FC2ブログ

記事一覧

トルストイ「神の國は爾曹の衷にあり」第六章

『神の国は爾曹の衷にあり』
第六章 万国平和会議(151)
生活と意識との矛盾は、二つの方法で――生活を変えるか、あるいは意識を変える事によって、解決する事が出来る。この二つのいずれかを選ぶのに躊躇する必要がないように見える。
人は間違っていると考えるところのものを止める事は出来る、しかしそれが間違いであると思うのを止める事は出来ない。人類も又一般に、間違いであると考えるところのものを止める事は出来る、しかし悪であり従って存在すべきではないところのものに関する意識、そして一層明らかに、決定的な普通的なものとなって行くところのその意識を、暫くの間でも変更し又は抑止する事は出来得るものではない。人は、生活の変更か意識の変更かのいずれかを選ぶ事は全く明白な、疑う予地のない筈のものにあると考えるであろう。人は、我等の時代のキリスト教的人道に取って、又それの非とするところの異教的な生活様式を捨てる、それの是とするところのキリスト教の教義の上に新生活を築く事は、当然の事であると考えるであろう。
そしてその事は、もしも無生物に於けると同様個人並びに国民の生活においても不変な法則、惰性の法則が無いのならば、あり得る事であろう、その法則は、『人その行の悪(あしき)に因て光を愛せず反って暗(くらき)を愛せり』と言う言葉で、福音書の中で非常に正確に定められてあるところの心理学的な原則によって言い現されている。その原則はこう言う事、即ち多くの人々は、――真理を獲(え)んが為めにではなく――既に真理を獲得したと言う事を確信したいが為めに、自分の送り、楽しみ、且つ習わしているその生活を振り返って、間違いなく真理に叶った生活であると考えると言う事に存して居る。
奴隷制度は、プラトン及びアリストテレスによって説かれたすべての倫理学の原理とは相反するものであった。しかし両者は共にその事を容認しなかった。何故なれば、奴隷制度の全廃は、彼等の生存の全組立を破壊したから。同じ事は又今日我等の世界においても起っている。
人々を二つの階級に区分する事と、政治並びに軍国主義の横暴とは、すべて我等の世界において信奉されている倫理的原理に違反するものである、しかも多くの進歩した今日の教育ある人々は、その事を知っていないようである。
多くの教養ある人々は、全部ではないがほとんどすべてが、無意識的に、彼等の立場を弁護するところの古い社会的人生観を維持して、その古い人生観と我等の現在の生活の全構造を破壊してしまうところのキリスト教的人生観の要求との不両立を、自ら及び他人に隠そうと努めている。彼等は社会的人生観の上に築かれている組織を維持しようと努める、しかし彼等は自らそれを信ずる事が出来ない、何故なればそれは時代遅れのもので、もはや信じ難いものであるから。
すべての現代の文学――哲学的、政治的、及び芸術的の――は、この点に関しては異常なる例外である。何と言う豊富な思想、様式、色彩、何と言う博学と芸術的な美しさであろうか、しかし何と言う重要なる点の全くの欠除であろう、一定の思想及びそれを正確に現す事についての何と言うおそれ方であろうか! 曖昧なる言い表し方、不明瞭な言、奇警、曖昧なそして全然抽象的な論法、しかし単純な、明瞭な、乃至は直接的なただ一つの重要なる問題――生活の問題に関する何物もない。彼等はただに可成り軽薄な事を書き又は話すばかりでない、彼等は醜悪な破廉恥な事について書き又は話している、そして最も精錬した言い回し方で論議をする、それは人をして原始的な野蛮時代、異教的な原則でさえもなく、我等が既に五十年以前に住んでしまったところの、動物的な原則の上に築かれた生活に投げ戻すものである。
すべてがこれに似通ったものである。ある人には単に習慣となり、又他の者には習慣となると共に有利なものとなっているところの組織を破壊するからと言って、キリスト教の人生観を斥(しりぞ)ける人々は、異教的人生観とその上に築かれている教義とに後戻りせざるを得ない。愛国主義、貴族主義、及び最も浅薄なる快楽主義と肉欲主義は二十年以前について教わったと同じように教えられている、しかしただ一つ異なるところは、それらの時代においては、人々はその教えるところのものを信じていたが、今日では教える人自らが、自身の言葉を信じる事が出来ない、また彼等の教義は無意義であるが故に、信じる事が出来ない。もしも我等が進まないならば退かねばならない。最も進歩した且つ教養ある我等の時代の人々が、彼等の微妙なる論議によって、社会を異教徒の狀態ばかりでなく、原始的な野蛮人の狀態に導いているのは、不思議にも又恐ろしい事である。
如何なる場所においても、社会的人生観の完全なる矛盾を純粋な形で現すところの現象――戦争、一般的な軍備及び徴兵――に対する態度程に、我等の時代の進歩した思想家の活動のかかる傾向を、明らかに示すものはない。これらの事実に対して取られた我等の時代の教養ある人々の立場――悪い信仰は言うまでもなく――の不明瞭な事は、驚くべきである。それは三つの項目に数え上げる事が出来る、ある者は戦争を、ヨーロッパの特殊な政治の狀態に由来する偶然的な出来事があるとしている、そして我等の生活の全組織を変更する事なくして、外的な外交上の、又は国際的な手段によって除き得るものであると考えている。他はそれを病気か死のように、恐ろしい残酷な、しかし宿命的な避け難い災難であると見ている。第三の者は、それを静かに冷ややかに、必要な有益な、従って喜ばしき出来事であるとしている。
人々は各異なった意見を、戦争に関して持っている、しかし例外なしに、彼等はすべてそれを、それに参加する者の意志には全然無関係な事実であると考えている、彼等は、偏見のない人々に当然起こって来る、『自分はそれに参加しなければならないか?』という疑問すら許さない。彼等の意見のうちには、この程の疑問は存在しない、そして各人は、その戦争についての個人的な意見は如何であろうとも、これに関する権威者の要求に、奴隷のごとくに服従する事を予儀なくされている。
外交的及び国際的手段によって戦争を免れようとする、第一の者の態度は、ロンドンにおける最近の平和会議の結果のうちに、及び戦争に関する有名なる著述家の論文と手紙のうち(『評論の評論(レビューオブレビュー)』1891年第8号)に完全に決定されている。
会議の決議は次の通りである。――
地球上のあらゆる方面から、口頭に依り又は書きものによって、学者の意見を集めた後、会議は大寺院に於けるTe Delumをもって始められ、五日間に亘って多数の牧師の説が聴取された、そして次の如き決議がなされた位、晩餐と多くの演説をもって閉会された。
一、本会議は、同一性に基く各国民間の情誼、即ち一切の国の利害関係の一致は、各個人間の情誼の直接にして又必然的なる結果である事を確言す。
二、本会議は、人類の倫理的及び政治的進歩に及ぼすキリスト教の影響の大なるを認む、故に平和と善意に関する戒律の普及の必要なる事について、福音書の宣教師及びその他の宗教的教育に従事する者の注意を喚起す。本会議はこの目的の為めに、毎年十二月の第三日曜をもってそれに当てられん事を勧告す、而してその日には、平和の條項に関して最も熱心に攻究さるべきものとす。
