FC2ブログ

記事一覧

トルストイ『神の国は爾曹の衷にあり』第八章

『神の国は爾曹の衷にあり』
第八章 キリストの教え
もしもキリスト教が真理であるならば、その最初の出現に際して既にすべての人々によって受け容れられているべき筈であり、又直ちに人々の生活を変革し改善した筈であると言う事が、しばしば言われている。
それはもしも種子が生きているならば、芽を出して花を咲かし、そして直ちに実を結ぶに違いないと推論するに等しい。
キリスト教の教えは、暴力によって制定されて、それが直ちに人々の生活を変える事の出来る法律ではない。キリスト教は新しい、今までに知られていなかった、より最高の人生観である、新しい人生観は強制されるものではない、それはただ自意的に採用され得るに止まる。
それはただ二の方法――内的即ち精神的方法、および外的即ち経験的方法――によってのみ、採用される事が出来る。
ある人々は――極少数の――ある預言者的な直覚をもって、直ちにその教えの真理なる事を認め、それに帰依しその戒律を守る。大多数の人々は、その真理とそれを採用する事の必要とを、ただ長い苦しみの連続と経験と失錯との後に認識するに至る。
キリスト教的人類の全体は、今やかくの如き外的な経験の方法によって、キリスト教の教えを受け容れる必要にせまられるに至った。
人は時々、何のために今においてすら人々をして他の何ものよりもまして、その真の意味においてこれを受け容れる事を妨げているところの、キリスト教に関する曲解が必要とされたのであろうかを疑う。しかしこの人々を現在の狀態に導いたところその曲解は、大多数の人々によって、キリスト教が真の意味において容認されるための必要な条件であったのである。
もしもキリスト教が人々に、腐敗した形でではなく真の形において提供されたのならば、それは容認されなかったであろう、そして現在アジア人に取ってそうであるように、人類の大多数はそれに無関心であったであろう。それを曲解した形において採用した後、それを受け容れた国民は、穏やかなしかし確かな影響を蒙った、そして失錯の長い連続とそれに経果する苦しみとによって、初めてそれを真の意味において受け容れる事の必要に目覚めるに到った。
キリスト教の腐敗と、その大多数の人々に依る曲解された形においての採用とは、種子に取ってそれが芽を出す前暫くの間、土の中に埋められる事が必要であるのと同様に必要であった。
キリスト教は真理の教えである、それは又同じく予言である。千八百年以前にキリスト教は、人々に人生においてなすべき事に関する真理を啓示した、そして又もしも人々がその教えを斥(しりぞ)けてこれまでと同じ規約によって生活を続けるならばその時生活はどうなるかと言う事、並びにもしも彼等がその教えを受け容れてその戒律を守るならば、その時生活はどうなるかと言うことを予言した。
山上の垂訓についてイエス・キリストは、人々の生活を指導する教理を定めた、そして言った、『是故にすべて我この言を聴て行う者を磐の上に家を建たる智人(かしこきひと)に譬(たとえ)ん25雨ふり大水いで風ふきて其家を撞(うて)ども倒ることなし是磐を基礎(いしづえ)と爲たれば也26すべて我この言を聴て行わざる者を沙の上に家を建たる愚なる人に譬ん27雨ふり大水いで風ふきて其家を撞ば終には倒てその傾覆おおいなり』(マタイ伝第7章24-27)
十八世紀の後に、その予言は果された。一般にイエス・キリストの教えに、そして主としてその悪に対する無抵抗の命令に――特に社会生活において従わなかった事によって、人々は今や、イエス・キリストが彼の教を斥けた者のために予言したその避け難い破滅の危急にさしせまっている。人々はしばしば、暴力に依る悪への幸不幸の問題は、人の見脱がしても可いところの人爲的なものであると考える。それは実際、人生それ自らが人類と各考え深い人々とに提出し、且つどうしてもその解答を要求する問題である。
キリスト教の出現以来、常にこの問題は、社会生活において人々の前に置かれていた。それは丁度旅人がその辿って来た道の分岐点に達して、その何れかの岐路を取らねばならぬ時に彼に振り掛って来る問題に似ている。彼は前進しなければならない。彼は『自分は考えたくない、以前の通りに進んで行こう』と言っては居られない。道路は一つであった、が今は二つある。彼は是非共立ち止って、その一つを選ばなければならない。
同様にして、キリストの教えが人に知られるに至った、何人もこう言う事が出来ない――『自分は以前の通りに、暴力による悪への抗不抗の問題を解決する事なしに生活しよう。』各争闘の開始に際して、この避け難い問題が答えられなければならない――『自分は悪と考えるところのものに向って、暴力によって抵抗すべきであるか、あるいはしてはならないか?』
暴力による悪への抵抗の問題は、人々の間の最初の争いと同時に生じる、何故ならば争いは、すべて論争者のいずれもが悪と信ずるところの何ものかに対する、暴力に依る抵抗に外ならないから。しかしイエス・キリストの時代以前においては、人々は私が悪と考えるものに対する暴力に依る抵抗は他の人々が、私が悪と信ずるものを善と考えると言う簡単な理由のために――困難を解決する一つの方法に過ぎなくて、今一つの方法は少しも暴力によって悪に抗しない事である事を知らなかった。
イエス・キリストの時代の前には、人々は確執と論争を――暴力によって悪に抗する事によって解決するには、ただ一つの方法しかないと考えていた、そして彼等はその通りに行動していた、そして論争者の各は、全力を尽して、彼が悪と考えるところのものは真実、真のそして絶対的な悪である事を、自らにも又他にも信ぜしめようとした。
この目的のために、最古の時代から人々は、すべての人々によって受け容れられるべき悪の定義を規定しようと試みた。かかる定義は時とすると超自然的な方法で啓示されたと想像されている律法のうちに、又時とすると仮想的な確実さを附与された人々もしくは集会の決議のうちに言い表された。人々は彼等の同胞に向って暴力を用いた、そして他をしてすべての者の容認する悪に対して暴力を用いているのである事を確認せしめた。この手段は最古の時代から、特に権威を纂集した人々によって採用された。そしてその方法の不合理な事は、久しい間認められなかった。
しかし人類が長く生活すればするだけ、一層その関係は複雑になり、一層明瞭に人々は、如何なる人にとっても悪と見えるあらゆる事柄に暴力をもって抵抗する事の不合理なのを知り始めた、彼等はそれによって争闘の増加される事と、如何なる人間の規定も、ある人々をして、他の人々が悪と考えるところのものを善と考える事より妨げる事の出来ない事とを悟った。
ローマ帝国に於けるキリスト教の出現当時に於ては、大多数の人々が明瞭に、ネロ及びカリグラが悪と考えたところのもの、及び彼等は暴力をもって抵抗したところのものは、それがために他の人々に取ってもまた悪でない事を知った。彼等は神聖なる起源を要求する人間の法律は、人間によって起草される事及び如何なる権威を附与されていようとも、人は確実である事が出来ないし、又不確実な人々が相集まって自らを元老院あるいはその種の何者かであると称しても確実になる事が出来ない事を悟った。多くの人々はその時代においてすらこの事を感じ、且つ知ったのである。やがてイエス・キリストは、悪に対する無抵抗だけではなく、それの社会生活への適応は、人々の間の争闘の終熄に通ずる道を明示するところの、新人生観の表明から成り立つ彼の教義を説き始めた。これは人類の一部分をして、ある何かの権威の命令と指揮とに服従せしめる事によってではなく、すべての人々が――そして特に権威を有する人々が――除外例なくすべての場合において、人間に対する暴力を控える事によって達せられる事が出来る。
この教えは、最初は極く少数の弟子達によって採用されたに過ぎなかった、大多数の者――特に権威を専有する者らは――形式的にキリスト教を容認した後も、彼等が悪と考えるところのものに対する暴力に依る抵抗の法律に従っていた。それがローマ及び東ローマ帝国に於ける有様であった、そしてそれはそれ以後までも続いて来ている。悪に関する、及び暴力に依る悪への抵抗に関する権威ある定義の矛盾は、キリスト教の初世紀においても明らかであった、そしてそれはローマ帝国の多くの独立国の分裂の時代において、その相関の争闘と内的な確執と共に、一層明瞭になった。
しかし人々はそう容易くはイエス・キリストによって与えられた解決を受け容れはしなかった、そして悪を定め、すべての人に義務的な、威嚇によって強制された法律を設けてそれを阻止する古い方法が、続いて行われていた。悪と考えられて、暴力によって阻止されたところのものの裁決者は法王、皇帝、国王、選出された者の集会あるいは人民全体であった。しかし国家の内外においては、常に神の意思を現すものと見せかけている立法、あるいは仮偽の神聖を有する人々の設けた法律、又は人民の意志を現すものと考えられている施設等によって自らが束縛されているとする事を否定する人々、その現存する権威が悪と考えるところのものを善と考えた人々、及び彼等に向って使用されていたその同じ暴力をもって、確立せる権力に反対した人々がいた。
宗教的権威を附与された人々は、一時的権威を附与されている人々及び施設が悪と考えるところのものを善と考え、又その反対に悪を善と考えた、そして争いは漸次激烈になって行った。より長く人々がこの意見の不一致を解決する方法を使用すればするだけ、それだけ多く明瞭に、その不十分な事が分って来た、何故なれば、すべての人々によって承認されるべき悪を定義する外的な権威は存在せず又存在し得ないからである。
かくして人々は、彼等が現在の狀態――外的な普遍的に承認された悪の定義の存在せず、又決して存在しないであろうと言う明白な、絶対的な確認に到達するまで、十八世紀の間生活して来た。人々は単にかかる絶対的な、一般に承認された基準の可能を信じなくなっただけではない、彼等はそれを確定すべき何かの必要をさえも信じなくなった。権威を有する人々は最早や、彼等が悪と考えるところものは、信実な又確実な悪である事を証明しようと試みなくなった、彼等は単に、彼等を悦ばさないところのものを悪と考えると称している、又権威に服従する人々もまたそう言っている、彼等が権威の定める悪の定義の真実なのを信ずるからではなく、ただ服従せざるを得ないが故である。ナイスはフランスに依り、ロレーンはドイツに、ハンガリーはオーストリアに合併され、ポーランドは分割され、アイルランドとインドはイギリス政府に従属させられた、アメリカ人は惨殺された、支那人はアメリカで、ユダヤ人はロシアで迫害されている、地主等は耕作しない土地を持っている、資本主等は、他人によって作られる富を所有する、そしてすべてのこの事はなされた――それが人類にとって善であり、正当であり、又有益であり、又はその反対の事が悪であるからではなく――権力を潜有する者等が、かくなさるべき事を欲するからである。現在においては、ある人々は暴力を最早や悪への抵抗と言う名義の下にではなく、単にそれ等の個人的な利益と欲望との名の下に使用する、そして他の人々は、暴力は彼等の善のために、又悪に対する防衛として彼等に加えられると言う事を――昔の人によって信ぜられていたように信ずるからではなく、ただ彼等がその暴力から自らを解放する力を有しないと言う事だけで、暴力に服従する。
ローマ人、中世紀の人間、あるいは五十年以前の私の記憶しているロシア人は、一点の疑いもなく現存する権威の暴力は、彼を悪から逃れしめるために必要なものであると言う事、税金、義務、奴隷、監獄、笞、笞刑具、囚徒の漕ぐ船、死刑、軍制及び戦争は正しく且つ必要なものである事を信じたでもあろう、しかし現在においては、すべての現存する暴力は何人も悪より救わない、がその反対に、彼が服従し又時によるとそれに参与しなければならない暴力の多くは、それだけででも恐るべき又無様な悪であると言う事を認めない人は、極く稀である。
今や懶惰(らんだ)な官吏を富ますために、労働階級から徴税する事の無用と愚劣さとを、あるいは弱い、不徳な人々を、一つの場所から他の場所へと追放し、又は彼等をして懶惰に安全に生活せしめ、尚一層弱く不徳に流れしめるところの監獄の中に投げ込む事によって、処罰する事の無意義さを、あるいは軍備と、寸分の言訳も弁解もなしに国民の幸福を破滅し破壊する戦争との無益で愚劣で且つ残忍である事を知らない人はほとんどいない。しかもすべてこれらの形の暴力は継続し、又それはそれらの無益と愚劣と残酷とを知り、且つそれらに苦しむ当の人々によって維持されている。
約50年以前、贅沢な懶惰な人も無教育な労働者も、共に彼等の各々の、前者にあっては絶え間なき休日、後者にあっては絶え間なき労働の境遇は、神自らによって命ぜられたのであると言う事を信じていた、しかし現在ヨーロッパにおいて、またロシアにおいてすら、相互の交通と教育と読書の普及とに依り、富者にしてもまた貧しき者にしても、一方又は他の側から現在の狀態の正しさに疑いを抱かないものはほとんど稀である。富者階級は、富の所有その事が彼等をして罪人とする事を知っている、そして彼等は彼の罪悪を、科学や芸術の寄付金によって、丁度以前彼等が教会への奉納金によってその罪を償ったように、罪を消滅しようとしている、労働階級の大部分も又明らかに、現在の制度は不正であり、従って廃除しあるいは少なくとも改正せられるべきものである事を知っている。ある宗教的な人々――即ちいわゆるセクタリアン――それはロシアに数百万人いる――は、現在の制度は福音書の教えの真の理解の立場からは不正であり、廃止に価すると考える、他は今や最も低き労働者の群れにまで滲入しているところの社会主義、共産主義及び無政府主義の立場から、これを不正であると考える。
暴力は今や、人々のそれの必要に対する信仰によってではなく、ただ単にそれは長い間存在していた。そしてそれによって利益している者等――即ち政府と支配者階級とによって甚だ強硬に組織されているが故に、その権力の下にある人々は、それから身を脱すべき力を有しないと言う事実によって、維持されている。
現代においては、すべての諸政府は――最も専政的なものも、最も自由なものも――ヘルツエンが非常に巧みに、『電信を持てる成吉思汗(ジンギスカン)』と呼んだところのもの、即ち最も残忍な圧政を基礎とする、そして同時に人を圧迫し奴隷化するために、社会的共同と自由にして平等な人民の平和な活動とのために、科学が発明したすべての手段を使用する組織となった。
政府と支配者階級は今や、その基礎を、正義にも、又は正しき外観の上にも置かないで、科学的進歩の助けによって、人々が暴力の環の内に捉えられてそしてそこから脱れ出す方法がない位にまで巧妙に工夫された組織の上に置いている。その環は今では、人々の上に作用する四つの方法――輪をなす鎖の各々の環のように、互いに関係し且つ互いに助け合う方法から出来ている。
第一のそして最も古い方法は、威嚇である。それは政府の現在の組織を(自由な共和制でも又は最も横暴な専政にしても)ある神聖な不変なものとして自らを示す事に、及び最も野蕃的な態度でそれを変革しようとするすべての企てを処罰する事にある。この方法は常に使用されて来たし、又尚続いて政府のある処のいずれにおいても――ロシアにおいてはいわゆる虚無主義者に対して、アメリカにおいては、無政府主義者に対して、フランスにおいては、帝国主義者、君主政治主義者、共産主義者に対して使用されている、鉄道、電信、電話、写真及び人々を一生涯そこで彼等が忘れる人類の目から隠れて死ぬる孤独な室に幽閉して、人々を殺す事なくして処置する完全な方法、及び他の人々よりもよりしばしば政府によって使用される多くのその他の新しい発明は、政府にかかる権力を与えた、即ち――もしも一度権威がある人々に潜奪され、そして規則立った秘密な警察、あらゆる種類の行政者、王権実施者、獄吏及び死刑執行人等が充分な熱心さをもって働くならば――そこには、いかに政府が野蕃的で無感覚であろうとも、それを転覆せしむべき何等の可能性もない。
第二の方法は賄賂行使である。それは税金によって労働階級の財産を掠奪して、その財産を、その給与の恩返しとして人民の奴隷制度を維持し且つ増加するところの官吏の間に配与する事にある。
賄賂を受けた官吏は、総理大臣より最下級の書記に至るまで、同一の共通した、その生活費を人々の労働から抽出しようとする目的のために、一つの確かな自然の連鎖を形成する。彼等はその政府の意思に対する服従の割合に応じて、報酬を貰う、そしてそれが故に、あらゆる形の活動をなして、彼等は言葉に依り又は行爲によって、彼の富の依るところである国家の暴力を維持し、又如何なる手段も躊躇する事なく使用して、それを防衛する。
第三の方法は、私が『人民の催眠』と言う名で呼ばざるを得ないところのものである。それは人々の精神上の発達を危くし、人々をして感応や暗示のあらゆる方法を用いて、人類の使い古した、しかし国家の権力がそれに依存するところのその人生観を維持させるところにある。現代においては、この催眠術は、最も完全な様式に組織されている、それはその感応を幼年時代に始めて、死の時期に至るまで持続する。それは特に催眠術のために建てられた強制的な学校において、最も早い青年時代に始まる、そこでは子供達は、昔彼等の祖先が有していたけれども、今は全然今の人類の意識と相反するところの世界観を教えられる。国家的宗教を信奉する国々では、子供達は教会の宗教問題篇に対する馬鹿々々しき冒涜を教えられる、そして、権威への服従の必要を感銘させられる、共和国において彼等は愛国主義の願望なる迷信、及びそれと同じく国家に対する服従の仮偽の義務を教えられる。近年になってこれらの催眠的感応は、宗教的な、又は愛国的な迷信の声援によって維持されている。宗教的迷信は、行列、祭典、記念碑、及び人民から集めた金で建てられた教会に依り、人々を魔酔する音楽、建築、絵画、及び薫香に依り、特に人々の心を惑わして絶えず暗愚の狀態に居らしめる事を本職とするいわゆる僧侶の保存に依り、彼等の芝居に依り、彼等の祈祷と説教の哀調に依り、彼等の人々の私的生活、出産、結婚、死に於ける交渉によって刺激される。愛国的迷信は、国家の儀式、祝典、記念碑、及び国民から集めた金をもって政府と支配者階級が組織し、人々をして彼等の国家とその統治者の重大な事とその偉大とを信ずる事を煽(あお)って他国民に対する不真実と憎悪とを刺激するところの虚飾によって刺激される。この他に、専政的政府は命令的に、人民を教化するすべての演説あるいは講義、すべての印刷と書物の流布とを禁ずる、そして人々をその昏迷から目覚そうとするすべての人々を追放し、又は投獄する。すべての政府は例外なしに、彼の開放を進める処のあらゆるものを人民から隠蔽し、彼等を退歩せしめ堕落せしめる処のすべてのもの――人々を宗教的、愛国的迷信の愚昧のうちに保持する書類、あらゆる方面の感覚上の快楽、見世物、曲馬、劇場、及び例えば煙草、酒精の如き肉体を麻酔せしめる手段をも奨励する、そしてそれに加える税金は、国家の収入の一つをなしている。売淫制度の如きものまでが奨励されている、そしてそれが承認されている許りでなく、多くの政府によって監理されている。これが第三の方法である。
第四の方法は、上に述べた方法の助けによって、ある一定の人数を、奴隷とされ愚鈍にされた人々の集団の間から選挙し、彼等を特に有効なる麻酔と野蕃化との手術に附して国家の要求するすべての残酷な事と野蕃的な事との受動的な機械と化さしめるところにある。この獣化と愚昧との狀態は、人々をその青年時代の初期において、まだ道徳に関する明白な観念を形成しない時に捉らえ、一切の人間生活の自然の狀態――家、家族、故郷、及び合理的な労働――から分離して、全く敝舎の中に閉じ込めてしまう事によって達せられる。ここで彼等は特別な服装をさせられる、そして叫び声、太鼓、音楽及び輝く装飾に従って、特に指定された運動を強いられる、そしてこの手段によって、彼等は催眠狀態に誘引される、そこで彼等は人たる事を止め、それらの催眠術師の手中にある従順な、不合理な機械となってしまう。これらの肉体的に強く、殺人器を身に着け、催眠狀態に誘引されて常に国家の権威に従順で、それの要求する如何なる暴力をも進んで犯す若き人々(今日一般兵役制度を有するヨーロッパ大陸にあっては、すべての若者)が第四の、そして人を奴隷にする主要なる方法を構成する。この方法が、暴力の環を繋ぎ合せる。
威嚇、賄賂行爲、及び催眠術は人々をして、彼等が進んで兵士となる狀態に至らしめる、兵士達は権力を与える、そして人々を罰したり、催眠せしめたりして彼等を盗み(そしてその盗んだ金で官吏に賄賂を使う)又は他の者をして兵士として入籍する事を可能ならしめる、そして入籍させられた者はその順番として、すべてのこれらの事をする政府の権力を増大する。
環は繋ぎ合された、そしてそこには強力をもってそれから逃れ出す何等の可能性もない。
ある者は暴力からの解放、あるいは少くともその減少は、もしも被圧制者の団体が強力をもって圧制的な政府を破壊し、それに代わるに暴力の行使もしくは人間の奴隷化を必要としないところの新しい組織をもってするならば、有効であろうと説く、ある者は革命を誘導しようと試みる、しかしかくする事によって彼等は自他を偽き、人類の狀態を改善するよりも、むしろそれを更らに悪くするに過ぎない。彼等の活動はただ国家の専政主義を増長せしめるのみである。彼等の解放の企ては、ただ政府にその暴力を強大にする都合よき口実を与えるに過ぎない、そして実際にその増長を高めている。例えある特別な政府に取って不利な事情によって1870年のフランスに於けるがごとくある政府が強力によって倒されたとしても、この新しい権力は決して如何なる場合においても、初めのものよりもより少なく圧制的では有り得ないであろう、それに反して、それはすべての激怒させられ且つ敗られた敵に対して自らを防衛しなければならないであろう、そしてそれがために常に一層、すべての革命史の立証するように、以前のものよりも残酷であり又虐政的であるであろう。
社会主義者及び共産主義者は、個人主義者及び資本主の社会組織を非難する、無政府主義者はすべての政府そのものを非難する、君主政治主義者、保守主義者、及び資本主は、無政府主義、社会主義及び共産主義を非難する、そしてすべてこれらの党派は、人々を暴力以外では結合せしめる事を知らない。如何なる党派が勝利を得ようとも、その権力を維持し、それ自らの社会制度を世に行うためには、一切の現存する暴力の手段を使用しなければならないであろう、その上更らに新しい手段を案出する事さえも必要であるであろう。他の人々は奴隷とされ、他の事柄をする事を強いられるであろう、しかし暴力と圧制とは、同一の、又一層冷酷なものででもあろう、何故ならば相互間の憎悪は、争闘によって増大させられるであろう、そして新しい奴隷化の方法が案出され、又その度合が強められるであろうから。
これはすべての革命と政府の暴力による顚覆に於ける、すべての革命に際しての計画と企てに於ける有様であった。各の争闘はただ、一時の間権威を有する者の圧制の力をして増大せしめるに過ぎない。我等キリスト教的世界の人々の狀態、殊に彼等の最も普通な一般に行き渡っている理想は、上述の事柄の最も決定的な証拠を提供している。
ただ一つの人間活動の方面――経済的、家庭的生活の方面、家事と労働の方面――が、国家の権威に掠奪されていない。しかし今や、社会主義者と共産主義者の争闘によって、この方面もまた漸次、政府の手中に陥りつつある、そして間もなく、もしも改革者の願望が満たされさえすれば、労働、娯楽、家屋、衣服、食物も、漸次政府によって監理され、規定されるであろう。
十八世紀間の長い生活は、再び嫌応なしにキリスト教国民を、今まで彼等が回避していた問題、キリストの教えを受け容れるべきかあるいは拒否すべきかの問題に、そして今一つの、その教えを社会生活に適応する事より結果する問題――即ち暴力によって悪に抗すべきか否かの問題に、解答する必要に立ち到った。
しかしそこにはかかる相違がある、即ち以前人々はキリスト教によって与えられた解決を受け容れあるいは拒否する事は自由であった、しかし今は、この解決は命令的なものとなった、何故なればそれのみが、人々を、蹄係に陥ったようにして陥っているその奴隷の狀態から解放するから。ただ彼等の現生活の悲惨のみが人々をして、この必要に立ち至らしめるのである。異教的組織の虚妄に関する消極的な証左の地に尚、そこにはキリスト教の教えの真理に関する積極的証左が有った。
すべてのキリスト教諸国の最高潔な人々は、内的の霊的直覚によってその教えの真理である事を認めて、十八世紀の間人々の前に、威嚇、貧窮、苦痛、苦難にも拘わらず、空しくはその為めの立証とはならなかった。これらの人々は、その殉教によって、その教えの真理を封印して、それを人類に渡した。
キリスト教は、人間の意識のうちに、古い異教的生活を送る事の不可能であると言う消極的な証左によってのみならず、又同じく人類をすべての強いられている迷信から解放する事によって、その教えのすべての人間の階級の間への一層単純な注解と普及とによって、透入した。
キリスト教信奉の十八世紀は、ただ外的な形式ではあるがそれを採用した人々に取って、空しく過ぎ去りはしなかった。これらの十八世紀の結果は、例え人々が人類の現時代とは両立し難い古い異教的生活を送る事を続けようとも、彼等はしかも尚明瞭に、彼等の実際狀態の悲惨を見、そして心の奥底からその悲惨からの解放は、ただ真の意味に於けるキリスト教の教えを遂行する事によってのみ達し得られる事を、信ずると言う事である。彼等は、もしも彼等がこの事を信じなかったならば、生きる事は出来なかったのである。この解放が達せられるべき時と方法とに関しては、すべての人々は色々な意見を持っている――彼等の智的発達の程度と、彼等の階級あるいは境遇のその時々の偏見とに応じて――しかし現代においては、すべての人々は、我等の救済はキリスト教の教えの遂行のうちにある事を信じている。ある敬虔な人々 、キリスト教の神聖な起源を信ずる人々は、解放は、すべての人々がキリストを信ずる時に達せられるであろう、そして第二のキリストの降臨は手近かにあると考えている、他の同じく又キリスト教の神聖を認める者は、救済は教会によって成就されるであろう、そしてそれはその権威をすべての人々の上におし拡め、我等の生活を変えるべきキリスト教道徳を、人々のうちに吹き込むであろうと考える。他のイエス・キリストの神聖を信じない者は、人類の救済は緩慢な漸進的な進歩によって、達せられる、そしてその間に異教的生活の原則が漸次自由、平等、友愛のそれ――即ちキリスト教の原則――によって代わられるであろうと考える、他は再び――社会の改造を信じる者――解放は暴力的な革命によって果たされると考える、そこにおいて人々は、政府の廃止を、財産の共有を、個人的労働の代りに集合的労働を――即ちキリスト教の教えの一方面の実現を、強制されるであろう。
かくのごとくいずれか一つの方法で、すべての現代の人々は、彼等内部の意識で、現在の異教的生活の古代的な形式を非難している、そして(例え彼等がしばしばそれを知らず、又自らキリスト教を敵視していると考えているけれども)我等の救済はただ全くあるいは一部分、その真の意味におけるイエス・キリストの教えの実現のうちにのみある事を信じている。
師が言って置かれたように、キリスト教は直ちに大多数の人々によって実現される事が出来なかった、それは最小の種子から、最大の樹木のように成長しなければならなかった。それは成長しつつあった、そして遂に今や、実際上ではないとしても、人間意識の中に認め得られる現在の発達を獲得した。
現代においてキリスト教は、常に直覚によってそれを理解して来た少数の人々によってのみならず、又その社会生活において遥か遠くそれから掛け離れていた莫大な人々によっても、認められている。
人々の私的生活を見るがいい、人間の行爲を解釈するに際し人々の評価に耳を傾けるがいい、公けの説教又は演説にのみならず、両親や教師が彼等の児童に与うる訓えに耳を傾けるがいい、然る時汝は、いかに暴力によって塗り堅められた我等の社会及び国家の生活が、キリスト教の実現から遠く離れていようとも、しかも尚私的生活においては、キリスト教の徳のみが、少しの例外も又不安もなしに、すべての人々によって推讃されている、そしてそれと反対に、非キリスト教的悪徳は、躊躇する事なしに又無条件的に、等しくすべての人々によって非難せられているのを知るであろう。自らを他人のために犠牲にし、無私に彼等の生命を人類のために捧げる人々は、最も尊い人間であると考えられている、自らの個人的幸福を進めるために他人の不幸を利用する利己主義者は、一般に非難せられている。
ある、例えば力、勇気、富等のような非キリスト的理想は、まだキリスト教に触れない人々によって抱かれている、しかしそれ等は過ぎ去りつつある、それ等は我等が最も評価に値すると考える人々によっては認められていない。すべての人々に取っての義務的なものとされている。ただ一つの理想は、キリスト教の理想である。
もしも外側から見るならば、その残酷と奴隷制とを持てる我等のキリスト教人類の狀態は、実に堪え難いものである。しかしもしも我等が内部のその内的意識を見るならば、甚だ違った狀況を発見するであろう。
すべて我等の生活の悪は、ただそれが数時代の間存在していたが故に、又それを起す人々が、それを知る事を欲しながらそれを犯す事を止める方法をまだ知らないが故に、存在しているに過ぎないように見える。悪は、人間意識に関係ないように見えるある遠い原因によって存在する。
私はマックス・ミユラァであったと思う、彼は、キリスト教の教えの根本を知った後ヨーロッパに来て、キリスト教国の人々の生活を見た、キリスト教に改宗した一インド人の驚きを書いている。彼は、キリスト教国の人々の間に見出す事を期待していたあらゆる物とは全然相反した狀態を目撃して、その驚きに打ち克つ事が出来なかった。
もしも我等が、我等の信仰や信念と行爲との間の矛盾に驚かないとするならば、それはただ我等からこれらの矛盾を隠すところの影響を脱れ得ないからである。もしも我等が、何等の譲歩も修正もなしにキリスト教の真の意義を会得したかの印度人の立場から、我等の生活して居る惨憺たる労働で各神経を極度にまで緊張する事を強いる事は、褒むべき事であり、又人間の尊厳に値すべき事であろうか?
各個人は、特に彼が他人について語る時には、否定的に答えるであろう。しかもこれらの行爲はすべて不正であると知るこの当の人もまた、自ら進んで――又時とすると俸給の金銭上の利益もなしに――軍役に入り、あるいは行政官、裁判官、牧師、警官、大僧正あるいは祭司となる――すべて彼の行わねばならない職務、その不正と嫌悪とを彼は知らざるを得ない、しかしそれを彼は、彼が着用する事を許される白蝋の玩具、綬、勲章又は飾りのために子供らしい虚栄心から、自ら進んで承認する。
私はこれらの人々が、大なる満足をもって、彼等の地位は法に適った又必要なものである事を断言し、権威は神に属する事、及び国家の職務は人類の幸福に欠くべからざるものである事、富はキリスト教に反しないと言う事、富める青年は、彼が完全になる事を欲する時にのみ、その所有を放棄せよと命ぜられたのを見るならば、又もしも我等が、我等の生活を満しているところの乱暴なる蛮行を見るならば、我等はしばしば気付く事なしに、その間にあって生活している、その矛盾に驚くに違いない。
我等をして戦争のための準備、弾薬箱、白銅の弾丸、水雷――及び赤十字を想起せしめよ。孤独の幽閉のための組織、電気死刑の実験――及び囚人の境遇を改善する企て。彼等の救う事を求める悲惨を作り出す富者の生活――及び彼等の慈善的な行動。これらの矛盾は、皆の想像するように、人々が本心では異教徒でありながら、キリスト教徒である風をするからではない、それに反して、それらは人々が何者かを欠くが為めに、即ちある種の権力が、彼の真面目にそうである事を欲し且つ既に内的意識においてそうである事を感じているそのものになる事を、防げるが故である。我等の時代の人々は人に対してのみならず又動物に対してなされる圧迫、不平等、区分、及びすべての残酷をも、単に嫌悪するような振りをするのではない、彼等は真面目にすべてこれらの人を嫌悪する、しかも彼等はいかにしてそれらを廃止すべきかを知らない、彼等はこれらの人を支持するところの、そして又彼等に取って欠く可からざる制度に、干与する勇気を有しない。
我等の時代の誰か一人に、彼が彼の時間を人々から――即ち最も多くの場合乞食から――税金を集め、又その代わりに全然彼の努力に相応しない俸給を受取る事で費やすのは、人として褒むべき事であるのみならず、又名誉な事でさえあると考えるかどうかを聞いてみるがいい、税金、それは、我等が共に平和に住む事を欲し、又我等と共に平和に住む事を欲する人々に向って使用されるべき大砲、水雷及びその他の殺人器の製造に費消されるであろう。再び俸給の代りとして、その一生を殺人器の完成、人殺しの練習、及び人殺しの教授に捧げる事は、人間として名誉な事であるか? 再び俸給の交換として、その一生を悲惨な、過ちを犯した、泥酔した、又しばしば無教育な人々を、ある我等が日常犯しているよりも無限に小さい瑣々たる窃盗を犯したと言う理由で捕縛し、あるいは誰かを、我等のようなやり方でなしに又我等の容認された方法でなしに、殺したという理由で投獄し、拷問しかつ殺す事で費やすのは、褒むべき、又、人でありキリスト教徒である人に値する人であろうか? 再び俸給の交換として人々にキリスト教の名の下に明らかに愚劣なる有害な迷信を教える人は正しい、そして又人でありキリスト教徒であるに値する人であろうか? すべての広大な土地所有者によってなされているように、自らの我ままなる快楽のために隣人から、彼の日常生活に必要なものを奪う事は、又は商人によってなされているように、他人の貧窮を利用して自らの富を作る事は、あるいは資本主及び工場所有者によってなされているように、自らの富を増すために、隣人に、人をして疲憊せよと言う事、現在の富の分配と商業は、あるべく要求せられている通りに正しい又すべての人々に取って有益なものである事、及びその他の事を耬言(ろうごん)して、自らを弁護するであろう。しかしいかに多く自他を偽かうと試みるとも、これらの人々は、その全行爲は彼等が信じ又その者の名の下に彼等が生活しているそのすべてのものに、相反している事を知っている、そして彼等の心のどん底において、その良心に面と向って立つ時、彼等はそのなしつつある事を考えて、特にその行爲の恥ずべき事が一度彼等に指摘されるならば、苦しく又恥しく感ずるであろう。現代の如何なる人も、それがキリストの神聖を信じる信じないに関係なく、君主、国務大臣、知事又は警官のいずれかの資格で、大砲の製造に、あるいは懶隋な、奢侈な、有害な官吏の俸給に消費さるべき税金の滞納の代りとして、貧しき家庭の最後の牝牛を売る事は、間違っていると言う事を、一家の長を我らが彼を悪徳に陥らしめたが故に投獄し、且つ彼の家族を餓えさせる事は間違いであると言う事を、戦争の殺人と劫奪とに参加し、又はイエス・キリストの命令の代りに愚劣なる偶像崇拝の迷信を教え、あるいは土地を持たない人に属する牝牛が、汝の牧場に迷い込んだが故にそれを押収し、あるいは労働者の資金から、偶然に毀損された品物の代価も差引き、あるいは貧民に、緊要の場合に差し迫っているが故にと言って品物の価を三倍にして売るのは、間違っていると言う事を、認めざるを得ない。現代のすべての人々は、これらの行爲は不名誉な、恥ずべき、なされてはならないものである事を知っている。彼等はすべて、自らが間違いをなしていると言う事を、もしもただ彼等が彼等から彼等の行爲の不正を隠蔽して、彼等にその悪しきやり方を続ける事を予儀なくせしめる権力に、反抗する事が出来さえすれば、最も熱心に間違いをしない事を欲するであろうと言う事を知っている。
現在人間生活によって到達された矛盾の程度は、如何なる処においても、暴力の究極の集団と表現とをなす現象―― 一般的兵役に於けるが位に、左様に明瞭に表示されたものがない。
我等がかかる狀態と、現在のすべての人々の心を貫いているキリスト教的思想と感情との間の著しい矛盾を知らない訳は、ただ一般的軍備と兵役との現狀が、徐々に又暗々裡に世に行われて来たが故に、及び政府はそれを、威嚇、賄賂、麻酔、及び彼等の命のままになるキリスト教のあらゆる手段によって維持しているが故である。
我等はこの矛盾に、非常に慣れている、故に我等は、自らの利益のために人殺しの職業を何か名誉なこととして選ぶ人々によってのみならず、又兵役に就く人を承諾し、あるいは(一般兵役がまだ行われていない国において)自意的に兵士達に払い、惨殺の準備をするためにその所得を寄与する不幸な人々によってすらなされる行爲の、恐るべき不道徳と愚かさとを知らない。すべてこれらの人々は、キリスト教かあるいは人道主義、自由主義のいずれかを信ずる、又彼等はすべてこの人の好意によって、最も無目的な、残酷な、愚劣極まる惨殺の共謀者となり、あるいはその現行者とさえもなる事を知っている、――そして然も彼等はそれらを犯す事を続けて行く。
これだけではない。一般兵役が最初に設けられたドイツにおいて、キャプリヴィは、以前にあっては要心深く隠蔽されていたもの、即ち、殺されなければならぬ人々は外国人だけではなく、自国人――兵士達がその間から徴集されるところの、その同じ労働者である事を公言した。この告白すら、人々の目を開きもしなければ、又彼等を怒らしもしなかった。彼等は昔のままに、追わるる羊のように歩み彼等に要求されるあらゆる事柄に服従する事を続けている。
又これだけに止らない。久しからざる以前ドイツ皇帝は甚だ明瞭に、戦士としての兵士の意義と職務とを、逃亡を企てた無防禦な一囚人を殺した者を表彰し、感謝し、且つそれに賞与を与える事によって説明した。一般に、道徳的発達の最も低い者によってさえも卑しい、恥ずべきものとされている行爲をした事のためにその者に賞与を与え且つ感謝する事によって、ウヰルヘルム二世は、兵士たるものの第一の義務と、権威によって最も賞賛されるところの行爲とは、死刑執行人となる事――宣告された罪人のみを殺す職業的な死刑執行人ではなく、最上者が殺す事を命ずるところのすべて無辜の人民の惨殺者となることである事を立証した。
しかしこれより尚以上の事がある。1891年同じ他の人々はただ考えるに止まるところを言い表す国家専制主義の饒舌児であるウヰルヘルム二世は、ある兵士達に演説をして、公然と次のような言葉を発した、そしてそれは翌日数百の新聞紙上で印刷された。――
『新入営者よ! 祭壇と神の僕の前で、汝らは朕に忠順の宣誓を呈した。汝らは語られたる言葉の意味を十分知るには余りに若い、しかし汝の第一に心を用うべき事は、ひたすらにすべての命令と指揮に服従しなければならぬ事である。汝らは朕に忠義を誓った、汝らは朕の守護の児である、汝らは朕の軍人である、汝らは心身共に朕の自由に託した。汝らにはただ一つの敵――朕の敵のみが存在する。現在の社会主義の陰謀に際しては、朕は汝らに汝らの親族、兄弟及び両親さえをも射つ事を命ずる事が起るかも知れない――それは神の禁ずるところである――而して汝らはひたすら義務として朕の命令に従わなければならない。』
この男は、他の統治者は知ってはいるが、しかし慎み深くおし隠しているところのものを口に現している、彼は率直に、軍人たるものは彼と彼の利益とに役立つために存在して――喜んでその目的のために、自らの兄弟や父を殺さなければならない事を言っている。
乱暴にも、しかし平明に、彼は、人々は兵士になる時、そのために身を捧げるその罪悪の恐ろしさを――彼等が忠順の誓いによって身を投ずるその堕落のどん底を――開き示している。大胆なる催眠術師のごとく、彼はその被術者の睡眠の深さを証明する、彼は赤熱の鉄を睡眠者の肉体に当てがう、それはしゆうしゆうと音を発し煙を上げる、しかし被術者は起きない。
権力によって発狂させられた、錯乱した憐れむべきこの男は、これらの言葉をもって我等の時代の人々に取って神聖なすべてのものを辱めた、しかも我等キリスト教徒、自由主義者及び教育ある人々は、その侮辱に憤慨をしない、我等はそれを気に留めようともしていない。人々は最後の決断的な試験に、その最も苦しい嫌悪すべき形において附せられている、そして彼等はそれが試験である、そして彼等は選ぶべき力を持っている事をすら気付かないように見える。彼等はただ一つの奴隷的服従以外何等取るべき道はないと考えているように思われる。人はこれらの現代の人々の神聖とするすべてのものを侮辱する狂気染みた言葉は、非難と憤慨とを呼び起こしたに違いないと考えるであろう、しかしその種の何事も起こらなかった。年々ヨーロッパのすべての青年は、試験に附せられる、そして極少数の例外を除いて彼等すべては、人間に取って神聖であるべきすべてを放棄する、彼等は、赤や金の刺繍した制服を着た最高位にいる悪い指導者の言葉に応じて、彼等の兄弟又は父を、何時でも喜んで殺すことを明言する。彼等はただ常に準備しているが故に、何時そして何ものを殺すべきであるかを質問すれば十分なのである。
野蕃人ですら神聖なある物を持っている、それを捨てるよりは、むしろその為め進んで苦しみを受けている。しかし現代の人に取って神聖なものとは何であるか? 彼は告げられる――『朕の奴隷となれ、汝の父を殺さなければならないかも知れない束縛に従え』そして彼は従順に、軛に向って首を差し出す。彼は道化役の着物を着せられる、彼は飛び上り、敬礼し、殺し、彼の身体を妙な風に曲げる事を命ぜられる、彼はすべての事に大人しく従う。しかもしばしば彼は、大学においてすべての学問を学んだ教育ある人間である事がある。彼が自由にされた時、彼は十分満足して以前の生活に戻る、そして再び人間の尊厳、自由、平等及び友愛の上に身を処して行く。
『何を我等に爲すべきであるか?』と人々はしばしば真面目に当惑して訊ねる。『もしもすべての人が拒否するならば、全く問題は別であろう、しかし実際のところ、私は何故に一人他の者に善をなす事なくして苦しまなければならないのであるか?』彼等は正しい、何故ならば、社会的人生観の人は拒否する事が出来ないから。彼の生活の意義は、個人的な幸福と言う事にある。個人的に言えば彼に取っては、服従する事がより一層有利であろう、故に彼はそうする。いかに彼が試されようとも、如何なる苦痛と侮辱とが加えられようとも、彼は服従するであろう、何故ならば彼一人では何事も出来ないから、そして又彼はその名の下に一人で暴力に抵抗すべき事を与える原則を欠いている、又権威を有する者共は、彼をして他と結合する事を許さないであろうから.
人々はしばしば、恐るべき殺人器の発明は、戦争を終熄せしめるであろう、即ち戦争は自滅するであろうと言う。
それは本当ではない。それは殺人の手段を増加せしめ得ると同時に、社会的人生観に属する人々を屈服せしめる手段をも増加する事が出来る。人々をして数千数百万と惨殺せしめられしめよ、彼等をして寸断せしめられしめよ、しかも尚彼等は、ある者は無感覚な家畜のごとく鞭で追われるが故に、他は彼等の非常な誇りとする綬と勲章とを附ける事を許されるが故に、惨殺に向って進むであろう。
公衆の指導者――保守主義者、自由主義者、社会主義者、及び無政府主義者――が、合理的な、道徳的な社会を形成しようと欲するのは、実にかくの如き人々自らの父を殺す事をすら約束する位全く麻痺している人々と共にである。かくの如き人々によって形成される社会に、如何なる種類の道徳と合理性が予期され得べきであろうか? 朽ち、且つ曲った材木をもって、たとえ汝がそれを積重ねようとも、家を建てる事は出来ない、又かくの如き人々と共に、合理的な道徳的な社会を組織する事は、それと同じく不可能な事である。かくの如き人々はただ、それを追う者の叫び声と鞭とで統率される羊の群れのように、進む事が出来るだけである。そしてそれは全く事実その通りである。
かくのごとく我等は一方において、自由、平等、友愛の原則を信奉する人々――キリスト教徒と呼ばれる――を見る、そして他方において我等は自由の名の下に、最も卑しむべきいやしき奴隷制度に服従し、平等の名の下に最も不正な、無意義な、技巧的な人間の階級別、及び上流と下流、敵と味方の区別を維持し、友愛の名の下に、自らの兄弟を進んで殺害する彼等を見出す。
これらの意識と、その結果としての人生の悲惨との間の矛盾は今や、人々がそれ以上進み得ない最終限度にまで到達してしまった。暴力の原則に依存する人生は、今やそれが確立されているその基礎そのものをも否定するに到った。人力の原則上の、個人、家族及び社会の幸福を保証すべき社会組織は、人々をしてその幸福の絶対的否定と絶滅との破目にまで立ち到らしめた。
予言の最初の部分は、キリスト教の教えを斥けた人々とその子孫とに対して果たされた、そして彼等の後裔が、その第二の部分の真実である事を知らなければならない。
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント