相応する人生観を持っている、そしてそれは人によって是非とも採用されなければならない。意識的にその時代の人生観を採用しない人々は、無意識的にそうする事を強いられる。個人が絶えずその人生観を変えて行くように、それと同じく又国民や全人類もその人生観を変える。もしも一家の父が、その活動に際して幼年時代の人生観によって指導されねばならないとするならば、彼の生活は非常に悲惨なものとなるであろう。で、彼は勢い不本意ながらも他の人生観を求め、彼の時代に相応するものを熱心に採用するであろう。
これが、異教的人生観からキリスト教的人生観への過度時代を通過しつつある人類の今の有様である。我等の現代の社会生活に属する人は、生活それ自身に強いられて、人類の現在の時期に不適当な異教的人生観を捨ててキリスト教の教えの要求に従う事を予儀なくされている、そのキリスト教の真理は索強な曲解されたものであるとは言え、矢張り彼には親しいものである、そして又彼の陥って居るその矛盾に解決を与えるただ一つのものである。
もしもキリスト教の教えの要求が、社会的人生観を持つ人々に対して不思議なものまた危険なものとさえも見えるならば、その社会的人生観の要求は丁度それと同じく、それを理解することが出来ず又その結果を予知する事も出来ないところの古代の野蛮人に取って、不思議な危険な、又不可解なものと見えたであろう。
『私の生活と慰安とを犠牲にする事は馬鹿げた事だ』と野蛮人は言う、『不可解な条件的な漠然たるもの――家族、部落、国土――の防衛のために、そしてなかんずく自分を未知な力の自由に任す事は危険だ。』しかし時は来た、そこで彼は一方社会生活の重要さとその主なる刺激――社会的賞賛あるいは責罰――とを微かながらも感じ始め、又他方において彼の個人的生活の惨めさに堪え難くなって、最早や以前の人生観を信ずることが出来なくなって来た、そしてその代わりに社会的国家的の教義を採用し、そしてそれに従うようになった。
社会的人生観の人々の現在に於ける事情もまた、これと同じである。
『自分や家族や国土に対する最も自然な又賞賛に価する愛の感情を捨てる事を命ずるところの或種の高い法則を満たす為めに、自分の幸福や家族や国土の幸福を犠牲にする事は、馬鹿な事だ。』と彼等は言う、『そして取り分け、国家組織によって与えられる生活の保全を捨てる事は、危険である。』
しかし時はやって来る、その時においては、一面人間の精神による、神と隣人への愛のより高い法則の認識と、他面、生活の矛盾によって起こされる苦しみとが、人々に社会的人生観を捨てて、既に与えられて居るキリスト教の人生観を採用する事を予儀なくせしめる、そしてそのキリスト教の人生観は、すべての矛盾を解き人間生活のすべての苦しみを除くものである。そしてその時は今や正にやって来た。
数千年以前既に動物的個人的人生観から社会的人生観に推移した我等は、その推移を目して自然で又欠くべからざるものであるとして居る、これに反して現在の推移――最近1800年間に我等がなしつつあるところのものは、我等に取って気紛れな、危険な、また不必要なものと思われている。しかしこれはただ単に他の推移は最早や完了されてしまって、その結果も無意識の範囲に入っている、それに反して、現在の推移は未だ完成の域に達して居ない、故に我等はそれを意識的に仕上げなければならないからに過ぎない、社会的人生観は漸次、数百年数千年に人々の良心の中に浸み込んで行った、それは種々なる形を取った、そして今や無意識の方面に入ってしまって、遺伝、教育、習慣によって伝播されている、そしてこれが即ち社会的人生観が、我等に取って自然なものと見える理由である。しかし五千年以前にはそれは、今日真の意味でのキリスト教の教えがそうであるように、人々に取って不思議なまた危険なものと見えたのである。
普通的友愛、人民の平等、私有財産の廃止、及び暴力による悪への、いかにも不自然らしく見える無抵抗等に関するこのキリスト教の要求は――我等にとって実行し難いものに見える。しかし数千年以前においては、国家的社会的生活の要求は勿論の事、家庭生活の要求、例えば親は子を養い、若者は老者を扶け、夫婦は互に真実であらねばならぬと言うような戒めですら、それと同じく実行し難い、有り得ぬ事と思われたのである。しかも国家の要求――人民たる者は確立権威に服従し、税金を払い、また国土の防衛の爲に戦わねばならぬと言うような――は、尚一層不思議な不合理なものと考えられて居た。今日では、それ等すべての事は我等にとって全く明白な、自然な、また単純なものとなって居る、また五千年あるいは三千年前には、不可能な要求と考えられて居たにも拘わらず、我等はそれ等の要求に何等の不思議さも神秘をも認めない。
これが社会的人生観が宗教の根底を形作った所以である。何故ならば、それが人々によって採用された時代においては、それは彼等に取って不可能な、神秘的な、又超自然的なものと見えたからである。今や我等は人間生活のその階梯を終えてしまった、そして我等は明瞭に、人々が家族や社会や国家に集合するその合理的な理由を知っている、しかし古代においてはかような結合の要求は超自然的なものの名によってなされ、又維持されて居た。
族長的宗教は、家族、種族及び人々を神とした、国家的宗教は国王と国家を神とした。今日でも例えばロシアの百姓の如き無教育な者の大多数は、皇帝を地上の神と呼んでいる、そして国家の律法にその必要を認めている訳でもなく、又は国家の主義の何であるか解して居るからでもなく、ただ単に宗教的感情だけで服従している。
同様にキリスト教もまた、今日、社会的、異教的人生観を持っている人々には、超自然なものの宗教のように思われている、しかしそれは実際のところ神秘的なものでもなく、また何等神秘的な超自然的なところもない、それはただ人類の到達した時代とその物質的発達階梯とに相座せる人生の教えに過ぎない、そしてそれが故に人類が必然的に採用しなければならぬところのものである。
時は来るであろう、そしてそれは遠い事ではない、その時キリスト教の実際的な友愛、共産、暴力による悪への無抵抗等の原則は、家族や国家や政治生活の原則が今日我等に見えるように、単純なまた自然なものとなるであろう。
個人でも人類でも、行進しながら退歩する事は出来ない。人々は既に家庭的、社会的、国家的人生観を追い越してしまった、そして今や彼等は更らに前進して、次ぎのより高い人生観を採用しなければならない、そして今日それが行われている。
この進歩は二つの方法によって完成される。意識的に、精神的原因によって、無意識的に、物質的原因によって。
各個人は全然彼の理性の命令だけでその生活を変える事は甚だまれである。大抵彼は、理性によって彼に解明された新しい目的と意義とにも拘らず、以前と同じ生活を続ける。そして生活が意識と全然一致し難くなり、勢いそれが堪えがたい苦痛となった時に初めてその生活を変える。同様にして人類もまた、宗教上の指導者から人生の新しい意義とそれの追求しなければならない新しい目的とを、学び知った後も尚矢張り、この新しい意識の獲得の後も、その代表者の大多数のうちにおいて元の生活を続けて行く、そして以前の生活が不可能となった事の覚醒によって、初めて新しい人生観を容認するようになる。
我等の宗教上の指導者たちによって認められ宣言され、且つ賢き人々によって容認されたところの生活変更の要求にも拘わらず――人類の大多数は、これらの指導者に対する宗教的感情とその教えに対する信仰とを有して居ながら、新しく又それ以上に複雑した生活のうちにあって、尚以前の教えに指導される事を続けている。これはあたかも一つの父が、その年頃においていかに生活すべきであるかを知りながら、気紛れか又は慣習かによって、彼の以前の幼年時代の生活を尚そのまま続けねばならぬと同じ事である。
それは人類の一時代から他の時代への推移において常にあるところのものである、そしてその推移は今や行われつつある。人類は既に社会的、政治的の時代を通過してしまった、そして今や新しい時代に入っている。それはこの新しい時代において、生活の基礎となるべき教えを知っている、だが惰勢によってその古い生活様式を固執している。この原理と実行との不一致は人の生活を毒し変更を予儀なくせしめるところの多くの矛盾と苦痛とを起こさしめる。
我等の意識と我等の送っている生活様式との間の甚だしい矛盾に驚かないためには、生活の実行とその原理とを比較すれば充分である。
我等の全生活は、我等が正しきもの必要なものと知り且つ信じているところの一切のものの絶え間ない一つの矛盾である。
この矛盾は一切の事柄、経済上、政治上及び国際的な事柄に通じて存在している。あたかも我等は知っているところのものを忘れ、信ずるところのものを一時の間放棄してしまったかのようである。(我人は信仰なしでは居られない、何故ならばそれのみが我等の生活の基礎となるものであるから)、そして我等は意識と常識との一切の要求とは全然正反対に行動している。
我等の経済的、政治的、外交的関係において、我等は遥か以前の時代の人々に適合した原則に従っている、そしてそれは彼等の現在の意識及び現代の生活狀態の何れとも全然相容れないところのものである。
古代の人々にあっては、主人と奴隷とに区別された人々と同じように生きる事は、正しく又容易な事であった、何故なれば彼はこの区別の必要とその神聖な起因とを信じていたから。しかしかくの如き区別は、我等の時代において許されるべきものであろうか?
古代の世界の人間は、人は生まれながらにして色々な血族――貴族あるいは乞食、ヤフエトあるいはハムの後裔に属するものである事を信じて居たが故に、彼の同胞を犠牲にしてこの世の幸福を享楽する権利、及び数時代に亘ってそれらの人々に苦痛を与える権利を持っていると考える事が出来た。人類の指導者にして又あらゆる時代の大思想家であるプラトーとアリストートルとは、奴隷の存在を承認し且つその存在の正当な事を証明した、そして三世紀以前に空想的な未来の社会――理想郷(ユートピア)――に関して書いたところの人々も、奴隷の存在しないものとしてはそれを描く事が出来なかった。
古代の人々、及び中世期の人々においてすら、人は平等なものとして生まれるものではない、そしてただ一つの本当の尊敬に値する人間は自分達だけ――ペルシャ人、ギリシャ人、ローマ人あるいはフランス人――であるという事を真面目に信じて居た、しかし我等は最早やそれを信ずる事は出来ない。故に現代において熱心に、貴族主義と愛国心を弁護する人々も、自身の言を信じもしなければ又信ずる事も出来ない。
我等すべてはキリスト教の根本的な心理、即ち我等は皆一人の父の子であるという事――我等すべては、何処に住み又如何なる言葉で話そうとも――すべてが兄弟であり、ただ我等の共通の父によって心に植え付けられているところの愛の法則にのみ属するものであると言う事を、全心をもって感ずる事を知っている、否知らざるを得ない。たとえ我等がこの思想の表現されたのを聞かず又は読まず、又は自らそれを明瞭にしたことがないとしても、我等すべてはこの事を知っているべきである、何故なれば我等は周囲のキリスト教的な雰囲気の意識を同化してしまっているから。
我等の時代の人々の思想の傾向及び教育の程度がどんなであろうとも――何かの説を持っている教養ある自由主義者であろうと、何かの系統の哲学者であろうと、あるいは何かの派に属する経済学者であろうと、あるいは無教育なそしてある一つの主義の熱心な追随者であろうと――我等の時代の人は皆、すべての人間は生活と世上の幸福とに対して平等な権利を有すると言う事、人間は他のものよりも良くも悪くもないという事、すべての人々は平等であるという事を知っている。我等はこの事を我等の全身で、一点の疑惑の影も無しに知っている、しかも我等は我等の周囲のすべての人々が、二つの社会的階級に区分されているのを見る、その一つは労苦し、圧迫され、苦しみ且つ貧窮している、他は怠惰で、圧制的で、豪奢でそして逸楽的である、我等はこの事を見るばかりでなく、又我等の意志に反してまでもこの区分――我等の意識によって拒否された――の何れか一つに加わる事を予儀なくされている。そして我等は矛盾そのものとその矛盾に加わっているという事とによって悩まなければならない。
現在の人間は――主人であろうとまた奴隷であろうとも――意識と実際行爲との間の堪え難い矛盾をそれより結果する苦痛と共に絶えず感ぜずに居る事が出来ない。
労働階級の者――人類の過半数――は絶えざる辛労によって挫かれ、一道の希望の光もなしに、彼等の生活を破滅してつのる貧窮によって、在るものと在るべき筈のものとの甚だしい不一致――彼等自身によっても彼等をこのような狀態に導いてその狀態に在らしめているそれ等の人々によっても、共に信じられているところのもの――に他の他者によってよりも悩んでいる。
彼等は奴隷とされている事、及び彼等を束縛しているところの少数者の強欲を満足せしめるために、飢えて暗黒の内に死ぬのである事を知っている。彼等はこのことを知り且つそれを言っている、そしてこの意識は彼等の苦痛を苦くするばかりではなく、その苦痛の本質をもなすものである。
古代の奴隷は生まれながらにして自分が奴隷であることを知っていた、これに反して我等の時代の労働者は奴隷である事を感じる(ヽヽヽ)、しかもそうであるべき筈のない事を知っている(ヽヽヽヽヽ)、そして得る事が出来、又得るべき筈でありながらしかも決して得る事の出来ない永遠の渇望に悩まされて、タンタラスの悩みを苦しむ。労働階級の悲惨は、在るところのものと在るべき筈のものとの間の矛盾から起るものである。そしてそれは、この意識から生じて来る羨望と憎悪とによって十数倍に増大させられる。
現代の労働者は、たとえその労働が古代のものよりも遥かに容易であるとは言え、又は八時間の労働時局と三フランの日当とが得られるとしても、尚苦しむ事を続けている、何故ならば彼は彼が決して使う事のない品物を作り出しているからである、何故ならば彼は自分の為めにでもなければ、又は自分の意志からではなくして、ただ日常の麺皰の為めにのみ働き、概して怠惰な豪奢なる者の欲望を満たし、特に一人の資本家――水車小屋あるいは工場の所有主を富ます為めに働くからである。
労働は富のただ一つの源であり、且つ他人の労働を私用する事は不正であって、法律によって罰せられるべき罪悪であるとする科学的見解を人々が容認している許りでなく――又その上に、キリストの教え、それに依れば我等はすべて兄弟であり、且つ人たる者の義務と価値とはその隣人に仕えてそれを害さないところにあるとするその教えを、人々が信奉しているところの世の中においてすべてかような事が行われている事を彼は知っている。
労働者はすべてこの事を知る、そして在るところのものと在るべき筈のものとの間の甚だしい矛盾に激しく悩む。『自分が思って居、且つ人々の公言するのを自分が聞いているところのすべてによる。』と労働者はいう、『自分は自由でまた愛され他のすべての者と平等であるべき筈である。それにも拘らず自分は憎まれ見下げられた一個の奴隷である。』そして彼自らが憎み始め、その境遇から脱すべき何かの方法、彼を害する敵から脱れて今度は自分がその敵を挫くべき方法を探し求める。人々は、労働階級は間違っている、何故ならば彼等は資本家に取って代わろうと欲して、貧民と富者とを入れ替えようと欲しているからという。それは間違いの言である、もしも労働者や貧民が、主人と奴隷、富者と貧民というような区別が神聖な起源を持っているものと信ぜられている世の中において、左様な事を欲するのならば、それは不正な事であろう。彼等はそれを、神に対してすべての人は子であり、従って全人類は平等であり同胞であるという事をもって根本的な教理とするキリストの教えが、信奉されているところの世の中において、欲しているのである。人々がいかに死力を尽くそうとも、キリスト教的生活の主要なる条件の一つは、言葉ではなく行為の上での愛である事を隠しきる事は出来ない。
いわゆる教育ある階級の人々もまた、尚これ以上に大なる矛盾と苦痛とのうちに生活している。それ等の各々は、もしも何かの信仰を有し、友愛でないとすれば、少なくとも柔和さを又柔和さでなければ正義を、又正義でなければ科学を信ずるならば――その時はその各々は、彼等の全生活は、キリスト教、人道、正義、科学の一切の見解と正反対な条件の上に築かれている事を知っている。