三、本会議は、すべての歴史の教師達が、かつて戦争が人類の上に残したる恐るべき災禍と、多くの場合戦争は最も無意義なる原因に依りて惹起されたる事実とに青年の注意を喚起せしむべき事を希望す。
四、本会議は、諸学校が体育として軍隊教練を採用する事を禁じ、現在の軍隊的団体に代うるに生命救護の団体をもってする事を提言す。又本会議は、試験問題を制定する試験委員会に、青年の心を平和の原則に向けしめる必要を知らしめん事を欲す。
五、本会議は、人間の権利に関する教義は、薄弱なる諸蛮族及びその財産と独立とが、不正と掠奪とより保護さるべき事及び彼等がいわゆる文明諸国の甚だ広く彌漫(びまん)せる悪徳より防禦さるべき事を要求するものなる事を宣言す。本会議は各国民が、この目的の爲に協力すべき事を主張す。又同じく阿弗利加蛮人の生活を改善するためにブルツセルにおいて開かれたる奴隷制反対協議会の決議に、心より同意を表す。
六、本会議は、多くの諸国民に深く根ざされたる軍事上の偏見と慣習、並びに、議会において演説され、後出版物によって流布されるある与論の指導者たちの好戦的なる言は――しばしば戦争の間接的原因をなすものなる事を信ず。故に本会議は国家的関係に関する報告書の発行されん事を希望す。而してこの目的の為めに、これらの要求を満たすべき国際新聞の創始を勧告す。
七、本会議は、委員会員に度量衡、貨幣、郵便及び電信の料金を統一せんとするすべての企画、並びに諸国民の通商、産業及び科学的な方面に於ける実際的連盟に資するすべての企画に、出来得る限り賛助すべき事を勧告す。
八、本会議は、婦人の道徳的並びに社会的勢力の大なるに見る所あり、もって平和を維持する為めの一切の事業に助力せられん事を彼等に勧告す、然らざれば彼等は、現在の軍国的なる制度の継続に対して、大部分の責任を負わざるべからず。
九、本会議は、財政改正及び欧米のこれに類する諸国体が、輸入税の撤廃に依りて諸国民に公平なる通商関係を定むる方法を攻究する目的の為めに、連合せん事を希望す。本会議はすべての文明諸国民は平和を求め一般的なる軍備撤廃の時を熟望しつつある事を信ず。表面上防衛の為めにあるところの現在の軍備は、相互間の不信用を招来し何よりも先に問題とさるべき労働及び貧窮の問題を防ぐるところの一般的なる経済上の混乱を惹起して、それ自ら害悪を構成しつつあり。
十、本会議は、一般的軍備の撤廃は、平和の最も確実なる保証にして、且つ目下各国家をして分離せしめつつある諸問題の満足なる解決を見るべき第一歩なる事を公言す、而して本会議は、全ヨーロッパ諸国の代表者の会合が直ちに開かれ、もって漸次に一般的なる軍備撤廃を結果する最上の手段を講究されん事を希望す。
十一、本会議は、何れか一か国の躊躇が、前期の会合の招集を妨げるならん事を思いて、その軍備の大部分を先んじて撤廃せんと決議するその最初の政府は、ヨーロッパ並びに同人種に至上の恩恵を施すものなる事を主張す。かくする事によってそれは他の国も――与論の監督に依りて――この方法に倣わしむるに至るべし、かくて疑いもなくこの行爲は、国民の防衛の自然的狀態を減少せしめはせずに、反って多大に増加せしむるものたるべし。
十二、軍備撤廃と一般的平和の問題は、一般の与論に負う所大なるに鑑み、本会議はすべての平和協会及び平和主張者に、盛んなる伝道を、特に国会議員選挙の期間、平和の確立、軍備の撤廃並びに国際仲裁をその政権の中に含むところの候補者を選出せん事を、投票者に向って伝道せん事を勧告す。
十三、本会議はアメリカ国際会議(四月ワシントンにおいて開かれたる)によってなされたる議決に際し、平和の翼賛者に祝意を表す、その決議においては、その中の何れか一国の独立を危うくするものを除いての他の一切の論争と紛議を解決する為めの、義務的仲裁裁判所の得策なる事が認められたり。
十四、本会議は、全欧米の政治家の注意をこの決議に向けしめん事を欲す、而してこれに類する条項が、他の国民によっても速やかに、将来の不同意を避け且つ他国をしてこの例に倣わしめんが為めに調印されん事を希望す。
十五、本会議は、スペインの議会(7月16日)が、一国の独立と内政とに関するものを除いての一切の論争を解決する仲裁裁判所の起草した条的の確実さに就き、商議すべき権能を政府に付与する法律を議決したる事に満足の意を表す。又同じく本会議は、ノルウエー国会及びイタリアの議会においても、同様の決議を見たる事を喜ぶ。
十六、本会議は、主要なる宗教上、政治上、及び経済上の国体並びに労働組合に訴え、もって彼等に戦争を避ける必要上国際的紛議の調停の任に当たるべき特殊なる委員会を制定するに必要なる手段を取らん事を、政府に向って勧告すべく要求せん事を議決す。
十七、すべての平和会議の目的は、第一に、各国民間に司法制度を確立せんとするにある事、及び第二に国際条約に依る中立約定は、即ちその司法制度及びその間において戦争の起るべき可能をもてる国家の数の減少に向かう第一歩なる事を考慮して、本会議あるいは中立約定の範囲を拡張せん事を提言し、且つ次のごとく希望す、(イ)現存する中立條約は以降も努力を有すべき事、あるいは中立条約を全部の国家に説き及ばんが為めに、又は中立約定の保証たるよりもむしろそれに対して危険なる堡壘を破壊するために、必要に応じて修正さるべき事、(ロ)他国の中立を確立するために、更らに新たなる条約が、一般多数の意志に応じて起草さるべき事。
十八、委員会は次のごとく提言す。
(一)第一平和会議の今後の招集は、各年毎に開かれる国際会議の前後何れかについて、且つそれと同じ都市において選定される事、第二、国際的平和標章の問題は、無限延期の事、第三、以下の採決、即ち本会議は、戦争の為めの国際的仲裁裁判所の制定に役立つべき手段を議するために、キリスト教を信仰する一切の宗教団体の最高代表者に、結合すべき事を述べたる合衆国プレスピアン教会の進言に対して感謝の意を表する事。
(二)本会議はイタリアの有名なる法律学者にして国際平等自由協会の一員たるオウレリオ・サフィ氏に対し、深き敬意を表すべき事。
(三)本会議の報告書は総裁の調印を得べき事、及び可成く速やかに権威ある代理者によって各文明諸国の主権者に呈せらるべき事。
(四)組織委員会は、必要に応じて書類並びに議決分に修正を加わえる機能を与えらるべき事。
(五)次の決議事項は採用せらるべき事、(イ)本会議の各委員会長に謝意を表す事、(ロ)各委員会の各員に謝意を表す事、(ハ)本会議の議長、秘書、及び各役員に謝意を表す事、(二)本会議の開会に際する演説と、出版の為めに演説草稿を提供された事とに関し、キャノン・スコット・ホランド氏、ルアン、トーマスの両博士、及びジェー・モルガン・ギボンス氏に対して謝意を表する事、又同じく公共的なる目的のためにその建築物の使用を許したる寺院、セント・ポール教会及びスタムホード・ホール・コングレゲーショナル教会の司宰者に対して謝意を表する事、(ホ)女王陛下に対し、ウインドソア城参観の許可を得たる事の謝恩狀を起草する事、(ヘ)市長、市長婦人、バツスモア・エドワーズ氏及びその他本会議員に対し便宜を与えられたる諸氏に対して謝意を呈する事。
十九、本会議は、その事業を首尾よく終了し得たる事と、相異なれる多くの国民性と信条とを有する男女が互いに協力し合って、開会中まれに見る和合を得たる事とに対し、深く主に感謝す。
本会議は、平和の最後の勝利に関し、本会議において主張されたる主義に関し、確固たる信念を有するものなり。
*     *     *     *     *     *
同会議の根本的観念は、まず第一、戦争は人類にとって危険なものであり平和は大なる幸福であるという確信を、あらゆる手段をもって人々の間に説き広める事と、及び第二に、軍備撤廃の有利とその必要並びに戦争に代うるに国際裁判をもってする事の有利を、政府に知らしめる事とを必要とするにある。
第一の目的を遂行するために、同会議は、歴史の教授、婦人及び福音書の伝道者たちに訴えて、戦争の害悪と平和の福祉とを、毎年十二月の第三日曜日において人々に教える事を進めている、第二の目的を達する為めには、同会議自らが政府に建白して、軍備撤廃と戦争に代る仲裁裁判所の設立とを進言している。
戦争の害悪と平和の福祉とを教える事。しかしその両者はいずれもよく人々に知られていて、人類の歴史が始まって以来、誠意ある挨拶の言葉は常に――『平和が汝と共にあらん事を』と言うのであった。然らば、これを教える必要とは何であるか? キリスト教徒許りでなく、すべて異教徒もまた数千年以前において、戦争の害悪と平和の福祉とを知って居た、故に福音書の伝道者たちに、十二月の各第三日曜日に戦争の害悪と平和の福祉とを教える事を勧告する事は、全く無意義な仕事である。キリスト教徒たる者は、この事をまた常に一生の間毎日声言せざるを得ないものである。もしもキリスト教徒又はキリスト教牧師にしてそう言う事をしないとするならば、そこには何かの原因があるに相違ない。そしてこの原因が他に移されない限り、勧告も何の用をもなす事が出来ない。その軍備の撤廃と国際仲裁裁判所の設立とに関する政府に対する勧告も、矢張り尚それ以上に効果ないものである。政府は十分軍隊の徴募とそれの維持の困難と苦痛とを知っている、しかもそれにも拘らず、必死の努力と困難とをもって軍隊を徴集し、それを支持しているところを見ると、明らかに彼等はそれ以外の事をする事が出来ないのである。そして同会議の勧告はこの事情を少しも変える事が出来ない。しかし学問ある人々はこの事を了解しようとは欲しない、そして矢張り尚、戦争を起こすべきその政府が自らを抑制するに至る何かの施設を発見しようと望んでいる。
『戦争よりの開放は可能であるか?』と一学者が『評論の評論(レビューオブレビュー)』に書いている。『もしも戦争がヨーロッパにおいて開かれるならば、その結果はかの諸蛮族の大侵入と同じものであろうと、すべての者の意見は一致している。即ちそれは全諸国民の生存の問題となるであろう。故に将来の戦争は醒惨たる死物狂いの恐ろしきものであるに相違ない。かかる考慮と近代の科学によって発明された恐るべき破壊の武器とは、宣戦布告の時を延期せしめ、且つ目下の組織を維持している、そしてその組織はヨーロッパ諸国民を破滅するところの莫大なる費用を要しないならば何時までも続けられ、戦争が惹起するのと同じ位の災禍をもって彼等を脅かすところのものである。
『かく考えて、慄然として、各国の国民はすべて皆、彼等を脅かすところの恐るべき虐殺の結果を抑止しあるいは少なくともそれを軽減すべき方法を求めて来ている。
『これが将来開かるべきローマに於ける平和会議において付議せらるべき問題である、そしてそれは軍備撤廃に関する種々なる論文において論ぜられつつあるところのものである。』
『不幸にして、互が孤立し相衝突し合う利益によって導かれている多くのヨーロッパ諸国の現在の組織をもってしては、疑いも無く、戦争の絶対的消滅の希望を抱く事は愚かな事である。されど尚、これらの国際的決闘に関する法律と規約とをすべての国家が採用する事は、戦争の災禍を無限に縮小するであろう。軍備撤廃に望みを置くところのものは又等しくユートピアンである、その撤廃は我等のすべての読者が知っているように、国民性の尊重によってほとんど不可能な事である(『これは多分フランスはその復讐を果たすまでは軍備を解かないと言う事を意味しているのであろう』)。与論はその同じ企てを容認するまでには熟して居ない、又諸国民間の関係もそれの採用を許すがごとき狀態には居ない。一国の他国に対する軍備撤廃の要求は宣戦の布告にも等しいものであろう。』
『されど尚我等は、それに興味ある国民間の意見の交換は、ある程度まで国際的理解を招来し、出来得る限りの軍事費の縮小に寄与するであろうと考える。その軍事費は現在においてはヨーロッパ諸国民を破滅し社会的な諸問題の解決を阻害しているものである。そしてそれに対する必要は、外的な戦争を防ごうとする努力によって国際的戦争に火を点ずるに至るであろうと言うおそれからして、諸国民の各々に分って来た。』
『我等は少なくとも、二十四時間内に敵の領土を奪い、又は宣戦布告の後一週間以内に決定的な戦闘を交える目的の為めに維持されて居るところの、現在の軍事的組織が必要とする莫大な経費の削減を望む事は出来る。』
我等は国家をして互に戦う事を止めしめ、又は二十四時間内にお互いの領土を占領する事を止めしめなければならない! この実際的な希望は、マキシム・ド・カンプによって提言された、そしてその論文の結論はそれと同じ考えを示している。
マキシム・ド・カンプの提言は次の通りである。――
『一、 各年毎に、外交会議が開かるべき事。』
『二、 戦争は事件勃発以降二ヶ月後に宣戦さるべき事。困難は、いずれの特別なる事件が戦争の誘因となったかと言う事を決定するところにある。何故ならば宣戦の布告はいずれも、非常に多くの事件によって惹き起こされるものであるが故に、そして又それらの事件のいずれから二ヶ月を換算すべきかを知る事が必要である。』
『三、 如何なる戦争も、その交戦国の両国民の投票の結果に従わずしては宣戦する事能わず。』
『四、 軍事行動は宣戦布告後一ヶ月以内において採る事能わず。』
『戦争は宣告さるべからず。……人民がかくかくの事をすべきなり云々……』
誰が人民の宣戦布告を止めさせるのであろうか? 誰が人民にかくかくの事をせよと強いるのであろうか? 誰が政府をして、ある一定の期間を待たしめるのであろうか? 他の国民がある! しかし他のすべての国民もまた、統御し、検束し且つ制限内に止まらしめられねばならぬところの政府によって成り立っている。誰がこれを成すのであるか? 与論であるか? しかしもしも与論が政府をして一定の時日の間待たしめるに足るだけに力強いものであるならば、それは又政府が戦争をする事を全然中止せしめる位に、力強いものでもある筈である。
然るにも拘わらず尚人々は、政府をして自らを抑制せしめるが如き左様な勢力の権衡を制定する事は可能であると言うかも知れぬ。しかしその努力はなされている、それは単に神聖同盟又は平和同盟等の如きものに過ぎない。
しかしもしすべての者が同意するならばどうか? もしすべての者が同意するならば、最早や戦争もなく国際裁判所も仲裁もその必要はないであろう。
『裁判所と仲裁とが戦争に代るであろう。すべての問題はアラバマの論争のように、国際裁判所によって解決されるであろう。カロリン島の問題は、また法王の仲裁によって解決されている。スイス、ベルギー、オランダ、デンマークは戦争よりも仲裁を望む事を宣した。』私はメキシコも同じまた希望を述べたように思っている。ドイツや、ロシア、オーストリア、フランスが、いまだにそれをなそうとしないのは、何という残念な事であろう!
