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トルストイ『神の國は爾曹の衷にあり』第七章

『神の国は爾曹の衷にあり』
第七章 国家権威の暴力
上流階級の教育ある人々は、現在の生活様式を変更する必要についての絶えず増大して行く意識を抑止しようと試みる、しかし人生は同じ方向に成長と複雑とをなして発達しつつ、又人間生存の矛盾と悲惨とを増大しつつ進行し続ける、そして遂にそれは人々にそれ以上進む事の出来ない終局限度をもたらす。その矛盾の最終限度は、一般的兵役において到達せられた。
普通人々は、一般的兵役は絶えず増大する軍備と、その結果として絶えず増加する税金や国債と共に、現在のヨーロッパの政治的狀態によって捲き起こされた一時的な現象である、そして、それは生活の内的様式を変化する事なしに、正確な政治上の手段で除去されるものと考えている。
それは全然間違っている。一般的兵役は社会的人生観の内的矛盾に外ならない、そしてその矛盾は今やある程度の物質的発達の結果としてその最終限度に到達して、極めて明らかなものとなった。
社会的人生観は、人生の意義の、個人から個人の集団とその連続――家族、部落、種別、及び国家への推移にある。
社会的人生観は、人生の意義は人間の集団のうちに見出されるから、各個人は自らの自由意思で、その個人的利益を集団の利益の為めに犠牲にすると推論する。そしてこれがある種の社会において、家族及び部落において(これは他の者よりも前に存在していたが、重大なものではない)そして種族又は王国においてすら、事実その通りであったし、又そうである。教育によって伝えられ、宗教上の権威によって確かにされた習慣の結果として、人々は自らの利益を社会の利益のうちに没入せしめた、そして何の拘束も感ずる事なしに、個人的なものを一般的なものの犠牲とした。
しかし社会が複雑さと広さとを増すに従って、よりしばしば暴力と征服とが人々を、社会に引き寄せた――より多く個人が、社会を犠牲にしてそれ自らの目的を達しようと努めるに従って、それだけ多く反逆的要素を抑圧する爲に、権威――即ち暴力――に依頼する必要が大となって来た。
社会的人生観の擁護者は、通例権威即ち暴力の観念を、精神的な観念と混同しようと試みる、しかしかかる観念連合は全く不調和なものである。
精神的な力とは、人間の願望がそれによって変化させられ、そして自意的に彼に要求されて居るところのものに同意する仲立ちである。精神的な力に従う人は、彼自らの願望と一致して行動をする。一方権威とは、普通用いられる言葉の意味ででは、人をして彼の願望に反して行動する事を強いる手段である。権威に服従する人は、彼の欲する通りにではなく、彼のなすべく予儀なくされている通りに行動する。そして人をして彼の欲するままに行動してはならないように、又彼の欲しない事をなさしめる様に束縛する為めには、肉体上の暴行あるいは肉体的暴行の脅威、例えば自由の凌奪、侮辱と殴打、あるいはこれらの懲罰の何時でも加えられると言う脅威のようなものが、使用されなければならない。これが今日又常に権力を構成するところのものである。
すべてのこの事を隠蔽し、又は権力に他の意味を附与しようとする権威者の死力的な努力にも拘らず、尚そこには人間に対する、彼を縛り且つ索ぐところの綱と鎖、彼を殴るところの鞭、彼の首、手足、鼻又は耳を切り取るところのナイフ又は斧の適用がある、尚そこにはこれらの懲罰の適用あるいは脅威がある。それはネロ、又は成吉思汗の時代においてそうであった、そして又今日、それはフランス又はアメリカに於ける最も自由なる政府の下においても、そうである。もしも人々が権威に服従するならば、それはただ彼等が、その違背が齎す懲罰を恐れるからの事に過ぎない。すべての政府の要求、税金の納付、公共的義務の履行、追放、科料らの懲罰に対する服従その他、人々が自らの表志でそれに従っているように見えるところのそれらは、すべて肉体上の暴行又はそれの脅威に依存しているのである。