彼は、その中に在って成長し且つそれを除く事は非常に苦痛であるところのその一切の習慣が、圧迫されたる労働階級の苦しき、又時とすると致命的な労働によって即ち彼が信じていると公言するところのキリスト教、人道、正義及び科学(政治経済を意味する)の一切の原理を最も不埒にまた大胆に侵害する事によってのみ、満たされ得るものである事を知っている。彼は友愛、人道、正義及び社会的科学の見解を信奉している、しかも彼の日常生活は、彼の非とする労働階級に対する圧迫を予儀なくせしめている。彼の全生活は、この圧迫の果実の壟断である許りでなく、彼のすべての行爲は、彼の信仰の一切の原理と全然相反する、この社会組織の維持に向けられている。
我等はすべて兄弟である、然るにも拘らず兄弟または姉妹が毎朝、私の便器を運び出している。我等はすべて兄弟である。だが私は毎朝煙草、砂糖、鏡――それらの製造が私と平等である私の兄弟や姉妹の健康を害うところの一切のもの――を用いなければならぬ、そしてしかも私はこれらの品物を必要とし又要求さえしている。我等はすべて兄弟である、しかも私は銀行、商店あるいは会社に働いて生活している――その仕事と言うのは我等の兄弟達の最も必要とする一切の必需品の値を上げる事による。我等はすべて兄弟である、然るに私は、私の全生活態度の結果として存在し、且つ罰すべきではなく改めるべきである事を私が知っているところの、盗人や売淫婦を死刑にし、裁判し、又処罰する事によって、給料を貰っている。我等はすべて兄弟である、然るに私は貧しき労働者から税金を取立てる事によって生計を立てている、そしてその税金は怠惰なる者や富める者の奢侈に消費されるであろう。我等すべては兄弟である、然るに私は人々に似而非(えせ)キリスト教の信仰を教えて給料を貰っている、その信仰は私自身が信じないところのものであって、又人々を真の信仰を知る可能から妨げるものである。私は牧師又は監督として、人生の最も必要な事柄について人々を偽って給料を貰っている。我等はすべて兄弟である、然るに私はただ金のためにのみ私の兄弟を教え、治療し又彼等のための著述をしている。我等はすべて兄弟である、然るに私は人を殺す爲めに練習し、又は他人に教え、武器、弾薬を造り堡壘を築いて金を貰っている。
上流階級の生活はすべて一つの矛盾の連続である、そして人間の道徳意識が鋭敏になればなるだけ、一層その矛盾が堪え難いものとなって来る。
鋭敏な良心を持った人は、かような生活を送るならばきっと苦しむに違いない。苦しみを脱れるただ一つの道は、彼の良心を抑えるにある。しかしよくかかる人々がその良心を抑止する事に成功したとしても、彼等の恐怖を感ずる事は出来ないであろう。
良心を抑止し、勢いその呵責を最早や感じないところの鈍感な、上流の圧政的な階級の人々も、矢張り恐怖と憎悪とに悩まされる。彼等は苦しまずには居られない。彼等は彼等の呼び起こすところの憎悪について、そしてそれは労働階級の間に盛んである事を知っている。彼等は後者がその耐え忍ばねばならぬ欺瞞と暴行とに気付いて、暴虐から脱れ圧政に復讐せんとする目的をもって、結合しつつある事を知っている。上流階級は共同的な組合、同盟罷業及び五朔節(メイデイズ)を見る、そして彼等を脅かすところの災厄を予見する、そしてかようにして恐怖が彼等の生活を毒する。彼等は将さに襲い掛っている災厄を感じる、そして彼等の恐怖は憎悪と自己防衛とは変じて行く。彼等はもし一時間でも彼等の踏みしだいている奴隷との争闘を緩めるならば、死滅しなければならぬ事を知っている。何故ならば奴隷共は憤激している、そして彼等の憎悪は日毎の圧迫をもって増大しているからである。圧制者たちは、たとえそうしようと欲したとしても、彼等の暴虐を止める事が出来ない。彼等は止めた許りでなく、もしその圧迫を弛めただけででも、亡びてしまう事を知っている。故に彼等は労働階級の利益に意を用いていると言う口実、八時間制度、婦人及び子供の労働禁止、養老金及び賞与金にも拘わらず、昔のままを維持しているのである。すべてこの事は欺瞞である、然からざれば精々奴隷をしてよき労働の狀態にあらしめようとする所産である。しかし奴隷はやはり奴隷である、そして奴隷なしでは生存する事の出来ない主人は、常に彼を開放しようとする事よりも以下の事を所望するものである。
労働者に対する支配者の階級は、彼の敵対者を投げ倒して、しかと掴まえて離さない人の様な地位にある。と言うのは彼を逃がしたくないからと言うよりは、もしも一時間でも彼を緩めるならばその敵対者は激怒して手にナイフを持っているが故に自分の命を失う羽目になると言う事を知って居るからである。
故に我等の富者階級は、小心であろうとも、そうでないであろうとも、自分等の特権の正しい事を信じていたそれ等の古代の人々のようには、貧者より奪ったところの富を楽しむ事が出来ない。彼等の全生活及び彼等の快楽のすべては、絶えず悔恨あるいは恐怖に附きまとわれている。
これが経済上の矛盾である。政治上の矛盾は、それよりも尚一層驚くべきである。
すべての人々は、国家の法律に服従する習慣の中にあって教育される。今日の人々の全生活は、彼等の国の法律によって規定されている。人は法律の命ずる処に従って、結婚し、離縁し、子供を教育し且つ(多くの国において)信仰をすら選択する。然らばこの人類の生活を規定するところの法律とは何であるか? 人々はそれを信じているであろうか? それを間違いのない真理と考えているであろうか? 否少しもそうではない。我等の時代の人々は、多くの場合この法律の正しい事を信じはしない、彼等はそれを輕蔑している、しかも尚それに服従している。人々は真面目に(宗教上の律法に於けると同様に)彼等の法律は、すべての人々が服従しなければならぬただ一つの真実なものと信じて居た。しかし我等は? 我等は我等の国家の法律は無類のものでもなければ永遠な法律でもないと言う事、それはただ種々なる国家の多くの法律――すべて等しく不完全で、しばしば明らかに間違いであり又不正であり、且つあらゆる方面から出版物によって批評されているところの一つである事を知っている、否、知られざるを得ない。ユダヤ人に取っては、彼が神の手によって書かれたと信じているところの法律に従う事は、正しくもあり又自然な事であった、あるいは女神エゲリアによって神託を授けられたと信じているローマ人に取っても、あるいは彼等の国王や法律の制定者たちが神によって神聖にされたと信じ、あるいは彼等の立法議会は最もよき法律を発見する希望と技倆とを併せ有していると信じている人々に取っても、又同等である、しかし我等は、いかにして法律が作られたかを知っている、我等はすべて舞台の背後に居たのである、我等はすべて法律は貪欲心、利己心、欺瞞及び幾分は争闘の所産である事――真に正しいものでもなく、決してそうであり得ない事を知っている。故に我等の時代の人々は、国家のあるいは社会の法律に従う事は、人間性の合理的な要求を満足せしめ得るものである事を信ずる事が出来ない。人々は遥か以前に、その正しさに関して疑惑を免れ難いところの法律に従う事の不合理である事を知った、故に彼等は、その正しさと権威とを認める事の出来ない法律に従う時に悩む。
人は彼のすべての生活が、刑罰の応報の下に予儀なく服従しなければならぬところの法律――その合理性と正しさとを信ずる事の出来ない、且つその背理と不正と残酷とをしばしば明らかに知るところの法律――によって、束縛せられる時、悩みなしにはいる事が出来ない。我等は関税や輸入税の不利益なのを認めている、しかも我等はそれ等を払わなければならない。宮廷や多くの官吏を支持する為めの費用の不條理。教会の教えの悪い影響。しかも我等は我等の制度の維持に携(たずさ)わる事を予儀なくされている、我等は法廷によって課せられる刑罰の残酷と不公平とを認めている、しかも我等はそれに与(くみ)しなければならぬ。土地介有の害悪と不正とにも、よく我等はそれに忍従しなければならぬとは言え。又、戦争と軍隊との不必要とにも。しかも我等は軍隊を支持し、戦争を起こす等の恐るべき重荷に耐え忍ばなければならない。
しかしまたこの矛盾も、国際関係において人々に襲いかかる矛盾即ち、生命と理性との破滅という応報をもって解決を要求するところの矛盾とは比較にならない。これがキリスト教的意識と戦争との間の矛盾である。
我等キリスト教国民は精神生活を一にしている、そしてあらゆる善き実りある思想の、地球の如何なる端から生まれ出ようとも、広くキリスト教的人類の上に拡がって行き、そして国民性のいかんに関せずに、到る所に喜びと誇りの同じ感情を燃やす。我等はあたかも我等自身の事のようにダミアンの勇敢な行爲を誇っている、我等は他国民の思想家、慈善家、詩人及び科学者を愛する許りでなく――我等に他国のすべての人々、フランス人、ドイツ人、アメリカ人、イギリス人を愛する、我等は彼等の性質を尊敬する許(ばか)りでない、我等は単に彼等と逢う事を喜び、楽しき微笑(ほほえみ)をもって彼等に挨拶をする、我等は何うしても、彼等との戦争を勇敢な行爲と考える事が出来ない、我等は相互間の虐殺によってのみ解決されるべき繋(はん)閲(えつ)が我々の間に起るであろうと考える時、恐怖の念に満たされる――しかも我等すべては、今日でなければ明日必然的に行わねばならぬところの、誰彼なしの虐殺に参加すべく促されているのである。
ユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人に取っては、虐殺によって自分の国土を防ぎ、あるいは同じく虐殺によって他国民を征服するのは、正しい事であった――何故ならば彼は自分の人民は、神によって愛されたる善にして真実の人民であると確信していたが故に。そして他のすべてはヒリスチイナ(ペリシテ)人及び諸蛮族であったが故に。中世期において、前世紀の終わりにおいて、今世紀の初めにおいてすら――人々は尚未だこの事を信ずる事が出来た。しかし我等は如何なる怒りにあっても、それを信ずる事が出来ない、そしてこの矛盾は、それを解決することなくしては生きる事が不可能であると感じる位、我等の時代の人々に取っては堪え難いものである。
『我等は矛盾に満ちた時代に生きている』と国際法の教授であるコマロウスキィ伯が、彼の優れた論文の中で言っている。『すべての国民の出版物は、平和に対する一般的な願望を述べている、そしてすべての国家にとってそれが必要である事を指摘している。これと同じ意見は私人によっても、政府の代表者たちによっても、官僚的書類の中で、議会演説で、外交商議において、及び国際条約の中で述べられている。けれども各年毎に諸政府はその軍隊の数を増やしている、新しい税金を課し、賃金を授受している、そして未来の時代にこの現代の不合理な政策の誤りを整理する必要を遺産として残している。何と言う言葉と行いの間の甚だしい不一致であろう!
『勿論政府は、これらすべての費用及び軍備は全然防衛的な性質のものであると言う事を指摘して、そのやり方を弁護している、しかし各公平なる観察者に取っては、すべての最大強国が軌を同じくしてただ防衛的な政策にのみ専心しているにも拘わらず、何処から攻撃が予期さるべきであるかと言う不可思議な疑問が尚、そこに残っている。
『実際のところ各国家は、他のすべての国家によって今にも攻撃されるのを待ち設けているかのような観を呈している、そしてそれより結果するところのものは一般的な狐疑と、武力において他を凌駕しようとする各政府の超人的な努力とである。この頑迷は戦争の危険を増大する、諸国民は何処までも軍備の拡張を支持し得るものではない、そして遅かれ早かれ彼等の不便な一切の現境と絶え間ない戦争の脅威とよりも、むしろ戦争を選ぶに至るであろう。その時些細な口実も、一般的な戦争の火を全ヨーロッパ中に燃やすには充分であろう。この種の危機が、我等を屈服せしめているところの政治上及び経済上の窮境を癒し得ると考える事は、間違いである。最近諸戦争の経験は、何れの戦争もただ諸国民の敵意を増大し、軍国主義の支え難き重荷を増加し、且つヨーロッパの政治及び経済狀態をして、一層以前よりも絶望的な、紛乱したものとなすに役立つばかりである事を、我等に教えている。』
『現代のヨーロッパは九百万の現役兵を武装せしめている。』とユリコ・フェリィが言っている、『そしてその他に五千万の予備兵を持っていて、一年に四十億法(フラン)の金を費やして居る、そして武器を自分に供給するために貧血病に陥って、その集めた武器の使うべき力と元気とを失い、その重荷の下敷きになって結局は死滅しなければならぬ人のような観を呈している。』
同じ事は、1887年7月28日のロンドンに於ける国際法修正会議において、チャーレス・ブースによってなされた演説の中にも言われている。彼も同様の数字――九百万以上の現役兵と五千万の予備兵、及びこれらの軍備と軍隊との維持の爲に政府の費やしている莫大なる費用――を引用している、そして更らに語をついで、『これらの数字は、実際の経費の一小部分に過ぎない、何故ならば国民の軍備予算に定められている費用以外に、我等は、かくも大多数の血気盛りの者を徴兵する事によって社会に与えられる損害と、あらゆる種類の産業と労働に対する損害及びそれに加うるに、返還を許さないところの莫大な軍備費の利子とを考慮せねばならない。戦争及び軍備の為めのこれらの支出の必然の結果は、止む事なき国債の増大である。ヨーロッパの国債の大部分は、戦争の為め契約されたものである。その金額は四十億ポンド即ち四百億ルーブルである、そしてこれらの負債は年を追って増大しつつある。』
コマロウ・フスキィはまたあるところで言っている、『我等は困難な時代に住んでいる。到る所で我等は産業と通商との渋滞及び一般に望みなき経済狀態に関する怨言(えんげん)を耳にする。到る所で我等は労働階級の生活難について、一般人民の貧窮について聞かされる、しかしすべてこれらの事にも関せず、諸政府はその独立を維持せんとする努力において、愚の骨頂にまで達している。あらゆる方面より、彼等は新しい税金と義務とを案出する、そして人民の経済上の圧迫はその限度を知らない。もしも我等が最近数百年間のヨーロッパ諸国民の予算を見るならば、我等はたちまちその予算の急激な不断の増進に驚くであろう。我等はいかにして、早かれ遅かれ避け難い破産をもって我等を脅かすところの、この不思議な現象をどう説明すべきであるか?
『それは疑うまでもなく、全ヨーロッパ国民の予算の三分の一あるいは二分の一すら吸収するところの軍隊を維持するための費用によって惹き起されるものである。なかんずく最も悲しむべき事は、予算と一般人民の貧窮との増加においてその限度を予想し得ない事である。我等大陸の住民の大多数が生存するところの奇怪にも変態なるこの狀態に対する反抗で無くして、果たして社会主義とは何であろうか?』
『我等は自らを破滅している』とフレデリック・パセィは、ロンドンに於ける最後の平和会議(1890年)でなした演説の中で言っている、『我等は未来の狂的なる殺戮に参加し得んが為めに、もしくは過去の殺人者と無意義なる殺戮とによって我等に残された負債の利子を支払う為めに、自らを破滅している。我等は殺人し得るために餓死するであろう。』
更らに彼はこの問題に関するフランスの意見に言及しながら、言っている、『我等は、人間及び市民としての権利の宣言以降、百年にして、今や時代は国民の権利を認め、征服と呼ばれている暴力と欺瞞とのあらゆる一切の行爲を全部放棄するに立ち至った事を信ずる、その征服たるや人道に反する実際上の罪悪である、そして国王の野心と国民の倨傲(きょごう)心とがいかにそれを賛美するとしても、それは征服者をも弱めるところのものである。』
『私は我等の国の宗教的教育について驚かざるを得ない』とウイルフレッド・ロウソン卿が同じ会議で言っている。『一人の子供が学校に行く、そして教えられる――「子供よ、汝は汝の敵を愛さなければならない、もし汝の友が汝を打つならば、彼を打ち返してはならない、愛をもってそれに報いる事を努めねばならぬ」と。さて子供は、十四歳か十三歳頃まで日曜学校に通う、それから彼の友達は彼を軍隊に入れる。軍隊において彼の教わるところのものは何であるか? 確かに彼の敵を愛せよと言う事ではない、だが銃剣を持って、敵に近づくや否や直ちに彼を突き刺せと言う事である。これがこの国に於ける宗教上の教育である。私はそれが宗教上の戒律を実行する最も良い方法であるとは考えない。もしも子供に取って敵を愛する事が正しい事であるならば、又大人に取っても、そうする事が等しく正しい事ではないであろうか。』
更らに、『ヨーロッパには、言論に依る代わりに互に殺戮し合って論争を解決するが爲に、二千八百万の武装した人間が居る。これが論争を解決する為めにキリスト教国民によって採用せられたる方法である、それは又費用のかかる方法である。何故ならば、私の読んだ統計に拠ると、1812年以来ヨーロッパ国民が軍備と、互に殺戮し合っての論争の解決との為めに費やした金は、150億と言う巨額に上っている。かくの如き狀態にあっては、私には二つの立言の何れか一つが本当とされねばならぬように思われる。キリスト教が失敗であるか、あるいは然らざれば、それを解釈した人々がその方法を誤ったかの何れかである。』
『我等の軍艦の武装が解除されず、又軍隊が解散されない限り、我等は自らをキリスト教国民と称する事が出来ない』とエフ・ジエ・ウールソン氏が言っている。
キリスト教の伝道者たちの戦争に反対して教うべき義務問題に関する論議において、ジィ・ディ・バァレットは異説の中にあって言った、『もしも私が聖書を少しでも解しているとしたならば、戦争の問題を無視し又は黙過する限り、人々はただキリスト教を喜んでいるに過ぎないと言う事を断言する。私は永い生涯を生きた、しかも私は六度以上に我々の牧師達が、一般の平和について説教したのを聞いた事がない……二十年以前、私は四十人位の部屋一杯の人々の前で、戦争はキリスト教と両立しない事を語った事がある。彼等は私を純粋の狂信者であると考えた。戦争無しでも生きて行かれると言う考えは、許す可からざる臆病であり愚劣な事であると考えられて居たのである。』
カトリック教の牧師アベエ・デフォルネィは、同じ精神で語っている、『各人の良心に書かれている永遠の法則の第一の戒律の一つは、隣人の生命を取り且つ血を流す事を(充分なる原因なしに、又は必要に迫られてそうする事を予儀なくされる事なしに)禁じている。これは他の何ものよりもまして一層深く人間の心の中に彫り刻まれて居る戒律の一つである。しかし戦争の――即ち、人間の血の河を流す問題に立ち到ると、現代の人々は最早や充分なる原因を必要としない。戦争に参加する人々は決して、この無数の虐殺は正当であるか、自分等は正しいか又は不正であるか、法に適っているか適っていないか、無罪であるか罪人であるか、あるいは自分等は正当な原因なくして殺人を禁じているところの重要なる法律に違反していはしないかどうかというような事を、自問して見ようとは考えない。彼等の良心は黙している。戦争は道徳と関係のあるものではなくなってしまった。兵士は彼の受けたる困苦と危険の中にあって、征服以外の喜びを知らず、敗北以外の悲しみを知らない。彼は彼の国家に尽くしているのだと言わないで欲しい。遥か以前に大天才が、敷(ふ)言(げん)をもってその論議に答えている、それは後に格言となった、『正義を取り去れ、然る時国家はただ盗賊の一大集団である以外に何であるか? 盗賊の団体もまた小さい国家ではないか? 彼等もまた彼等の法律を有している。彼等もまた掠奪の爲めに、又名誉のためにすら戦う。』
『この制度の目的は(国際裁判所の設立を指す)ヨーロッパ国民が盗賊国民である事を止めしめ、彼等の軍隊が盗賊の団体であり、同じく又私は附加えて言わなければならぬ、奴隷の団体である事を止さしめんがためである。然り、我等の軍隊は、我等が知っているように、圧制的でありながら、しかも何等の責任を負う事なくして、彼等を自由に使用するところの一人あるいは二人の国王又は国務大臣に属する奴隷の集合である。』
『奴隷なるものの特質は、彼が道具、即ち主人の手中の物であって――人間ではないと言う事である。兵士や将校や将官はそれである。彼等は国王もしくは支配者の欲するままに殺されるために赴いて行く。軍用の奴隷と言うものがある、そしてそれはあらゆる奴隷制のうちの最もよくないものであって、今日において特にそうである。即ち今日では、強制的徴兵の手段によってすべての自由な、国民中の血気盛んな者の頸に鎖を結び、殺人の道具、死刑執行人、人間屠殺者となる事を強いる、そして彼等が徴収され訓練させられるただ一つの目的は、ただこれらの事をするためにあるのである。』
『二三人の支配者が会議室に集まる。議定書もなく、又公開する事もなく、従って責任に応ずることなしに協議する、そして大勢の者を殺戮するために送り出す。』
『人々の上に課せられる兵備の重荷に対する反抗は、我等の時代の前に始まった。』とイー・ジィ・モネタが言っている。『モンテスキューが彼の時代において書いたところのものに耳を傾けよ、「フランス(今日では我等はこれらをこの代わりにヨーロッパと言う事が出来る)は、自国の兵士達によって滅亡するであろう。新しい病気はヨーロッパに拡まっている、それは国王を襲い、彼等をして大多数の兵を保持する事を予儀なくせしめた。この病気は、爆発性のものであって、従って伝染性のものである、故に一国がその隊を拡張するや否や、他のすべての国も直ちに同じ事をする。この結果は、一般的なる破滅に他ならない。」
『各政府は、その国民が破滅をもって脅かされる時に必要なだけの軍隊を維持している、そして人々は、この各自と他とすべてとの間の緊張の狀態をもって平和と呼んでいる。故にヨーロッパは、もしも各私人が我等大陸の諸政府と同じ狀態にあるとするならば、それらのうちの最も富める者は生きて行くべき手段を失うであろうと全く同じような程度で、破滅させられている。我等は、世界の富とその通商とを手中にしているにも拘らず、貧窮している。』
『これは1500年以前に書かれたものである。それは現在を描いた絵のような観がある。がただ一つの事――政府の形が変わった。モンテスキューの時代においては、人々は大軍隊の原因をなすものは自らの私有財産を増やし、征服による栄誉を得んとする希望の下に、戦を起すところの国王の専制的な威力であると考えていた。』
『その時代にあって人々は考えた、「もしも国民が、ただ、金銭と軍隊とを政府に対して拒絶する権利を有する様な人々を、選び出すことが出来たとするならば、それだけでも、既に軍国主義は終わりを告げるであろう」と。今やほとんど全ヨーロッパを通じて代議政府と言うものがある、しかもそれにも拘らず軍事費と戦争準備とは恐ろしき割合をもって増大している。』
『国王の愚行は支配者の階級に推移して行った。今や人々は、最早や一国の王が他国の主妃に対して礼儀を欠いたと言う理由の下に戦いはしない――ルイ十四世の時のように――しかし彼等は愛国心と国民の自尊心との自然にして尊重すべき感情を誇張する、彼等は一国民の他国民に対する与論を刺衡して一国の統率者が、かつて知られた最も恐るべき残虐なる戦争に点火せんがために他国の公使を受任する事を拒絶したと、(たとえその報告が正しいものでなくても)言いさえすればいい様にまでする現在においては、ヨーロッパはナポレオン戦争の時代よりもより多くの兵士を武装せしめている。すべての人民は、極少数者を除いて皆、ある一定の年月を兵営において送る事を強いられている。人々は堡壘、造兵廠、及び艦船を築造する、彼等は絶えず火砲を発明する、そして短時日のうちに新しいものがその代りをなして行く、何故なれば科学は、人類の幸福に対して尽くすべき代りに、破壊的事業に寄与し絶えず最少時間に最大多数の人間を殺す新しい方法を発明しているから。すべてこれらの軍隊を維持し、すべてこれらの殺人の準備をする為めには数百千万の金が民衆を教育し、最も重要なる公共的事業を遂行し、もって社会問題の平安なる解決の可能を得せしめるに足る金額が費やされている。』
『すべて我等の科学上の勝利にも拘わらず、ヨーロッパはこの点において尚、野蛮的な中世期の極悪の時代に占めていたと同じ狀態を持続している。各人はこの戦争でもなく又平和でもない狀態に不平を洩らしている、そしてその狀態から解放されんことを欲している。政府の首脳者たちは、自らが平和を欲している事を公言する、そして誰がそれを最も厳粛に公言するかと言う事について、互いに競争し合っている、しかしそれと同日またはその翌日の議会において、彼等は軍備及び軍隊を増大すべき事を提言する、そして彼等がかかる予防をするのは、平和の保全のためであるといつわる。』
『しかしそれは我等の愛する平和ではない、そして国民はそれによって欺かれはしない。真の平和はその根底に、相互の信頼を持っているものである、それに反してこの巨大なる軍備は、隠されたる敵意でなければ、諸国間の露わな極度の不信用を証明している。我等は、彼の隣人に対して友情を示そうと欲しながら、片手に装填された拳銃を持って、ある問題を共に論ずる事を誘うところの人間をどう考えるか?』
『この政府の平和の宣言と軍国主義との間の極端なる矛盾こそは、すべて善良なる人民の、全力を賭して消滅せしめんと欲しているところのものである。』
人は、年に六万の自殺者が、ヨーロッパにおいてロシアとトルコとを除く――報告され記録されているのを聞いて驚くであろう。しかし不思議な事はそこにはそんなに多くの自殺者があると言う事ではない、むしろそんなに少ないと言う事である。』
自身の生活と意識との間の矛盾に気付くところの我等の時代の人々は誰しも、最もひどい絶望的な狀態に陥ってしまう。我等の現生存を囲続しているところの生活と意識との間の他の一切の矛盾は暫く措いて論ぜぬとしても、ただ一つの、ヨーロッパの軍隊制度とその信奉するキリスト教との間の矛盾だけで、人をして絶望に陥らしめ、彼をして人間本来の合理的なるか否かを疑わしめ、且つこの凶悪な狂った世界においてその生命を捨てさせるには充分である。軍隊の矛盾は、他のすべての矛盾の精髄を含んでいる、そしてそれは非常に恐るべきものであるが故に、それに関与した生活を送る事は、それについて考えない許りでなく、それを無視する限りにおいてのみ可能である。
何事ぞ! 我等はすべてキリスト教徒である、我等は人々の間の愛を信奉している許りでなく、実際我等は共通の生活をしている。我等の生命は鼓動を一にしている、我等は助け合っている、相談し合っている、愛の絆は、我等互をより一層近くへと近寄らしめて、相互の幸福を作り出している、そしてこの親和こそ、人生に意義を与えるところのただ一つのものである、然るにも拘わらず何日かある国の狂的な統治者が、ある無意義な誤ちをするであろう、すると他はそれに尚一層無意義なる事をもって答える、そして私は行って私の生命を危険に曝(さら)し、私を害しなかった者許りでなく私が愛している者をも殺さなければならない。これは遠い未来にあり得る事ではない、確かな又必然的な、我等すべてが自らそのための準備をしているところのその出来事である。
すべてこの事を明らかに知る事は、人をして狂気または自殺に赴かしめるに充分である。それは又実際ある事であって、特にしばしば兵士の間に行われている。刹那的な思慮が人をして、かかる最後の必要な事を確信せしめるのに違いない。この事のみが独り、我等の時代の人々が酒、煙草、阿片、歌留多、新聞、旅行、娯楽、博覧会等で自分を麻酔しようと試みるところのその烈しい熱望を説明している。人々はすべてこれらの事にあたかも真面目な重要な事であるかのようにして従事している。そしてそれらは実際非常に重要である。もしもこれら一切の外的な麻酔の手段がなかったならば、人数の半ばは直ちに自殺してしまうであろう、何故ならば理性に反する生活程堪え難いものはないからである。しかしこれは我等の時代のすべての人々の狀態である。彼等は生活と意識との間の甚だしい矛盾の只中にあって生きている。この矛盾は経済上にも又政治上の関係においても現われている。それは各人をして友愛を説くキリスト教の律法と一般的軍役との不両立において最も明らかである、それは各人をして常に憎悪と殺戮の準備をなさしめると同時に、キリスト教徒であり且つ剣闘士である事を強制するところのものである。
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