人は自らを欺かんと欲する時、いかにも容易くそうする事が出来るのは実に不思議な位である。
諸政府は彼等の論争を仲裁裁判所を通して解決するであろう、従って又その軍隊を撤廃するであろう。ロシアとポーランド、イギリスとアイルランド、オーストリアとチェック族、トルコとスラブ民族との間の不調和は皆、相互間の同意によって解決されるであろう。
それは商人や銀行家に向い、実費よりも高く物を売らず、利益なしに物品の配布に専念し、その結果として無用なるべき通貨の発行を禁止するようにと提言するのと同じ事である。
しかし商業及び銀行営業の目的は、専ら買値よりも高く売ると言う事にある、故に実費で売り通貨を撤廃せよと言う勧告は、自滅を勧告するに等しい。政府においても又これと同様である。暴力を使用する事なくして一切の異論を裁判所に従って解決せよと勧告する事は、いわば各政府に取っての自滅の勧告である、故に一国の政府とても、それに同意する事は出来ない。
学者たちは協会を組織する(百以上の数に達している)、会議を開く(既にロンドン、パリにおいてあったような、また近くローマにおいて開かれるであろう様な)、意見書を読み、演説をし、会食し、その論題にのみ捧げたる刊行物を発行する、そして数百万の軍隊を維持する為めに国民の上に加えられる桎梏は堪え難いと言う事、即ちそれらの軍備は全民衆の目的、希望並びにその性質に違反すると言う事、及びそれに関して多くの紙を汚し多くの演説をする事によって、すべての国民を和合せしめ、相抵触し合う利益を調停する事に成功し、従って既早や戦争はなくなるであろうと言う事を証明しようと試みている。
私が子供であった時、鳥を捕らえるためにはその尾の上に塩を載せねばならぬと言う事を教えられた。私は塩を得た、そして鳥の後を追った、しかし私は、もしも鳥の尾の上に塩を載せられる位ならば、又私はその鳥を捕らえる事も出来る筈であると言う事、そしてそのために人々は私を笑っている事を知った。
これは又、国際裁判所と国際仲裁とに関する新聞や書類を読む人々の同じく試みて、然る後理解すべき事柄である。
もしも私が鳥の尾の上に塩を載せることが出来るならば、それは鳥は飛び得ないと言う事を示すものであって、それを捕らえると言う事が問題ではない筈である。しかし鳥にして翼を持ちかつ捕らえられる事を欲しないならば、その尾に塩を載せられる事を許しはしないであろう、何故ならば、飛ぶ事は鳥の本性であるが故に。同様に服従しない事、だが命令しようとするのが、政府の性質である。統禦すると同時に統禦されない時においてのみ、政府の政府たる名に値するものがある、それ故に常に政府は権力を追求し、決して自ら進んでそれを抛棄する事をしない。然もその権力は軍隊によって賦される、故に政府はその軍隊を縮小したり、又は戦争の為めにそれを使用する事を止めはしない。
この問題は政治学者の説にある、自ら及び他人をも共に欺いている――即ちそれは同胞を圧迫する人々の団体である、が学問に依れば、政府とは全人民の代表者である。学者たちは既に長い間この事を人々に教えて来た、故に人々は遂にそれを自ら信ずる様になり、正義とは政府によって認められたる義務であろうと言うような事柄を真面目に想像するに至った。しかしシーザーよりナポレオン、ビスマルクに至るまでの歴史は、すべての政府の本質は正義を乱す力であって、それ以外の何ものにてもあり得ない事を証明している。軍隊――彼等によって欺かれ暴行の教練を受け、もって彼等の他を統禦する手段となる人々を指揮する任にある人間又は人々の団体によって正義は義務であるとされる事は、当然の事である故に政府は、動物のごとく訓致し教練し、もってその全権力と意義とを構成せしめているところのこれらの忠実なる奴僕の数を減少する事に同意する事が出来ないのである。
これが学者の、我等の世界の重荷をなすところの矛盾に対する態度であり、その解決の為めに提出する手段である。これらの人々に向って、問題はただ、現在において面接せざるを得ない道徳上及び宗教上の問題に対する一個人的な関係にあると言う事、軍務に服する事は正しい事であるか否かと言う事であると言う事を告げよ、彼等にこの事を告げよ、然る時学者たちはただ肩を聳(そびやか)して、汝の議論に耳を傾けあるいはそれに答えようともしないであろう。彼等の考えに依れば、問題は意見書を読み、書物を書き、議長副議長及び秘書を選挙し、会合を指定した一つの市から次の市へと演説する事によってのみ解決せらるべきものである。彼等は彼等の演説や書きものが、政府をしてその全権力の基礎をなすところの兵士を徴集する事を止め占めるに至る結果を持つと考えている、彼等は政府が彼等の言う所を聞いてその軍隊を解散し、近隣の国家に対してばかりでなく又その人民に対しても、無防禦に甘んずるに至るであろうと言う事を考えている、それはあたかも盗賊が、掠奪する為めに抵抗力なき俘虜を縛っておきながら、それによって起こされたる苦痛の叫びを聞くや否やその縄を解くのと同じようなものである。
世にはすべてこの事を信じ切っている人々がいる、彼等はその全活動を平和会議を催し、意見書を読み又は書物を書く事に献げている。勿論政府もそれに同情を表し、又それを全然擁護するかのような態度を取っている、それはあたかも禁酒組合を擁護する風をして、その実、人民の飲酒によって彼の生活の大部分を支えているように。又は、教育を奨励する風を見せていながら、人民の無学によってその全権力を支持しているように、又は、労働階級の幸福に考慮を費やしている風をしながら、その実彼等の存在の基礎を労働者の圧迫の上に立てているように、又は、自由の拒否の上にその権力が成り立っているにも拘わらず、社会の自由を擁護している風を見せ、あるいはキリスト教の教義はすべての政府を破壊するにも拘らず、キリスト教を保護する態度を取るのと全く同じ事である。
この事を愉快になし得んが為めに、政府は遥か以前に、飲酒を停止し得ないところの禁酒の奨励の方法や無学に逆らわない許りでなく反対にそれを持続せしめる教育普及の方法や、奴隷制度より彼等を開放しないところの労働階級の幸福の為めの手段や、専制主義に抵抗しないところの自由と憲法との維持の為めの方法や、権威を破壊せずにその反対にそれを支持するところのキリスト教援護の方法を発明した。
今や彼等は、更らに平和促進の方法を附け足したのである。政府や主権者たちは、その国務大臣等と共に歴遊する、そして彼等の意に応じて、数百万の屠殺を今年か又は来年かいずれにおいて行うべきかと言うような問題を決定する、そして彼等は充分よく平和に関する論説も、彼等が欲するままに数百万の人間を虐殺する為めに何時でも送る事を妨げない事を知っている。主権者たちはこの種の論説に耳を傾ける事を好むのみならず、それを奨励し、自らそれに参加する。
何故ならば、これは政府に取って有害でないばかりでなく、それが人々の注意を根本的な最も重要な問題、即ち各個人が軍務に徴集される時、兵士として彼の時を捧げるべきであるか否かと言う問題から外らしめる故をもって、むしろ甚だ有利なものであるからである。
『平和はやがて確立されるであろう、平和会議や諸論文や書籍、並びに定期刊行物に感謝する、しかしそれまでは行って汝の軍服を着けよ、そして進んで他を圧迫し我等の為めに自らを苦しめよ。』と、政府は言う。そして学問する平和会議の主催者たちや論説家達もまた、全くこれと同じ意見を持っている。
それが問題の一つの見方である――政府に取って最も有利なもの、従ってすべての明敏なる諸政府によって採用されているところのものである。
その今一つの見方は、更らに一層悲劇的なものである、そしてそれは、平和に対する熱愛及びその為めの努力と、戦争の必要との間の矛盾が、人類の恐るべきしかも避け難き運命であると言う事を断定する事にある。この説を有する人々は通常賢い感受性の鋭い人々である、彼等は戦争の恐怖、残酷及びその不合理を見、且つ解している。しかしある不可思議な気質によって、彼等は何かの逃れ道を求めようと願いもしなければ探しもしない、そしてただ彼等の傷口を苛立て、人類の絶望的な狀態を見ている事に興味を感じているらしい。
有名なるフランスの作家モウパッサンは、戦争に対するこの種の態度の立派なる実例を提供している。彼の快走船からフランス兵士の行進と銃の操練とを見て、次のような思想が彼の心に浮かんだ。――
『戦争! 私はほんのただ、この言葉を考えただけである、しかも私はあたかも妖術または宗教裁判について告げられたかのように遥か昔の嫌な、忌むべき、不自然な事について、話をされたかのように、恐れと混迷との感じをもって充たされる。』
『自分達が食人種の事を聞く時は、誇らしげな笑いを洩らして、野蛮人より優れていると言う感情で充たされるものである。しかし誰が野蛮人であるか、本当の野蛮であるか? 自分等の敵を食おうとして殺す者共であるか、あるいは殺人の快楽を楽しむために人を殺す者等であるか?』
『私は命令のままに走ったり射撃をしたりしている、彼方の平野の兵士達を見る、彼等はすべて屠殺者が道を追って行くところの羊の群れのように死ぬ運命を持っている。彼等はある何処かの遠い戦場で頭を切られ、又は心臓を弾丸で貫かれて倒れるのであろう。然も彼等はすべて若くまた強い、彼等は有益な仕事をする事が出来るのであろう。』
『かくも多年の間、ただ母たるもののみがなし得るような度合いで彼等を愛し且つ尊重したところの、彼等の老いたる父や憐れなる母は、六ヶ月または一ヶ年の後の、彼等の息子、非常な労苦と愛撫と、非常な費用とを費やして彼等が育て上げたその成人した息子が、弾丸によって引き裂かれ、あるいは彼に向って突撃して来た騎兵によって踏蹂られて殺され、死んだ犬のように泥溝の中に投げ込まれた事を知る。その時その母は訊ねるであろう、何故に彼等は自分の希望であり誇りであり、また生命でもあった美しい子供を殺したのであるか? 何人も答えることが出来ない。実に何故であるか?』
『戦争! 争闘! 虐殺! 人間の惨殺! そして今日、すべての我等の教育、科学、哲学と共に、特殊な建物が存在していて、そこでは殺す事を、遠方から、完全な武器をもって、一時に大多数の人間を殺す事を、悪事した事もなく又扶助すべき家族を持っているところの憐れな惨めな人々を殺す事を、彼等を法律上の口実もなくに殺す事を人々が教えられる。』
『一般民衆が政府に向って、(それが君主国であろうと共和国であろうと)武器を取って立たない事は即ち全社会が「戦争」と言う言葉の発せられても反乱を起こさないのは、まったく不可解な事である。』
『我等は永遠に、古い恐るべき慣習、罪悪的の迷信、我等祖先の血に渇いた観念に導かれるであろう。我等は畜生である。そして本能によってのみ導かれる畜生として残存するであろう。』
『ヴイクトル・ユウゴォ以外の何人も、道理と自由の名においてこの異論を申し立てる事が無理であった。』
『「権力は今や暴力と呼ばれている」と彼は言う、「そして人々はそれを非難している。彼等は戦争を裁判に附する。文明は人類の訴訟に応じて事件を処理する、そしてすべての征服者と軍隊の指導者とに責罰を加える。」』
『「人々は、罪悪の量が増大したからとて、それが小さくなり得ない事を、即ちもしも殺人が罪悪であるならば、多数者の殺人も又正しいものではないと言う事、もしも盗む事が恥ずべき事であるならば一国民の領土を簒奪する事も又名誉な事ではないと言う事を、了解し始めている。」』
『「我等をして疑うべからざる真理を揚言せしめよ、我等をして侮蔑をもって戦争を蔽わしめよ!」』
『しかし詩人の侮蔑と憤怒も無数である』とモウパッサンは続けている。『戦争は今や以前よりも一層多く賞賛され尊敬されている。この方面の熟練した大家、殺人の天才――フォン・モルトケは――かつて次のような恐るべき言葉を、平和会議の委員に向って述べた――戦争は神聖である、神によって設けられたものである、それは世界の神聖な法則の一つである、それは人々の中のすべての偉大な高尚な感情――名誉、自己犠牲、徳、勇気を支配する。戦争のみが独り人々の最も下劣なる物質主義に堕落する事を救うものである。』
『数万の群れをなして集まる事、夜昼休む間もなく、考えたり読書したり、あるいは研究する暇もなしに、何かの生物に少しも益する事もなしに、塵埃の中に転び廻り、泥濘の中に寝、白痴のような絶え間ない衷心狀態にあって動物に似た生活をしながら行進する事、都市を略奪し、村々を焼き、民衆を破壊せしめる事、他の人間の塊に遭遇し、それに向って突進して血の河を流し、挫かれ裂かれたる、埃と地に滲んだ土とで塗れた屍をもって戦場を蔽う事、御身の老いたる父母や妻子が、家にあって飢えて死にかかつているにも拘らず、誰かの人間に対して役目をする事なしに、頭脳を打ち砕かれ、あるいは腕や足を取られ、そして何処かの濠に陥った犬のように死んでしまう事――これが最劣等な物質主義に陥らないと称せられるところのものである!』
『我等は戦争を見た。我等は人々が今一度野獣に成り変わるのを見た。我等は彼等が狂乱した狂人のように、快楽のため、恐怖のため、見えのため、または誇りの為めに人を殺すのを見た。我等は彼等が法律と正義の束縛から解放されて、路頭の無垢の人々を、彼等の恐怖が疑惑の念を起さしたが故に、射殺するのを見た。我等は彼等が新しい短銃を試して見るために、主家の入り口に繋がれた犬を殺すのを見た。我等は牝牛等が戯れの発射の為めに射殺されて野に横たわるのを見た。これが、最劣等の物質主義に陥らないと称せられるところのものである!』
『国内に侵入する事、自らの家を守る人を、平服を着して軍服を着けないと言う理由で惨殺する事、飢えに死につつある貧家を焼く事、一家の財産を破壊したり却奪したりする事、他人の穴倉の酒を呑む事、街上の婦人を辱しめる事、数百万ポンドの粉を焼く事、そして困窮と破滅と疫病とを後に残す事――これが、最劣等の物質主義に陥らないと称するところのものである。』
『何を彼等、この軍人達がなしたか、何が彼等の偉功であるか? いかなる行いもそうではない。何を彼等は発明したか? 大砲と小銃。ただそれだけである。』
『ギリシャは何を我等に残したか? 書物と大理石像。彼の国は征服したが故に、または制作したが故に、偉大であるのか? ギリシャをして最劣等の物質主義に陥る事を阻止したところのものは、ペルシャの侵入であったか? 諸蛮族の侵入はローマを救い、復活せしめたであろうか? ナポレオン一世はその全世紀の哲学者たちによって始められた、偉大な知的運動を持続せしめたであろうか?』