権威の根底は暴力である。その肉体上の暴力を加え得る可能は、すべてが一致して一つの意志に服従する武装した人々の組織によって与えられて居る。かくの如き一つの意志に服従する武装した人々の集合が、軍隊を構成する。軍隊は常に権力の基礎であり、又今日も尚そうである。権力は常に軍隊を指揮する者の手中にある、故にローマの皇帝からドイツ又はロシアの皇帝に至るまでのすべての統治者は、軍隊に対する配慮に専心した、彼等はそれに阿諛し、甘言を使った、何故ならば彼等はもしも軍隊が彼等と共にあるならば、権力も又彼等の手中にある事を知って居たから。
権力の維持に欠くべからざる軍隊の組織とその拡張とは、社会的人生観にそれの壊滅の要素を送り込んだ。権威の目的とその是認とは、自己の利益を得る爲に社会の利益を毀害するものを、制御するところにある。しかし権威が、新しい軍隊の命令によって、伝襲によって、あるいは選擧によって獲得されようとも、軍隊の力によって権威を保持する人々は、如何なる点においても、他の者らと違いはしなかった。それが故に他の人々と全く同様に、社会の利益の爲に自らの利益を犠牲にしない傾きがあった。それに反して彼等はかくなし得る可能性を持っていたが故に、他の者よりもまして一層公共の利益を自らの利益の爲に犠牲にする傾向があった。如何なる手段が、権威を有する者が公共の利益を自らの利益に隷属せしめる事から防止するために、あるいは権力を間違いない人間にのみ託する爲に案出されようとも、今日に至るまで如何なる手段も、その何れか一つを満足ならしめるために、発見されはしなかった。
すべての普通の方法、例えば神聖裁可、選擧、伝襲的即位、投票、会議、国会、及び元老院――すべてこれらの方法は、不充分なものである事を立証し、又尚今日それを立証している。各人はこれらの方法のうちの一つすらも、権力を間違いのない人物に託し、又はその乱用を防止する事の何れにも成功しなかったのを知って居る。それに反して、我等はすべて権威を有する者は――それが皇帝、大臣、官吏あるいは警官であろうとも――常にその権力の所有の結果として権力を有しないものよりも、より一層悪徳に即ち公共の利益を自らの利益に隷属せしめる事に傾き易い、そして又そうならざるを得ないものである事を知っている。
社会的人生観は、人々が自意的に自らの利益を社会の利益に犠牲とする限りにおいてのみ是認された、しかし自意的にそうする事を拒むものが現れるや否や、権威――即ち暴力――は、それらの制禦のために必要となって来る、そしてそこに社会的人生観とそれに基礎する組織との中に、壊滅の要素――多くのものの上に加えられる少数の暴力を意味する権力が忍び込む。
同胞の上に立つ少数者の権威をして、社会を犠牲にして自らの利益を求めるものを制禦する目的を達せしめんためには、支那によって推論され、又中世期において信ぜられたように、又今日尚聖別の神聖を信仰する人々によって固辞されて居る様に、権力は間違いなき人々の手中に託される必要があった。ただかくの如き条件の下においてのみ、社会的人生観は承認されることが出来た。
しかし事実はそうでないが故に、又その反対に、権威者は、その権力を有すると言う事の爲に常に間違いのない事、即ち聖者らしくある事から甚だ遠く離れているが故に、権力に基礎する社会組織は、何らの是認をも与えられる事が出来ない。
道徳の低級な事と、人々の相互間に暴力に対する一般的な傾向の結果として、この暴力を制禦する権威の存在が有利であった時代――言い換えれば政府の暴力が、各個人相互間の暴力よりも尠少であった時代が、存在したかも知れない、しかし何人も、政府が存在しないよりも存在する方のこの種の利益は、永続し得ないものである事を容認せざるを得ない。人間本性が緩和され、個人の暴力に対する傾向が減少するに従って、権威は拘束からの解放によって漸次堕落して行った、そしてその存在の必要が、それに応じて漸次少なくなって来た。
この群衆の道徳的進歩と政府の堕落との関係に於ける斬新的な変化は、過去二千年間の歴史の全体を構成している。その最も単純な形においては、歴史の進み方はこうである、即ち家族、部落及び種族のうちに生活する人々は、互いに争い、迫害し、惨殺し、且つ破壊し合った。大小の暴行は普遍的に行われていた、人は人と、家族は家族と、部落は部落と、種族は種族と、そして国民は国民と戦った。より大きい、そしてより有力な社会は弱い社会を併呑してしまった、そして集団がより大に又より有力になるに従って、その内部の暴行の数が減じて、その存在の寿命が一層確かなものに見えた、一集団として結合している部落や家族の間では、争いはある程度まで緩和されている、部落や家族は個人のように死にはしない、がその存在を永続する一つの権力に従属する一国家内の各員の間では、争いは更らにより大なる程度にまで緩和されている、そして国家の生命はより一層確実に保証されているように見える。
人々が漸次に、より拡大された集団と結合するのは、スカンヂナビア人の召喚に関する物語の中で描かれてあるように、それが提供するであろうところの利益の意識によってなされたのではない、それは一面自然的な発達と、他面争闘と征服との結果である。
征服が成就された時は、その征服者の権威は内的な反目を終熄せしめる、そして社会的人生観が認容される。しかしこの認容は単に一時的なものである。内的な争闘はただ、以前に反目し合って居た個人の上に置かれる権威を増加した重みに応じて、抑圧されるに過ぎない。権威によって破壊された暴力は権威を通して再び復活する。権力は、他のすべてのものと同じように、常に、又少なくとも非常にしばしば圧制者からの抵抗の拘束的な力から解放されている、故にあらゆる権力の堕落的影響を蒙り易い事である。それ故に暴力の弊害は、権威の手中に入るに及んで一層増大されるに違いない、そして間もなく、それが抑制するであろうと考えられていた悪よりも一層悪いものとなるであろう、それに反して、それと同時に、社会の各員の間には暴力に対する傾向が漸次に減少して行った、権威の暴力が必要のないものとなって行く。
国家の暴力は、たとえそれが内的な暴力を削減せしめるとはいえ、常にその強さと年数とに応じて人々の間に新しい絶えず増大する形の暴力を導き入れる。国家の権威の暴力は、個人の相互間のものよりも、それが争闘に依らずして服従によって表されているが故にその明白さを欠く、けれどもいずれにしてもそれは存在する、そしてほとんど常に以前よりもより大なる程度において存在する。
それはそうであるより外に仕方がない、何故ならば、第一、権力の所有は人々を腐敗せしめる、第二に圧制者の目的と無意識的な本能とは、常に彼等の犠牲を極度の困窮に導くにあるから、即ち弱者がより弱められるに従って、それだけその束縛の為めに要せられる努力が少なくなるからである。
それ故に被圧制者に対する暴力は、黄金の卵を生むところの牝鶏を殺す事なくして、その最高度にまで押し遣られている。もしも鶏が、アメリカン・インディアン、フィジー島民及び黒奴のように最早や卵を産まないならば、即ち慈善家達のかかるやり方に対する真面目な反対にも拘らず、それは殺されてしまう。
この言葉の完全な確証となるものは、実際的に被征服者に過ぎない労働階級の現狀がそれである。
すべての思わせ振りな、彼等の狀態を改善しようとする上流階級の努力にも拘らず、我等の時代の労働者たちは、不変の鉄の法則に繋がれている、それによると彼等は、彼等の主人(即ち彼等の圧制者)の爲に辛うじて働き得るに足るだけのものしか所有する事が出来ない、そして常に餓えによって、絶え間ない労働をする事を強いられている。
それはそうであり又常にそうであった。権威がその力と年数とを増大するに応じて、それに従属するものの利益は失われ、その不利益は増大される。
国民がその下にあって生きて来たところの政府の形式のいかに関せず、それはそうであって又常にそうであった。ただ一つの相違は、専制的な形式の政府にあっては、権力は少数の圧制者の手中に集約される、そして暴力の現れ方は一層暴虐である、立憲君主国又はフランスやアメリカのような共和国においては、権力はより多数の圧制者の間に配分されて、その現れ方はより温和である、しかし暴力の本質と――そこにおいては権威の不利はその利益よりも大であるが――並びに権威が被圧制者をして、圧制者の利益を図る事によって辛うじて支え得る位の困窮の最終限度にまで立ち至らしめるその方法とは常に同一つのものである。
これが、被圧制者の狀態であり、又常にそうであった、しかし今に至るまで彼等はそれを知らなかった。そして素直に、政府は彼等の利益のために存在するものと信じていた、即ち彼等は政府なしでは死滅するであろうと言う事を、政府なしに人々が生きるという考えは、ある不可解の理由のために、各想像し得べき恐怖をもって人々の心のうちに結び付けられているところの恐るべき無政府主義の教えに等しいが故に、口にする事さえしてはならない精神的な思想であると言う事を信じていた。
かくして数百年、数千年は経過した、そして政府――即ち権力を有する人々は――国民をしてこの謬想を持続せしめるために常に努力し、又尚それ以上にそうする事を続けている。ローマ皇帝の時代においてもそうであったし、又今日もそうである。国家の暴力の不必要とその害悪とに関する観念が、漸次人々の意識内に透入しているにも拘わらず、現在の狀態は永久に持続するかも知れない、しかし必要上政府はその権力の擁持のために軍隊を増加すべき事情にある。
人々は、通例軍隊は他国民に対する国家の守備のために、増加されるものと考えている、彼等は、軍隊は主として政府によって、その奴隷として圧迫している人民から自らを守護するために、必要とされるものである事を忘れている。
それは常に必要であった、そして絶えず教育の発達、並びに同一つのあるいは相異なる国民性の人々の間の交際の増加に応じて益々必要なものとなっている、そして今や共産主義者、社会主義者、無政府及び労働運動の伝播は、この必要を緊急なものとならしめた。政府はこの事を知っている、故に訓練せる軍隊の勢力を増加する。
最近ドイツの国会において、何故に下級士官の俸給がより多く要せられるかと言う質問に答えて、ドイツの連邦会議長は公然と、社会主義に対して戦うべき信頼するに足る下級士官が必要であると言う事を明言した。キャプリヴィは、単に注意深く人民から隠されているとは言え、各人の知っているところのものを声高く言ったに過ぎない。彼は何故に瑞西(瑞西)や蘇格蘭(スコットランド)の守備兵が、伊太利の法皇やフランスの国王の守備のために雇われたかを、何故にロシアにおいて新募兵が注意深く、国内に駐屯する連隊は国境からの募兵で組織し、国境の連隊は国内からの募兵で組織されるようにと手配りされたかを説明した。キャプリヴィの演説の要領を簡単な言葉で言い換えて見ると、金銭が、外敵を防ぐためにではなく、圧迫されたる労働階級に対して何時でも直ちに適当の処置を取り得るように、下級士官に賄賂を使うために必要であると言う事である。キャプリヴィは偶然にも各人が知り、もしくは少なくとも直覚的に感じているところのものを――即ち現在の生活様式がその有るがままにあるのは、人々がそれを欲しているからではなく、あるいはある自然の法則の結果でもなくして、実に政府の暴力に依った、そしてすべての賄賂を使わされた下級士官、将校、及び将軍を持てる軍隊によって、強制的に支持されているからである事を言葉にした。
もしも労働者が土地を有せず、又は彼自らとその家族とを支えるべき糧を土地から得ると言う人間の最も当然な権利を持たないならば、それは彼がそれを欲しないからではなく、ある人間が――土地所有者――労働階級から、その所有の可能を与えあるいは与えない事の権利を横奪したからである。この不自然な狀態を軍隊が維持している。もしも労働者たちの労働によって集蓄された巨大な富が、すべての者に属さなくてある限られた個人に属するならば、もしも労働者から税金を集め、その金を任意に消費する権力がある人々に与えられているのならば、もしも労働者の同盟罷業が抑圧され、資本家たちの連盟が奨励されるのならば、もしもある人々が、すべての者が服従しなければならないところの法律を編制し、且つ人間の財産と生命をそのままにする権利が付与されているのならば、もしもある人々が児童の国民的、宗教的教育の方法を選定すべき権利を与えられているのならば――すべてのこれらの事がそうであるのは、人々がそれを欲するからでもなく、又は何かの自然的法則の結果からでもなくして、実に政府と支配者階級とが、自らの利益のためにそれを欲し、肉体的暴力と圧迫とによってその制度を維持するからである。もしも何人かがこの事を知らないとするならば、彼は現在の社会狀態に反抗し、又はそれを改革しようとするその第一の企てに際してそれを知るであろう。故に軍隊は、各政府と支配者階級とによって、人々の要求から生じたのではなくして、その反対に、しばしば彼等には不利で、ただ政府と支配者階級とにのみ有利であるところの制度の維持のために必要とされるものである。
軍隊は各政府によって、主としてその人民を服従せしめ、それらの労働の所産を奪うために必要とされている。しかし如何なる政府も独りでいる事はない、その国境の彼方には、又同じくその人民を苦しめるべく暴力を使用し、常にその隣国からそれの奴隷とした人民の労力を盗もうとしている今一つの国家がある。故に各政府は内部の仕事のため許りでなく、国外の掠奪者の劫奪をも防ぐために、軍隊を要求している。従ってすべての国家は、その軍隊の増加を互いに競う事を予儀なくされている、そして軍備の拡張はモンテスキィが150年前に断言したように、伝染性のものである。自国民の意に反してなされた一国家内の軍隊の各拡張は、又同じく隣国に取って危険なものとなる、そしてそれと同じだけの拡張を、他のすべての国家にするようにと刺激する。軍隊は隣国の威嚇のため許りでなく、圧迫された人民のあらゆる反逆的な企てを抑圧するために、現在の数百万の数に達した。軍隊の増大は、ついに相呼応するところの二つの原因から同時に結果する、即ち軍隊は内部の敵を防ぐためと、外国の侵入を守るためとで要求される。その一つは他の必要な条件となる。政府の専攻主義は、その外的な成功と軍隊の拡張とその強大とに応じて増長する、政府の攻撃的態度は、内的な専攻主義の増長と共に増加して行く。
ヨーロッパの諸政府は、軍隊の絶え間ない拡張をもって、他に優越しようと試みている、そして今や一般的兵役の避け難い必要を感ずるに至った、何故なればそれは最小の費用をもって、戦時に際して最大多数の軍隊を得る良法であるから。ドイツはこの案を思いついた第一者であった。そして一国家がそれを始めるや否や、他のすべての国家も又同じ事をせざるを得なかった。そしてその制度が施行されるや否や、人民は彼等自らに対してなされる暴行を擁護するために、武器を取る事を強いられた、そして人民は彼等自らの圧政者と変じた。
一般的兵役は、必然的に達せられねばならなかった論理的な必然であった、しかしそれは又、暴力がその維持のために要求せられるや否や生ずるところの、社会的人生観の内的矛盾の最後の現れででもある。一般的兵役において、この矛盾が明らかなものとなった。各人は、社会的人生観の意義はこう言う事に、即ち個人が他との争いの恐ろしさと自己の生命の果敢さとを悟って、人生の意義を人間の集団に移すところにある事には同意をする、これに反して、一般兵役の結果は、人々は彼等に個人的争闘と個人的生命の果敢さから解放されるために必要であったすべてのものを犠牲にした後、再びすべての彼等の困窮の後、彼等が逃れんことを欲した一切の危険に苦しむために、召喚されると言う事である。それだけではない、国家――人々がその名目の下に個人の利益を犠牲にしたその集団――が再び、以前に個人が遭遇したと同じ破滅の危機に臨んでいる。
政府は、人々を不知な個人の残酷から自由にし、彼等に国家生活の犯すべからざる規律の保証を与える事を期待されていた。それに反して政府は、人々に、ただ個人的争闘から他国の住民との戦争に変わったに過ぎないところの、同じ争闘の必要を付け加えた、そしてそこには尚矢張り、政府と個人両者の破滅の同じ危険が残っている。
一般的兵役を設ける事は、朽ちたる家を支えようと欲する人の活動に似ている。壁は崩れている――彼はそれに桷(たるき)を附ける、屋根は凹む、彼は屋台骨を組立てる、板が桷の間に凹んでいる、彼はそれを他の柱で支える。最後に支柱がその家をどうにか支えてはいるけれども、それが全く住む事を不可能にしたという事で分る。
一般的兵役においても又これと同じである、それは、それが保証するように見えたすべての社会生活の利益を破壊する。
社会生活の利益は、財産と労働とに与えられた保全と、一般的幸福に向っての相互的協力である。
軍備と戦争のために人々に課せられたる税金は、軍隊が保護すべきはずのその労働の所産の大部分を吸収する。男性の人民を全部その日常の生業から奪い去る事は、労働の可能を破壊してしまう。戦争の今にも勃発すべき脅威は、社会生活のすべての改善を空しき無価値なものとしてしまう。
人が、もしも彼が国家の権威に服従しないならば、悪人からの、又内外の敵からの侵害の危険に陥るであろう、そして個人的に、自らの生命を賭して彼等と闘わなければならないであろう、従ってこれらの不幸から逃れるためには、ある種の困難に服する方が利益であると、常に聞かされていた時――人がこの事を聞かされた時、昔ならば、彼はそれを信じたでもあろう、何故ならば、彼の政府に対してなす譲歩は些細な犠牲であったし、又それは彼に、そのためにある程度の便益を捨てているところのその確固たる社会のうちでの、平和な生活の希望を与えたから。しかし今や約束がないにも拘わらず、この犠牲が十倍にも増加された故に、必然的に各人は、政府への服従は全く無効であると考え始めている。
これはただ、社会的人生観のうちに含まれている矛盾の現れがあると言う意味においての、兵役の破滅的な意義だけではない。その矛盾の主なる現れは、各人民が兵役に加入する事を予儀なくされ、その結果国家の組織の支持者となり、いかに不法なものと考えようとも、政府のなす如何なる事にも共力者となると言う事実である。政府は、軍隊は外的な守備のために必要であると称している、しかしそれは本当ではない。彼等は主として国内の平定のために要せられる、そして兵役に加入する人々は皆不知(しらず)々々の間に、人民に対する政府の暴力の共力者となる。
兵士となる各人が、それによって彼が是認せず又そうする事の出来ない政府のすべての行爲に参加するに至る事を知るためには、我等はただ秩序と公益の名において政府によってなされ武力によって遂行されるすべてを思い起こすだけで十分である。
すべての王廷及び政治上の確執、すべてのこれらの不調和より結果する企て、すべての暴動の抑圧と群衆を追い散らし同盟罷業を切り崩すための軍事行動への依頼、すべての不正なる土地の分配、税金の賦課、労働階級に対する自由の束縛――すべてはもし直接軍隊によってでないならば、少なくとも軍隊によって支持されている警察によってなされる。兵士となる各人は、又すべてこれらの前述の事柄の参与者となる、それについて彼はしばしば疑いを抱く、しかしそれは最も多くの場合、明らかに彼の意識と相反するものである。労働者たちは、彼等が数代の間耕して来た土地を去る事を欲しない、群衆は政府の欲するがままに解散しないであろう、人民は彼等に要求されている税金を払ったり、あるいは彼等が制定に関与しなかったところの法律に従ったりする事を欲しない、彼等はその国民性を凌奪される事を欲しない、そこで軍務についている私は出て行って、彼等を迫害しなければならない。私は私の参与する事を強いられているこれら前述の事柄が、善であるか悪であるか、又それの実行を助けることが正しいかどうかを自問せざるを得ない。
政府に取っては、一般的兵役は全制度の支持のために要する暴力の最終限度である、人民に取っては、それはなし得る服従の最終限度である。それはそれの取払いが全建築を破壊するであろう壁を支える追持(せりもち)の要石(かなめいし)である。
政府の絶えず加わって行く悪弊とその相互間の確執とが、人民からそのような物質上並びに道徳上の犠牲を要求する結果、各人に必然的にためらって、こう自問せざるを得ない時が来た、自分はこれらの犠牲をする事が出来るか? そして何の為めに自分はそれらの犠牲をしなければならないか? それらは国家の名において要求されている。国家の名において自分は、自分に取って最愛なすべてのもの、家族、安全、平和な生活、そして個人的な自愛心を捨てる事を要求されている。このかような恐ろしい犠牲を要求するところの政府とは何であるか? そして何の為めにそれがそのようにひどく必要であるのか? 我等は告げられている、『政府は必要である、何故ならば、第一それなくしては我等は悪人の暴力と侵害とを防ぐことが出来ない、第二に、我等は、何等の宗教、科学、教育、商業及びその他の社会的施設並びに交通の手段がなかったならば、尚野蛮人であったであろう、そして第三に、我等は近隣の諸国家に征服せられる危険に迫られるであろうから。政府なくしては、我等は我等自らの国内の悪人の暴力と侵害とを蒙るであろう』と。
しかし何処に、我等がその暴力と侵害とから政府とその軍隊とによって守護されているところのその悪人は居るのか? 彼等は、三四世紀以前、人々がその戦争の技術と武器とを誇り、その同胞を殺す事を勇ましい事であると考えた時代において存在したかも知れない、しかし今日かかる人間は居ない、何人も武器を持たず又は使わない、すべては同じ博愛と憐憫の掟を奉じ、我等の望むと同じ事――穏やかな平和な生活の可能を望んでいる。かくしてそこには政府がそのものから我等を守護するべきはずの、何ら特別な暴力を有する人々の階級も存在しないのである。もしも政府は我等を保護しようとするのは単に罪人からであるとしても、我等は、すべて罪人は羊の間の野獣のような特別な人間でなくして、彼等も我等と同じ人間である、彼等が侵害する人々と同じく、罪悪に対する自然的傾向を多く持つものでない事を知っている。我等は我等の人々の数は、威嚇又は刑罰によってではなく、周囲の変化と道徳的教化とによってのみ、退減せしめられる事を知っている。かくして政府の暴力を罪人に向ってなされるその防衛によって説明しようとする企ては、三四世紀以前においては何らかの根拠を持っていたとしても今は如何なる根拠をも有していない。その反対に、こう言うのが一層適切であるかも知れない、即ち一般的標準より遥かに下な懲罰と言う残忍な方法、その牢獄、軽舸、断頭台、及び絞首台をもってする政府の活動は、温和と慈悲によりも一層多く冷酷と残忍に導くものである、故にそれは、罪人の数を減ずるよりもむしろ増加させる。
『政府なくしては、』と我等は告げられている、『我等は交通の手段も、又は科学、教育、宗教及びその他の施設をも有し得ないであろう。政府なくしては人々は、決してすべての者に必要な社会組織を作ることが出来なかったであろう。』しかしこの論法も又、数世紀以前においてのみ、賛同され得るものに過ぎない。
もしもかつて交通と思想交換の手段がそのように幼稚であり、又政府の助けなくしては人々が何か一般的な事件――商業上、経済上あるいは教育上の――について議し且つ何かの一致を見るに至る事が出来ない位に孤立していた時代があったとしても、その孤立は今や存在しない。交通と知的交換の普遍した手段によって、人々は組合、集合、共同事業、会議の組織、並びに科学的、経済的、政治的施設に際して全く政府なしに済まし得られるようにさえなっている、多くの場合、政府はこれらの目的の成就を助けるよりも、むしろ妨害をしている。
前世紀の終期以来、人類のなした進歩の殆どすべての歩みは、政府によって援助されずむしろ阻害された。奴隷、拷問及び体罰の廃止、並びに集合、出版の自由の確立に於ける場合がそうである。現代においては、政府及び国家は、援助者である事より遠く離れて、人々がそれによって自らの為めに新しい生活様式を作り出そうとするその活動に対する、直接の邪魔者であり又障害物である。政治上、宗教上の諸問題、土地及び労働の問題の解決は、奨励される代りに、国家の権威によって執拗に妨害されている。
『国家と政府なくしては、国民はその隣国によって征服されるであろう。』
この最後の議論を否定するのは、ほとんど無用な事である。それはそれのうちに、それ自らの否定を含んでいる。
我等は政府とその軍隊とが、我等を征服する事を欲している外国に対して、我等を防衛するために必要であると告げられている。しかしすべての国家はお互いにこの事を乞う、しかも我等はすべてのヨーロッパの諸国が、同一の自由と友愛の主義を奉じている、従って互いに防ぎ合う必要のない事を知っている。更らに、もしも我等が野蛮人に対する防護について言うならば、現代の武装せる軍隊の千万分の一で充分であるであろう。そのように事実は実際、普通の言い草と相矛盾している。国家の権威は、我等を隣国の侵害より防ぐ代わりに、かかる侵害の危険を実際に作っているのである。
かくして兵役によって、その名において彼等は平和と安全と生命を犠牲にしているところのその政府の意義を考慮せざるを得ない人々は誰しも、明瞭に、現代においてはかかる犠牲には何等の合理的な根拠のない事を知るに違いない。
学理的には、如何なる人も政府によって要求せられる犠牲が、何等の賞むべき根拠をも有していない事を見ざるを得ない、がしかし政府によって与えられるすべての苦しき事情を考慮しながら実際的な立場よりしても、各人は、その要求と兵役への服従との履行は、多くの場合それを拒絶する事よりも一層不利である事を知るに相違ない。
もしも多くの人々が拒否よりも服従を選ぶならば、それは彼等が静かに両者の利不利を考量したからではなく、彼等は常に施されているところの催眠術によって、服従の方に引きつけられたからである。服従はただその理性を使用せず、又は意志を働かす事なくして、ある要求に人々が服従する事を求める、服従の拒否には、独立的な思想と努力とが必要である、そしてそれに関しては、すべての人々は無能である。もしも我等が、服従と非服従との倫理的な意味を除いて、ただその両者の利益について考量するならば、我等は非服従が常に服従よりも、遥かに利益である事を見出すであろう。
私が誰であろうと、富み且つ圧迫する階級か、あるいは労働し且つ圧迫される階級の何れに属していようとも、その何れの場合においても、非服従の不利が服従のそれよりも少なく、非服従の利益は服従の利益よりも大である。
もしも私が圧制的な少数者に属するならば、政府の要求に対する非服従の不利は、次の通りであろう、即ち私は政府に対して服従を拒否した人間として審判に附せられるであろう、そして旨く行って釈放されるか、それとも非軍事的な仕事をして――メノナイト宗徒に対してロシアにおいてなされるように――私の兵役の義務を課すことを強いられるであろう。最も都合悪く行くと、追放もしくは二三年(ロシアの場合を指す)あるいはそれより長い刑期の間入獄を言い渡されるであろう、私はたとえそれが不可能な事だとしても、死刑の宣告をすら受けるかも知れない。これが非服従の不利益である。服従の不利は次の通りであろう、都合よく行って、私は人を殺しに送られ、もしくは殺され又は不具にされる大なる危険に曝されないであろう。私はただ軍隊の奴隷名簿に記入されるであろう。私は道化役者の着物を着せられるであろう。すべての軍曹から総司令官に至るまでの私の長官によって指揮され、あらゆる種類の道化戯(わざ)と野卑な軽業とを彼等の楽しみのためにする事を強いられるであろう、そして一年乃至五年の間かかる狀態に置かれた後、私は十年の間如何なる時においても、同じ仕事をなし、同じ命令を守り得るように用意すると言う義務の下に、釈放されるであろう。最も悪い場合には、彼は前述の奴隷狀態に受入られる外に、戦争に送られるであろう、そこで私は私に何らの害も加えなかった外国の人々を、惨殺しなければならないであろう。セバストーポリやその他すべての戦争に於けるように、私は殺され又は不具にされ、あるいはある決死の使いに赴かされる危険を冒すであろう。そのなかで最も苦しい事は、私は私自身の祖国の人々に背いて送られ、全然私と無関係な王廷のあるいは政府の利益のために、私の兄弟を殺す事を強いられるかも知れない事である。
服従と非服従とを比較した利益は次の通りである、兵役に服した人は、すべての凌辱を忍び、すべての彼に要求される残忍を犯した後、もし彼が殺されないならば、彼の道化役者の服装に附けるべき赤や黄や金銀の糸で織った布の玩具を授けられるであろう、そして非常に仕合せに行くと、彼と同じく獣的な数百千人の指揮権を得て、司令官と呼ばれ、多額の金を得るであろう。
兵役を拒否する人の利益は、彼の人間としての尊厳の保存、すべての正直なる人々の尊敬、わけても彼が神の仕事をしていると言う、従って疑うまでもなく人類にとって有用な人間であるという確信である。
これらは富み且つ圧制的の階級の人に取っての、利と不利とである。労働階級の貧しい人に取っても又、不利益は無限に加重されるが同一である。兵役を拒絶しない労働者の特別な不利は、彼の参与と暗黙の承諾とによって、彼がその下にあって生活する圧制を強め、且つ確実にすると言う事実にある。
しかし人々が、兵役につかせて維持する事を要求されているその政府の必要と価値に関する一般的な議論も、又は各個人に取って服従あるいは非服従の何れが有利であり、あるいは不利であるかと言う酌量も共に、政府は存在する必要があるものか又は破壊すべきものかと言う問題を、決定する事が出来ない。その問題はただ決定的に、又は無条件的に、政府の存不存の問題が一般的兵役の問題と共に自らをその内に現すところの、その各個人の良心と宗教的意識とによってのみ決定され得る。
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