『否。もしも政府が人民を死に送る権利を有すと敢えてするならば、人民もまた時々、政府を死に送る権利を有すと敢えてするのは、奇怪な事であろうか?』
『人々は自らを防禦する、そしてそれは正しい事である。何人もいえども他を統禦する権利を有しない。それはただ統禦せられる者の幸福が増大せられる時にのみ、許容されるものである。しかし統禦は義務として戦争を避けねばならない、それは丁度船長が難破を避けなければならぬと同じ事である。』
『船長がその船の難破に対して責任ある時は、審判に附される、そして不注意あるいは無能と言うような罪さえが発見された場合には懲罰される。』
『何故に政府は各戦争の宣戦後に、審判に附せられてはいけないのであるか? もしもただ国民だけでもこの事を了解するならば、彼等を屠殺に導く権威者を審判するならば、もしも彼等が必要ないのに屠殺せられる事を拒絶するならば、もしも武器を与える者に向ってそれを翻すならば――ただこの事が実際に起っただけででも、それは即ち戦争の終熄であるであろう。』
『しかしこの事は決してあり得ないであろう。』(「水の上」71~80頁)
著者は戦争のすべての恐怖を知っている、彼は戦争の原因は、政府によってされる欺瞞にあるとしている、それは人々をして少しの必要もなしに殺し、又は殺される事を強要する、彼は軍隊を組織するところの人々は容易に彼等の武器を政府に向って翻し、それに弁解を要求する事の出来るのを知っている。しかし著者は、この事は決して起こらないであろう、故に現在の狀態からは、如何なる逃げ路もないと考えている。彼は、戦争は恐るべきものであるように、又避け難いものである。即ち人々に兵士として服役する事を要求するところの政府の要求は、死のように避け難いものであると考えている、彼は、政府は永久にこの事を要求するであろう、故にその結果として、戦争の終末と言うものはあり得ないと考えている。
これが優れた真面目な、詩人としての天賦の中心をなす事物の真相への透察力を賦与されている作家の意見である。彼は我等の前に、人々の意識とその行爲との間の矛盾のすべての恐怖を披露する。しかし彼は如何なる解決をも提供しない、そしてこの矛盾は避け難いものであって、人生の詩的な悲劇を構成するものと認めているらしく思われる。
今一人の、それと同じ位優れた作家であるイー・ロッドは、我等の現狀態の恐怖と狂気とを、尚一層生気ある色彩で描写している、そして彼もまた同じく、悲劇的な方面のみを見て、何かの逃げ路については、何等の暗示も与えず又希望も持っていない。
『何かの事を為し、又は始める必要は何処に在るか?』と彼は言っている。
『次の日と言う日が絶え間なき一つの脅威であるところのこの暗黒時代において、人々を愛する事は可能であろうか? 我等の始めたすべてのもの、すべての我等の円熟した思想、すべての我等の希望と計画、我等がなし得る些細な善――すべてこれらのものは、募り来る嵐に破壊されはしないであろうか?』
『地球は我等の足の下で至る所で振動する、そして脅かすような雲は、我等の側を過ぎ去りはしないであろう。それは我等を戦慄せしめる革命の光景だけではない。私は我等の社会より以上に悪く組織された社会を想像する事が出来ない、故に、それに取って代わるべき新しい組織を恐れはしない。もしも私が個人的に変革の苦しみを受けねばならぬのならば、今日の死刑執行人は昨日の犠牲者であったと言う考えで自らを慰めていたい。私はより善きものに対する希望の下に、より悪しきものを堪え忍んで居よう。』
『否、私を恐れしめるところのものは、この遠く隔たった危険ではない、私は今一つの、極く手近の危険、正義の影を少しも有せず、又それより何等の善も結果する事がないが故に更らに一層残忍な危険を知っている。毎日毎日人々は戦争の機会を翌日にと積み重ねて行く。そして日一日とそれ等の機会は一層避け難いものとなって来る。』
『心持は、確かにこの世紀の幕を閉じるであろうところの、そして我等の時代の帰着駅とその絶頂点とを形成するであろうところの大団円の可能を信じる事を拒む、しかも我等は漸次そう考えざるを得ない様になって来ている。二十年間科学はその全力を、破壊的な武器の発明に捧げて来た、そして間もなく数個の大砲の発射が、充分一軍隊を破滅せしむるに足るようになるであろう。以前の時代においては、その血は金によって購われた数千の憐れな傭兵が、殺戮のために武装させられた、今では全国民が一人残らず武装させられる、そしてついに殲滅し合おうと待ち構えている。これらの人々は先ず第一、後になってもっと確実にその生命を奪われんために、兵役によって生活の時を奪われる。彼等をして殺戮に準備せしめんがために、彼等の嫉(しつ)意(い)は、彼等が嫌悪されていると言う確認によって点火させられる。かくして優しく温和な人々がその係蹄に掛ってしまう、そして間もなく温和な各人民の群衆が野獣のごとき凶暴さで、ある馬鹿者の命に応じてついに突進し合う、そして神はその何のためであるかを知っている、ある何かの詰らぬ国境の争いか、あるいは植民地の通商上の利害関係かである。』
『そして人々は何処へまたは何の為めにと言う事を知らずして、ただ自分らの妻子を饑餓のうちに見捨てたと言う事だけを知って、羊のように殺戮へと進んで行くであろう、彼等は恐怖の中を、しかし彼等の耳に鳴り渡る調子のいい言葉に酔わされて、進んで行くであろう。彼は反抗する事なく、素直に、従順に、彼等が一勢力であると言う事を、即ちもしも彼等が欲するならば、もしも彼等がある何かの相互間の一致を見るならば、そしてもしも乱暴なる外交家の詭計の代りに、いかにして理性と友愛とを確立すべきかを知るならば、権力は彼等の手中にあるであろうと言う事を知らずして、進んで行くであろう。彼等は人間の虐殺と傷害とを義務と考え、その残虐な意向を祝福するようにと神に祈るに至る位にまで欺かれ惑わされるであろう。彼等は歓喜と勝利の叫び声をもって、彼等自らの植えた田を踏み躙るであろう、陽気な音楽に伴れて、彼等は彼等自らの立てた町々を焼き払うであろう、そして子息等は、最も巧みに彼等の父を殺したところの者共に、記念碑を立てるであろう。』
『全時代の運命はある悪しき政治家が身振りをして、それに応じて各国民がお互いに突進し合うその瞬間に繋がっている。』
『我等すべては、我等のうちの最も善良なものが切り殺されると言う事、我らの仕事が忽ちのうちに破壊させられると言う事を知っている。』
『我等はこの事を知る、故に我等は怒りに戦慄する、しかし我等は何事をもする事が出来ない。我等は官僚政治と空文との網に掛かつている、そして我等はそこから逃れる事が出来ない。』
『我等は、我等が自らの保護の為めに作った法律の権力の下にいる、しかもそれは我等を圧迫している。』
『我等は最早や人間ではなくなってしまった――我等は物品である、我等が政府と呼ぶある仮想的な何者かに属する財産である、それは我等各人を、全体の名において奴隷とした、その全体のものは一人一人を取って見ると、彼がすべて強制されているものとは正反対のものを要求している。』
『すべてこの事は、もしそれが単に一時代にのみ関係するものならば、左程悪い事ではないかもしれない。しかし問題はもっとそれ以上に重大なものである。すべての金を貰っている弁士、すべての名声を欲してする扇動家共は、民衆の悪しき熱情を利用し、すべての単純な人々はその調子のいい言葉に欺かれて、共に明日の戦争は国民の運命を決するに至る位にまで、国民間の敵意を増大して来た。敗亡した親族は滅亡するであろう、そして新しいヨーロッパは、かくも残忍な、野蛮的な、そしてかくも罪悪に汚された主義の上に、確立されるであろう、故にそれは必然的に現在よりも一層悪い―― 一層邪気な、一層野蛮的な、一層忌まわしいものであるに違いない。』
『恐ろしい絶望が、我等の上に蔽い掛っている。我等は当てどなく彼方此方と暗黒の路をあらゆる方面から銃口を向けられて駆け回っている。我等は沈み行く船の上の水夫のように働いている。我等の快楽は死刑の宣告を受けた人が、その刑の執行に先立つ十五分前に、彼の賞味する食事を選ぶ事を許されたその快楽である。恐怖は我等の思想を麻痺せしめる、そして我等の知力の最高の働きは、国務大臣の演説、国王の言葉、及び新聞紙の各行を満たすところの外交家達の曖昧な言辞を調査して、何時でもこの事が起こるか、我らすべてが殺されるのは、今年であるか、あるいは来年であるかを考量する事である。』
『私は歴史を通じて、これより以上に掛念と不安とに満たされた時代を、発見する事は不可能であろうと考える。』(イー・ロオド「戦争論」)
著者は権力は、自ら進んで自滅するところの人々の手中に、群衆を構成するところの各個人の手中にある事を示している、悪の根元は政府にある事を示している。人は、生活と意識との間の矛盾がその究極限度にまで達して、それ以上に進む事が出来ず、又その解決は手近にあるに違いないと考えるであろう。
しかし著者はそうは考えない。一切のこの事の中に、彼は人間生活の悲劇を見る、そして一切の現狀の恐るべき事を示した後、彼は、人間生活は永遠にこの恐怖のうちに過ごされねばならぬと言う結論に達している。
これが、戦争は宿命的な又悲劇的な必要物であるとする人々によって、採られる、戦争に対する第二の態度である。
第三の態度は、一切の良心を、従って一切の常識と人間的感情とを失った人々のものである。
この部類に、モルトケ(その意見はモウパッサンが例に引いている)及びこの残忍な迷信のうちに教育され、それによって生活し、従ってしばしば何も知らずに、戦争は必要であり、又利益であると同時に又避け難いものであると信じている、多くの軍人が属する。これは又普通人民――いわゆる学問あり、教育あって高尚な人々の持つ意見である。
これが名高い学士院会員ドゥシェーが、彼の意見に関する編集者の質問に(「評論の評論」の戦争に関する書簡掲載号において)答えているところのものである。――
『拝啓、――貴下がすべての学士会員中の最大の平和愛好者に向い、その戦争当なるや否やを質問せられても、彼の答は既に分かり切った事であります、不幸にして貴下御自身が既に、平和の希望は、現在においては我等の昂奮し易い同胞を刺激する、一場の夢に過ぎない事を知って居られました。』
『予は全生涯中、多くの私人がこの恐るべき国際間の虐殺の習慣に向って、その憤慨の言を漏らしたのを聞いています。しかしいかにしてそれを改めるべきであるか? 人々はしばしば決闘を終滅せしめようと試みた、そしてそれは非常に容易な事ででもあるように見えた! しかしすべては無効であった。この目的に向けられたすべての努力は効果のないものであった。そして今後も永久にそうであるに違いありません。』
『いかに多くの事が、すべての平和会議において、地上のあらゆる場所において、戦争と決闘とに反対して述べられようとも、尚―― 一切の法律、協約、仲裁よりは永遠に超越して――そこには常に決闘を要求するであろうところの個人の名誉があり、常に我等を要求するであろうところの国民の利益があります。』
『しかし予は予の真心をもって、万国平和会議がその最も熱望する名誉ある目的に、成功せん事を希望するものであります。云々。シェードウシェー』
すべてのこの言葉の意味は、個人的な名誉は人々に戦を要求し、国民の利益は彼等に互を破滅し合う事を要求する、故に戦争を消滅せしめようとするすべての努力は、ただ嘲笑にしか値しないと言うにある。
今一人の名士ジュール・クラーレットの意見もこれと同じである。――
『拝啓、――各理性を有する人間は、戦争と平和に関しては、ただ一つの意見しか有する事が出来ないものであります。人類は平和なる事業によって、その生存と狀態とを完成し得る可能性をもって生きんがために存在しています。かの万国平和会議によって説かれ且つ目的とせられている一般的な平和は、恐らくは一場の夢に過ぎないであろう、しかし何れにしても、それはすべての夢のうちで一番美しい夢であります。人々は永遠にその眼の前に、穀物が弾丸と砲車とから安全にされて成熟するであろうところのその未来の理想郷を見ています。』
『しかし、嗚呼! 世界は哲学者たちや慈善者たちによって司配されるものではない、故に我等の兵士達が我等の家や堡壘を守ってくれるのは祝福すべき事であります、そして注意深く磨ぎすまされた彼等の武器は、我等すべてがかくも熱心に好愛する平和の一番確実なる保証であります。』
『平和はただ最も強く決断的なる者にのみ、与えられるものであります。――云々。ジェー・クラーレット』
次に掲げるのは、欧州において最も有名な小説家イー・ゾラによって声言されたる戦争に関する意見中の一番最近のものである。――
『私は、戦争は宿命的な必要物、それが人間本性と全宇宙とに密接なる関係を有するが故をもって、我等の如何ともし難い不可避の悪であると考える。私は戦争が出来るだけ長く遅延せられん事を願う、しかし我等が戦う事を予儀なくせられる時が、来るであろう。私は今ここでは、一般的な立場で語っているのである。我等のドイツに対する不和には言及しようとする意は少しも持っていない、それはただ人類史上の些々たる一事件に過ぎない。私は、戦争はそれが人類生存の一条件であるが故に、欠く可からざる有利なものである事を意味する。我等は至る所で、敵対せる部落間、国民間においてのみならず、個人生活においても、また家庭生活においても戦いを発見する。それは進歩の主要なる一要素である。そして人類のなす進歩の各段階は、今日に至るまで常に血を流す事によって成し遂げられた。』
『多くの事が軍備撤廃に関しては言われているし、又尚言われつつある、しかも軍備撤廃は全然不可能な事である、そしてたとえ仮にそれが可能であるとしても、我等はそれを拒否しなければならないであろう。ただ武装せる国民のみが偉大であり有力であり得る。私は一般的な軍備撤廃は一般的な虚弱となって現れるところの、道徳上の退廃を持ち来すであろう、そしてそれは人類の前進的な成長を妨げるであろうことを信ずる。すべての好戦国は、常に活気ある活動と技能とを有していた。戦争の技術は常に歴史の立証するように、他の諸技術の発達に寄与するところがあった。かくて、アテンス及びローマにおいて、それらの都市が武力によって政府を統一した時、その通商、産業、及び文学がその最高完全の域に達したのである、もっと近い実例として、ルイ十四世の時代を取ろう。大帝の諸戦争は芸術や化学に進歩を阻害する代わりに、反対に、それらの進歩を増進し速進せしめた如き感があるではないか。』
戦争が有利であるとは!
しかしなかんずく最も乱暴なのは、この傾向の作家のうちで一番卓越した者の意見――学士会員ボーギュのそれである。これが彼が博覧会に関する論文において、陸軍部への訪問を説明して書いているところのものである。――
『廃兵院の庭(エスプラナード、インプリド)において植民地風の異国的な諸建築物の中央に、尚一層厳めしい建物が、絵のような陳列場のなかから聳え立っている、すべてこれらの地上の住民の代表者たちは、戦争の宮殿の周囲に群れ集まっている。機会ある毎に一致について泣き明かし、”Ceci tuera cela”(これがそれを殺す事)と、科学と働きとに依る諸国民の結合が、好戦的本能を征服するに至るであろうと言う事を断言する人道主義的な美辞学の対偶に取って、何と言う素敵な機会であろう。我等は空想的な黄金時代の希望を抱く事を邪魔しようとは欲しない、しかしそれはもしも仮に実現されるとしても、瞬く間に塵埃の時代と化し去るであろう。すべての歴史は我等に、血は諸国民の結合を誘導し且つ強固にするために必要である事、即ち前者は後者によって達せられる事を教えている。現代において自然科学は、天才的な直覚と原初の教義に関する黙想とによってヨセフ・ド・マイステルに啓示された神秘的な立法を確認した、彼は、世界はその伝習的な堕落を、犠牲によって償うと言う事を知った、科学は我等に、世界は暴力に依る争闘と選択とによって完成させられる事を示している、これは、違った言葉で述べられた同一の律法に関する二つの相異なる立場よりの確認である。この確認は、勿論、不愉快のものである、しかし世界の法則は、我等の快楽のために定められてはいない、がしかし我等の完成の為めにである。で我等はこの必要な、避け難い戦争の宮殿に入ろう、そしていかにすべての我等の本能のうちの最も執拗なものが、その力を少しも失う事なしに、歴史上の各時期の要求に応じて変形し、且つそれに適合したかを観察しよう。』
戦争の必要な事の証拠は、彼が大思想家であると想像しているダァウィンとド・マイステルとの言葉のうちに見出されると言う考え――この考えはボーギュを非常に喜ばしたらしい、で彼はそれ等を更らに他の場所で繰り返している。――『拝啓』と彼は「評論の評論」の主幹に書いている、『貴下は万国平和会議の成功に関して、私の意見を求めておられる。私はダァウィンと共に、争闘と暴力とはすべての生物を司配する自然の法則であると信じています。ヨセフ・ド・マイステルと共に、私はそれを神聖な法則――同一の原理に関する二つの相異なる表現――であると信じます。もしもすべての期待に反して、人類のある一小部分が、あるいは全西洋の文明諸国までが、この法則の進行を止める事に成功したとしても、すべての他の、より一層原始的な諸国民は、我等に反してその法則を履行するであろう。彼等の間においては、本性の声は人間の理性の声を征服するであろう。かくて彼等は上首尾であろう、何故ならば平和の確立は――私は「平和」を意味しない、平和の絶対的確率を指している――最も悪るべき戦争よりも更らに一層破壊的な頽廃と腐敗とを持ち来すであろうから。私は戦争、それは大罪である、その戦争に関しては、他の大罪に対する時のように、行動し、一層それを緩和し、出来るだけ稀にそれを適応して、不必要なものとなさしめるために全力を尽くさなければならない。しかしすべての歴史は全部我等に、地上に二人の人間が居て、それらの間に麺皰、金、及び婦人がある限り、この法則を抑止する事は不可能であることを教えている。』
『私は、もしも同会議が私にその間違いであることを立証してくれるならば、幸甚であります。しかし私は歴史、自然の法則及び神聖な法則を拒否する事は可能であるか否かを疑うものであります。――早々イー・エム・ボーギュ。』
すべてこの言葉の意味は、歴史、人間本性、及び神の掟が我等に、二人の人間がその間に麺皰、金、及び婦人をもって生存する限り――そこには常に戦争があるであろうことを、証明していると言うにある。即ち、如何なる進歩も人々を決して、野蛮的な人生観より引き上げ得ないと言うにある。その人生観に拠ると、戦う事なくしては、麺皰、金、及び婦人を配分する事は不可能である。
人々が充分よくその不可能な事を知って居ながら、尾の上に塩を置いて鳥を捕らえようとするような方法について、会議を開いたり、又は演説をしたりするとは、全く不思議な事である、モウパッサンやロッド、及び戦争のすべての恐怖と、人々が正しい必要な、且つ彼等に取って有益であるその事をしないと言う事から起る矛盾とを明瞭に知っている他の多くの人々――そのこれらの人々が、人生の悲劇を嘆いていながらも尚、すべての悲劇は争うてはならない事柄について争う事を止め、彼等に取って嫌な、苦しい、忌まわしい事柄をする事を止めるや否や終滅してしまうであろう事を知っていないとは、驚くべき事である。かくの如き人々は、不審がられるべきである、しかし進化の法則を信じて戦争は不可避なものであるばかりでなく、又同じく有利な、従って望ましいものでも、在ると考えているボーギュ及びその他の人々――これらの人々は、その道徳的堕落の為めに嫌な、恐るべき人間である。
他の人々は少なくとも、善を愛し悪を忌む事を公言している、然るにこれらの人々は簡単に、善も悪も存在しないと断言している。すべての永遠の戦争の代りに一般的な平和を確立する事の可能に関する言辞は、彼等に取っては単に怠惰なお喋り屋の有害なる感傷語に過ぎない。そこには私が生き、且つ悪事をする事を証明する進化の法則がある。一体どうすればいいのであるか? 私は教育ある人間である。そして進化の法則を知っている、それが為めには私は間違った生活をするであろう。”Entrons au palais de guerre”(我等は戦争の宮殿に入ってみよう)。進化の法則があって、そこには善も悪も何ものもない。しかし私は、私自身の個人的な生存の為めに生きなければならない、そしてすべてそれ以外のものを、進化の法則に残さなければならない。これが精錬された文明の、又同じく我等の教育ある階級の特殊な目的となっている意識混迷の、最後の表現である。
これらの階級の、何かの手段によってその懐いている思想と、それに基礎する生活とを維持しようとする欲望は、今やその最絶頂に達している。彼等は嘘を吐き、彼等の意識を息つまらせ殺そうとする簡単な目的の為めに、最も狡猾な論法で自らと他とを欺く。あらゆる手段を尽くして、彼等はこの意識を、それに従ってその生活を改めようとする代わりに暗まし且つ沈黙せしめようと努める。しかし光りは暗闇の中においても輝く、そして現在それは既でに輝き始めている。
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント